5rooms

【浴室】

「俺は貴方の……ッそういうところが大嫌いだ……!」
吠えるような声は、狭い室内でシャワーの音を一瞬かき消して反響した。
こちらを睨みつける瞳は刃のきらめきを宿してぎらついている。普段はよく躾けられた番犬の顔で傍に侍るくせに、感情を露わにするときは毛を逆立てた猫のようになる従僕を、シキは目を細めて見おろした。

ホテルの一室、その備え付けのバスルームだった。シキがその姿を見つけた時、アキラはバスタブに外から倚り掛かるようにしてうずくまっていた。着衣のままの背中と濡れて色を濃くした髪に、フックに掛けられたシャワーヘッドから勢い良く水が降り注いでいた。湯気はない。冷水だ。
純白のタイルの敷かれたバスルームの入り口で、何をしていると呆れたように問えば、来ないでくださいと半ば叫ぶような声が鋭く耳を打った。構うことなく踏み込み、腕を掴んで引き上げる。多少は撥水性があるはずの軍服は既にぐっしょりと濡れて、濃緑から黒に色を変えていた。どれだけの間水に打たれていたのか。
アキラの顔は俯いたままで、水滴をこぼす髪の下に隠されていた。唯一見える口元がせわしなく息を吐いている。シキは脈を抑えるように首筋に触れようとした。
「触らないで、ください……!」
アキラは逃げ出そうとして一瞬体をねじった後、急にくたりと力を抜く。水に打たれていた割には体温が高く、脈も早かった。
部屋の前の廊下で、おろおろと扉と足元を交互に見つめる若い女がいたことを思い出す。ホテルの最上階で開催されていたパーティー会場で、アキラに長い間つきまとっていた男の娘だった。視線をひたりと合わせると、勝手に言い訳じみたことを口にした。曰く、アキラの気分が悪そうだったので、この部屋に連れてきたが締め出されたのだと。女はカードキーを持っていた。にも関わらずこの部屋に入ろうとしなかったということは、余程強く拒否の言葉を口にされたに違いなかった。随分と世慣れないふうだった。こちらの手の者に知らせるという頭も働かなかったらしい。だが、少なくとも父親のように下衆ではないのだろう。男に一服盛って娘に手を出させようとするような。それによって国の上層部と繋がりを持ち、自分の足元を固めようとするような。時代の変化に気づかず、頑なに今までどおりのやり方を繰り返し安心しようとするその馬鹿さ加減は、いっそ敬服に値しよう。ただしくれてやれるものは破滅の他にない。
「辛そうだな」
アキラは再び腕を振り払おうと身動ぎしたが、結局かなわずに元の姿勢に戻った。
「催淫剤の類か。油断したな」
「……」
「何故すぐに連絡を寄越さなかった」
「……、毒物なら、耐性が。先ほどまでは普通に動けたので、……」
「判断を誤ったな。俺ではなく他の兵が来ていたらどうなっていたと思う。そのザマではろくに抵抗も出来んだろう」
「……?」
「非NicoleはNicoleキャリアーを引き寄せる。何度も痛い目を見たはずだ」
張り付いて肌の色を透かしたワイシャツは、半ばまで開かれて鎖骨を顕にしている。首筋や項に濡れた髪が張り付いていた。
「……、……ッ」
アキラは数秒の間ののち、言葉の意味を理解して体を固くする。
「それともその方が良かったか。外に女もいたな。本人は知らんが、父親はそのつもりだったらしいが」
ようやく濡れた顔を上げた。信じられないものを見るように見開いた目でこちらを見つめたあと、震える唇を噛みしめるように引き結んだ。強い憤りに瞳を染め替え、顔を歪ませたアキラが、罅割れ軋む声で冒頭の言葉を吐いたのはその直後だった。

ひどく興奮していた。感情の起伏や表情の乏しいアキラにしては珍しい爆発だった。かつて廃墟であったトシマでこの野生の生き物を捕らえた日を、ちらりと思い出す。あの日も雨に濡れてうずくまっていたのだった。つつけば謗言が寒さに震える口から溢れだした。場所も状況も違えど多少は似ているかもしれなかった。
「事実を口にしたまでだ」
「……どうして、……、……っ」
アキラは唇をわななかせた。瞳の中に激情が荒れ狂っている。だが結局何も言わないままに再び俯いた。諦め悪く、掴まれた腕を振りほどこうとするのを許して手を放す。再びバスタブに背を打ち付けるようにしてうずくまった。そして小さく、呟く。
「……他人に体を自由にされる惨めさは……、貴方にはわからない」
「泣き言か。そんなものを理解してどうする」
「別に、……貴方にその必要はない、でも」
俺は他人をそんな風に弄ぼうとは思わない、だいたい貴方以外に、触れたいとも触れられたいとも、思えない。好きで非Nicoleなわけじゃない、Nicoleを引き寄せるのなんて知ったことではない。それでももし貴方以外に好きにされるくらいなら舌を噛み切って死ぬ。そんなのは耐えられない。
