雨の庭にて
 飛び石の僅かなくぼみの中に溜まった雨水に、昨夜の強風で落ちた新緑の小さな葉が浮いている。小さな水溜まりに不意に広がった波紋は、端を踏んだ革靴のせいだった。アキラは僅か先を行く主の背中に一歩ぶん近付いて、その頭上に傘を差し掛けた。
 庭を散歩するというのに、傘を持って侍ったのが正解だったことは、歩き出して数分もしないうちに証明された。木々に遮られるとはいえ、細い霧雨は頭上を覆う新緑の間を縫って、傘に、そしてそこに収まりきらなかった肩や、時に襟元に届く。男性用の大きめの傘だが、二人同時に入るには当然足りなかった。
 日本庭園を抜けると、飛び石の道は大小さまざまの敷石からなる通路に姿を変えて、小さな林に呑まれる。木々の種類は様々だが、今時分は特に広葉樹が滴るような色の若葉を萌え出でさせて目に鮮やかだ。こんな天気の日に散歩とはと、館を出る前には主の趣向を訝しんだが、雨に濡れた新緑は確かに、多少靴を汚してでも見る価値があった。
 足下が安定したので、傘のためにさらに近付く。自分よりも背の高い相手に傘を差し掛けるのは、思いの外骨が折れた。体温が感じられるほど寄って、ようやく少し楽になる。
 互いに何も言わぬまま、普段よりも幾分ゆっくりと歩を進める。雨に濡れた道は、足音を普段よりも柔らかくした。
「……お前は普段、部下とどんな話をしている」
不意にそう問われる。
 シキを見上げるが、ほとんど背を向けられているために表情は伺えなかった。
「特にこれといったことは」
 雑談くらいなら時折するものの、何か特別な話題があるわけではなかった。元々アキラは言葉数が多くなく、プライベートな話もほとんどしない。そんな機会があったとしても、殆ど聞き役に回っている。
 シキはちらりと振り返って、アキラに笑みに細めた目を向けると、再び前に向き直った。
「……最近何か面白いことはあったか」
続けてそう問われる。
 面白いこと。シキの興味を引くようなことが何かあっただろうかと思い巡らせて、昨日の夕刻、L国に派遣した部隊から届いた情報を思い出した。未だ確認段階にあるため、総帥まで報告を上げていない。
「未確定の情報ですが、生物兵器を開発する動きがあるようです。Nicoleウイルスに対抗するような」
「ようやくか。対抗とは、どちらの意味だ」
それほど驚くべき事態ではなかった。この国を手に入れた頃には、既にこういった展開が想定されている。シキの言ったどちらとは、Nicole同様のウイルスを生産する方向か、それともNicoleを分析して無効化する方向か、という意味だ。
「ありがたいことに、無効化の方です」
「……つまらんな」
そうでしょうとも。
 アキラは胸の内のみで呟く。
 もし逆であれば、きっとこの国の王自ら戦場に赴き、戦陣切ってあらたなウイルスのキャリアーと相見えていたことだろう。だが単にこちらの弱体化をはかるようなウイルスや薬剤であれば、科学班を含めた専用の部隊をいくつか派遣すれば済むことだ。アキラにとってはそちらの方が随分、気が楽だった。
 そうでなくても、シキは何かと理由をつけて戦場へ繰り出した。そして大概、酷くつまらなそうな顔をして帰ってくる。勿論機嫌もあまりよろしくない。それも気を病むが、では満足して上機嫌で帰ってくれば秘書としても気分が良いかと問われれば、それはそれで何か腹立たしかった。
 それは妬心ではないかと、主は言う。アキラは否定も肯定もしない。知ったことではない。
 傘の骨の先で太り、今にも滴り落ちようとする水滴を見つめた。その中で凝縮された緑と黒の景色が、絵の具のように混ざり合って揺れて、やがてふつりと落下する。緑の目、という言葉を思い出して、無意識に眉根を寄せた。
「他には」
何かシキの耳に挟んでおいた方がいいことがあっただろうか。記憶を走査するが、必要なことは概ねすでに報告済みだった。シキの視線を追うようにして新緑を眺め、ふと思い出す。
「先日発足させたA部隊、中々良い働きをしているようです」
