昏き夜には嗤い

狭い部屋に小さな明かりが灯った。暗闇は隅に逃げたあと、濃い霧のようになってわだかまる。その闇よりなお深い漆黒を宿して、彼の主がゆっくりと振り返った。その手には細やかな装飾のほどこされた燭台があり、先ほど灯したばかりの蝋燭の火が揺らめいている。肩より高い位置にある壁のくぼみに据えられると、より広い範囲が照らされて、室内の様子が目に明らかになった。
部屋には窓がない。炎が揺れるのは、通気口を通る僅かな空気の動きのせいだ。日が沈んだとはいえ、晩夏にもかかわらずひやりと冷たい空気は、地下室特有のものだった。打ちっぱなしのコンクリートの壁と、靴底に硬い音を返す黒いタイルの床。暗がりで見えないが、隅には排水口がある。
「扉を閉めろ」
低く静かな声にびくりと肩を揺らした。知らず下げていた視線を上げると、わずかに細められた赤い瞳に迎えられる。血の滴るようなその色に、背筋を駆けたのはいつも感じる熱と、そして悪寒だった。射すくめられた視界の端、シキから少し視線を上にずらした位置に、鈍い銀に光る物のせいだ。無骨な滑車だった。
アキラは背にした扉を閉め、内側から鍵をかける。小さな金属音は拳銃の安全装置を外す音に似ていた。ただし、その銃口は自分自身のこめかみに向けられている。腕の中を見下ろせば、毛羽を取り滑らかにした縄があった。
「前回は、いつだったか。──まだ、お前の匂いが残っているな」
アキラは再びそろりと体をシキに向けた。覚えている、あれは自分の失態への仕置だった。だが、ふた月近く前の事だ。アキラの鼻には、なんの匂いも感じられなかった。ともすれば、主や一部のNicoleウイルスキャリアーにだけ感じられる匂いなのかもしれなかった。それはここで流されたアキラの体液、血液や、唾液や精液、それから涙の、匂いだ。震える唇を引き結んだ。
「アキラ」
恐れ、おののき、怯える魂を奥歯に噛み潰した。以前の、何年も前のアキラならば、そんなことはする必要がなかった。それはシキの恐ろしさを測ることのできぬ未熟さのせいでもあったし、脆弱だがまっすぐな芯のせいでもあった。しかし現在では心の有り様が違ってしまっていた。シキという人間を、その所有物にたることの恐ろしさを、──そしてその栄誉を──アキラはこの世界のうちの誰よりもよく知っている。芯はより研ぎ澄まされ、よくしなる強靭さを手に入れていたが、同時に支配され征服される甘美をすでに知っていた。覚えこまされていた。だからこそ今、シキに相対する恐怖と戦わねばならなかった。それは自分を自分たらしめていると思っていた部分を、手にとって眺められ、目の前で蹂躙され、粉々に崩されることへの恐れとの戦いだった。
「どうすればいいか、解るな」
「……はい」
躾はすでに始まっていた。部屋の中央、滑車の下へと歩み出る。足音に合わせるように、臍のピアスが熱を持って疼いた。それはシキに近づくほどに温度を上げて、膝をつき震える指で縄を差し出した時には痛みに変わっていた。心臓がまるで一個の生き物のように、体の中心で律動していた。縄が、──アキラ自身を縛るために用意されたそれが、シキの手の中でほどけ、端から床に落ちていく。浅くなる呼吸に、舌の裏からあふれた唾液を飲み込んだ。熱に霞み始めた視界の中でその動きが不意に止まり、無意識にアキラはのろのろと視線を上げた。酷薄に笑む赤い瞳と出会い、息を詰める。
「──お前は、本当に……」
言葉の先は嘲笑の気配に変わった。その先は言葉にされる必要がなかった。羞恥がアキラの頬を染め、胃を焼いた。シキが背後に回り込む。目を閉じ、奥歯を噛みしめた。