途切れ途切れに、合間に何かをこらえるような間をはさみながら、アキラは言葉を吐き続ける。まるで癇癪を起こした子供のようだった。事実そうなのだろう。普段のアキラならば自身が非Nicoleであることを受け入れ、責任をもって行動しているように見えた。それでも僅かとはいえ抱え込んでいたのであろう鬱屈した感情が、吐き出されるのをシキは見下ろした。
その姿はアキラを狭い部屋に閉じ込めていた日々を彷彿とさせた。もう殺せと懇願する、屈辱に芯まで噛み砕かれた叫び。堕ちる直前の、自分自身に裏切られて縋るものをなくした、あの絶望の間際の裸の声。捕らえた獣が完全に自分のものになる、その予感は酷く甘かった。
「貴方にそんなふうに言われるのは、……ッ」
不意にその表情を確かめたい衝動に襲われて、アキラの顎を掴む。急のことに見開いた青い瞳には、確かに傷ついた光があった。それは一瞬後、こちらを睨む強い光の奥に隠される。
「……もしお前を、軍に伴わなければどうしていた」
問いかける。答えない唇の代わりに瞳が揺れた。
「今頃反乱軍にでも入ってただろう。違うか」
「何言って、……、」
それまでの話題を打ち切るような唐突な話題の変化に、眉を顰めたアキラを物言わずに見つめ返す。
「……そんなわけ、……──」
否定しかけた声が途切れる。目の前に有無をいわさず突きつけられた問いかけを、アキラが咀嚼するのがわかった。やがて灰青の瞳には当惑が満ち始める。結局否の言葉は続かなかった。
考えたこともない仮定に、自分でも気付かずにいたであろう内心を暴かれて、混乱するアキラに肯定の言葉を落とす。
「──それでいい。屈辱は雪げ。それで終わりだ」
あれほどまでに、矜持や精神を踏みにじってやったというのに、その瞳からは反骨心が抜けることはなかった。ここにいるアキラは穢されへし折られ壊されたその残骸ではない。精神が負け犬でないならば、どんな汚辱も払ってしまえばそれで終わりだ。その魂は他者にはけして汚せない。
シャワーを止めると踵を返した。
「──俺が戻るまでにそのずぶ濡れを何とかしろ。立てるようになっていなければ抱いて帰るぞ」
バスルームの入り口に立てかけておいた刀を手に、部屋の出口に向かう。久しぶりに血を吸わせてやろうと思った。
飼い犬の屈辱は、主のそれに等しいのだから。

【密室】

悔しい、と、譫言のようにアキラは呟いた。
漏れそうになる上ずった声を殺し、吐息を噛み潰しながら。
ささくれだった言葉はともすれば聞き落としそうなほどに、震える息に同化していた。
薬の体に及ぼす効果はほとんど切れている。ただ、精神的な興奮状態だけがいつまでもずるずると残っていた。
「──……惨めだと、言っていたか」
「……ッあぅ……!」
笑って、腹の上に跨がらせた体を下から軽く突き上げる。そのほんの少しの動きに、アキラは弾けるように背を反らし喉の尖りを空気に晒した。
「……ッ、ん……ッ」
「今もそうか」
問いかけながら、暗闇に浮かび上がる体が描く曲線を手のひらでなぞる。引き締まった体は緊張に張り詰めた筋に覆われて、瑞々しい弾力を返す。汗に濡れた肌は吸い付くというよりも滑るほどだ。随分と発汗している。体が薬の成分を排出しようとしているらしかった。
「く……ッ、ん……!」
腰から臍のピアスを経由し、胸の突起を親指で撫でて押し潰すと、眉間の皺を深くしたアキラが噛み殺した声を甘い息に変える。 最奥よりも少し手前で動きを止めたシキの雄を貪るように腰を揺らしてから、悔しげに唇を噛んで動きを止めた。手指がこらえるように握りしめられ、シキの腹に震える爪が僅かに沈む。見下ろす青い瞳は苦しげに歪み、潤みながらぎらついていた。まるで奥に光源があるような輝き方だった。
アキラが行為の最中に他のことに気を取られているのは、過去にも稀にではあるが例が無いわけではなかった。だがあっという間に快楽に呑まれるのが常で、今日のようにいつまでも怒りに頭を染められているのは珍しい。
こちらを睨みはするものの、アキラが腹を立てているのは結局のところ自分自身に対してだった。八つ当たりをしている自覚は多少はあるらしいが、先ほど含まされたという薬に感情のコントロールを奪われていた。冷静沈着というよりは感情の起伏が少ない普段の様子を知るだけに、それは物珍しく面白い光景だ。
頬を撫でてやれば、擦り寄せるような素振りをほんの一瞬見せた後拒絶するように頭を振った。弾みに顎の先から滴った汗が腹や胸に落ちる。小さな反抗にシキは鼻を鳴らすと、アキラの腰を掴んだ。
「何、……ッ!」
動かぬように固定してから、穿った杭を限界まで引き抜く。
「あ、嫌だ……っ、い、あぁ……ッ」
肉壁は惜しむように蠕動した。そのまま動くなと命じてから、掴んでいた腰を解放する。脇腹を撫でた後、背中に触れた。
「答えろ。今も惨めだと?」
