after that

 車から降り屋敷林を抜ける間中、アキラは唇を引き結んでむっつりと黙り込んでいた。
 帝都として復興したトシマの明かりを鈍く反射する雲は厚く、雪を降らせる時特有のどこか赤みを帯びた色をしている。風にコートの裾を翻しながら屋敷の扉を開けると、エントランスには空腹でなくとも思わず食欲を覚えるような香りが満ちていた。帰宅に合わせて夕食が用意されたところらしい。だがシキはダイニングに向かおうとはせず、そのまま私室に直行した。荷物を持ったアキラもその背後に続く。
 辿り着いた部屋の扉を閉め、暗闇に壁の裏に隠され天井で反射する間接照明の光を灯す。冬の嵐に揺れる木の枝が時折飾り格子の窓をひっかいて、神経に触る嫌な音を立てていた。
「いつまでむくれているつもりだ」
カーテンを閉めてから、主の背後に回って外套に手をかけたところに問いかけられても、アキラは鉄面皮をぴくりとも動かさず、口を開こうとしなかった。
 車に乗って暫くのうちはまだ、恨み言を言いもした。だがシキはそれをひとつひとつ丁寧に、いつもの意地の悪さで煙に巻いていった。結果、アキラは完全にへそを曲げている。
 外套を引き取った次は軍服の上だった。明かりは室内からでないと点けられないが、空調は屋敷のコントロールからも操作できる。一時間ほど前に帰宅の連絡をしていたため、部屋は既に暖かかった。
 シキの正面に回り、釦に指をかける。内側に留めてある飾緒も外してから、再び背後に戻って肩から上着を滑り落とした。もう一度正面、次はタイを外す。それらを流れるような動作でやってのけたアキラは、憮然とした様子を興がって見下ろす赤い瞳には、一度として視線を合わせることをしなかった。
 シキは笑みを浮かべたまま、それ以上何も言わずに奥の部屋のソファーに向かう。その背後で、引き取った外套は入口近くにある隠しのクローゼットの内側へ、軍服とタイは後のことを考えてハンガーにかけて外側に吊るした。明日の朝使用人に引き渡す前に、簡単にブラシをかけながら急を要する汚れがないかを確認して、型崩れを避けるために畳んで箪笥にしまうためだ。
 クローゼットから出しておいた内履きを手にシキの後を追う。ソファに腰を下ろした主の前に膝をつくと、そのブーツの紐をゆるめにかかった。持ち上げた長い足の先を内履きにおろすアキラのうなじに、シキは頬杖をついたまま赤い瞳を細めて問いかける。
「次はどこを脱がす?」
「──どこも。俺はこれで自室に下がらせていただきます」
酷く平坦な、均された鉄の表面のように冷たく硬い声音で返した。相変わらず視線はけして合わせない。
「アキラ」
「なんです」
「折角の休みを意地を張って無駄にするつもりか」
「──」
ぴくり、と、眉根が動く。表情はほとんど変わらないが、たしかにその感情が揺さぶられたことを、深まった眉間の皺が示していた。
 先に人をからかったのはシキの方だ。まるでいつまでも機嫌を悪くしている方が大人げないとでも言うように、たしなめるような言葉をかけられれば苛立ちはいや増した。
「アキラ」
そこに更に、聞き分けない子供を笑う声で名を呼ばれて、アキラの我慢は臨界点を超える。
「──ッ誰のせいで……っ」
腹を立てていると思ってらっしゃる。
 続けようとした言葉は、しかしこれまでついぞ聞いたことのない言葉によって遮られる。
「許せ」
それは明らかな命令でありながら、だが確かに謝罪の言葉だった。
 一瞬の間の後、うっかりとアキラは見開いた目を上げてしまう。そうして赤い瞳に眼差しを絡め取られた。しまったと、思ったけれどもう遅い。
「……ッ」
「来い」
視線を合わせたまま、その命令を拒めるわけがなかった。アキラの足は自らの意思でそうしようとする前に動き出す。そうと気付いた時には立ち上がり、膝がぶつかりそうな距離でシキを見下ろしていた。 
 うるさくない程度に落とされた明かりの中で、赤い瞳は常の苛烈さを潜め、鮮やかというよりは深みのある色合いをたたえていた。年数を重ねた洋酒に赤みを足したらこんな色になるだろう。甘く、苦く、体の内側を灼く色だ。
 先ほどまで耳障りに感じて神経を逆撫でていたはずの、外を吹き荒れはじめた冬の嵐が窓を鳴らす音を、どこか遠くに聞いていた。
「──機嫌は治ったか」
やがて重ねられた声にアキラは顔をこわばらせ、それから深い溜息をつく。
「……貴方らしくない」
「そんなに意外か」
シキは頬杖を解いて、顎を上げるようにして見上げながらアキラに手を伸ばしてくる。
「確かに、人に許しを乞うのは初めてかもしれんな」
