月齢

00.85: 20X1年 春、日興連

 雨夜の路地は青い闇に沈んでいる。
 街灯の下でだけ、雨は幾つもの白く細い矢の姿を顕わにして、啜り泣くような音とともに人と街を濡らした。
「申し訳ありません。自分が付いていながら」
二つの傘の下で、ぐったりと力の抜けた身体が受渡される。灰色の髪の下に隠された土気色の顔は、闇の中で青みを帯びて死人のようだ。ただ、生きている証拠に、時折何事かを小さく呟いた。それがかつてトシマで彼を拾った時に、同じ路地に事切れていた男の名だと気付いて、シキは白い頬から更に表情を削ぎ落す。
「何か言っていたか」
「いえ。ほとんど黙ったまま、上の兵に飲まされていました。顔色すら変えないので……」
男は多少言い訳じみた口調で、いつの間にか潰れていたのだと説明した。
 新兵の歓迎会だった。正確には、初戦で生き残った新人を祝い、同時に多少の嫌がらせじみた洗礼を与え、同じ部隊員として受け入れる、そういった趣旨の酒の場だった。
 そこで、男が特別に監督を任せられた一人の新兵、アキラは、いつの間にか昏倒していた。頬を叩けばうっすらと端を赤く染めた瞼を震わせはするので、病院に担ぎ込む程のことではない。だが、何かあれば小さな事でも報告しろと指示されていた手前、命令の主であるシキに電話を入れたのだった。 会がお開きになると周囲の目を盗み、ほとんど意識のないアキラを指示された場所に運んだ。程なく美貌の軍人は現れた。現在Nicoleウイルスによってもたらされる利益と、何よりその実力によって階級を駆け上がっているシキを個人的に信奉する者は、着実に数を増やしている。男もその内の一人だった。
「預かる。行け」
「は。失礼致します」
男は軍隊式の敬礼をした後踵を返す。その背中を横目に、二の腕を掴み引き上げるようにして支えたアキラの身体をシキは見下ろした。身長差が幸いしてその膝はゆるく折れるにとどまり、濡れた地面につくことはない。ほとんど意識がないものの、一応アスファルトに足の裏をつけていた。小さな舌打ちとともに歩き出せば、引きずられるようにではあるが左右交互に足を前に出しはした。
 アキラが意識らしきものを取り戻したのは、安宿のバスルームで放り投げられ、肩を壁に打ち付けた時だった。そこに至るまでに2度酒を吐いて、もう一度だけ、かつての幼馴染の名前を掠れた声で呟いた。だが本人は、暗い路地の隅で地面に張り付いていた、随分と古い日付の新聞紙の破片と、わだかまった濃い暗闇、それから喉を焼くアルコールと胃液の苦い不快感しか覚えてはいなかった。
 壁にぶつかった後は、よろけて水の張られていない浴槽に崩れ落ちた。膝をバスタブに引っかけたような状態で、上半身のほうが低い場所に来る。ただでさえ酔っている上に、血が上って頭がますます重くなった。ぐるぐる回る天井は煤けたクリーム色で、中心で蛍光灯らしきものが明滅している。そしてその光よりも強い色を宿して、赤い瞳が冷たく見下ろしていた。
「ひどい顔だな」
 声の直後、顔に冷えた衝撃があった。シャワーで水をかけられているのだと認識したのは、呼吸のできない苦しさに顔を背けてからだ。
「……やめっ、……!」
思いの外すぐに、水流による攻撃はやんだ。涙を流しながら盛大にむせていると、その息が整うより前に襟元を掴まれ引き上げられる。目の前に暗い赤があった。奥にはぜる狂気の熾火がひどく禍々しく、けれど綺麗だと、酔った頭が素直に思う。アルコールによって鈍った感覚は、普段ならば必死で睨みつけなければならないその瞳を、なんの努力もなくまっすぐに見つめさせた。まるで子供が、目の前で燃える炎や、怜悧な刃の切っ先に手を伸ばしてしまうように。綺麗だから、興味を引くから、それだけで、それが全てだった。目の前の光景が、処理落ちを起こした画面のように速度を変え角度を変える。その中で赤色だけが揺らがない。吸い込まれそうだった。
