水底に微睡む

 乱暴に投げ出された身体は、肩からバスタブのへりに打ち付けられた。痛みに小さく漏らした声は、窓のない浴室の白い壁に反響する。
 ワイシャツ一枚の向こうに感じるタイルの床はまるで氷だった。腰の後ろで縛られた両手が、仰向けに転がった体に潰されて痛みを訴える。アキラは身動ぎすると、奥歯を噛んで目の前の男を睨み上げた。
「なにを……!」
「訓練に向かうところだったのだろう?」
アキラの様子などひとつも気にかけてはいないふうに、常と変わらぬ笑みをうかべると、シキはほんの僅かに首をかしげた。
「アンタが……ッ、……貴方が、こうして邪魔しなければ」
感情的になりかけた声をかみ殺し、理不尽に対する怒りを押し込める。それでも視線に宿る刃だけは隠すことのできないアキラを笑って、彼の主はバスタブに腰掛けた。
「尋問と拷問の訓練だ」
しなる唇が告げたのが、これから自分が受けるはずだったそれと気づくのに、少しだけ時間を要した。
「事前に連絡はない。以前もそうだっただろう」
「……だから、なんだと」
唸るように返す。赤い瞳の温度がわずかに下がり、半ば伏せられた。長い睫毛の、まるで針のような影が陶器の頬に落ちる。白いグローブに包まれた形の良い指が伸ばされ、優しさすら感じられる動きで柔らかくアキラの顎を持ち上げた。
「前回、その身体に教えてやったと思うが。忘れたか」
「……ッ」
覗きこむようにして告げる声は笑みを含んで酷く甘い。それが毒の甘さだと、アキラはよく知っていた。悪寒とともにざわりと背筋を這い上がるのは、呼び起こされた記憶だ。痛みと快楽とに、意識と思考と人格までを犯される恐怖だった。身体が知らず強張ったのを、シキは喉の奥で笑いながら呟いた。
「学習せんな、お前も」
「──!」
顎から離れた指が次に向かったのは首だった。掴まれ、軽々と引きずりあげられる。数秒とはいえ気道を潰された苦しさに噎せるアキラが次に感じたのは、胸に当たるバスタブの感触で、しかしそれはすぐに泡になった。髪を掴まれ、水の中に顔を押し沈められたせいだった。

 シキが浮かべる優しげにすら見える艶やかな笑みが、時に怒りのための表情なのだとは、あの時初めて知ったのだ。
 士官学校で成績運動能力共に特に優れていると認められた者たちは、特殊な訓練を受けることになる。それは例えば戦況を変えるような重要任務を負って、敵地に少人数で潜入したり、時にはスパイの真似事をする、いわゆる特殊部隊要員の育成のためだった。
 アキラもそのうちの一人として選ばれ、半年ほど前から通常の授業の他に訓練を受けていた。その中に敵の手に落ちた際の、尋問や拷問の訓練が含まれているとは想像したことこそなかった。だが、実際に経験する段になっても、特に驚くことなく受け入れた。たとえそれが事前の連絡なしに、急に始められたことであっても。
 目隠しをされ椅子に縛り付けられていても、耳に入るのはどこかで聞き覚えのある声だったし、単純な暴力そのものにも耐性があった。特に取り乱すこともなく訓練は進み、強いて失敗したことと言えば、一度だけ腕の振り上げられる気配に気づくのが遅れて、歯を食いしばりそこねたことくらいだった。
 アキラの予想に反したのは、むしろ十数時間に渡る訓練の後、兵舎の自室に戻ろうと歩いていた早朝の廊下で、すれ違ったシキの反応だった。
 酷く愉しげな笑みを浮かべて、いつもどおりの仕草で顎を掴まれた。痛みに顔をしかめながら赤い瞳を見つめ返せば、細められた瞳の奥になにかがゆらりと揺れるのが見えた。
「……やはりお前のことだったか」
「……なんです」
「殴りがいがあったそうだぞ」
この顔は、と冷えた手の甲で腫れた頬を撫でられる。言葉の意味を咀嚼するよりも、その心地よさに感覚を委ねてしまいたい衝動に襲われた。だがなにか不穏な気配に、アキラはわずかに眉根を寄せて伺うようにシキを見上げる。
「……、」
「帰るぞ」
踵を返した主の背を、視線で追いながら口を開く。
「これから演習が、」