背中に腕をまとめられたのをはじまりとして、上半身が戒められていく。二重にされた縄で胴に二回り、それから首にかけられ、ふたたび胴に戻る。大きく動くたび、あるいは背後から抱かれるようにして縄を回されるたびに、彼の主の匂いが鼻腔をくすぐった。
「……っ、……」
シキは終始無言だった。この地下室に外の音は届かない。故に、聞こえるのは縄がワイシャツの上を滑る音と、それから、きつく目を閉じ俯いたアキラ自身の、暴れだしそうになる感情や自尊心を、噛み殺すようにして口の端から漏れる呼吸の音だけだった。
肩を固定するように掴まれ、縄の緩みをなくすために強く引かれた。
「……ッん……ッ!」
肋骨が僅かに音を立ててきしんだ。同時に熱が背骨から体中に拡散して、最後に腹の底へと落ちていく。
「……は……、」
「随分と悦さそうな、声で啼く」
背後で笑う声がした。その姿をを視界に収めることはできないと、わかっていても肩越しに振り返ろうとしてしまう。
「ちが、います」
「今更咎めん。その体の淫らさはよく知っている。時々舌を巻くがな。今も、」
「……ッ」
また、縄を引かれた。体にひたりと沿い、締め付ける、その感覚はしかし確かに、抗いようのない快楽ではあった。まるでシキ自身の腕の束縛のように感じるのだ。
「その潤んだ目をどう説明する? まさか既に、痛みを想像して泣きだしたわけではないだろう」
「泣いてなど」
「だろうな。お前にかかれば痛みすら快楽だ」
「──ッ」
どこまでも嬲られる。煽られる。こんなものはまだ序の口だ。これから引き出される羞恥の怪物の、その尾を弄ばれたに過ぎない。
しゅ、と、背中で縄の擦れる音がした。縛りが完成した音だった。シキが立ち上がる気配が続いた。背中にあったぬくもりがなくなり、僅かな寂しさに似たものに襲われる。だがそんなものに浸る余裕はすぐに霧散した。金属質の音がした。滑車が回る音だった。体が上に引かれ、上半身を覆う戒めがより強くなる。
「……ッく、んっ」
体はわずかに前傾に傾いだ。床からかかとが離れたところで、滑車は止まった。
まるで蜘蛛の巣にかかった虫のようだ。中心には自分を食らうために舌なめずりする巣の主がいる。だが、何故か皮膚に食い込む戒めと不自由さには、安堵を感じるのだった。それを、アキラは恥じた。だが羞恥は、その痛みは、快楽の呼び水でもあった。
それを追い払おうと、きつくまぶたを閉じ唇を噛んだ時、顎を固いものに押し上げられた。主の無言の命に目を開く。
密度の濃い、原始的な感情と欲望に混濁しはじめて潤む青い瞳を、シキは満足気に眺めた。だが、まだだった。まだ、浅い。引きずり下ろす場所は、理性などあっては泳げない深みだった。
「懐かしいだろう」
アキラの顎に当てていたものを外し、その目にも見えるように引いた。青い瞳が一瞬、ほんの一瞬、快楽に対する期待と欲望に染まってから、恐怖の色に変わった。惹きつけられた視線を引き剥がすようにして、アキラはシキを見つめた。眼差しには懇願の色があった。シキは微笑んだ。それは悪魔のように美しい笑みだった。救いは、与えられない。アキラは顔を歪めた。だがその皮膚の裏に喜悦と狂気があるのを、彼の主はよく知っていた。だからこそ、アキラにとっては苦痛なのだ。彼はただの痛みに屈するのではなかった。その痛みがシキの手を介して快楽に変わること、その快楽に結局は堕ちて、悦楽の沼に耽溺する、耐え難いほどに浅ましい己こそが最も、アキラを傷つけた。自尊心を自ら踏みにじるのに等しかった。
示されたのは艷やかなオイル革で覆われた一本鞭だった。
軽く振ると、その先でアキラの頬を撫でた。乗馬用のものに近い、芯の入ったそれは、わずかに撓みながら上気した皮膚の上を滑る。
「──さて」
声に答えるようにアキラの喉が、何かを飲み込むように尖りを上下させた。
