氷点 <下>

 やがてセダンは高速道を降り、あたりの景色は高架線から臨むビルの林立する街並みへと変化した。車は繁華街の手前で地上に降りる。進むたびに歩く人の姿は失せていき、短い橋をいくつか渡ると、辺りは広い敷地をフェンスで囲った工場や、飾り気のない事務所らしき建物ばかりになった。
 やがて静かに停止した車から、シキは運転手がドアを開けるのを待たずに降りたった。その扉が閉められる音で、我に返ってアキラもそれに倣う。途端、潮の香りを含んだ風が頬を撫でた。その温度の低さに、波立っていた胸の内が少しだけ落ち着きを取り戻す。
 片道4車線の広めの道路の路肩に立っていた。ゆきかう車も人気もない。目の前には金網のフェンスが続いており、その向こうには背の高い倉庫が並んだ。広い道は荷物を運ぶ大型車両のための物で、賑わうのは早朝や夜間なのだろう。港も近いのかもしれなかった。
 運転手は一礼を残し、車とともに霧雨の向こうに消えていった。ガソリンの匂いは一瞬で風にさらわれる。エンジン音が遠ざかると、所々罅の入ったアスファルトを打つ密やかな雨音と、遠くからの鉄の打ち合わされるような響きだけが残った。
 こちらに一瞥もくれずにシキが歩き出す。一時弱まった雨が景色をけぶらせる中、傘もなく、刀だけを手にゆくその背中ばかりがくっきりと黒い。数秒の間それを見つめたあと、アキラは顔をしかめながら目を閉じて小さく溜息をついた。ブルゾンのフードを被って後を追う。
 迷いない足取りに数歩分の距離を保ったまま、10分ほど歩いただろうか。辿り着いたのは一つの倉庫で、シキは錠を外すと中に入り込んだ。夕刻の近付く雨天も明るいとは言い難かったが、中はさらに暗かった。黒を纏う姿はあっという間に闇に紛れる。
 鉄扉の間から入り込む光の範囲に身をおいたまま、アキラはブルゾンのフードをずらした。細かな雨がトタンの屋根に降り注ぐ音が、暗闇の中に反響している。目が慣れてくると、背の高いコンテナがいくつか、空の木箱、よくわからない材木のほかに、古い型の外国製と思われるライトバンが一台見えた。それぞれの間には広い空間が残されており、雑然とした印象が強い。どれもうっすらと埃をかぶっているようだった。
 ファーから落ちた水滴が、足元で小さな水たまりを作り始めた頃、奥に長方形の明かりがついた。開いた扉だった。倉庫の入り口のような鉄製の無骨なものではなく、ふつうの家屋のそれだ。アキラは数秒躊躇った後、背後の重い扉を閉めた。開いた時と同じように、まるで大きな獣の声に似た歪んだ音をたてて、鉄扉は外界の空気を遮断した。
 明かりのついた屋内に足を踏み入れると、急に雨音が小さくなる。ひやりとした空気が頬を撫でた。外気の冷たさではない。それとはまた別種の、たとえば何年も使われていない部屋の扉を開いたときに感じるような、静けさの染み着いた空気の持つ温度だった。トシマで幾度か嗅いだことがある。前の住人の気配を残しながら、その上に時間と埃を積もらせた部屋の匂い。
 入ってすぐの部屋には、リビングとおぼしき調度が形ばかりに据えられている。ただしソファは明後日の方向を向き、ローテーブルは壁に角をつけて斜めになっていた。他の部屋に置く必要がないからと、おざなりに放置されているだけに見える。壁に窓はなかった。あったとしても見えるのが倉庫の暗闇では、ほとんど意味をなさなかっただろう。
 隣室に続くドアが開かれたままになっていた。物音に覗き込むと小さなキッチンがある。そこからさらに廊下が延びており、バスルームといくつかの扉が並んでいた。シキの姿はない。
 あの男が、わざわざ案内をするために戻ってくるとは到底考えられなかった。来るなと言われなかったということは、奥に足を踏み入れたとしても咎められはしないだろう。そう結論づけて、アキラは足を進める。
 ただの倉庫の中にこんな部屋が用意されていたことに軽い驚きがあった。そこここを見回すが、普通の家屋と遜色ない。これも軍のものなのだろうかとちらりと思う。なんとなく、違うような気がした。扉や壁、入ってすぐの部屋にあった家具などの質感が、軍が間に合わせに用意する類のものとはどこか毛色が違う。ソファひとつにしても、軍人よりも、政治家が座っているのを想像するほうが容易だった。さり気なく装飾的で、かといって嫌味なほどでもない。一言で言ってしまえば、上等そうなのだ。
 突き当たりの扉は開かれたままで、中は他の部屋よりも広く作られていた。ここには外につながる窓もある。ただし見えるのは雨を呑みながら果てしなくのたうつ濃灰色の海と、厚い雲に覆われた空だけだった。
 ベッドが置かれているところをみると寝室らしい。他の部屋同様、家具は部屋の広さに対して不釣り合いに少なく、生活の気配も感じられない。それでもぽつりぽつりと置かれたチェストや机、椅子といった調度品はどれも同じ素材で揃えられ、暗い飴色の光をたたえて静かな存在感を放っていた。その一方で、窓にカーテンはなく、床は細かな傷の付いた木肌をさらし、チェストの上には置物どころか紙屑一つない。なにかちぐはぐで、寂寞とした部屋だった。
 壁の飾り棚に、数冊の本がおざなりに積み重ねられていた。ほんのわずかとはいえ、部屋の主の人間らしさが垣間見えた気がして引き寄せられる。だが手にとってみたところで、物を読む習慣のないアキラには、実用書ではないらしいという程度しか読み取れるものはがなかった。
 棚に戻そうとして、そこに数枚の写真があるのに気付いた。本の下敷きになっていたらしい。日の光が斑模様を作る木陰で、耳を立てて何かを伺う犬の横顔。階段で牙も露わに大口を開けて欠伸をする猫、植物の薄緑の棘に止まった羽の美しい虫。干上がった土の上をゆく蟻の行列。揺れる木漏れ日の光を受ける屋敷の窓。ピントが甘かったり、ぶれている物も多かった。子供が目に映ったものを手当たり次第に撮ったようなまとまりのなさがある。