応えはなく、視線すら返ることはなかった。腕時計に目を落とす。あと一時間もすれば他の兵たちも登営してくる時間だ。だが結局、逆らうという選択肢はそもそも存在しなかった。
 連れてゆかれたのはシキが個人的に所有するアパートの一室だった。普段アキラは用意された兵舎に暮らしており、シキも日興連本部近くに上級将校用の上等な部屋をあてがわれている。この部屋はシキが自ら用意した、いわば隠れ家のようなもので、市内・郊外に他にも数カ所あるのを知っていた。どれも似たように殺風景で、必要最低限のものすら揃ってはいないのだろうことは、連れられたことのある幾つかの部屋の様子から想像できた。
 室内に入るなり、急に腕を掴まれ乱暴にベッドに投げ出された。打撲や、多くはないが切り傷を負った身体の節々から、軋むような痛みが響いた。起き上がろうとした肩を、ベッドに片足だけ乗り上げたシキの腕に掴まれる。銃底で殴られた場所だった。痛みをこらえながら何を、と非難がましく視線で問えば、いつの間にか表情の削げ落ちた白皙が見下ろしている。
「脱げ」
命じる響きに身体を固くした。逆らってはならない、逆らえない、声だった。シキのもとに下る前であれば、せめて態度だけでも反抗を示すことができた。けれど一度自らシキを主と認め、それから一年以上の月日を過ごした今となってはもはや、無理だった。従うことを本能が求めていた。ただ自分でもままならない感情だけが、未だにどこかで置き去りになって、唸り声を上げている。それは本人の気づかぬ間に、青い瞳の奥に揺れた。だがそれだけだった。
 アキラは上着のボタンを、訓練の後締め直したタイを外した。ワイシャツをはだけ、腕を抜く。冬前の冷えた空気に鳥肌が立った。
「……」
シキは黙って顕になった上半身を見下ろしていた。尋問や拷問の訓練とはいえ、ほとんど雰囲気だけのもののはずだった。それらしい恐怖感と切迫感を対象が肌で感じ取り、万が一の場合の心構えさえできればそれで良いのだ。特にCFCに比べ人権擁護の風潮のある日興連では、そこまで厳しい訓練は行われない。2日3日かけて本格的に行う軍もあることを考えれば、半日程度で終わる日興連のそれはやはり緩いものだ。だが、アキラの身体に残る傷跡、打撲痕は、その訓練の範疇を超えていた。
 シキは無自覚のうちに形の良い口の端を吊り上げる。笑みの引き起こした感情を自覚すれば、唇の描く弧は尚更深くなった。
「……シキ……?」
声に答えて向けられた赤い瞳はすでに、それまでとは明らかに様相を変えていた。アキラは身が竦むのを感じた。時折燠火のように揺れる赤い瞳の奥の狂気が、燃え上がり内側から熱を放っていた。飢えて怒る肉食の獣の視線だった。それは酷く艶やかで、だがその美しさは禍々しさを伴っていた。
 シキの怒りが、何をきっかけに呼び起こされたのか、アキラには見当もつかなかった。何事かわからぬままに、丸一日ベッドから動けないほどに痛めつけられ、抱き潰された。その後身体を引きずるようにして丸二日ぶりに軍に登営すると、めったに姿を見ることのない、だが数回は訓練や何かで指導を受けたことのある将校の男が、斬り殺されたという話題で持ちきりだった。

 昏い淵に沈んで消えていこうとした意識が一瞬白く染まった。
 肺が甘さすら感じられる空気を吸い込み、勢いにむせながら喉は苦い水を吐いた。無意識の中にそれを繰り返し、わずかながら思考をする余裕ができた頃、掴まれていた髪を強く引かれた。
「その身体を好きにさせていいと、誰が言った」
「……勝手な、ことを……、ッ、」
咳き込みながらも無理矢理に言葉を絞り出す。睨みあげれば、穏やかに微笑んだ赤い瞳が愉しげな色を宿した。
「お前の主は俺だ。忘れたか」
「……ッ」
わずかに見開いた青い瞳を揺らして、小さく否の声を返す。髪を掴んでいた指が離れて、頬を撫でて水滴の滴る顎をたどり、濡れた首筋を滑り落ちた。
「俺のものに、勝手に傷をつけさせるな」
その言葉に、不意にピアスが疼いた。小さく肩を震わせながらたまらず視線を下げれば、喉の奥で笑う気配とともに、また水に頭を押し込まれた。