「腑抜けた顔を晒すなと、何度言わせれば気が済む」
前にもこんなことがあったなと、アキラはぼんやりと思い出した。吐き捨てられた言葉の意味に、口の端から笑い声になりきらない乾いた息を漏らす。腑抜けていたから、自分は拾われたんじゃないか。ここに居続けいるんじゃないか──離れられずに。男に支配され、組み敷かれて、その状況に甘んじていることは、どう考えてもまともな男のすることではない。
「そうでもなきゃ、こんなところに、いない……」
言い終わるが早いか、頬を張られた。バスタブに側頭がぶつかるが、まるで他人ごとのようだ。痛みはなかった。ただ衝撃はいつまでも頭蓋の中で反響して、視界の回転の速度を上げた。すぐには起き上がれずに、浴槽の底に足を引き寄せて、頭の中身がかき回されているような不快感に耐える。
「自虐か。俺の所有物がつまらん癖をつけるな」
落とされた低い声は、アキラの中で生ぬるい温度にぐにゃりとしていた部分を凍りつかせた。それは次の瞬間零下の炎をあげる。軋み続けるプライドが叫び声をあげた。俺はアンタのものじゃない、支配されて喜んだりしない。気付けば無理矢理に体を起こし、男に向かって拳を振り上げていた。
 だがシキの頬に当たる前に、左手は勢いをなくした。邪魔があったからではなかった。シキは拳を避けようとはしなかった。ただ奥に灼熱をたたえながらも、表面だけはひどく冷たいその視線でアキラを捉えた。眼球から流れこみ、脳を蹂躙し、臓腑を灼くその赤は、言いようのない熱となってアキラの身体の中で渦巻いた。ピアスが痛み、知らず口が、空気を求めるのと同じ動きをした。
 シキのもとに留まるのは、どうしようもなく離れられないのは、そこが安寧をもたらす場所だからではない。支配は甘美だった、けれどそれはアキラにとって安楽ではけしてなかった。痛むのはプライドと、そして、心臓に近しい場所にある何かだった。
「……自虐じゃ、ない」
殴る代わりに、それだけ呟いた。
 自らの頬の数センチ前で止まった拳を、シキは掴んだ。手のひらに包んだ体温は、まるで熱を出した子供のそれだ。
「──お前に許されているのは、この俺と共に進むことだけだ。言っただろう、この力ですべてを手に入れると。喪失など、」
続けて何事か言いかけて、しかしシキは口を閉ざした。その表情の抜け落ちた顔から、アキラは何も汲み取ることができなかった。ただその瞳の奥に、ちいさく何かがひらめいたような気がした、その時には、掴まれた腕を引かれて、目の前にワイシャツの胸があった。
「……また今夜のように過去に追いつかれてみろ。次はないぞ」
耳元にその言葉が届くやいなや、今度は逆に突き飛ばされる。再びバスタブと横付けにした壁に背中をぶつけて、視界が揺れた。歪めた顔を睨みつけるために上げれば視界が真っ白に染まる。それが投げつけられたタオルのせいだとは、遅れて気づいた。
「その顔を何とかするまで出てくるな」
「……シ、」
タオルの下から視界を取り戻したのと同時に、扉が閉じられる無機質な音が耳を打った。

08.12: 20X1年 初冬、日興連

 磨き上げられた鏡に、洗ったばかりの濡れた自分の顔が映り込んでいる。
 アルコールに揺れ始めた頭が少しだけはっきりした気分で、タオルに手を伸ばす。頬に触れる柔らかさに、快さよりも多少の居心地の悪さを感じながら水滴を拭った。
 間接照明が暖かく照らしだしたユニットバスは、アキラが知るビジネスホテルのそれよりも広い。勿論、かつてミカサにいた頃暮らしていた、殺風景な部屋に備え付けてあったものよりも。