快楽を得るために今にも動こうとする体を、アキラは唇を噛んで押さえつけている。その丸められた背にあらわに浮かび上がる骨の連なりを、シキは指先でなぞり上げた。びくびくと体が痙攣して、僅かに結合が深くなる。動くなと言っただろうと笑って、アキラの尻を掴んで再び限界の位置まで腰を引いた。そうしてから、ぬるつく結合部をぐるりと撫でる。
「ぁく……ッ、ん、ん……ッ!」
アキラの膝が笑って、太ももの内側が引き絞るように何度も痙攣する。
「アキラ」
「……っう、く……」
せわしい息を詰めたかと思うと、一気に吐き出すことを繰り返しながら、アキラは命令に従うことに必死だった。答えを紡ぐ余裕は見当たらない。肉壁を誘いこむように絶えずひくつかせ、やがて喉が引きつれたような声をあげた。力を入れ過ぎた弾みで、シキのそれが抜け落ちたせいだった。
「……っあぁ……ッ、も、……」
再び黙って先端だけを埋め込みながら、シキはいつもよりも聞き分けがなく強請る従僕を見上げた。そうしてしばらくしてから、がくがくと震えようとする腰を押さえつけていた手を、ゆっくりと太ももまで滑り落とした。
「……好きにしろ」
その声を合図に、アキラは痛みがない程度の、だが充分に性急な速度で自ら深く腰を落とした。大きく震えながら奥まで飲み込むと動きを止め、震える口元から満足気な息を吐いて体を弛緩させる。どこか安堵するような表情を浮かべて、たどたどしく快楽を追い始めたアキラは、しかし次のシキの言葉に凍りついた。
「まだ惨めか」
「……っ」
一瞬の間の後、濡れた青い瞳が再び刺を宿す。
「貴方の……っ、そういうところが、本当に……うあッ!」
言い終える前に弱い場所を続けざまに擦り上げて、代わりに言葉を続けてやる。
「大嫌い、か。覚えておこう」
「……ッ、あ、く、ふあ……!」
「やめろ、とは言わんのか」
「い……ッ、……っ、く、」
生理的な涙を湛えながらこちらを睨みつける瞳が、怒りと快楽の間を行き来して、まるで光の明滅を見ているようだ。
「……っい、嫌い、だ……ッあ、あ! ……ッ!」
やがて紡がれた言葉はまるで咽ぶようだった。
「……俺はそうやって感情を露わにするお前が、嫌いではないがな」
つぶやきは、届いたのかどうか。
アキラは眉根に皺が寄るほど瞼をきつく閉ざすことで快楽に溶けた瞳を隠して、返事をすることはなかった。

【キッチン】

火の上でコーヒーケトルが揺れる音に、アキラは耳を澄ましていた。
誰もいないキッチンはほのかに暖かく、つい先程まで人が立ち働いていた気配がある。小さな窓から差し込む冬の白い光は、乾いたばかりの調理台の上で銀色に変わって周囲に拡散していた。
食事の用意や屋敷の手入れを任せている使用人達は、朝の早い時間にほんの数名が入り、午前中にはその日の仕事を終え帰っていく。夕食が必要な日は料理人だけが残って仕込みをすることもあるが、今日はそれも一旦下がっていた。だから昼をわずかに過ぎた今、この屋敷の敷地内にはシキとアキラの二人しかいないことになる。
アキラが普段使うのは、上階のシキの私室に隣接するキッチンだ。それが珍しく一階でコーヒーを淹れようとしているのは、主が庭に面したテラスで読書をしているのが見えたせいだった。2階で淹れたのでは供する頃には冷めてしまう。
ミルで豆を手挽きしながら、他人の動きに最適化されたキッチンを眺めた。
プライベートなスペースに入り込まれることをシキは厭った。狭量や臆病ゆえでは勿論ない。気配に敏いシキにとっては、普通の人間にとっては感じ取れない程度のそれが、騒音と大差なく鬱陶しいらしい。アキラだけが、唯一の例外だった。
同じベッドで眠るようになったのはいつからだったろうか、とアキラは思い出そうとする。瞳が隠されると急に人形めく、その寝顔を目にしたことがあるのはきっと自分だけだろう。戦地では眠り浅く周囲の気配に常に神経を向けるシキが、屋敷では自分を傍に置いたまま、稀にではあるが深い眠りに落ちもする。
だがそれは、屋敷の敷地内に誰もいなければの話だった。シキが毎日未明に一度目を覚ますのを、アキラは知っている。しばらくするとそれが何のせいなのか、アキラにも分かるようになる。使用人の中でも最も早くに屋敷に入る料理人の小さな足音が聞こえるのだ。それ以降、シキは半分覚醒したような状態で、目だけは閉じて朝を迎える。
シキ本人は、別段それを気にするのでもなかった。元々それほど睡眠が必要なたちでなく、ニコルに適合してからは尚更らしかった。だがアキラとしては時折、できるなら普通に、何にも邪魔させることなく眠らせたいなどと思うことがある。本人がそれを欲していない以上、ただのエゴだとは理解していたから、それはいつも頭の隅にあるだけの、些細な願いだ。