 バスタブに張られた冷たい水の中は薄暗い。蛍光灯の灯りが底で乱反射するのが見えた。これで何度目だったろうか。ちらりと思ったが、それもすぐに呼吸の出来ない苦しさに呑まれた。視界が口から漏れた気泡に覆われる。水を空気の代わりに吸い込もうとする、肺の生理的な反応を無理矢理押さえつけた。それもできなくなれば吸い込む代わりに水を飲んだ。
 まともな思考は、いつもこのあたりで散り散りになる。空気を得ようとして、身体が勝手にもがき出す。それが無駄なことなど考える余裕はない。頭を押さえつける手のひらに抗って、膝がバスタブを蹴る音が聞こえた気がした。
 ただ息ができない苦しみだけが残り、酸素を得ること以外を考えることができなくなる。
 けれど今回は少しだけ違った。いま、自分の頭を押さえつけている指がシキのものであることを、アキラはそれまでよりも強く意識した。それまで憤りしか感じなかった、今こうして苦痛を与えられている理由、以前ははっきりとはわからなかったシキの怒りの原因に、かすかに触れたせいだった。それがたとえば、執着や独占欲と言い表せるものだと、明確に理解できたのではなかった。ただ、背筋から沸き上がる甘い何かとして感知された。それはやがて苦しみと表裏をなして、沈んで消えようとする意識を包んだ。
「──!」
気付いた時にはタイルの床に放り出され、床に顔をぶつけるようにして盛大に呼吸と水を吐くのを繰り返していた。
「がはッ、げほ……っは、はぁッ」
吐き出した、あるいは滴った水が、頬をつけた床を流れていくのが見えた。腕は縛られたままで、折り曲げた身体を起き上がらせることはできない。
「……厄介だな、お前の身体は」
「あ……ッ!!」
シキの足先に腰骨を踏まれ転がされた。仰向けになって仰いだ天井は、潤んだ目には歪んで見える。霞のかかった頭で、鼻から喉の奥まで、痛む気管に咽て荒い息を繰り返しながら、灯った蛍光灯の寒々しい光が揺れるのを眺めた。だがそれも、足の間に硬い靴裏の感触を感じるまでだった。
「なんでも快楽に変換してくれる」
「……! や、め、……!」
痛みに意識が急にはっきりとした。尖った靴先が、僅かな力を込められて硬くなったそこを撫で上げる。湧き上がる確かな快楽を厭って後退るが、頭はすぐに固い壁にあたった。腰の後ろで縛られたままの手が、冷えたタイルの上できしむ。
「外に出せたものではない」
腕を組んで立ち上がったシキが、足の間に立って見下ろしてくるのに、抗うすべは視線に乗せる棘だけだった。
「……ッ貴方でなければ、……」
思わず言い返しかけたのを留める。顎から水滴が滴って、ワイシャツを濡らして流れ落ちた。濡れた前髪が顔に張り付いて不快だ。
「なんだ」
「……っ」
答える代わりに唇を引き結んだアキラに鼻を鳴らしたシキが、次に靴先を向けたのは腹だった。
 はだけかけたワイシャツの裾を捲り上げられれば、冷たい空気にさらされるのは臍に穿たれたピアスだ。
 シキの手ずから施された所有の証は、アキラ自身にはままならない体の一器官として機能していた。それはシキを自ら主と認めてから、尚更手に負えなくなった。今もただ、赤い瞳がそこに向いているというそれだけで勝手に熱を産んだ。傷口などとうに塞がっているというのに、火傷に似たじくりとした感触が滲んで、腹の底に落ちていく。
 シキによって作り変えられていくことが、アキラには未だ恐ろしかった。はじめは心より先に身体が恭順することが、ついでプライドが追従することが、自分自身が自分の意思を離れていくような感覚が、怖かった。だが最も嫌悪したのは、支配されることそのものに快楽を感じるという事実だった。
 トシマを離れたあとも、シキに口先だけでも抗えている間は良かった。気付かないふりをしていられた。だが自らシキのもとに下った後、アキラはその事実に直面しなければならなかった。
 抵抗をねじ伏せられること。シキの思うように変えられていくこと。それ自体を、至上の快楽とする自分がいること。
 アキラは自らを厭った。シキの支配を受け入れることと、それはまた別の問題だった。
 自ら主を定めることと、支配そのものを快楽とすることとは。