 個室を出てリビング風の部屋を抜ける。抑えた色彩で統一された室内は品が良く、けして上等とは言いがたい暮らしをしてきたアキラでも気圧されることはなかった。それでも、ルームサービスで訪う従業員の、抑制された口調と慇懃な応対や、枕元に予め用意されていた寝酒用の洋酒の瓶とカットグラスの光の反射、上級将校の部屋にあったのと同じ意匠のソファー等には、充分に落ち着かない気分にさせられる。
 ベッドルームに足を踏み入れれば、嵌め殺しの大窓と相対する。硝子の向こうに、暗闇の中に明滅する赤と白のまばらな明かりが見えた。海に浮かぶ戦艦や、タンカーの放つ警告灯だ。二十年前、あるいはせめて数年前であれば、客船のきらびやかな光が海上を飾ることもあったのだろうが、今となってはその姿を目にすることはほとんどない。激しくなった内戦のためだった。結果、この控えめながら細かなところまで行き届いたしつらえの部屋は、夜になれば漆黒の窓という欠落を抱えるはめに陥っている。ただし、今夜は半月が白く浮かんでいた。
 アキラは窓際のソファに戻った。月のもう半分のような横顔を持つ男がわずかに視線を上げる。ただし纏っているのは、天上のそれよりもずっと冷たい刃に似た気配だ。組んだ足の上に乗せたノートパソコンの放つ光を受けて青白いその顔に、引き寄せられた視線を無理やり引き剥がした。
 テーブルの上には幾つかの酒瓶とロックグラス、溶け始めた氷のセットが並んでいる。酒はすべてリキュールだった。基本の四種、とシキは言った。好きに飲めとの言は、つまり味を覚えろということだ。当のシキはといえば、高い酒ではないがなと含みのある笑みを浮かべ、薄青い瓶のジンばかりを口にしている。
「どうした。大人しいな」
「別に、」
「割って飲めばいいだろう。向こうに用意してあったはずだ」
示された隣室の冷蔵庫を睨んでから、手元のロックグラスに視線を戻した。
「酔ってない」
「意地を張るな」
「意地なんか、」
思わず睨みつけた先で待ち受けていた、細められた赤い瞳に一瞬ひるむ。唇を引き結んで再び鋭い視線を向けた後、グラスに残っていた酒を煽った。溶けた氷で多少薄まった褐色の酒は、それでも喉を焼くに充分なアルコール度数を残している。
 わずかに眉をしかめたアキラに口の端を上げた後、シキは液晶に視線をもどした。
「お前の成績は聞いている。よくやっているようだな」
「……少しは」
珍しく素直に褒められて、居心地の悪さを感じながら水差しに手を伸ばす。前線を経験したのち、シキの計らいで准尉という階級を与えられたアキラは、現在は士官学校に出向していた。幼少時代を軍事教育に費やされ、まともな教育が施されなかった世代の人間が、高級軍人への道が約束された良家の子弟たちに混じって、実技ならともかく学科で優秀な成績を残す例は殆どない。それは基礎的な学力以前に、そもそも机の上で学ぶという習慣に対する不慣れが原因だ。
 そういった状況の中で、先ほどのアキラの返答は控えめというに余りある言葉で、級友が聞けばいっそ怒りを覚えたかも知れなかった。ただ、本人としては自力でそれをなしたという感覚がない。前線部隊から引き上げられた後、あてがわれた家庭教師に、士官学校に上る前の三ヶ月間、毎日朝から夕刻までみっちりと授業を受けたからだった。
 とはいえいくら頑張ったところで三ヶ月は三ヶ月で、本来ならば数年かけてしっかりとした教育を受けてきた人間に追いつけるはずもない。肩を並べるどころか頭ひとつ抜きん出るような成績を出したのは、やはりひとえにアキラの努力の結果だった。
 明確な目標を定めたアキラは強かった。生きることの意味を見いだせず、自分という人間の形を探ろうとせず、ただ漫然と日々を消費していた頃とは、明らかに心の有り様が変わっている。
「お前は俺が選んだ人間だ。それくらいやって貰わなければ困る」
「わかってる」