だがこの整えられた部屋を見るたびに、アキラは心のどこかが打ちのめされるのを感じる。鍋やフライパンの類は整然と吊るされ、干された布巾や立てかけられたまな板は真っ白だ。ホルダーに刺すように並べられたナイフは、研いだ直後の刀のような輝き方をしているに違いなかった。キッチンというよりも厨房という言葉が似合うかもしれない。実際今目の前にしているコンロも、最大火力は一般家庭にあるものよりもだいぶ強かった。この部屋はここで暮らすたったふたりの人間に食事を提供するためだけに整えられた、料理を生業とする職人の仕事場だ。
シキの身の回りのことを、全て自分ひとりでやってのけるのはどう考えても不可能だった。重々承知しているはずのその事実を、改めてまざまざと見せつけられてはっとする。
ため息を付きながら、戸棚を開く。重めの濃いコーヒーに合わせて、やや厚めで口当たりの柔らかいカップを2つ選んだ。次いでガラス製のサーバーとドリッパーを一揃い調理台の上に並べる。
沸騰前の湯を硝子器の底に注ぎながら、気分が沈んでいくのを感じた。そうして今朝から何度も繰り返している、気の重い思索に辿り着く。
──謝らなければ。
妙な薬を飲まされて、到底許されざる言葉を幾度も口にしたのは昨夜のことだ。
失態と不敬を謝罪しなければならない。
あんなふうに正体を失ったことを思い出せば赤面するほど恥じいるのではあった。興奮のあまり考えなしに物を言うのは、成熟した人間のすることではない。
だが。
その内容について考える時、どうしても引っかかるものがあるのだ。
シキの意地の悪さにはもう慣れた。自分の性格についてあれこれやこれやと取り沙汰されるのも耐えられる。だが、他者との関係、体のそれを促すようなことを言われるのだけは、本当に腹の底から我慢がならない。
一部のNicoleキャリアーが、非Nicoleである自分に対して欲望を抱くことは身をもって知っているし、そういった兵を何度も片付けてきた。だが切り捨てることに慣れはしても、性的な関心を持って、時に食欲の対象として見られることには慣れない。怖気が走る。
失態を犯した手前どうこう言える立場でないのは理解している。もちろん、シキも本気で言っているのではないだろう。それにしても気分が悪いのだ。いとも簡単に、からかうように口にされれば尚のことだった。けして言っても詮ない一言を、言ってしまいそうになる。貴方にとって俺はなんですか、と。
しゅん、とケトルの注ぎ口から蒸気が上がって、アキラは意識を引き戻された。熱を逃がすために蓋を外すと、真っ白な水蒸気が立ち上る。
所有者と所有物。結局はそこに落ち着くしかない。自虐や否定的な意味ではなく、他の言葉で関係を表現しようがないのだ。アキラ自身にも。他にどんな名前をつけたところで、立ち上がるのは違和感に違いなかった。だから問うことも出来ない。
細く長く息を吐きる。ほんの少し気を取り直した。粉砕した豆を予め熱湯で濡らしたフィルターに移してならす。湯が適温に冷めるのを待ってから、最新の注意を払って少量の湯を落した。粉がふつふつと膨らんでいく。芳しい香りの甘いトップノートはモカだ。次いでやや重みのある華やかなグァテマラの香り。サーバーに黒い水滴が、雨の最初の一滴のように落ちる。
──もしあの雨の日、廃墟であったトシマの最後の日、シキに選ばれなければ。軍に伴われなければ。
ふと、昨夜向けられた問いが蘇る。
反乱軍にでも入っていだただろうと、シキは言った。
違いない、とアキラは思う。
あのまま放逐されたとして、シキのことを忘れて暮らすなど到底不可能だったろう。
あんなふうにプライドを粉々にされて。存在を、剥き出しにされた本能にも、体にも深々と刻み込まれて。
だがそれはきっと、屈辱を雪ぐためではなかった。そのほうがシキの目に留まる可能性が高いからだ。他の者と同じように追従するよりも格段に。そうしてなんとしても再び見えようとしたはずだった。自分の中にある、強い感情の正体を確かめるために。
けれど、もし。
ドーム型に膨らみきった豆の上に、更に湯を注いでいく。たたたたと音をたててコーヒーがサーバーに溜まっていくのを眺めながら、アキラは思考に逆説の接続詞をつける。
もしも再会したシキが、自分のことなど覚えていなかったら。価値なきものを見る目で見たら。あるいは、シキが他の誰かを傍に選んでいたら、きっと自分は──。
最後の数滴を落としきらずに、ドリッパーを外してサーバーから暖めたカップにコーヒーを注ぐと、アキラは何かから目を逸らすようにキッチンを後にする。

【庭】

庭に張り出したテラスには、頭上のほとんどを覆う硝子の天窓から、冬の真昼の雲を透かして白い光が降りていた。
テーブルの上に重ねられた本の横にソーサーを置き、そこにコーヒーカップを乗せて、アキラは躊躇った後椅子に浅く腰掛ける。手にしたままの自分のカップの中で、淹れたばかりのコーヒーが湯気を立てて黒々と揺れるのを、ほとんど俯くようにして見下ろした。