「どこを打たれたい」
「……っどこも、打たれたくなど──ッあ、うあぁッ!!」
否定の言葉は鞭の空気を裂く音に切り落とされた。打たれたのは、縄のない横腹だった。殴打とも切られるのとも違う、閃光に似た熱と鋭利な痛みに、床に辛うじてついていたつま先が離れて一気に腕周りに体の重みがかかった。数回、たたらを踏んだあと何とか体が安定させる。
「その天邪鬼は変わらんな。黙って俺の後ろに従い、自ら縄を差し出し従順に縛られておきながら、今更何を言う」
「っ……つ、」
「なにより、……気付いているのだろう?」
意味深な間をもたせ、シキは唇で弧を描いた。
「……ッ!」
言わんとする所を悟る。胃から喉元までの粘膜が一気に焼けるような羞恥に、アキラは唇を噛んで俯いた。確かに、隠しようもなく、自身が反応していた。張り詰めて、布を押し上げ、狭い場所からの開放を望んでいた。
「俺は確かにお前を作り替えたが、教えたのは結局快楽に堕ちることだ。お前のその、痛みそのものに感じる体は初めからだったな」
「あ、……ッや、」
先ほど打たれた場所を、アキラの背後へと回りこむシキの鞭の先が撫でていく。まるで子供が、道端で拾った枝で雑草の頭を撫でるのに似た無関心さでありながら、まるでシャツの下のみみず腫れの位置が見えているかのような正確さだった。痛みは熱を持って、それなのに寒気のように体を震わせる。
「……ぁ、は……ッ」
「これにすら感じるか。手に負えん」
再び、風切り音がした。鋭い痛みの熱に焼かれたのは、ちょうどピアスの反対側、腰の上部だった。
「あアァ……ッ! あ……、あ……!」
アキラは何度か痙攣した。痛みに、ピアスの熱が連動して、頭が真っ白になった。一瞬、達してしまったのかと思った。痛みと、快楽の区別が、既に付き辛くなっていた。
「は……、っく、ン、……ッ」
足元がふらつく。そのたびに体重が縄の戒めをきつくし、これにも恍惚となった。確かな快楽を感じながら、だからこそ、自分の心身のあまりの弱さに、理性が真っ黒に染めあげられていく。鞭のたったの、二振り。それだけで、ぐずぐずに崩れていく体。理性のたが。
「痛めつけられるのが好きなのだろう? そうして、支配されるのが」
「……っぅ、あ、やめ……ッ」
ピアスのちょうど背中側を、鞭の尖った先端が突いた。耐え難い快楽が駆けた。腰を揺らしてしまい、それに気づいて、嗚咽に似た息を漏らす。
「お前はお前の快楽のために、俺の傍にいるにすぎん。違うか? 男の体を持ちながら、男に支配されよがって腰を揺らす。それがお前の生来の質だ」
「──! ちが、い、ます、俺は貴方だからこそ、他の人間など、……あぁああッ!!」
今度は尻だった。軍服越しでありながら、他より力の込められた一打は周囲まで痺れるほどの痛みをもたらした。
「俺だからこそ、か」
「……! っは、い……、ッ、く」
震える体を後ろから抱くようにして、シキはアキラのベルトに手を伸ばした。前をくつろげ下着を引き下げると、跳ねるようにしてそれがシキの手を打った。アキラの耳元で冷笑を浮かべると、わずかにびくりと反応した。うつむくアキラの目には涙が浮かび、幾筋かは汗とともに流れて落ちていた。痛みと快楽に対する生理的な反応だった。
その目の前に、シキは別の道具を差し出した。
「な、に……」
それはガラス質の、球体が数珠状に連なったものだった。一つ一つの球の大きさは葡萄の大粒ほどで、色はアキラの目の色と同じ、わずかに灰色がかった青だった。外見だけならば、いっそ美しいと言えた。それを端から一粒一粒、アキラの口に入れていく。
「ん、ん……っ」
「飲むなよ。舐めて、濡らせ」