静かな高揚を青い瞳の奥に宿して、アキラは小さく頷いた。
 シキは鼻を鳴らしたが、常のような嘲る気配は薄く、むしろどこか面白がるような色を帯びている。グラスに口をつけると、再び瞳を伏せるようにして液晶に意識を戻し、時折音もなくキーボードに指を滑らせた。落ち着かない気分でアキラは新しい話題を探す。沈黙は苦でない方だと思っていたのに、今はなぜか耐えられなかった。
「──アンタには、使わなくていいのか」
「何だ」
「敬語」
「──そうだな。その方が習得は早いだろうな」
シキは視線を上げもせずに、アキラの頬に手を伸ばす。指先が触れた時に一度だけ、アキラは睫毛を揺らしたが、後は従順にされるがままになった。
 顎を、頬を、耳を、唇を、グローブ越しにも形の良い指がたどった。だがその手のひらが、見た目に反して武器を握る人間の硬さを伴っていることを知っている。
「……っシキ」
仕事の片手間に、指先で感触を弄んでいる風の男に、やや声を荒らげた。かと言ってその手をはねのけることもできないのだから、始末に終えないとは自分でも思う。
「なんだ」
「手、……落ち着かない」
「酔ったか」
「そういうことじゃない」
「ならば何だ」
問われればなんと答えたものか戸惑う。その指の動きに、シーツの間で肌を撫でられる感触を思い出すのだなどとは、口が裂けても言えるはずがなかった。
「水に、……溺れてるみたいで、……」
「嫌か」
何とかひねり出した答えは漠然としている。しかしその言わんとする所を、シキは正確に汲みとった。一瞥だけして口の端を上げ、再び視線を画面に戻す。
「前は、」
「今のことを訊いている」
先の言葉を切り捨てるように意地悪く問いを重ねれば、しかしその小さな悪意には既に気付けぬ風のアキラが、乞うような眼差しを向けてきた。
「──言葉遣いなどというのは、結局場を読み最適を選択する機転だ」
「……意味が、わからない……」
犬にするように喉を撫で上げる。震えた顎を捕えてようやくまともに目を合わせれば、潤みはじめた青い瞳は目の端に色を滲ませた。
「今この状況で、お前が言うべき言葉は何だ」
「……っ」
小指でするりと、首筋を撫でてやれば肩を揺らす。
「わからな……」
「わかりません、だろう」
シキは静かに端末を閉じて、満足気に艶然と笑った。
「手のかかる犬だ」

14.98: 20X5年 晩夏、統一ニホン

「今のお前なら、なんと答える」
満ちた月の光が、海面で幾千のかけらになって揺れている。
 深夜も近い時間である。地方機関の視察のために、かつての日興連本部の所在地を訪れていた。夜に催された会食会とそれに続く酒の場は、勤務地の違う兵同士の砕けた情報交換や交流の場も兼ねていたため、トップ二人は割合早めに退席した。
 宿は広い庭を擁した数寄屋造りの旅館に用意されていた。個室に引き上げてから、土地の酒を少しやったのち、満月とちょっとした気配に誘われたシキに付き添って、ほど近い港に散策に出たのだった。
 倉庫が立ち並ぶ埠頭からは、数年前ホテルの窓から見たのと同じ海が見えていた。結局そこに客船の華やかな明かりが戻ることはなく、かわりに白と赤の明滅が数を増やしている。少し離れた場所に着岸した軍艦の警告灯だった。
 コンクリートに打ち付ける波はひたひたと密やかな音をたてた。夏の終わりの、多少湿っているものの涼しい風が頬を撫でる。酒が入っていなければ、ワイシャツで出てきたことを後悔したかもしれなかった。
 思い出話は懐かしさよりも気恥ずかしさを呼び起こした。続けられた問いかけに、アキラは眉根をわずかに寄せて、主の斜め後ろに続く。シキは応えのないのを特に咎めず、ただし、口元の意地の悪い笑みを絶やすこともなかった。やがてあたりの気配が変わったのに、アキラは眉間の皺を消して顎を引く。愉しげにシキが呟いた。