シキはこちらに視線をくれることなく、組んだ長い足の上に乗せた本を眺める体で読み続けている。だが程なく、ページをめくる音を衣擦れの音が追って、テーブルからコーヒーが攫われていった。
「検査はどうだった」
わずかに深く椅子に座り直したところへ、カップの縁から離れた形の良い唇が低い声を発する。眼差しは紙面に落とされたままだ。
問われたのは、今日の午前中に研究所に向かった件だった。非ニコルの保菌者としての定期健診に合わせて、飲まされた正体不明の薬物の影響についても、一応の大事を取った検査をした。
「問題ありませんでした。──閣下」
アキラは無意識に息を深く吸いこむ。
昨夜のことを謝罪しなければならない。礼を失したと、そんな表現では片付けられないような言葉をぶつけてしまった。酒に酔ったり自白剤のたぐいを打たれた時ですら、あんな醜態を晒したことはない。それが何故と、今更後悔してもせんなかった。
「申し訳ありませんでした、その、」
「構わん。珍しいものが見れた。──頑是無い子供のようだったな。久しぶりに昔を思い出した。お前を、拾った時のことだ」
謝罪を遮ってページをめくる横顔を、アキラは言葉をなくして見つめた。笑みを刻んだ唇が奏でる低い声は、なめらかな抑揚にどこか歌うようにも聞こえる。
「あの頃も、随分と憎まれ口をきいた。躾のなっていない犬のようだった。それでも、逃げ出すことを選ばなかったな、お前は」
「それは、……」
昨夜を、そしてそれよりずっと古い記憶を瞼の裏に蘇らせるように、僅かの間閉じていた瞳を開いて、シキは視線を滑らせてこちらをひたりと見据えた。
「何のためだった。復讐か──それとも、恐怖か。そうは見えなかったが」
知れず、アキラは喘ぐように空気を呑む。それから、少しばかり無理をして喉を開き、声を出した。
「逃げられなかった、だけです。貴方は必ず追ってきて、その時こそ殺されると思った。ただ、……単純な恐怖とは、少し違ったかも、知れません」
「では何だ」
咄嗟には答えられなかった。あの日──雨が降りしきる路地を透かした硝子に、あるいはシーツの隙間に、繰り返した自問自答にも結局答えはもたらされなかった。
部屋に鍵が掛けられていないことを知りながら逃げ出せない理由を、自分を縛り付けるよくわからないなにか強い力を、何と呼べばいいのか。
「……貴方がそんなことを訊くのは、珍しい」
あの日と同じように言葉で説明することを諦めて、アキラはコーヒーの黒い水面に視線を落とす。それをシキは小さく笑って膝の書物のページを繰った。
「そうかもしれんな」
それ以上の追求はなかった。それはとてもシキらしかった。今のような問いかけも、結局は戯れ、気紛れに違いなかった。こちらの都合や思惑など省みない。いつも酷く強引に、恐ろしいほどの力で奪っていく。置き去られたかに思えるアキラの感情は、いつの間にか軽い灰になって胸底の泥に同化する。だがそれは鬱屈とは違った。時折あまりの理不尽に燃え上がることはあっても、ほんの短い間だ。強い感情を長時間持ち続けるのが、アキラは得手ではなかった。昔から、情動はどこか他人ごとのように日々の上を過っていくだけだ。
その一方で心臓の中に留まり続けるものも確かにあった。それは例えば忠誠や恭順、畏敬、そういったものとしてアキラの行動に現れた。ほとんどの感情が流れ去っていく中でそれだけがけして揺らがない。だがその芯にあるものを見極めようとすると、いつも目や脳髄のほうが揺らいで溶けそうになる。
「……きっと、こうなることに、どこかで気付いていたんでしょう」
小さく呟きを漏らす。
シキはしならせた形の良い唇を、ゆっくりとコーヒーカップの縁に乗せた。
「お前をあのまま放逐していたら、──軍に伴わず置き去りにしていたらと、考えた。それはそれで退屈はしなかっただろう、とな」
ひや、と冬の冷気が首のあたりを撫でた気がして、アキラは白い横顔の向こうがわを見やった。サンルームの磨き上げられた硝子の外に広がるのは冬の庭だ。他の季節のように華々しくはないが、沈黙と静止に支配されたような景色は、独特の雰囲気を持っている。朝方うっすらと木々を化粧していた雪は既に溶けていた。灰色の裸の木肌を晒した広葉樹と、色をいっそう濃くした常緑樹の深い緑色。その中に幾度も屈折しながら伸びるごつごつとした枝を晒しているのは梅だ。遠目には蕾の姿は見えない。だが室内の暖かな空気の隙間を縫うように、青錆びて凍りつく枝が隠した花の香が一瞬、冷気とともに過ったような気がした。芳しいが、不穏な香りだった。書物に視線を落としたままの白皙に焦点を戻したが、その表情は窺い知れない。
吸い込んだ空気に肺を内側からざらりと撫でられたような感触に、アキラはさり気なく立ち上がった。手にしたカップの中で、飲み残した黒い液体が冷たくなりきらぬまま揺れている。
「城か」
「はい。催事の設営が」
