14:マタル                          
 
文字書きワードパレット 14:マタル
 ビルに囲まれた曇天から放射線状に降る針の雨。濡れたアスファルトと古びた土と、新しく流されたばかりの血の匂い。
 アキラは仰向けに倒れたまま、荒くなった呼吸を整え、最後に体から力を抜いて長い溜息をついた。 車がすれ違えないくらいの、細い路地だ。コンクリートの堅さを感じる背中に、じわじわと冷えた水が染みてくる不快感がある。
 身を起こし、こちらの腹の上にのしかかったまま動かなくなった体を転がす。ぐにゃりとかしいだ頭が地面にあたる、鈍い音がした。濁った目を開いたまま事切れた顔は、どこかで見たことがあるような気もする。同じ部隊ではないが、なにかの訓練で一緒だったろうか。髪の間から流れ出た水滴が、顎から滴り落ちる。
 胸に突き立てたままのナイフを回収すると、通信機でニコルの研究所に連絡をした。必要最低限の言葉で場所と状況を告げて通話を切り、のろのろと歩き出した。数分もしないうちに、あの死体を回収に来るはずだ。背中が少し痛む。引き倒されたときに打ったかもしれない。ひどくだるくて、顔に張り付いた前髪を除ける気にもならない。
 こういったことは、ごく稀にではあるものの、幾度か経験した。ニコルに過剰適応した兵士が、ナルニコルであるアキラを襲うのだ。なぜか雨の日に多い。
 通信機を胸ポケットに入れようとして、手を滑らせて地面に落とした。樹脂製の筐体がコンクリートに角からぶつかる、ガツンという嫌な音がする。舌打ちをして機械を拾い上げると、濡れて細かなゴミの張り付いた画面を指でぬぐった。硝子製の液晶カバーの端が欠けたのと、指がまだ少し震えているのに気づく。気分が、悪い。
 何の変哲も無い道ばたや廊下や訓練中に、突然襲われることには慣れつつあった。元々お前は隙が多いからちょうど良いと、シキなどは冷笑を浮かべる。常に一定の緊張感を強いられる環境は悪いものではなかろう、と。
 それも一理はあるものの、楽しいかと問われればもちろん否だった。耳を塞ぐような雨音。人影のない町中、静まりかえったコンクリートのビルの間。正気を失って襲いかかってくる男の濁った目。それらによって呼び起こされる記憶の重さを、アキラは未だにもてあます。あれからもう二年が経った。
 その上、だ。
 このタイミングで、か──正直そう思った。
 薄汚れた雨の路地、そこにシキが立っていると、角を曲がる前からなぜかわかった。出会ったころからそうだ。
 いつもあの男──あの方は、こちらが歓迎しないタイミングで現れる。
「いい様だな」
ほらな。
 アキラは雨に重い前髪の下から、昏い目をシキにむける。ひどく荒んだ顔をしているのが、自分でもわかった。シキは鼻を鳴らすようにして笑う。だがそれだけだ。腑抜けた顔とは、最近は言われなくなった。
「行くぞ」
それ以上言葉はかわされなかった。連れだって歩きだす。傘はない。
 中佐の階級章をつけ、手入れの行き届いた軍服を着た人間が、泥や塵で汚れた人間を伴って歩く様子は異様だろう。普段であれば申し訳ないような思いも湧いただろうが、今は苛立ちのほうが強い。先のニコル兵とのやり合いで、地面に背中をつけられてしまったしくじりを強く悔やんでいたし、胸の中を引っ掻き回す記憶の残滓に気が立っていた。
 だがそれも、雨音の中を歩いているうちに少しずつ、落ち着いてくる。路地に響くシキの足音は、いつもより少しくぐもった音を立てていた。それを心地よいと感じていることに気づいたのは、屋敷もだいぶ近づいたころだ。
