満月

「月が綺麗ですね」
頭ひとつ低い場所から聞こえた声に視線をやれば、軍帽をずらすようにして空を眺めながら歩くアキラがある。他の兵の前では一歩後ろに控えるその姿が、今は半歩の距離と僅かに近い。切り替えが得手でない従僕の、数少ない公私の別の現れだった。
夜半、黒い城からの帰路である。
屋敷林の手前で送りの車を降り、エンジン音も遠ざかり消えてしまえば、あたりは葉ずれの音と互いの足音ばかりとなった。常であればぽつりぽつりと配置された灯りだけが照らす石畳の足元が、今日は白々と明るい。
「……何か?」
肩越しに振り返ったこちらに気付いて、アキラは視線を空から下ろす。青灰色の瞳は月下に殊更青みを強くして、素直な疑問符だけを浮かべている。
「……いや」
シキは口元に笑みを浮かべると、視線を前方に戻した。屋敷の灯りはまだ少し遠い。
「何です」
意地の悪い含み笑いの気配に気付き、問い詰めるアキラの声はほんの少し低くなった。いま背後を顧みたならば、こちらを睨む不遜な半眼に出会うだろう。
「とうとうお前も粋を解して冗談のひとつも言うようになったかと思ったが」
「……?」
「思い違いだったらしい」
「月を愛でるのはいけませんか」
空を見上げるのに邪魔だとずらした軍帽をかぶり直しながら、アキラは先をゆく背中に問いを投げる。
「構わんが、誤解を招きかねんな」
「俺には問題のある発言をした覚えはない」
「だろうな。たまには研究書や実用書以外の本も読め」
「……論旨の見えない話は苦手です」
いつからかシキの蔵書に興味を持ち始めたアキラが、いわゆる文学や物語と呼ばれるものを避けているのは知っていた。どうにも眠くなるのだと、以前言い訳にもならないことを口の中で呟いていたのを覚えている。
「ついさっきお前が口にしたフレーズ」
「──月が綺麗だと、言いましたが」
シキはちらりと頭上を見上げた。下界を煌々と照らす月がひどく明るい。だがそれは、日の光のように不躾に暗がりを暴くことをしない。静寂に寄り添う青白い光に温度はない。僅かな表情の変化など、斜め後ろを歩くアキラにはまして気付かれるはずがなかった。
「……古い文豪がある英文をそう訳した」
「何です」
シキは足を止める。苛立ちの透けた声で種明かしを急かす従僕に向き直った。
意表を突かれたようにほんの一瞬目を見開いてこちらを見返した、その視線を絡めとる。そのままゆっくりと距離を詰めれば、つい先まで刺を孕んでいた青い瞳が、瞼を震わすような瞬きをした。
「知りたいか」
身をかがめて、耳に唇を掠めながら名を呼んでやる。わずかに肩を揺らしたアキラは、けれどそれを隠すように強い声で肯定した。
この跳ねっ返りの犬にも、罠と知りながら踏み出す意地の張り様を、悔いるときがいつか来るのだろうか。
それを惜しみながら、シキは風にうっすらと滲んだ木犀の香りを言葉に変える。


end.

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