いつも通りの声を強いて装う。普段から抑揚の少ない喋り方をする方だったから、感情を隠すのに苦労をした覚えはなかった。だがそれは、相手がシキでなければの話だ。
「アキラ」
「何か」
どく、と心臓が一拍、大きく鳴る。
「つまらん嘘はつくな」
自らの顔が明らかに強張るのを感じた。シキは相変わらず本のページに視線を落としたまま、こちらの顔色を察したように鼻を鳴らした。形の良い指がページを繰る、かそけき音がひどく大きく聞こえる。だが次の一言で、緊張は一瞬にして溶けた。
「検査結果のことだ。熱があるんだろう」
そんなことか。そんな、取るに足らない話か。内心安堵の溜息をつきながら、いつもより多少潤んでいるように見える視界を瞬かせる。
「……ただの風邪です」
熱と言っても、微熱に近かった。動けないほどではない。ぼうっとして体が重い気がする、その程度の。
ただたしかに、少しだけ、気が弱っているような気もした。シキの傍にいない自分、シキに手放された自分。ありえない仮定と、実現しなかった未来に囚われそうになっているのもきっと、そのせいだ。一晩眠れば忘れる、そういった種類の不良。形に、声に、答えにしなければ明日には思い出せない程度の。アキラはそう結論づける。
だが。
ふと何気ない素振りで顔を上げたシキが、赤い瞳でアキラの瞳を縫い止めた。鮮やかな色に目の奥が鋭く痛んで、アキラは息を詰まらせる。酷く美しい笑みを浮かべて、残酷なまでに優しい声で、目を逸らそうとしていた事実を形にされてしまうのだと、一瞬にして悟った。
「憎んでいたか」
不可視の手のひらに心臓を掴まれた。そうされてしまえば、嘘や逃げはけして通用しないのだった。裸の思考を、心を手に取られて分解され眺められているのと違わなかった。
それは苦痛だった。同時に、快楽でもあった。
「もし俺がお前を選ばず、捨て置いたなら」
アキラは答えない。やがてわずかに震えた唇を引き結ぶと、重い瞬きをした。そうして再び瞳を顕にした時、それは酷く無防備に底を晒す、凪いだ冬の湖の色をしていた。答がほしいならばご随意に、と、灰青の瞳は音のない声でそっと呟く。いつもの様に見透かして、強引に奪いとっていけばいい。
暫くの間シキはアキラを見つめていたが、口の端から息を漏らすようにして笑うと視線からアキラを自由にした。シキが何をどれだけ読み取ったのか、それに満足したのかそれとも不満だったのか、アキラにはわからなかった。ただ、今すぐ、自分のすべてがシキの手の中にあることを確かめたい衝動に駆られた。
空になったコーヒーカップがソーサーに戻されて硬い音をたてる。シキは読書に戻り、もう顔を上げなかった。アキラも従僕の仕事に立ち返る。軽く会釈して背を向ける前に目に入った冬の庭には、花びらに似た白い雪がすべてを覆うように降り始めていた。

【寝室】

倒れこむというよりは、落ちる感覚に近かった。
体の下にあるのが羽毛の詰まった掛布ではなく、ゆっくりと渦巻くどろりとした液体のように感じられる。まるで体が回りながらどこかに吸い込まれようとしているようだと、自室のベッドの上でアキラは思った。
頭の中にけたたましい鐘の音に似た頭痛が起こり始めたのは屋敷を出た頃だった。誤魔化し誤魔化し、留守にした間に溜まった仕事を片付けたものの、日が沈む頃には寒気と関節痛に襲われた。症状が一気に悪化したのはそれから退庁時間までの数時間だ。朦朧としながら雨に濡れた窓に頭をもたれている自分を発見したのは、屋敷への帰路につく車中でだった。どうやって乗ったのか、そして降りたのか、もう記憶になかった。屋敷のエントランスや階段を登ったのも覚えていない。うっかり自室ではなくシキの私室に向かいかけて、ドアノブに手をかけた後にはっとして踵を返したところまで、体感時間は一瞬だ。
氷の塊に似た寒気が背中の神経を傷つけながら這いまわっている。吐き出す息だけがやたらと熱をもって感じられた。重い頭痛に耐えかねて一度目を閉じてしまえば、何かに圧迫されているように再び開くことが困難になった。
情けなくて涙が出そうだったが、その感情すら泥のような悪寒と目眩と重みのある怠さの渦に吸い込まれていく。
ベッドに倒れ込んだことを後悔していた。先にシキに一声断ればよかったと思う。帰宅の挨拶すらしていない。着替えどころか、コートも身につけたままだ。荷物はどこにやったろう。ああそうだ、サーベルや小銃がまだ腰だ。これだけは外しておかなければ……。
かろうじて思い至って腕を動かしたとき、意識は夢の中に溶け落ちた。
灰色の夢だった。雨の降る路地で、何かから逃げていた。
ぞるぞると嫌な音をたてて追いかけてくるのはヘドロの塊で、血走ったぎらつく目と嫌な匂いのする荒い息を吐いていた。逃げようとしているのに足はもつれてうまく動かない。雨が重いのだ。水を吸った衣類がどんどん重くなって、最後には追いつかれて地面に引きずり倒された。