「無粋だな」
「期待していらっしゃったんでしょうに」
吊り下げたサーベルの柄を確かめるように撫でる従僕に、主は口元の笑みを濃くした。
「答えを考えておけ」
「……は」
アキラは一度口を引き結んだ後、遅れて短く肯う。それから靴先の方向を違え、倉庫群の細い路地の暗がりに同化するように滑り込んでいった。シキが変わらぬゆったりとした歩調で靴音を響かせ続けていると、建物の裏から銃声が聞こえた。それに続くように、至近距離で先よりやや重い発砲音が何度か響く。数歩先で地面がえぐられた。肩越しに振り返り、背後の建物の角でひらめいた銀色の銃口に目を細める。地面を軽く蹴りつけた。一瞬前まで靴底が触れていたアスファルトがはじける。めり込んだ45口径の銃弾を横目に、シキはつまらなそうに鼻を鳴らした。
 十メートルほど離れた倉庫の間の物陰から、その背中に狙いを定めていた男は焦りを覚え始めていた。彼の役割は倉庫の二階からの狙撃の補助だ。だが何時まで経っても襲撃の気配がないばかりか、二人と聞いていたターゲットの数も異なっている。やがて銃声は聞こえたものの総帥は倒れることなく、計画の第一段階が失敗したことを知った。狙撃で仕留め損なったこの時のためにこそ、男はいた。
 ハンドガンでの射撃には少しばかり距離があったが、十年以上連れ添った愛機で手入れも訓練も欠かさなかった。男には自信も、それを確かに裏付ける実績もある。だが今夜に限って何故か弾が当たらないのだ。引き金を引き絞るときには確かに捉えたと思った対象の姿が、照星から視線を上げるときには幽霊のように移動している。焦りが指先に伝わりかけるのを堪えた。ターゲットはまだこちらの位置を掴んでいない。ろくに振り返りもしないのが多少不気味ではあったが、居場所が把握されたとしてもすぐに詰められるような距離ではなかった。最後の一発をどこか祈るような気持ちで弾きだし、結果に舌打ちしながら空になった弾倉を外した。落下したそれが地面で派手な音を立てぬように、膝ではさみこんで受け止める。同時進行で新たな弾倉をグリップに押しこんで、再び埠頭の様子をうかがった。だがそこには既に、総帥の姿はなかった。
「……!!」
弾倉の入れ替えなど、男にとってはほとんど意識すらせずに出来る作業だった。実際今も、建物の角から総帥の後ろ姿を頻繁に確認しながら行なっていたのだ。だが、ほんの僅かに長く視線を外した間に、視界から人影は消えていた。
 嫌な汗をかきながらスライドを引いて初弾を送り込む。快い音は男の気持ちを少しだけ冷静にした。短く息を吸って、吐くだけの時間を自分に許す。それから、銃を構えて路地から一歩を踏み出した。
 目の前に闇が広がった。
 足音も気配もなかった。十数メートルの距離をあっという間に詰めて、目の前には既にシキが立っていた。刀が撫でるように銃を握りこんだ腕を切り落としていくのを、スローモーションで男は見た。声を上げる間もなかった。横を通り過ぎる黒い影の握る刀が、流れるような動作で自分の首を落としたのを、彼は知覚しなかった。
 シキは概ね同じように、潜んでいた敵を次々に切り捨てていった。期待していた手応えは全くなく、廃墟であったトシマでの日々を思い出させた。機嫌を急降下させながら、地面に転がる南京錠を軽くつま先に蹴って、倉庫の扉を開く。外よりも濃い血臭が鼻先をかすめた。
 高い場所に設えられた窓から入り込んだ月光が、広い室内を照らしていた。並べられ重ねられた小型のコンテナは、元々はだだっ広い空間以外に何もない倉庫内に区画と通路を作り出している。床に死体がいくつも転がって血の沼を広げていた。
「未だにCFCの連中が残っていたとはな」