 何かの資料のようには思えなかった。シキが撮ったのだろうか。まさか。あの男に、こんな人間らしい趣味があるとは到底思えない。
 そこまで考えたところで、写真の一番最後から、同じサイズの封筒が現れた。端に、走り書きのようになにか記されている。はじめ記号のようにも見えたが、目を眇めて見ているうちに、兄キと書かれているのだと気付いた。漢字の兄に、カタカナのキ。写真から受けた幼い印象は、あながち間違っていないのかもしれない。貴という漢字は、小さな子供にはたしかに少し難しい。
「何をしている」
不意に掛けられた声に、アキラは肩を揺らした。どこですれ違ったのか、部屋の入り口にコートを脱いだシキが立っている。車の中で感じた、自分の内に知らない生き物を飼っているような、落ち着かなさが一瞬にして立ち戻ってきた。
「ここ、……アンタの部屋なのか」
写真と本を元に戻しながら口を開いたのは、動揺を誤魔化そうとしたからだった。
 質問に質問で返したアキラに鼻を鳴らすと、シキは部屋に足を踏み入れた。勝手知った仕草でチェストから取り出した大判の白いタオルを投げてよこす。頭を拭けということなのだろう。ジャケットは雨に色を変え、フードを被っていたとはいえ髪も少しだが濡れていた。なんとなく、タオルに鼻を埋めてみる。予想を裏切り、黴どころか何の匂いもしなかった。部屋はずっと使われていない風だのに、不思議に思いながら頭を拭く。そういえば埃もなかった。定期的に人が入っているのかもしれない。
「しばらくここに潜む。お前は外に出るな」
言いながら、シキは刀をすぐ傍の壁に立てかけ窓辺に佇んだ。その姿を、アキラは唇を引き結んでタオルの下から見上げる。従うのが当然とばかりの口調には慣れ始めていたが、それでもまだ、静電気程度の苛立ちが胸に走る。
「しばらくって、いつまで」
「軍に入る用意が整うまでだ」
短く言い放たれた。
 これまでのシキへの処遇を鑑みれば、素直に腑に落ちる。伝手があるのだろう。だが、その説明はこちらの求めるのには到底足りなかった。
 アキラはほとんど睨むような視線の強さでシキを見返す。
 急にどことも知れない場所に連れてこられ、身の処遇が見えないのは流石に落ち着かない。とはいえ自分はどうなると訊いてしまえば、シキに自らの身上を任せることに同意しているようで、それも引っかかるものがあった。結局何も言えずに黙りこむ。
 不満を口にする代わりに唇を引き結んだ気配に、シキは気付いたらしかった。昏い海に向かう窓を開けながら、振り返りもせずに言う。
「無論、軍へはお前も連れてゆく」
アキラは黒い背中を見つめた。何となくそうなのだろうという気はしていた。幼い頃、国によって課された軍事訓練がまざまざと思い出される。効率のいい荷物の運び方、適切な身の隠し方、銃の撃ち方。人の殺し方。それは少なくとも、今後は何もなかったかのように普通の生活を営めと言われるよりも、想像しやすい未来ではあった。
「……なんで、軍なんだ」
目の前のこの傲岸不遜な男には、集団に属するということがそもそも似合わない。それがあえて身を投じるというならば、その理由は勿論、日々生きる糧を得るためではないのだろう。
 ゆっくりとシキが振り返った。開け放たれた窓から入り込んだゆるい風が、室内の静寂の染みた空気と、艶のある黒髪を揺らした。逆光に佇む影の中で、瞳が一瞬赤く輝く。雨と潮の混ざり合った香りは血臭に似ていた。
「──俺はこの力ですべてを手に入れる。まずはこの国からだ。そのために軍は都合が良い」
すべて。この国。
 急にスケールが大きくなった話を、理解するのに少し時間がかかった。荒唐無稽だ。だが、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすことも出来なかった。流されるであろうおびただしい血と死が、ひどく現実味を帯びて想像されて、知らずアキラは鳥肌を立てる。怖気をふるったからではなかった。全てを手に入れ、全てを踏みにじって君臨する、絶対の王者の姿が視えた気がしたからだった。心臓の深い部分が、まるで馬鹿げたその話を予想以上にすんなりと受け入れる。だが。
「俺が非Nicoleだからか」
アンタが俺を連れて行こうとするのは。
 ぽろりと、無意識にそんな言葉が口からこぼれ落ちた。
 言ってしまってから、舌に残った苦みにアキラは顔を歪める。思い出したくもない、けれど一生自分にまとわりつくであろう血の呪縛。強いて考えないようにしていた。だがシキがNicoleの適合者としてその力を利用する気でいるのならば、ここまで自分を伴い、今後も管理下に置こうとするのも、その理由がもっとも納得できる。
 シキは数秒の間アキラを見据えると、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「くだらんな」
肯定か、それとも否定か。アキラには汲み取ることが出来なかった。じわりと、黒い不安がこぼした水のように胸の中に広がったのに、耐えられずに口を開く。だがそれよりも、シキが言葉を発する方が先だった。
「俺が不在にしている間、会いに来た男がいただろう」
眉をひそめる。基地にいた間のことだろうか。記憶をたぐったが、思い当たる節はなかった。精々アキラの身元を確かにするために、調書を取りに来たトマツくらいのものだ。こちらの身を案じ、先々の処し方まで講じてくれた、気さくさの感じられる温和な顔を思い出す。
 答える代わりにシキに向けた瞳を、しかし、アキラは次に浴びせられた鋭い一言に瞠目させた。
「近く、また向こうから接触があるはずだ。始末しろ」
唐突な命令だった。
 停止した頭の中で、言い捨てられた言葉が反響する。
──始末?