 けしてゆっくりとした歩調ではない。それなのに、どこか不遜なまでの余裕を感じさせるその音に、かつてはどちらかといえば、不穏を嗅ぎ取ったものだった。
 それが心を落ち着かせる音に変わったのは、いつからか。シキのそばに身を置くようになって、しばらくたつ。
 シキの私邸は、町並みを少しはずれたところに静かに佇んでいる。敷地を囲う石造りの塀の外からは、林のように樹木が茂っているのだけが見えた。門扉をくぐると、角のない青黒い色の敷石がつらなっている。そのさきに、背の低い樹木に両脇を守られた、古い日本家屋の玄関があった。
 アキラが玄関先で汚れた上着を脱いでいるうちに、シキは中に入っていった。古いだけあって、家内は少し暗い。だが明かりをつければ、不思議な透明感のある、蜜色の板敷きの廊下が浮き上がる。そこに水滴をずるずると残して歩くのは、さすがのアキラにもはばかられた。丸めた上着を小脇に靴を脱ごうとしていると、柔らかな重みとともに視界が真っ白になる。頭にタオルを投げられたのだった。
「……、すみません」
答える声はなく、かわりに奥からシャワーの音が聞こえた。
 軽く頭を、それから足を拭いて家に上がる。脱衣所に入ると、風呂のガラス戸が開いている。湯気の中で、ワイシャツの袖とスラックスの裾をまくった状態で、シキはシャワーヘッドを片手にアキラを待っていた。
 厭な予感しかしない。
「来い」
「自分で出来ます」
「自分の傷にも気付かん有様で、か」
何を言っているのか。アキラは眉根を寄せる。すると不意に、シキが手を伸ばしてきた。
 耳の下に触れた冷たい指先に、思わず首をすくめる。指は襟の上をなぞり、後頭部の中心やや左あたりの髪に触れた。引き戻され、アキラの目の前にかざされた手のひらは、赤く染まっている。
 驚いて自分でも手をのばす。濡れた髪に若干ぬるりとした感触があった。脱衣所から、風呂にしつらえられた鏡を覗き見る。ワイシャツの襟から背中にかけてが、血に染まっていた。地面に引き倒されたときに、どこかで傷をつけたらしかった。
「早くしろ」
「……」
そこまで言われても、まだ躊躇する。シキと風呂場という組み合わせの印象は、正直言って悪い。それは知り合ってごく初期の、蹂躙の記憶と隣り合っている。痛みと、自我を裏切る快楽と屈辱の記憶。今思い出せばピアスが僅かに熱を持つようで、それもなにか、嫌だった。自分の体が自分のコントロールを外れていくのは、気分が悪い。
 頭の傷だって、大げさにするような種類のものではない。頭なので出血量が多いだけだ。打った覚えもないからどこかで引っ掛けた程度だろう。脱衣所で立ち尽くすアキラを、シキは鼻で笑う。
「風呂を嫌がる犬か、お前は」
憮然とする。舌打ちを奥歯にかみ殺して、渋々、のろのろと、服を脱ぎだした。素裸になると、ひやりと冷たいタイルの床に踏み込む。
 築50年をとうに超えているという日本家屋は、そこここに丁寧に手を入れて保たせてある。痛みやすい水回りは、シキがここに入る直前に修繕された様子だった。風呂場の床はグレイの、壁は純白のタイルで覆われている。壁のほとんどを埋める大窓には凹凸のあるガラスブロックがはめ込まれており、向こう側の景色が歪んで見えた。ぼんやりとした庭の緑色と、夕方近くの薄白い外光が反射して、室内は明かりをつけなくともそれなりに明るい。
 湯船は湯を張っている最中だった。指示されて、シキに背を向けてバスタブに座る。湯はまだ臑の低い位置までしか溜まっていなかったが、濡れて冷えていた足には、その温かさが思いのほか心地よく染みた。