シキの声は、高い天井の下で鉄骨の階段を踏む音とともに反響した。登り切った先にあるのは二階ではなく、内壁に沿って倉庫を一周するように取り付けられた、鉄板の脚組でなる簡素な通路だ。アキラは窓よりも数歩奥の暗がりで、ナイフで胸を突き刺したままの死体の上に屈みこんでいた。
「装備も技術もそのままとは、流石に」
アキラは衣類や持ち物を改める手を止めずに、微かに呆れの滲んだ声で答える。その横には狙撃用に改造されたアサルトライフルが横たわっていた。
 死体は身元を判別できるものを持ち合わせていなかった。財布や勿論携帯電話はもちろん、この襲撃に不要なものはすべて捨ててきたようだ。詳細な調査はあとに任せる事にして立ち上がる。
「アキラ」
「は」
呼ばれて歩み寄れば、窓から降り注ぐ月光に似た、滑らかで冷たい手の甲に頬を撫でられた。
「退屈を払拭するような返答は用意できたか」
「……」
唇を引き結ぶ。アキラとしては、刀を振るう喜悦の中に、あの質問は忘れてくれることを願っていた。だがたった数分の、特に手応えもない、戦闘というよりは一方的な殺戮では、シキの興味をひくに能わなかったらしい。無言のまま赤い瞳を見やると、主は口元の弧を少しだけ深くした。
 形の良い指がアキラの耳を弄び、そこにかかった髪の一筋をなぞり、首筋を経由して顎に至る。あの日を真似るような動きに、肌を粟立たせながら熱を持った息を殺した。記憶と違うのは、その手が今は素肌の感触を持っていることだ。
 閉じた唇を、顎を持ち上げた人差し指から連なる親指がなぞった。ほんの小さな息をアキラは吐く。合わせていた視線を、瞼を伏せるようにして静かに下ろした。
 それから、顎にかかったシキの指を、下からすくい上げるようにして両手でそっと持ち上げた。忠誠を示すように手の甲に口付ける。数秒後、おずおずと裏返して上に向けた、自らのそれよりもひとまわり大きな手のひらに唇を落とし、次いで手首の内側のやわらかな部分を吸う。そのままワイシャツの袖をまくり上げるようにして、舌で青く透けた血管の道を辿り、肘の裏まで舐め上げ、そこでようやく、唇を離した。その間ずっと、アキラが恭しさを忘れることはなかった。その舌先には敬意があった。
「──俺には」
だが再び指に唇を落としながら、上目に自らの主を見上げた時、その瞳は明らかな情欲をにじませていた。
「わかりかねます」
シキは表情を削ぎ落とした目でそれを見つめた。主従は数秒の間、沈黙のうちに対峙した。
 先に動いたのはシキだった。自由にさせていた手で従僕の指を強く握り、逆の手で灰色の髪を掴んで上向かせる。
「……生意気な」
触れるか触れないかの距離で呟いた言葉は、殆ど口内に滴り落とされた。唇に噛み付き口内を蹂躙する。歯列をたどり、上顎をこすり、舌を甘く噛んで吸い上げる。
「……! 、っ、……ツ、……!!」
身体を押しのけようとする抵抗を封じるように、片手に腰を引き寄せ、より身体を密着させた。呼吸が必要であったことを思い出すことすらもってのほかと、ひたすらに追いあげる。やがて見開かれていた青い瞳がどろりと濁り、熱を零しながら閉じられた。身体の間で反発していた腕はいつしかシキの背に縋り、ワイシャツに皺を作っていた。
「……ッあ、……」
唇と髪を開放された時には、アキラはすでに進退窮まっていた。わずかに悔し気に顔を歪めたのち、諦めたように目を閉じてシキの肩口に額を擦りつける。
「……それが、正解だ」
その動きに応えて頭を撫で、覚えておけと、脅すような低い声を耳元に滴り落とした。
「……はい……」
小さな答を聞くなり、シキは片手でアキラを担ぎ上げる。道を塞ぐ死体を足先で階下に落としながら数歩の距離を移動した。半ば叩きつけられるように、乱暴に壁に押し付けられたアキラが、主を招いて腕を伸ばす。
「……閣下……ッ」
引き寄せられながらシキは薄く笑んだ。