「……なんで」
喘ぐように問い返す。発することの出来た短い問いは、妙な場所でつっかかった。
 プライドを突き崩されるような無理ならば、これまで何度となく命じられてきた。だがこれは、それとは性質も種類も違う。
 目の前の白皙には、何ら特別な感情は乗っていなかった。冗談やからかいの類ではないのだと思い知らされる。急に喉の渇きを覚えた。
 殺す。自分が、あの男を。
 ありえない。そもそもトマツが何をしたというのだ。確かにシキの危険性に気付いてはいたが、今のところそれだけだ。それとも今後、なにか仕掛けてくるとでも言うのだろうか。
 可能性としてはあるかもしれなかった。だがアキラには、あの男が悪人であるようには到底思えない。モラルや倫理に照らし合わせても、問題があるのはどう考えてもシキの方だ。
 舌が乾いて上顎と張り付くような不快感に、無理矢理口を開く。
「……どういう、関係なんだ。あいつと」
「昔の仕事の馴染みだ。……今後は身の回りに気を配れ。甘言を呈し擦り寄って来るような輩には特にな」
シキは、それ以上答える気はないとばかりに顎を引いた。アキラは続けるべき言葉を見失って唇を震わせる。
 一瞬、トマツを手に掛ける自分を想像した。それはそのまま、幼馴染の断末魔にすり替わる。心臓が嫌な音をたてはじめた。
 生とは、死とは何か。そんなことに興味を引かれながらトシマに足を踏み入れたのは、ひと月も前の話ではなかった。しかし死についてなら、今はひどく生々しく思い描くことが出来る。そこに誰かを自らの手で追いやること、その禍々しさも。
「何をためらう。どちらにしろ、軍に入ればいつか手を汚すことになる」
「ふざけるな」
顔をほんの僅かに傾けて、唇の端を上げる男に向かって吐き捨てた。それとこれとは話が違う。
 戦場で大儀の元に火花を散らすのと、少しでも心の内を知る相手を手に掛けるのとでは、アキラには全く別物に感じられた。それともこの男の中ではそれが同義なのか。知り合いもそうでない相手も、道を塞ぐならば同様に斬り捨てるのか。
 もしかしたら本当にそうなのかもしれなかった。
 だが、こちらを見据える赤い瞳に視線を合わせれば、それ以上の拒否の言葉は喉の奥でわだかまる。出来なければ棄ててゆくぞと、沈黙がそう告げているようで、それはアキラにとっていつの間にかひどく大きな恐怖に変わっていた。
 この男に価値無きものと断じられるのは、耐えられない。しかし。だが。
 思考が、本能的な恐怖と、モラルや倫理、情といったものの間で逡巡する。
 窓がひときわ大きな音を立てて揺れ、海からの強い風が一陣吹き込んだのは、そのときだった。
「……ッ!」
頭に掛けていたタオルが煽られて視界を塞ぐ。紙が擦れあう音が聞こえた気がした。顔に張り付いた布をはぎ取ったとき、眼前には紙片が舞い上がっていた。
 先だってアキラが飾り棚で見つけた写真だった。それは二人の間をまるで木の葉のように舞った。やがて次々と、板敷きの床の上にかそけき音をたてて広がり落ちる。
 すぐに部屋は凪いだ。海風に窓枠が小さく振動する音が戻ってくる。だがアキラは動けずにいた。舞い落ちた写真の向こうから現れた、傍若無人で自信に溢れているはずの男が浮かべる、これまでついぞ見たことのない表情のせいだった。
 赤い瞳は、いつまで待っても足下を彩るとりどりの景色に縫いつけられていた。風景や小さな生き物の写った、けして巧くはない写真。それを凝視する顔は強張り白さを増し、凝った氷の断面のようだった。
 息を呑むアキラの前で、やがて白皙の上にあった影のようなものがどろりと削げ落ちる。後にはなんの表情も残らなかった。氷で出来た能面が、ゆっくりと表を上げる。ぞっとするような暗闇を湛えたその瞳の奥で、一瞬何かがひらめいて、そして消えていった。
 形のいい唇の端が引き上げられる。けれどその瞳はひとつも笑っていなかった。
「……どうした」
「──」
それはむしろ、こちらの台詞だった。
 しかし問うことは出来なかった。踏み込むのをためらわせる壁、しかも触れればそこからひび割れて、内包する物ごと壊れそうな、そういった類の薄い皮膜が、シキを包んでいるかのようだった。
 無言で立ち尽くすアキラの元に、シキが一歩を踏み出す。靴の踵が写真の角を踏んだ。だが、アキラの目の前にゆっくりとした足音が辿り着いたとき、靴跡に損じられた写真は、しかし一枚もなかった。意図的にそれを避けたのか、偶然なのかは、解らなかった。
 アキラは頭一つ高い位置にある白い顔を見上げる。つい先程その奥に消えていったものを探るように、昏い赤を覗き込んだ。視線を合わせることへの恐怖はいつの間にか消えている。
 距離を詰めても動かずにいるアキラをしばらく見下ろしたあとで、シキは結局口元の笑みさえ消しさった。興味を失ったように視線を外して踵を返そうとする。だが背を向ける動作の途中で、不意に動きを止めて振り返った。見開かれた赤い瞳に、アキラは自分がシキの腕を掴んでいることに気付く。はっとして離した。手のひらの傷が痛んだが、それよりも酷く冷えたシキの手首の感触が、妙に残っていた。
「──なんだ」
アキラ自身にも説明がつかなかった。ただ、およそ血の通った人間らしくないこの男の中にある、剥き出しの何かに触れた生々しい感触、それが、シキを引き止めさせた。耐え難いような、熱いような痛むような衝動が、小さな炎のように灯っていた。強いて言えば、迷子の子供の手をとってしまう感覚と似ていたかもしれない。ただしもっとずっと切迫していて、それでいて次に為すべきことが全く思いつかなかった。
 アキラは合わせていた視線をそっと外すと、自らの左の手のひらを垣間見る。おざなりに巻いた包帯には、うっすらと血が滲んでいた。再びシキの顔を見上げる。しかし紡ぐべき言葉は相変わらずどこにも見つからなかった。