海外遠征が多くなってきた昨今、それに対応すべく、いくつかの新しい専門部隊を設立したのは3ヶ月前のことだ。そろそろ効果が出始めており、中でもA部隊は目覚ましい戦果を挙げていた。戦術局から部隊の拡大が上奏されてきたのに、昨日のうちに許可を下した。
 そんな話を、戦況や成功の要因なども併せて詳しく報告していると、シキが歩を緩めた。ブナの木立だった。この樹木は若葉も勿論だが、白い斑のある木肌や立ち姿も美しい。傘の縁を上げて視界を広げた。
「……他には」
木立を抜けたころ、再び声がかかる。別の戦況の話をした。ニホンが直接矢面に立った戦争ではない。対立する2つの国の、都合のいい方に兵を貸した。
 報酬や条件は色々とあるが、ニホンにとっての一番の利益はその土地の風土にあった戦術の指南と、何より兵をニホンとは異なる過酷な気候に肌で慣れさせることだった。どちらも参加させてさえいれば、優秀な兵たちは勝手に身につけて帰ってくる。
 不意に、足を止めたシキが肩越しに振り返った。アキラは何事かと口をつぐんで、頭一つ分高い位置にある主を見上げる。呼吸の音が聞こえそうなほどの距離の近さが、急に意識された。長い睫毛と頬に落ちるその青い影。通った鼻梁と、綺麗にしなった形良い唇。
「随分と仕事が好きなようだな」
低い美声には、どこか詰るような気配がある。だがその赤い瞳は、良くない悪戯を思いついたときの色を沈めて細められていた。アキラの中で、警告灯が静かに回転を始める。乗せられてはいけない。安易な否定は泥沼への近道だった。ここは下手に問い返すのが上策だ。
「退屈ですか」
強いて気付かぬふりで、表情を変えずに返せば、シキは僅かに笑みを深める。
「そうだと言えば、気の利いた話の一つもしてみせるか」
「……貴方と違って、俺の舌が回らないのはよくご存じのはずだ」
抑揚のない言葉を吐いて、視線を新緑へと流した。正面から相手をする気はないという意思表示は、しかしすぐに打ち捨てられる。
「では何のためにある、この口は。そうやって無粋ばかりを吐くためか」
シキの手に、顎を掬われ視線を呼び戻された。アキラは表情を変えぬまま、けれど険のある眼差しだけは隠しもせずに赤い瞳を見上げる。シキの親指が唇に触れて、横一文に引き結ばれているのを解そうとするかのように、悪戯に撫でた。
 空に向けて開いた傘の中には、密やかな囁き声に似た雨音が充ちている。
 アキラは、小さく息を吐いた。
 おもむろにシキの首に手を回す。地面から踵を離して、背伸びをしながらシキの頭を引き寄せる。ようやく唇が届いた。シキの瞳が僅かに見開かれたのを目にする。開いたままでいるつもりだった目を、それで思わず閉じた。傾いだ傘の柄が、肩に落ちる。
「──これで終わりか」
触れるだけの口づけを静かに離し、再び目を開いた時には、シキは常通りの、憎らしいほどの余裕を取り戻していた。
「……この先は、こんな場所でやることじゃない」
はじめて眉を顰めて、アキラはシキから体を離す。
「戻るか」
低く笑う声とともに、シキが手を伸ばしてくる。抗議の間もなく傘の柄が奪われた。取り返そうとするものの、視線でそれを封じられる。
 アキラはそっぽを向いて、けれど渋々そのまま歩き出した。
 憮然とした顔で差し掛けられた傘の下におさまった従僕の髪を見下ろしながら、シキは昨日の夕刻、たまたま耳にしたアキラの部下の会話を思い出す。
 曰く、隊長との会話を長引かせたいなら、まずは仕事の話、それが駄目なら総帥の話題。聞き役に回りがちな高嶺の花も、この話題であれば乗ってくる可能性が高い云々。
 それを餌にからかってやろうかとも思ったのだが、その宛は随分と可愛らしい方向に外れた。
「……まずは風呂だな」
こちらにばかり傘を回したせいで、雨に濡れた従僕の左肩を見下ろしながら呟けば、アキラはあからさまに体を硬くする。その思い違いをあえて指摘せずに、シキは一度消した笑みを口元に戻した。

end.

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