 それは酷く惨めな、低俗な生き物の性質に思えた。
「……っ」
唇を噛んでうつむいたアキラの足の間に立ち、シキは笑う。
「俺を見ろ」
命じられて、のろのろと視線を上げれば、酷く愉しげな赤い瞳に捕らわれる。その視線に貫かれれば、焼け付くような熱が背骨を駆けた。心臓が存在を主張して、さんざん水を飲まされた直後だというのに、喉が渇くような感覚に陥る。
「欲しいか」
「──! いらな……、ッ!」
不意に身をかがめたシキの瞳が間近に迫る。痛みを覚えるほどに鮮烈な赤は、アルコールに似た酩酊感を呼んだ。
 ひたり、と、裸の脇腹にあたたかいものが触れた。手のひらだった。普段であれば冷たく感じられるはずのそれが、今は酷く心地良い体温をにじませる。
「……っ」
「冷えたな」
誰のせいだと、わずかに顎を上げながら睨み返せばシキは尚更、笑みを濃くする。腹から胸へと撫で上げた指先が、突起を撫でた。
「……や、め……ッ」
親指で何度か押しつぶすようにされればじわりと甘さがにじみ、更に爪を立てられれば身体は震えた。身を捩ったが逃れようもない。
「満足したか」
「……な、にが」
指先ひとつでアキラの身体の鍵を開いてゆきながら、至近距離から青い瞳を見下ろしてシキは言う。 「お前のことだ、他の者が受ける訓練を自分だけが免除など、納得せんのだろう」
だから付き合ってやったのだと言外に告げて、爪でピアスを弾いた。
「──ッ」
何か言い返してやりたいと、そうは思うもののシキの言葉は確かに事実で、苛立ちは奥歯を噛み締める音に変わった。唇の弧を深くして見下ろすシキの顔が、更に近付いたと思えば唇を攫われていた。こじあけられた口内に入り込んだ甘い舌は、アキラの舌を軽く弄んだあと、唇を喰むようにしてから離れる。
「その癖は直せ。歯を悪くする」
耳元に声が落とされる。そのまま軟骨を噛まれ、舌は耳のうしろから首筋に下った。
「……ッ、やめ、」
膝で足の間を擦り上げられる。そこは熱を持ったまま、むしろ煽られて尚更硬度を増して張り詰めていた。だがだからこそ、アキラにはそれが厭わしかった。嫌悪の対象はシキでもこの行為そのものでもなく、ただその行為の裏側から何らかの意味と、快楽を引き出す自分自身だった。
 まるでそれを見通したかのような顔で、シキは笑う。
「往生際が悪いな、お前も。いい加減諦めたらどうだ」
軍服の下がはだけられる。下衣の中に、形の良い指が入り込んだ。狭い場所から引き出されたアキラの中心は、掌に包まれればぬるりと滑る。先端からとうに溢れていた先走りのせいだった。
「……ッく、う……!」
握りこんだ手を上下されれば、逃れようのない快楽が湧き上がる。
「噛むなと言っているだろう」
再び唇を舐められる。温かな舌に冷えた唇を弄ばれれば、思わず応えるように忙しい息を吐く口を開いてしまう。笑みの気配が口内に直接滴り落とされ、口の端を甘く噛まれた。恍惚とした。
 やがて限界へと追い詰められ、もはや逃れることなど考えようもなく背を反らした時だった。不意に、手のひらが離れた。
「っ、……」
乱れた息のまま意を問うように見あげる。手首まで汚したアキラの先走りに舌を這わせながら、意地悪く笑う主の姿が目に入った。
「うつ伏せになれ」
「──!」
意図するところを理解して、アキラは体を固くした。とうに慣れた行為のはずだった。だが有無をいわさずに虐げられたあとでは、普段のそれとは意味合いが違った。服従を、強いられている。みずから、自らの身体を、精神を、差し出すことを。
 見透かされているのだ、と思った。自分が何を厭い何に抵抗しているのか、シキは知っているのだ。
 それも正確に。
 ならばこれは、矯正であり、躾だった。
 そうと意識した瞬間、背筋を快楽が駆けた。自分に対する嫌悪感がそれを追った。咬み殺すように、力の抜けかけた足を動かす。身体を反転させた。
「いちいち命令が必要か?」
背中にかけられた声にびくりと肩が揺れる。一瞬の間の後、腰を上げた。