全ては収まらなかった。呼吸が苦しげになったあたりで止めてやる。
「……う、……」
「舌を使え。いつもしているようにな」
その言葉で、アキラはそれが何に使われるものなのか、理解したようだった。シキは口元の笑を深くする。
「こう使う」
ぬるりと、リングの付いた逆の端を引いて、順にアキラの口から引き出した。すべて口から吐き出したあと、荒い呼吸を吐きながらアキラは自らの王を見返した。
「……っまさか、」
「……フ」
シキはアキラの既にくつろげていた軍服の下衣と下着を下げた。顕になった尻には横一文に先ほどの鞭のみみず腫れが走っている。それをガラス玉でなぞられ、アキラは身を捩った。
「……や、です、嫌だ、シキ……ッ!」
「嫌では、ないだろう?」
「そんなもので俺を、いや、だ、おやめくださ……ッ!!」
シキは容赦なくアキラの尻を割った。そうして顕になった奥まった場所に、ガラス玉を埋め込んでいく。アキラは喉をのけぞらせると、空気をなくしたかのように声もなく喘いだ。
「……っ」
「俺だからだと言っておきながら、こんな物に後ろを犯されて、いい顔をするものだな」
「っ……いや、だ、ッ」
「その割には悦んでいるようだが」
半ばまで入れた球を飲み込むような動きをする周囲の肉を、指先で撫でてやる。すると押してもいないのに球は吸い込まれていった。耳元でそうと分かるよう、軽い笑い声を漏らせば、反応して背を震わせた。アキラの限界が近かった。体も、精神のそれも。
瞳は既に処理しきれなくなった感情と欲望に混濁して、溢れた分は涙になった。浅い息を繰り返す口の端からは飲み込む気力すら失われつつある唾液が流れ、床に転々と落ちていた。
「や……だ、やめてくださ、シキ、……ッ! も、それ、以上は、……ッあ、」
冷えていたガラス球は、はじめに入れられた方から徐々に体温に馴染み始めていた。奥へ奥へと押し込まれていくのに、どうしようもない異物感に襲われる。やがて制止の声など聞こえていないようだったシキの手が止まった。最後まで入りきったのだった。普段なら触れられるはずもない奥まで圧迫されて、腹だけでなく息すら苦しくなり始めていた。シキの指が再び円を書くように襞をなぞったのに、アキラは震えた。恐慌をきたしそうになっていた。
「や、です、おねが、シキ……っ」
うわ言のように繰り返すのを、彼の王は笑った。笑って、優しく腰の鞭の傷をなぞった。びくびくとアキラの体が反応するのを残酷に観察しながら、埋めたガラス玉の端のリングに指を掛けた。
「こん、な、いきたくな……、いや、いやだ、やめろ、あ、っ」
空いた手をピアスに伸ばす。引っ掻いてやると、アキラは背をのけぞらせた。アキラのそれは張り詰め切って、透明な粘液を涙のように流していた。それは足の間に伝うものもあれば、振動に合わせて床に落ちたものもあった。
「達け」
耳元に囁きながら、リングを引いた。
「ッ────────!!」
すべて抜ききるまで、痙攣する間も、声を上げる余裕もなかったようだった。埋め込むのには数分かけたが、引き出すのはほんの数秒だった。球はその通路と入口をその凹凸をもって次々に押し開き、すぼめさせて、蹂躙した。最後の一球が体外に引き出されたのと、アキラが小さく声を上げたのは同時だった。
「あ、あァあ……っ」
それはおよそ快楽の声ではなかった。まるで自分の腕や足、体の一部を失ったような、絶望の染みた悲痛な声だった。
ぱたぱたぱた、という、軽い水音が続いた。床に白濁が散っていた。何度か痙攣を繰り返したあと、吊るされるがままに脱力した体を、彼の王が抱きとめた。

end.

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