 頭にシャワーを掛けられて、アキラは目をつぶる。湯船に汚れた水が入らないように、こころもち後ろに傾く。しばらく流した後、シキが髪に触れてきた。後ろ髪を軽く持ち上げられる。意図を察して俯くと、予想通り、傷を精査する気配があった。
「……たいしたことないだろ」
つるり、と、敬語が抜け落ちた。服を脱いだからかも知れない。
 返事はない。髪から手が離れ、すぐに戻ってくる。
「……シキ」
髪の間に入ってきた細い指が、わしゃわしゃと、繊細なのか乱暴なのかわからない手付きで動く。どうやら泡をたてているらしい。つづけて頭を洗ってくれる気のようだ。呆気にとられて、おもわず問う響きで名前を呼んでしまう。髪の中を触れられるのは、くすぐったい。
「前にもお前を風呂に入れたことがあったな」
傷があるらしい部分が、ぴりぴりと痛む。アキラは返事をしなかった。昔の話をされるのは、得手でない。どう反応すればいいのかわからないのだ。俯いて、口をつぐむ。前髪から水滴がしたたり落ちていくのを、黙って見つめた。
「あの時は毛を逆立てた猫のようだったが、……」
いまはまるで借りてきた猫だなと。
 喉を鳴らすような低い笑みの気配の後、それきり言葉は続けられることなく、こちらに頭を出せと命じられた。おとなしく、バスタブの湯に足を入れたまま、シキと向き合うようにして頭を差し出す。温かいシャワーが降り注ぐなか、反射的に目を閉じた。頬を、背中を、幾重にも水が流れ落ちていく。
 シキのために無理やり開かされた体の軋みを、覚えている。砕かれたプライドの悲鳴を、尊厳を踏みにじられる痛みを。
 あの日、幼馴染を喪った日、立ち上がることすらやめたアキラがこの男に拾われた日。アキラが負った傷を、この男はさらに切り開いた。生々しい傷口に指を入れ、深みを探るように爪をたてて新しい痛みで上書きした。
 あの日々が何であったのか、アキラにはいまだによくわからない。癒されるようなものでは決してなかった。精神は日々摩耗して、それなのにあの部屋を出るころには、アキラは確かに、また歩けるようにはなっていたのだった。
 それからずっと、シキの傍にいる。
 トシマを出、それを当然と伴われて、そしてアキラ自身もそれに不服を唱えることをしなかった。この男の存在はあまりにも苛烈で、それにいつも痛みを伴う触れ方ばかりされたから、アキラには己の気持ちなど精査する余裕はずっとなかった。ただシキという存在に灼かれた。焼き付けられた。
 だが日々を重ねれば、慣れもするということなのか。それとも関係の在り方が変わったのだろうか。己の一部のように扱われること、触れられることに、拒否感を覚えない自分に気付いたのはいつだったか。たぶんシキの苛烈が、静寂を伴うたぐいのものであると気づいたころだ。認めるのは苦痛を伴った。認めてしまえば、落ちるようだった。
 目を開くと、排水溝周りに砂や砂利のようなものが散っていた。髪は思ったよりも汚れていたらしい。そのそばに、自分より二回りは大きい裸足。骨ばった足首は上に行くにつれ筋と腱がかさなって、きれいな曲線を描いてまくりあげられたスラックスの裾に消える。
 アキラよりも色の薄い皮膚の上で、降り注ぐ水の粒が玉を作っては流れた。濡れた肌が僅かな外の光を反射するのが、なぜだか見ていられなくてふたたび目をつむる。傷は、シャワーが直接当たると少し痛んだ。
「温まってから出ろ」
やがてシャワーの水がやんだ。顔の水を手のひらで拭い落としていると、そんな声が頭に掛けられる。これで終わり、ということらしかった。
 アキラはシキの顔を見やる。白皙はこれといった感情を浮かべていない。シャワーヘッドを掛け具に戻す、濡れたきれいな指が、骨の形を見せてなめらかに長かった。風呂から出ていこうと踵を返したその背には、湿ったシャツがすこし張り付くようになって、背中を覆う筋肉の形が透けていた。