 シキもなぜか、無言のままアキラを見下ろしている。それはどこか、立ち尽くしているようでもあった。

 氷雨の降り続ける初冬の朝は遅かった。永遠に暗いままに思われた窓の外は、それでも少しずつではあるが明るんでいく。
 部屋が暗闇の中から徐々にその形を露わにしていくのを、アキラは冷えたシーツの中から見つめていた。まずは放られたままの湿ったタオルや、ブルゾンのファーが灰色に浮き上がる。それからその下の、家具の角が暗い青に染まった。同様に姿を表した飾り棚の上には、写真の束の断面が白く滲んでいる。
 それを床の上から拾い集めたのはアキラだった。シキはあの後、結局何も言わぬままに再び踵を返し、アキラももうそれを止めることをしなかった。一人になった部屋で、写真を一枚一枚確かめるように眺めるアキラの脳裏には、強ばった白皙が繰り返し浮かんだ。その瞳の奥、Nicoleウイルスと共に棲み着いた狂気の裏側に、消えていった傷口に似て濡れた光が。
 深い傷を負った人間が、その痛みも傷の存在にも気付かずに、平然としていることがある。彼らは周囲の人間の表情や、自らの足下に滴り落ちた血で、ようやく自身が負傷していることに気付く。先刻のシキはそれを思い出させた。だが誰もいない場所で、血も流れないのならば、どうやって傷に気付くのだろう。
 多分、気付かないのだ。だから手当もしない。傷はふさがることの無いまま忘れ去られる。
 ぎし、と重く鋭く、肺の中で何かが軋んだ。
 何度眺めても何ら特別なものを見出すことの出来ない写真を、諦めて棚に戻す。先程のように風に飛ぶことのないよう、上に重し代わりの本を置いた。まるで何もなかったかのように、見た目だけは元通りだった。
 シキは夜半を過ぎてから戻った。とうに明かりを消してベッドに潜っていたものの、アキラは眠ってはいなかった。足音が部屋に辿り着く前に隅に体を寄せて、部屋の入り口に背を向けた。シキの気配をベッドの傍に感じても、振り返らなかった。
 シキはじっと佇んでいた。衣擦れの音すらたてなかった。アキラの耳にはすぐに、風に窓がふるえる音と、海鳴りが戻ってきた。
 いつの間にかどこかに行ってしまったのではないか。あまりにも動かない背後の気配に、アキラが訝り始めた時だった。ぎしりとベッドの片側が沈んだ。続いて何かが髪に触れ、すぐに離れていった。頬に、冷たい指先が掠めた感触が残った。背中に体温を感じて、すぐそばにシキが横たわったのがわかった。
 冷えた雨の匂いがして、それを追うように男の、ほんの僅かな体臭を嗅ぐ。鼓動が少しだけ早くなった。だがそれも、再び訪れた沈黙の中にやがて静まる。
 部屋の闇は深かった。水平線から響きわたる海鳴りの音は、馬鹿げて大きな獣の、ぞっとするほど孤独な咆哮に似ていた。世界の果てを越えた場所にいるような、そんな気がした。それでも、もう、一人ではなかった。ひとりで歩く真夜中の暗闇の中で、はるか遠くにぽつんと点るものを見つけたような感覚。寄る辺なく孤独なまま、けれどそこの闇の底に、自分の他にも誰かがいることだけは分かる。暗闇から響く嵐の音を聞きながらアキラは目を閉じ、いつの間にか眠った。久しぶりの、夢を見ない眠りだった。
 目を覚ましたとき、外は未だ暗いというのに、すでにシキの姿はなかった。
 短いが深い眠りは、頭を少しだけすっきりとさせた。これまで荒れ狂っていた感情が、冷えて沈殿し、そのまま眠りについたのかようだった。いっとき透明になった上澄みには、シキの気配が漂っていた。
 部屋がすっかり明るくなってから、その感触を振り払うように起きあがる。喉の乾きに、ベッドから抜け出してキッチンに向かった。冷蔵庫の中にはミネラルウォーターの他に、ソリドがいくつか入っている。これだけは、日興連、CFCに関わらずどこにでもあるらしい。
 空腹は感じなかったが一つ取った。随分長い間何も腹に入れていないことを思い出したからだ。テーブルに浅く腰掛けながら、ペットボトルの蓋をひねり、ソリドの封を開ける。
 口の中の水分を取られながらもそもそと咀嚼していると、不意に部屋のどこかから警報に似た音が響いた。一瞬体を堅くしてから、ほとんど弾かれるように隣の部屋に頭を巡らす。電話の音だと気付くのに少しかかった。食べかけのソリドを、とりあえずテーブルの上に置く。随分苦労して飲み込んだはずなのに、半分もなくなっていなかった。
 電話は入り口に最も近い部屋の、隅のチェストの上におざなりに置いてあった。迷う間も音は止まらず、アキラは意を決して手を伸ばす。そっと耳に当てた受話器は、息を潜めこちらの様子を伺うような静寂を湛えていた。
『……アキラ君か』
数秒の間の後に、聞き覚えのある声がした。すぐに、日興連の軍の施設で話した男の顔が思い浮かぶ。同時に、始末しろと告げた極低温のシキの声音も。
 逡巡する。返事をしない方が良いかもしれなかった。黙って受話器を置き、シキには連絡があったことを告げない。それが一番のような気もした。
 だが、トマツはこの電話番号を突き止めた。ということは、場所も知れているのだろう。下手に動かれたらあのシキのことだ、身辺を嗅ぎ回る男を相手に何をするかわからない。
『シキがいるなら黙ったままでいい。近くに来ている。もしそこを抜け出せるなら──』
「シキはいない」
言葉を遮る。不意をつかれたような沈黙があった後、軽い溜息が聞こえた。
『無事か。良かった』
「ここの番号、知ってたのか」
『昔仕事でシキと関わったことがあってね』
「近くに来てるって」
『ああ。本部に戻ってきた。そこ、出てこれるかい』
「……」
黙り込む。やはり、この男はこれ以上自分と拘らうべきでない。善意の人なら尚更だった。