 ズボンを下着ごと引き下げられて、双丘を押し開かれる。顕になった場所にあてがわれたのは、先程までアキラ自身を包んでいた指だった。いっそ準備もなしに貫いてくれたほうが楽だった。早く何も考えられなくなってしまいたい。だがシキが、それを許すはずもなかった。
 ぬるりと抵抗なく入り込むのは、アキラ自身がその掌に零した先走りのせいと、身体が既に行為に慣れているせいだった。
「……く、あ……!」
弱い場所を避けたかと思えば不意に掠めていく指先に、声を上げさせられながら硬い額を床に押し付けた。異物感に完全に慣れる一歩手前で指は引き抜かれる。わずかに痛みが残る位が一番悦いのだと、伝えたことはないのに知られ尽くしているのが羞恥と、支配され所有される甘さを誘った。目を固く閉じ、熱を逃がすように冷えたタイルに額を押し当てる。
 ゆるく開いたままのそこに、よく知った熱く硬い感触を感じた。
「……、い……ッ」
侵入の痛みに太ももが引きつる。握りしめた掌の中で、爪が皮膚に食い込んだ。だがすぐにそれら痛みそのものが、痛みのまま、反転した。ぞくりとした悪寒に似た熱が、一度背筋を駆け上ったあと再び腰にたまるのを、快楽のための涙に視界を潤ませながら感じた。
「……ッ」
時折戻されながゆっくりと押し進められるたびに、びくりと体が揺れた。張り出した部分に弱い場所を抉られれば、いつもの様に声が抑えられなくなる。
「んっ、う……ぁ、……!」
こらえるように丸めた背の上にひたりと胸を寄せるよう覆いかぶさってきたシキの、唇を耳に感じた。甘く噛んで舐め上げたあと、笑みを含んだ美声に囁かれる。
「堕ちろ、アキラ。ただ受け入れればいい──主は俺だ」
流し込まれた甘さは脳を包んで、溶かした。思考がぐずぐずになる。僅かに残っていた理性と嫌悪感が薄れ、ただ、支配される甘美だけが、残る。
「ッ、い、あァ!」
より深く、一番深い場所まで穿たれて、耐え切れず背を反らした。ぶるりと身体が痙攣した。シキのそれを締め付けながら、快楽の一点へと呼びこむように無意識に腰が揺れる。
 視界が歪むのは熱が喚ぶ涙のせいだった。浅く荒い息と、こらえきれなかった声を穿たれるのに合わせて口の端から漏らした。
 震える太ももを撫で上げられる感触に、達しようとしたのを遮ったのは、屹立を強い力で握りしめた残酷な指だ。
「やめ……ッ! おね、が、シキ……っ」
悲鳴に似た声は打ち捨てられた。行き場を塞がれたまま、それまで以上に乱暴に内部をかき回される。
「ぁ、いや、だ、……っ、……ッ! あ、うあ、ッ、──!!」
バスルームに反響する自分の上ずった声を、恥じることすらできなかった。
 処理できない快楽は苦痛に似て、出口を求めて体の中で暴れまわった。床に髪を散らしながら頭を振った。体がばらばらになる、と思った。
 耳元で笑う気配がして、熱い息で名前を囁かれた。その瞬間、許容を超えた快楽は、身体をがくがくと震えさせながら、弾けた。目の前が一瞬が真白に染まった。腰から甘い波が、身体を飲みこむように何度も溢れた。背骨を伝って急速に滲んでいく痺れが脳に達して、溶けた。自分がどこにいるかわからなくなった。
「……あ、あァ、……ふ、ああァ……ッ!」
妙な浮遊感とともに、体はありえないくらいにびくびくと痙攣した。波は何度も訪れ、指先足先まで辿り着く頃にはまた新しい快楽が生まれた。
 自分が泣いていることに、アキラはやがてぼんやりと気付いた。
「……ッ……あ、ぁ……、」
「……っ、こちらだけで達したか」
腰を撫でられて、それだけでまた震えた。何が起こったのかすらよくわからなかった。嫌だと、思う暇もなかった。アキラ自身を握りこんでいた指が、鈴口をえぐるようにしてから離れた。そこはまだ張り詰めたままだ。荒い息を吐き出しながら、ものを考えられなくなった頭で、ぼんやりとなにか不思議な思いだけは感じた。
 と、再び体内をかき回される。すぐにまた波にさらわれた。今度は阻まれることなく、タイルに白濁を撒いた。耳元に詰めるような息遣いを感じて、ついで奥にシキの吐き出したものを受けて、それで再び小さく達した。
 完全に力の入らなくなった身体が、震えながらずるずるとタイルに沈んでいくのを感じた。