「いつになく素直だな」
普段ならこんな場所では嫌がるだろうと、耳を舌先でねぶりながら言ってやる。その間にも、指はアキラのシャツのボタンを外していた。
「……お気に、召しませんか、……ッ」
「いや」
胸元に手のひらを差し込みながら首筋に噛み付けば、アキラはびくりと肩を揺らした。
「先のようなのも、たまには悪くない。だが手練手管には覚悟が必要だと知れ」
「……っ、……手練……?」
「……」
不審げな従僕の声に、シキはふと動きを止めた。口をつぐむと、屈むようにしていた身を起こす。アキラの顎を掴みその顔を至近距離からまじまじと覗きこんだ。ほんの僅かに見開かれていた赤い瞳が、やがてすっと細められる。
「……酔っているな」
「酔ってません」
即答したアキラの顎を掴む指に、少しだけ力がこもる。
「ほう? ……何をどれだけ飲んだ」
「……注がれ続けたので……」
覚えていませんと、アキラは目を泳がせる。でも部屋で飲んだあの日本酒は覚えています、美味しかった、と、付け足された言葉とともに視線が戻った。
「……」
再びシキが、わずかに引きつらせるようにしてた唇を閉ざした時だった。倉庫入口の扉が開き、数人分の聞き慣れた軍靴の足音が反響した。
「お二人とも、大事ございませんか!」
精鋭部隊の兵の声だった。うず高くつまれたコンテナのせいで入り口からは死角のその場所で、二人は数秒の間動きを止める。やがて舌打ちとともに、シキは身体を離した。
「よくここがわかったな」
「俺の部下は、優秀なので」
どこか誇らしげな声音で応えた従僕に、視線が触れた場所から凍り付くような鋭い一瞥をくれて踵を返す。とっさに追いかけたアキラは、しかしすぐに立ち止まった背中に鼻先をぶつけかけた。見上げた先で、肩越しに振り返った赤い瞳が明らかな怒気を宿している。
「その格好で下に降りてみろ。お前のその優秀な部下とやらを八つ裂きにしてやるぞ」
言われて自らの身を省みれば、ほとんどボタンの外れたシャツが目に入った。窓から差し込む月光のもとに、踏み出しかけた足を引く。同時に、血の気も引いて頭が冷えた。ああ自分は酔っていたのだなと、ぼんやりと認めた。
 身なりを整えて階下に降りると、すでに総帥その人が指示を出し終えたところだった。お手数を、と謝罪しようとしたところで、背後から回りこんだ腕に頭を引かれる。顔をほとんど覆うような指の間から、視線を泳がせる部下の顔が見えた。
「行くぞ」
気にする間もなく、歩き出したシキに引きずられるようにして数歩たたらを踏む。
「閣下」
「黙れ」
「一体どうなさったと」
倉庫から出てしばらく歩き、ようやく腕から開放された。心持ち普段よりも足早に歩くシキの背を追いながらアキラが言い募ろうとすると、主は苛立ったように靴音を高く響かせて足を止めて振り返った。
月下にその顔は白い陶器で、爛々と瞳だけが、まるで炉の中で熱された硝子の光を宿して赤い。初めて会った頃を思い出させる姿だった。廃墟のトシマの夜に白刃を閃かせる姿は、今もアキラの脳裏に鮮やかだ。
「……黙らせるぞ」
「……はい」
常人であれば生きた心地もしないであろう、その殺気の滲んだ低い声に、アキラはただ肯った。きっと何を言われてもイエスと答えていただろう。陶然とした青い瞳を、今にも溶け出しそうに潤ませて、自らの主の姿に見入りながら。
 シキは表情を凍りつかせた後、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「閣下?」
「……全く、いつまでも手のかかる……!」
忌々しげに吐き捨てた主に、アキラはどこか嬉しげに、再びはいと答えた。

end.

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