『どうした』
「アンタ、もうシキに関わるな。俺にも」
『……何かあったのか』
「そういうわけじゃない。でも」
『シキに関わるべきでないのは、君の方だ』
思いの外強い声音で返される。それでいて諫めるような口調の中には労りがあった。いつだったか見たテレビドラマの、父親が息子を諭すシーンを思い出す。それが本物の親子に似ていたのかどうかは、孤児のアキラにはわからなかった。
 何と答えたものか、とっさに言葉が出てこない。
『良いからすぐに出てきなさい。いいね。その倉庫のある敷地を出て、フェンス沿いに左にずっと歩いて。赤い屋根の倉庫群があるから、そこを──』
トマツは有無を言わさぬ勢いで、早口に居場所を告げる。最後にいいねと念を押すと、こちらの返答も聞かずに電話は切れた。
 通話終了の電子音を繰り返す受話器を、口を引き結んで眺める。眉間に皺を寄せたまましばらくのあいだ佇んでから、深い溜息をついて受話器を戻した。
 肩に羽織ったきりだったジャケットに腕を通す。腰の後ろを確認すると、ホルダーにはしっかりナイフが入っていた。最近は起きあがると同時に身につけるのが習慣になっている。持ってゆくのは念のためだ。シキの命令に従う気はなかった。
 この倉庫の鍵は預けられていない。盗まれて困るような物があるようにも思えなかったので、扉だけは閉めて後にした。
 外の雨はやんでいたが、雲は重く垂れ込めていた。またいつ降り出すか、怪しい空模様だ。風が昨日にまして冷たく、寒さが足下のアスファルトから這い上がってくるようだった。真冬の気温に、開けたままにしていたブルゾンの前を閉める。
 頬を切るような風を受けながら、倉庫群の間をうつむきがちに歩いた。やがて男が言っていたとおり、金網で出来たフェンスが目に入る。どこまでも続く海風に錆びた金網の、その足下のコンクリートに広がった赤茶色の染みを踏むようにして進んだ。指示通りにゆけば、やがて左右を挟んでいた倉庫群が途切れ、急に視界が開ける。
 途端、息もできないような強い風に顔を打たれた。目の前に黒々とうねっているのは冬の海だった。埠頭に車が止まっており、その傍には見覚えのある顔がある。アキラの姿を認めて、トマツはほっとしたように顔をほころばせた。
「良かった、本当に無事だな」
すぐに踵を返し、車のドアを開く。
 小さな車内で暖められた空気が、数歩の距離を保ったまま立ち止まったアキラの元まで届いた。控え目な芳香剤の香りをはらんだ空気は、風にかき消されるようにしてすぐに霧散する。
「乗りなさい。冷えただろう」
アキラはそれ以上男には近付かず、軽く首を振った。
「いい」
トマツが驚愕に顔を強ばらせてアキラを凝視した。短い返答に、確かな拒絶が滲んでいたからだった。
「まさか、シキと共に行くとでも」
「……」
答えないアキラを見つめる痛ましげな視線には、懇願の気配すら混じる。
「騙されているんじゃないか。この間も言ったが、あの男はまともじゃないぞ」
「ずっとついて行くと決めたわけじゃない」
言い訳じみている。自分でもそう思った。
「何故だ」
男の言葉は、この数日の間ずっと頭の中で繰り返していた自問と同じ形をしていた。
 答えられない。その理由の切れ端は、すでに手にしている気がした。けれど言葉にするにはまだあやふやで、核心は掴もうとするたびに霧散する。
 ただ、離れがたいのだ。シキから。あの、尊大に所有を宣言し、その証を穿った男から。無理矢理縛り付けられ、従わせられているのだとずっと思っていた。だがたぶん本当は、知らぬ間にあの男と自分の間に、何かが結ばれてしまったのだ。たとえば昨夜の、海鳴りに満ちた暗闇の中で。あるいは、トシマの狭い部屋にいっとき落ちた月影に。もしかしたらそれよりずっと前、最初に視線を、戦わせたときからかもしれなかった。
 アキラはいつの間にか足元に下ろしていたまなざしを戻す。男の、どこか縋るような渋面と出会って、小さく首を振った。
「悪い」
短い謝罪の言葉には、自分を気にかけてこんな場所まで足を運んでくれたことに対する礼を込めた。
 男はそれでも、諦めきれないと言うようにしばらくの間こちらを見つめている。だが結局、肩を僅かに下げて俯いた。深い溜息をこぼす。
「……そうか」
声には思わず再び謝罪の言葉を口にしたくなるような、重たげな落胆が滲んでいた。だからコートの胸元に手を入れた男の手が、黒光りする拳銃を取り出したとき、アキラは目の前で起こっていることがとっさには理解できなかった。
「残念だ」
ぽっかりと黒い銃口がこちらを見据えていた。何も考えられなかった。代わりに体は勝手に動いた。足がアスファルトを蹴る。何かに背中を押されながら、銃声を聞いた。
 頭を守るようにして転がり込んだのは、錆びたドラム缶と倉庫の壁の間だった。膝と手のひらでアスファルトの堅さを感じた瞬間、心臓が早鐘を打ち始める。撃たれた。痛みはない。だがすぐにそれが錯覚であることに気付く。雨に乾かぬアスファルトの地面に、濁った液体が滲んでいた。血だ。ブルゾンの腕をこすり上げるようにして確認する。右肩の布地に穴があいている。相変わらず痛みはないが、熱いような気はした。腕は動くから、それほど深い傷ではない。それらをほとんど一瞬で確かめながら、同時に、頭から暗い沼に落ち込んでいくような錯覚を味わう。傷のせいではない。断じてそんなもののせいではなかった。
 騙された。また。
 衝撃は大きかった。用心していたつもりの分、尚更だった。自分の目で見極めたと思っていた。それでも、欺かれた。始末しろ、というシキの低い声が蘇る。最初からこうなることを見透かしていたのか。