*

 急に意識が浮上して、アキラは唐突に現実に引き戻された。
 見慣れた白皙がすぐ傍にあった。赤い瞳が、その温度を普段より幾ばくか下げてこちらを見つめている。明りのない部屋に一つだけの窓から入り込んでいるのは、空を覆う厚い雪雲が反射した地上の光だ。
 頬を軽く叩かれたらしいのを、グローブの手の甲が離れていったのに知った。
 視線だけで周囲を見渡す。書類と備品の詰まった棚が壁を埋めている。自分が横たわっているのは長椅子で、何かと忙しい精鋭部隊では腰を下ろされることよりも仮眠に使われることのほうが多い代物だ──統一ニホンの黒い城、精鋭部隊の資料室だった。夢と現実の間の数年分の時間差に、少しの間茫とした。
「ここのところ中々屋敷に戻らんと思えば、こんな場所で寝ていたか」
「……閣下」
 寝起きの声はかすれていた。
 半身を起こす。皺にならないようにと脱いで身体の上に掛けていた軍服がずり落ちた。腕時計を確認すれば、この部屋に入って から二時間ほどが経過していた。
 年も暮れようとしていた。こまごまとした、他愛ない事件が今年はやたらと多い。それらをあらかた片付けたと思えば、次は年始すぐのイベントの準備に追われて、ここ数週間は酷く忙しかった。
「仮眠なら書斎を使え」
「しかし、あちらでは部下が」
「なんの夢を見ていた」
 眉根を寄せたアキラの言葉を遮るように発された声には、からかうような笑みが含まれている。わずかに目を見開いたアキラとの距離を、シキはゆっくりと詰めた。獲物を嬲る愉悦を沈めた赤い瞳は、暗闇の中でも光を宿す。鼻先が触れ合うほど近付いたあと、顔はふいと逸れた。耳元に、唇をつけるようにして囁かれる。
「何度か俺を呼んでいた。俺の、名をだ。──なんの夢を見ていた?」
「──っ」
アキラは耳にかかる吐息に小さく身体を震わせると、シキの肩越しに言葉を探した。それから、絞りだすような声でつぶやく。
「……日興連の、頃の、夢です」
暗に、名前を読んだのはそのせいだと逃げを打ちながら、退路を探るように視線を揺らす。廊下への扉はひたりと閉じられ、明りのない室内は外とは完全に隔絶されていた。
「うなされていた。──と言っていいか、怪しいものだったが」
言葉は喉の奥で笑う気配に変わる。脇腹にひたりと寄せられた手のひらに、アキラはびくりと身体を震わせた。
 耳元にあった唇が首筋に落ち、Yシャツの襟と皮膚との境をたどるようにして舌が這った。自然と反った喉の、尖った場所に軽く歯をたてられれば、口の端から熱を持った息が漏れる。
「閣下、……おやめください」
シャツのボタンを外していく指を、いつもの様に留めることが出来ないのは、ねじ伏せられるまで抗うことが出来ないのは、おそらく先ほどまでの夢に蘇った記憶のせいだ。支配の、躾の、束縛の、──執着の。その心中の独白が、どこか言い訳じみていることに、アキラは気付かないふりをした。
「……、……?」
だが衣服と意識を乱していた動きは不意に止まる。熱を宿した瞳でぼんやりと主を見上げれば、先程まで鎖骨を食んでいた唇が、額に落とされた。
「……明日は帰れ」
腹までずり落ちた軍服の上衣の上で、何かがぱさりと乾いた音をたてた。見れば書類の束、夕方提出した大規模演習の報告書だ。滑り落ちかけたのを慌てて押さえた時には、既にシキは立ち上がり部屋の扉を開いていた。
 廊下の明るさに一瞬目がくらむ。肩越し振り返ったシキは、酷く愉しげな笑みを浮かべていた。床に落ちていた明りが細くなり、扉が閉まる音とともに部屋は再び暗闇に閉ざされる。
「──」
数秒、主の消えた扉を見つめた後、アキラは起こしていた半身を再び長椅子に投げ出した。
 書類が上着もろとも床に落ちて散らばる。ひたりと顔をおおった片手で、前髪をかきあげかけて、途中でやめた。
「……相変わらず、意地の悪い、……」
呟きは苦笑の気配を含んだ溜息に変わって、黒い水に似た暗闇に溶けた。

end.

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