 その、触れ心地を知っている。アキラは湯船に体を沈める。体が緩む温かさだった。冷えていたらしい。
「……雨のときは」
「なんだ」
呟きに、くぐもった声がかえる。脱衣所と風呂とを仕切る曇り硝子のはめ込まれた引き戸には、足を拭くために身を折ったシキの影が映っている。
 なんとなく、その影から視線を引き剥がすようにして、バスタブの中で姿勢を変えた。入口にむかって背を向けて座る。湯はもう胸のあたりまで溜まっていた。
「匂い、……俺の。するのか」
何度か。ニコルに適応しすぎた連中に、そのような言葉を投げられたことがある。食らいつきたくなる匂いだと、肉を見る目で言われるのは、ぞっとしないものだ。
「そうだな」
やはり、そうなのか。帰路に突然現れたのも、匂いをたどってのことなのかもしれない。
「どんな」
アキラの問いに、答はなかった。そのかわり、数秒ののちに、風呂場の扉が開く気配があった。なんとなく、振り返らずにいた。
「……」
背後から伸ばされた手のひらが、首の横を通って、鎖骨と鎖骨のくぼみの下に、ひたりと置かれた。少し冷えた手は、濡れた肌の上に吸い付くようだった。喉を撫でるようにして上向かされ、柔らかに顎を掴まれる。うっすら細められた赤い瞳に、逆さに覗き込まれた。
「お前に花の名を言っても解るまい」
 わずかに眇めるようにして、アキラは赤い瞳に見入った。
 シキの形の良い唇が、聞き覚えのない横文字の単語を綴った。きっと花の名前なのだろう。頭には、残らない。それよりも、赤い瞳の奥でゆらぐものに、気を取られる。
 ニコルを摂取していながら、シキの瞳は濁らなかった。まったく変わらなかったのではない。陽炎に似た、濁りと言ってしまうにためらう陰影のゆらぎのようなものが、赤色の奥底にうまれた。強いアルコールと水が交じり合おうとするのに似た、透明なゆらめき。
 そこから何かを、汲み取れる気がするのだ。見出したいものが、あるように思う。感情によってわずかに色を変える赤に、見入ってしまう。
 獲物を縫い止めようとするような、──雨の日に正気を失い襲いかかってくる連中と同じ欲望を、シキも抱えているのだろうか。ふと、そんなことを思った。笑んだ形の唇が、降りてくる。こたえるように、顎が少しだけ上がった。差し出すように。赤色が今にも滴って、アキラの中に染みてきそうだった。食欲と、それに限りなく近い、なにか。自分の中にも、あるだろうか──。
 形の良い唇が、ごく、ごくかるく触れて、はなれていった。
「早く上がってこい」
気がついたときには、すでにシキは風呂場から出ようとしている。肩越しに意地悪く笑う、瞳ばかりが爛々と、なまなましい光を沈めて赤い。
「……、……」
 アキラの半ば開いた口と見開いた目の前で、風呂の引き戸は静かに閉まった。
 少し、混乱する。
 あの触れ方、あの目、は、そういうときの、やりかただった。それなのに──ああ、からかわれたのか。違う。引きずり出された。何を。何を?
 また、つかみ損ねた。わかるのは、それだけだ。
 感情をぶつけるように、水面に手を叩きつけた。水滴が四方に散る。必要もないのに乱暴に顔を洗った。心臓がすこし早い。意味もなく膝を抱え、そのまま頭まで水に沈む。ぶくり、と息を吐く。
 正体を見定められぬままの感情が、もうすぐあふれて滴ってしまいそうだ。
 

end.

OSUTO-KAITA-HITOGA-YOROKOBUDAKENO-STAR:

023-672-1111