 打ちのめされながら、それでも手は反射的に腰のナイフに伸びた。ホルダーから引き抜き、柄を握りしめる。手のひらには痛みが走ったが、その馴染んだ感触に、ざわめきだった気持ちが少しは落ち着く。
 三つ並べられたドラム缶の隙間から男の様子を伺う。強風にコートの裾が大きくはためいている。先ほどアキラの背中を押し、男の狙いを狂わせたのはこの風だった。
 銃口をこちらに向けたままではあるものの、男の意識は何故かアキラにはなかった。表情にこそ変化はないが、目をせわしなく左右させ、あたりに目を配っている。だがすぐに、こちらに視線を定めた。向かってくる。銃はやや低く構えていた。こちらの姿を確実にとらえて撃つ気だろう。
 アキラはさらに身を低くした。足下に落ちていた子供の拳ほどの大きさの石塊を拾い上げる。と、発砲音が耳を打った。驚きに体がびくりとはねる。すぐに、ドラム缶の傍の地面に穴が穿たれているのを見つけた。単なる威嚇だ。こちらの冷静さを削ごうとしているらしい。
 息をひとつ吸って、意識して充分に吐いた。
 男が距離をつめる。まだだ。ぎりぎりまで引きつけようと息を殺す。ドラム缶を回り込もうとして、トマツの靴先が向きを変えた。アキラが動いたのはその瞬間だった。トマツが向かったのと同じ方向に石を投げる。石は数歩先で、壁に立てかけられていたトタンにぶつかった。派手な音を聞きながらドラム缶の逆側から飛び出す。男はアキラの狙い通り音の方向に銃口を向け、こちらには半ば背を向けていた。発砲音。地面を蹴る。
 首、胸、下腹。背後から狙うべき急所はその三つ。ほんの幼い頃に受けた軍事訓練の知識が蘇る。首の位置は手を伸ばすには高く、胸は肋骨に邪魔される可能性がある。残るは下腹。臍の左右。目印はコートのベルト。その僅かに上。
 だがナイフが男に届こうかという時だった。アキラの脳裏に、男の親切な笑みが蘇る。たった今最悪の形で裏切られたばかりだというのに、一瞬、ほんの一瞬、何かの間違いがあったのではないかという疑惑がよぎった。次いで幼なじみの顔が浮かんだ。自らの手で人の命を奪うことに対する躊躇いが、頬の横をすり抜けていく風と共にアキラの思考の隙間を流れていくのに、一秒とかからなかった。
 ナイフは男のコートを裂いた。体に傷を付けた感触はある。だが致命傷には明らかに至らなかった。トマツが低いうなりに似た声をあげる。男は渾身の力で体をひねり、背後のアキラを振り払った。
 肘を側頭に受けて地面にはねとばされながら、アキラは自らの手がナイフの柄から離れるのを感じた。丈夫なコートとその内側の軍服のパーツに絡め取られたせいだ。頭をやられたせいで平行感覚がでたらめな値を出す。ようやく身を起こしたとき、眼前にはすでに銃口が用意されていた。
「……情けをかけてくれたお礼に、この状況の説明くらいはしようか」
アキラは荒い息のまま目を見張った。情けというのが、先ほど自分の中に生まれた躊躇のことだとはすぐに気付いた。見透かされているのだ。シキにそうされたときには感じなかった、生理的な嫌悪感に襲われる。奥歯を噛みしめて男を睨み上げた。
「シキは昔何度か使ってやっていた。扱いの難しい男だが、手を汚すのや難しい仕事を厭わんのだけは勝手が良かった。だが野心のない傭兵であったからこそだ。軍人として舞い戻ってもらうには、彼は知らなくて良いことを知りすぎている」
ならば何故自分に声をかける必要があったのか。シキが邪魔なら、ただあの男を狙えばそればすむ話だろう。まさか非ニコルであることが筒抜けなのだろうか。そう思い至って、アキラは体を硬くする。だが男が続けた言葉はそれを否定していた。
「君に声をかけたのは、いい取引材料になりそうだったからだ。シキには、どうせ消えるならその前にいくつかやってほしい仕事があった。面倒な男だが、腕は確かだ。君がその後を継いでくれればベストだったんだがな。物事はやはりそうそう思い通りにはいかない」
使い捨ての駒はいくつあっても悪いということはないと、男は嘆息する。
アキラは奥歯を噛んだ。軍人という連中は、どいつもこいつも人を自分のための踏み台か便利なツールとしか考えていないらしい。Nicoleウィルス絡みではないとはいえ、道具として扱われている点ではまったく違いがなかった。
「ちなみに、今朝君の近くにシキがいないのは承知の上だった。別の場所に呼びだしておいたからね。ーー質問はあるかい」
伝えるべきことは言い終わったとばかりに、トマツはアキラに口を開く機会を与えた。まるで事務的な事前説明だ。それは駐屯地での審問の際と、ほとんど変わらない鷹揚な態度だった。
「ここで待ち合わせの部下が遅れているんだ。君とやりあう頃には着いているはずだったんだが。時間はまだあるようだから、付き合おう」
そして到着次第始末するのか。
 まるで時間つぶしのために生かされているようだった。アキラは男を睨み上げる。その厚い皮膚の下に勝者の奢りと嗜虐心が隠れているのを、ようやく嗅ぎ取った。同時にアキラやシキ、そのほか自分以外のおよその生き物に対する侮りを。だが今頃それに気付いても遅すぎた。
「……アイツに、シキに勝てるとでも」
低く唸るように呟く。銃口を向けられていても、何故か恐怖は感じなかった。憤りの方が勝っていたせいもある。だが何より、シキのあの存在感や威圧感に比べれば、目の前の男など取るに足りなかった。男は首を傾げる。
「勿論。私にしてみれば、彼は育ちのいいチンピラのようなものだ」
驚きに打たれる。鈍い男ではないと思っていた。だが、トマツは理解していないのだ。本質的な部分を、何ひとつ。
 あの男がそんなものであるはずがなかった。あんな目をした男が、そんなものであってたまるものか。
「アンタは勝てない」
言葉は唇からこぼれ落ち、強風にあおられて二人の間を舞った。