サーベルを取り落として、焦りながら手を伸ばす。刃は表面に雨粒を弾いて、穢れのない怜悧さを宿していた。だが、あと少しで届かない。心臓は全力疾走して、背中には雨と共に嫌な汗が幾筋も流れた。泥人形に足を掴まれ、そうと気付いた時には足の間に入り込むようにして伸し掛かられる。濁った目がこちらを見下ろしていた。開かれた赤黒い口の中で糸を引いている唾液が見える。強い吐き気と嫌悪感が湧き上がった。恐慌をきたしかけた瞬間、指先がサーベルに触れた。縋るように掴みとる。これさえあれば。けれど次の瞬間、手の中にあるのが武器の柄などではないとアキラは気付いた。握り返す手のひらだ。びくりとしてそちらに目を向ける。
ごとり、と音がした。地面に人の頭が打ち付けられた音だった。胴体の方はすぐ傍で化け物にまるで造作なく開かれ、血を啜られていた。もがれた首が、どういう仕組みか勝手にごろりと転がってくる。濡れた灰色の髪に覆われたその顔は──
「……ラ。アキラ。手を離せ」
いつの間にか切り替わった視界を、アキラは朦朧としながら眺めた。自分を見下ろす紅玉の瞳と白磁の肌で成る整った造形は、それはそれで現実離れしていた。廊下からの明かりが頼りの自室であると、認めるのに少し時間がかかった。
「アキラ」
再び名を呼ばれる。表情を宿さない赤い瞳が、長い睫毛を揺らすように瞬きするのを見て、ふ、と体から力が抜けた。見計らったかのように、握りしめていたサーベルを指を開くようにして取り上げられ、その傍に吊っていた小銃も外される。
ぐったりとした体から器用にコートや軍服の上着が剥ぎとられていくのを、ぼんやりと感じた。思考やあらゆる感覚が、なにか厚い布に包まれたかのようにぼやけて輪郭を曖昧にしている。抱き上げられると急に心もとなさに襲われて、ベッドの上に残されたままのサーベルに手を伸ばした。たった今よくわからないものに追いかけられたばかりなのだ。低い笑みの気配とともに視界が低くなった。柄と鞘を同時に掴むようにして引き寄せる。自分の武器。見慣れた刀と同じ色をした刃の。
腕に抱かれたまま部屋を後にする。水の中を移動しているようだと思った。連れて行かれたのはシキの私室の一番奥、つまりいつも寝起きしている見慣れたベッドだった。静かに降ろされたあと、重ねた枕をクッション代わりに背に当てるようにして半身を起こされる。 腕の中からサーベルが持って行かれそうになって一瞬眉間に皺を寄せたが、いつも通り枕元の刀掛けに置くだけだと気付くと素直に手を放した。
代わりに差し出されたグラスを受け取り、促されるままに何錠かの錠剤と粉薬を飲んだ。それを見届けると、シキはアキラの額に触れ、それからずらした手のひらで青い双眸を覆った。
「眠れ」
次に目覚めた時には寒気と頭痛は消えていたが、終わらない低い耳鳴りの中にいるような感覚は続いていた。
首を巡らすと、それだけで関節が傷んだ。軽い羽毛の詰まった掛布の下だというのに、身動ぎするのがひどく辛い。結局眼球だけをのろのろと動かした。
壁に跳ね返る間接照明の光が淡く部屋を包んでいる。無意識に探した姿は、ベッドの傍らに配置されたソファーセットにあった。普段軍服の下に着ている物よりも肌当たりの柔らかい素材で出来たシャツに、肩に羽織っただけのカーディガン。部屋着姿だった。手元を照らす読書灯に照らされているのは、封の切られた書簡がいくつか。そのとなりには半ばまで透明な酒の満ちたロックグラスが並んでいた。
その白い横顔を声もなく見つめている間に、暖かな体温を持った眠気がするりと懐に入り込んでくる。再び引きずり込まれるようにして目を閉じた。濃い泥の中に絡め取られるような眠りから浮き上がるたびに、アキラはシキの姿を求めて視線を彷徨わせ、その横顔を視界に収めながら眠りに落ちた。紙の擦れる音、グラスがテーブルに置かれる音、氷がひび割れる微かな澄んだ音。その気配は、熱がもたらす不快な夢との繋がりを断ち切った。
未明、意識がそれまでよりも明瞭に覚醒したとき、明かりはすべて落とされ、室内は紺色の静寂の中に沈んでいた。ベッドの白い掛布に、窓の外を降る雪の影がちらちらと映りこんでいる。
シキの姿がない。
関節痛と僅かな目眩をこらえて体を起こす。まだ熱っぽい感じは残っていたが、神経の枝の上を寒気が這い回るような感触や、起き上がれないほどの体の重さは少なくなっていた。ベッドヘッドには半分ほどに減った水差しとグラスが置かれている。薬を飲まされた記憶がうっすらと蘇った。その隣、刀掛けに、自らのサーベルとシキの日本刀が並んでいるのを見て知らず息をつく。体の一部のように刀を持ち歩く主であれば、そう遠くへ行ってはいないはずだった。
「──どうした」
案の定シキはバスルームへと続く扉を開けて現れ、アキラが体を起こしているのに気付くと目を細めた。
「また悪い夢でも見たか」
──また?