形のいい指が頬に触れても、アキラは動かずにいた。白手袋は既に外され、テーブルの上に重ねられている。所々厚く硬くなった皮膚を持つ手のひらは、けれど想像以上に滑らかだ。アキラの手も、ナイフやサーベルを扱い始めて一年ほどは何度も皮が破けて白手袋に引っかかったが、それを過ぎてしまえば表面はなめらかになった。
「どうする。まだ、自室に篭るつもりか」
暫くの間何も答えずに主の顔を見下ろしていたアキラが、静かに頬の手に自らのそれを添えた。
「──今日は随分と狡いやり方ばかり選ぶ」
「気に食わんか」
「ご随意に。どうせ俺は貴方の思い通りになるんでしょう。そうやって逃げ道を潰すようなやり方を、美しいと思うかどうかは別ですが、……!」
珍しく饒舌に所有者を詰りながら、頬の手を引きはがそうとしたのを、逆に掴まれて強く引き寄せられる。アキラは膝でソファーに乗り上げ、見開いた目で至近距離のシキの顔を見下ろした。
「そう思うか」
「……何がです」
「俺がお前を好きに動かしていると」
「……。現にこうして──……」
捕まえたままのアキラの手を、シキは口元に持っていく。そして普段従僕がそうするように、繊細なものを扱う時の丁重さで手の甲に口付けた。
「……これまでさんざ人の思惑を外れておいて、それか。はねっかえりが言ってくれるものだな」
「──!」
シキの唇に触れている指先が、言葉を紡ぐその動きを酷く敏感に拾い上げる。
「お前だけだ」
低くかすれる甘い声にどく、と心臓が大きく音をたてて、動きを早くした。
「そうやって、俺に噛み付くのは」
まるで睦言を呟くようなシキの声に、身動きがとれなくなる。
 憤りや苛立ちはなにか違う感情に塗り替えられて、走りだす心臓のはるか後方に置き去られる。
 いけない、と、頭のどこかが警告を発した。外を吹きすさぶ風の声が一時、煩くなる。窓に礫が打ち付けられるような音が次々に響いた。雹だ。だが室内に隙間風が入り込むことなどなかったし、飾り格子に守られた窓は氷の塊程度ではびくともしない。数秒の騒がしさの後、音は段々と軽くなっていき、ついに静けさが訪れた。
 僅かに湧いた悔しさに、くしゃりと顔を歪めて──それから、アキラは誘いに抗いきれずに、ゆるくタイを引くシキの上に屈みこむようにして、笑みを刻んだ唇に自らのそれを重ねる。
「……ふ、」
薄く見えるシキの唇は、自らのそれを触れ合わせ食まれた時に、急に立体感を持って重く感じられる。普段とは逆の体勢に少しだけ感じていた余裕は、あっという間に攫っていかれた。シキの動きはけして性急ではない。けれどいつもアキラを襲うのは喉元に喰らいつかれるような感覚だった。黒い髪に指を潜り込ませて頭を抱き込んでいるのはアキラの方だのに、熱い舌に息を、意識を奪われ口内を蹂躙されているのもまた、アキラだった。
 だが行為に没入していた意識を引き戻すものがあった。唇を開放されて、荒い呼吸でぼんやりとしたまま音の出元に視線をやる。すぐ傍のテーブルに置かれた、内線専用の電話機が鳴っていた。中断されたということは、通話を命じられているということだ。ソファに座るシキに乗り上げた姿勢のまま、アキラはそろりと受話器に手を伸ばす。
 料理を任せる使用人の声に、夕飯の意向を問われた。気付かぬうちに、帰宅前に告げた予定時間を過ぎてしまっていたらしい。
「──閣下の部屋へ、運んでくれ。扉まででいい。後は俺がやる。下膳もこちらでやるから今日はもういい。……ああ。それと、……っ」
するりと、シキの手のひらが軍服の下に入り込んだ。その感触にアキラは一瞬息を詰める。視線だけの抗議を、シキは笑って躱して釦に指をかけた。
「明日の朝食も、部屋に。……俺の? だから、……っ、部屋に……、……、」
部屋と言えばシキの私室を指すと思っていたのが、自室が存在したことを不意に思い出す。逡巡したところを鎖骨に歯を立てられて、びくりと肩を揺らした。見下ろせば既にワイシャツの半ばまで釦が外されている。
「自力で自室に戻れると言うなら、構わんぞ」
シキが意地悪く笑って、ゆるめるにとどめていたアキラのタイを引き抜きながら囁いた。
 アキラは数秒の間ののち、やがて諦めたように息を吐く。
「………………閣下の、部屋に」
すぐさま言い訳を続けようとしたところを、手の内から受話器が奪われた。ちりんという軽い音とともに受け座に戻されたそれを見つめて、アキラはしばしの間呆然とする。
 襟を引かれるようにして引き寄せられ声を封じられたのは、アキラが抗議を思いつくより僅かに早かった。

end.

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