「アイツはいつか、この世界を手に入れる」
男はしばらくの間アキラの顔を見つめていた。だがやがて唇を歪ませるようにして、口の端から白い息とともに笑みを漏らした。冷たい風がそれを攫っていく。
「ふ、ふ。それが、あの男の傍を選んだ理由なのかな」
「違う」
即答する。シキが世界を手に入れようが、逆に何ひとつ持っていなかろうが、アキラには関係のないことだ。では何故と、そう自問すれば、いつもなら俄に混乱が始まった。まるで見えない手が答を隠そうとしているようだった。それがアキラの認めたくない場所にあるせいだと、薄々気付き始めてもいた。
 だが今、頭の中は予兆を孕んだ不穏な静寂で満ちている。何かがそこから生まれようとしていた。飽和しきった感情の渦から、起きあがろうとするものの気配。凍り付いた水面を下から叩く音を聞いた気がして、アキラははっとする。
 足下のコンクリートを氷の礫が叩く音だった。雹はにわかに大きくなり、地上に降り注ぐ散弾となる。それは逆巻く風に乗って目の前の男の手指に、顔面に降り注いだ。向かい風によって生じたトマツの一瞬の隙を、アキラは見逃さなかった。
 目の前の銃口を手刀ではねのける。ひるんだトマツの懐に一歩を踏み込んだ。顎に掌底を打ち込む。がちん、と歯が噛み合わさる音がした。男がよろめく。しかしその視線はこちらを見据えたままだった。腹に数発打ち込むが、堅い手応えはすでにトマツがそれを予想していたことを告げている。
 銃底が振り下ろされた。斜め横から肘をあてて軌道を変えてやる。先ほど弾き飛ばされたナイフを目の端に捉えた。数歩先のコンクリートの上で雨に濡れている。
「ナイフを持たない方が強いじゃないか」
あっという間に余裕を取り戻した男が言う。やはり軍人の端くれなのだろう。事務方と言っていたが、どう考えても実戦経験があった。ブラスターで相手にしてきた素人とは訳が違う。
 右下から脇腹めがけて蹴りがきた。間合いを取りたかったが、向こうには銃がある。距離を開けてしまえば不利なのはこちらのほうだった。膝を上げて腹をガードする。
 なんとか、このままナイフに近付かなくてはならない。力量の差がある相手ならば素手で殴り倒すことも可能だが、最初の掌底で踏みとどまり、戦意も喪失しなかった男が、それを許すとは思えなかった。
 状況はアキラに有利に動いたかに見えた。ごく近接での攻防を繰り返しながら、二人は少しずつナイフの位置に近付いていった。手を伸ばせば届く。アキラがそう判断した瞬間、男が隙を見せた。頭を狙ったアキラの裏拳を、のけぞるようにして避けたせいだった。男の正面が一瞬無防備になる。チャンスだった。顎に向かって横殴りに拳の追撃を繰り出す。手応えはあった。その勢いを利用してナイフに手を伸ばす。
 だが次の瞬間アキラの目の端が捉えたのは、顎への一撃によろめいたかに見えた男が、予想を裏切ってあっという間に体制を立て直しこちらに銃口を向ける様だった。
 濡れた地面に膝をつく。左手はナイフの上にあった。だが持ち上げることは適わない。冷えた銃口が、こめかみに置かれていた。
 トマツは無言でこちらを見下ろしていた。最早何も喋る気がないのがわかった。獲物を必要以上にいたぶる余裕も、これから死ぬ人間と会話して時間を無駄にする気も、薄れてしまったらしい。引き金に指が掛けられた。
 何かを考える暇はなかった。ただ喉元を熱い塊がせり上がり、脳裏に誰かの面影がひらめいた。
 だが、それきりだった。開いた目はそのままに、それ以上男は動かない。微動だにしないトマツの胸の、中央より僅か左寄り、正確に心臓の位置からいつの間にか何かが突き出ていることに気付いたのは、風がひとつ過ぎ去ってからだった。
 地は黒鉄。刃紋は主の眼光に似て鋭い光を跳ねて沸く白銀。刀の切っ先は一瞬にして再び男の胸の中に消えていった。目の前の体が、支えをなくしてぐらりと傾いだ。
「……次はないぞ」
低い声が耳を打つ。
 止まっていた心臓が一拍大きく鳴った後、二倍の速さで走り出す。たった今死線をこえかけた感触が、肺を締め付けて息が早く浅くなった。生きている。生きている。
 崩れた男の体の向こうから、黒い海を背負うシキの姿が現れた。こちらを見下ろす冷えた赤い瞳、それを捉えたとき、たった今死を臨んだ瞬間に見たのが、この男の面影だったことに気が付いた。喉をせり上がったのは自分がいなくなった後、この世界をたった一人で歩いてゆくのであろう男に対する悼みだった。失われるのは自分の方であるのにも拘らず、酷く切実な焦燥と哀しみがあった。そうならずに済んだ安堵が圧倒的な質量を持って肺を満たして、アキラはまるで光に目が眩んだかのような錯覚に襲われて固く瞼を閉ざした。感情の高波が去った時、そこには目覚めたばかりの一匹の獣が頭を擡げていた。
 飽和した感情の中から、殻を破るようにして身を起こしたそれは、すでに自らの主を定めている。自らそうと定めた者に、頭を垂れ足元に侍り、仇なす者に牙をむく本能を持った生き物は、服従する甘美を知っている。
 その頭をとっさに押さえつけたのは、燃え残ったプライドだった。
「……んなんだよ」
喘ぐように、言葉を絞り出す。
「なんなんだ、アンタ」
ほんの少し前まではアキラの中は空っぽで、そこには虚ろな安寧があった。今はもうない。あっという間に、ほとんどはこの男が、埋め尽くしてしまった。混乱があった。けれど以前に戻りたいかと問われれば、きっとそれももう選べないのだった。
 嵐を内包したアキラの青い瞳を、シキはなにか驚きを含んだ目で見下ろした。だがやがて笑んだ。その微笑に、アキラは見覚えがあった。トシマの狭い部屋に捕らえられていた間、例えばアキラの腕に手錠がつけた傷痕や、ピアスの傷口から滲んだ赤を、啜りながら見せる顔だった。捕らえた獲物が逃げられないのを確信しながら、その味を確かめる肉食の獣の笑みだった。