たしかに幾度か嫌な夢は見たが、それをシキに伝えただろうか。アキラはぼんやりと考える。記憶はなかった。 ベッドの傍らに立ったシキの、形の良い白い指が額に触れた。ひやりと冷たく心地良く、思わず目を細めてその感触を味わう。はっとして目を見開いたのは、シキの指に温度が移ってからだった。
「──、戻ります」
「何処に行く」
無理やり体を動かしベッドから出ようとしたところを、ニの腕を掴まれて眉を顰める。そう強い力ではないはずだのに、走った痛みは熱で神経が過敏になっているせいだった。少し身動ぎするたびに、その方向に視界が大きくぶれた。景色がゆらゆらと歪んでいる。
「……自室へ」
「何故だ」
「貴方に感染ったら、まずい」
今の時点で既に充分、問題だった。自分が横になっていたのと同じベッドにシキを寝かせたくなかった。風邪をひく所を見たことはなかったが、自分とてここまでひどくなったのは数年ぶりだ。可能性がなくはない。
やがて軽いため息の音とともに、視界がぐらりと傾いだ。背中に柔らかな衝撃があり、脳を揺らす目眩の末に、自分がベッドに投げ出されたのだと気付いた。
「お前をここに運んだのは俺だ」
トン、と胸に軽い衝撃が落ちる。起き上がろうとするのを阻むように肋骨の間に置かれたのは、いつの間にか刀掛けから主の手中に戻った黒い刀の鞘尻だった。
アキラが短い息を吐いて体を起こすのを諦め腕から力を抜くと、シキは唇にかすかな笑みを刷いて、片手に刀を提げたまま離れていった。
おずおずと掛布をたぐり寄せる。枕に頭をつけると、そのまま暗い穴に沈んでいくような感触がした。平衡感覚が完全にやられている。重い瞼を持ち上げると、嵌殺しの硝子窓に降りしきる雪、ソファには戻らずにベッドの足元に腰掛けたシキの背中と、その胸の前に持ち上げられた刀の影が見えた。
氷を擦り合わせるような音とともに、鞘から刃が引き抜かれる。黒い地肌は闇に溶け、白い刃紋だけが雪影に浮かび上がった。昨夜嗅いだ血臭を思い出す。久方振りに総帥その人が刀を振るった話は、昼間のうちに耳にした。この国の王が現れた瞬間、夜会は水を打ったように静まり返ったのだそうだ。誰一人身動きすら取れずに固唾をのむ中、ひと一人の首が落とされたが、黒い影が優雅な歩みでその場を去っても、暫くは悲鳴ひとつ上がらなかったという。シキが多少なりと怒りを隠さずに歩けば、そうなることも容易に想像できた。
目線の高さまで持ち上げた刃を見分するその横顔は、人の目を惹きつけながらも、同時に触れれば肌を裂く鋭い痛みを予感させるという意味で愛刀とよく似ている。だがきっと、その刃が肌に触れる瞬間感じるのは、斬られる痛みではなく引き寄せられ溶かされるような感触だろうと、アキラは夢想した。彼の主がふるう刀はまるで衝撃を感じさせない滑らかさであったので。
雪山の稜線を思わせる鼻梁、長い睫毛に縁取られた瞼に、半ば隠された赤い瞳。その横顔を眺めながら、アキラは言葉が胸の奥で溶けて口から流れ出すのを感じた。
「……時々……、貴方の何として、傍にいればいいのかわからなくなる」
主は刃からほんの少しの間だけこちらに視線を流すと、嘲笑に鼻を鳴らして再び刃の先に赤い瞳を戻した。
「ならばお前は自分をなんだと思ってここにいる」
それは時折アキラ自身の内から湧き上がる問いかけの声とよく似ていた。もしかしたらシキも、同じことを考えたことがあるのかもしれなかった。
「所有物、と」
これも繰り返した答えだ。何度も。時に迷った末の妥協点として、あるいは正しい答えを見つけることに対する諦めとともに。 シキはふ、と口元を緩ませると、そうだなと殆ど独り言のように呟く。空気を切る音をたてて、刀の切っ先が弧を描く。
「──手入れ程度は、どうという手間でもない」
流れるような動作で刃は鞘の中に戻された。
刀を片手に提げて立ち上がった背の高い影が、雪の舞う窓の前を横切る。
「お前は俺のものだ」
再びソファに身を沈めながら零された囁きは、アキラが初めてそれを宣言された時とは温度を違えていた。かつて押さえつけるような威圧とともに放った言葉を、今ではグラスに残っていた酒を含む傍らに、まるで事も無げに口にする。支配者の尊大さと王の傲慢、そして僅かには、飼い主の慈しみすら垣間見せながら。かちりと小さな音とともに、読書灯が灯された。
それきり部屋には沈黙が満ちる。アキラは深い、溜息にも似た息を密かに吐いた。喉の奥が温かかった。目を閉じると、外に降りしきる雪の音さえ聞こえてくるような気がした。ぐらりと体が傾いて、底のない昏い海に落ちていくような錯覚に襲われる。けれどそれはもう不快ではなかった。
そうして闇の中に、実際には存在し得なかったもうひとりの自分の姿を思い描く。シキの命を求めて廃墟の街を渡り歩き、ビルの合間の暗がりを縫って生きたなら、どんな気分だったろうか。きっと自分は、シキのそれに似た刀を手にしていただろう。かつて紫の目の男を追ってトシマの街を支配した、その姿をなぞるように。
あの刃の前に命を掛けて相対できることに、ちらりと羨望を抱いた。だがそれは、何にせよけして有り得ない話なのだ。
どこか安堵しながら、アキラは瞼の裏側に広がった暖かな黒色の中に、感覚をそっと投げ出した。

end.

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