 酷薄でありながら艶を滴らせた笑みの深みには、得も言えぬ満ち足りた輝きを湛えていた。濃縮した深紅の闇は、表面で酷く鮮やかな血の色を透かし見せる。アキラの内側が一瞬にして凪いで、次の瞬間、かっと火がついたかのように肺が、喉が、心臓が熱をもった。
「逆に問おう。貴様こそ、自分を何だと思っている。ウイルスの容れ物にでも興じるつもりか。伴うのは非ニコル故かと訊いたな。もし自分自身の価値をそこにしか見出せんならば、いいだろう、存分に可愛がってやる。たかがウイルスには不要な自我も理性も削ぎ落とした上でな。──だが」
先ほどトマツの胸から抜いたばかりの刀を、シキは返した。その切っ先がアキラの眼前に向けられる。水を弾く清明な刃には、すでに汚れの一筋も残ってはいない。
「お前がお前自身のものだと今もそう思うのなら、自らが何者であるかを証明してみせろ。ウイルスなど征服し利用しろ。──アキラ」
シキはただアキラを見ていた。アキラそのものを、見ていた。ウイルスなど、この男にとってはどうでも良いことらしかった。
「お前は、何に成る」
その声は低く、いっそ穏やかでさえありながら、迷いを暴く鋭さをもっている。
 なりたいものなどなかった。目標もなかった。漫然と肌の上を滑っていくだけの日々は、味気なかったがこれ以上なく平穏だった。雨に降り込められて、どこにも行かなくていいと安堵するような。明日死んでも構わないと、そう言ってしまえるような。
 だが今のアキラは、死を恐れていた。もう戻れなかった。戻りたいとも、思えなかった。
 強い風が吹いた。あおられた波は高波となって埠頭を濡らす。氷雨が雪に姿を変えるなか、アキラはシキの姿を仰いだ。鮮やかな漆黒。血の如き赤。死を象徴する色ではない。躍動する心臓の色だった。
 生きて、何がしたい。その問いと、おぼろげな答が、いま、内と外の両方から投げかけられていた。

Epilogue:統一ニホン、トシマ

 カットした大きな宝石に似た硝子の天井で、雨粒が跳ねていた。夜の闇に沈んだ庭に張り出したサンルームは、テーブルに乗せたランプの、ごく小さい炎にゆらゆらとたゆたっている。こうしてここから闇と化した庭を眺めるよりも、外からこの部屋を見たほうがずっと美しいだろうと考えながら、アキラは手元に視線を下ろす。盆に乗っているのは、透明な切子硝子の酒器だった。涼し気な佇まいは、夜風とともに梅雨の呼んだ蒸し暑さを払っている。
 サンルームの調度も夏を待つ風情だ。冬の間のどっしりとした革張りの椅子は、今は幅広の、体を包み込むような籐椅子に変えられている。2つ置かれた椅子の片方にはシキが身を預けていた。硝子の天板を掲げた、やはり籐のテーブルにアキラは酒器を並べる。注がれた酒の水面を見下ろして、主は静かに微笑む。
「今年は愛でる暇もなかったな」
「そう言ったら、これを」
支度を終えて自らも椅子に収まると、アキラは手元の杯にも酒を満たした。揺れる光を乱反射する切子のグラスの中には、薄紅の花が浮いている。塩漬けの桜だった。湯で塩を抜いたものを酒に沈める飲み方は、屋敷の厨房を預ける料理人に教わった。ここ数ヶ月はほとんど眠るためだけに屋敷に帰る生活だったのが、ようやく落ち着いたところに、晩酌の際にでもと、来年の新春のために用意したもののうちの一部を譲られたのだ。そうして、主に愛でられることもなく散っていくはずだった庭の桜は、いまグラスの中で季節外れの花を開いている。口をつけると冷酒の澄んだ味わいに乗って、控えめな桜の香がふわりと鼻をかすめた。
 沈黙が降りれば、狭い硝子の部屋はあっという間に雨音で満ちる。シキはそれを楽しんでいるようだった。庭にわだかまる闇に目を凝らし、囁き声に似た水音に耳を委ねながら、従僕が黙って満たす杯を干した。
「先に休んでも構わんぞ」
酔いは疲れの溜まった身体に眠気を呼ぶ。一瞬瞼が落ちかけたアキラを、シキはそう笑った。
「……いえ」
深く息を吸って、眠気を追い払う。テーブルの上、氷で冷やした酒器の中に冷酒がまだ残っているのを横目で確認して、アキラはふと動きを止めた。その動きはどこか、眠っていた犬が物音に頭をもたげるのと似ている。一方を見据えたまま音もなく立ち上がるさまは、侵入者の気配を感じた番犬を思わせた。
「すぐに戻ります」
応えは勿論、視線すらくれることなく伏し目に酒を嗜み続ける主を背に、傍らに立てかけておいたサーベルを提げて部屋を出る。サンルームから直接庭に出ることも出来たが、静けさを乱すのは憚られた。そのまま玄関に回り、庭に降りる。せめて無粋を犯すまいというのが、情趣を解さぬとことあるごとにからかわれるアキラの心だった。
 暗闇の中にいくつかの気配がある。その内のひとつは、程なくこちらに向かって走る足音に変わった。他の多くの情報に紛れて入っていた、護衛兵に新人が入ったという知らせを思い出す。きっと、そこから綻びたのだろう。
 屋敷内には衛兵を置かなかったが、庭や林を含む敷地の外苑は、常に数名の兵に警護されている。滅多にないことではあったが、稀には賊の侵入を許すこともあった。本来であれば許されざることだったろうが、屋敷の主は厳重な警護を鬱陶しがり、あえて隙を残している。そもそも侵入者など、シキにとっては迷い込んだ猫の子と変わりはない。
 それは、アキラにとっても同様だった。ただし賊に対する印象は、猫というよりも、害はないけれど鬱陶しい羽虫に近かったかもしれない。
 足音は暗闇に浮かび上がるサンルームに向かっていた。身を潜めた梅の木の陰は、今の時期は実った果の芳しい香りで満ちている。桜の花のように、これも厨房の者が収穫するのだろうか。近づく気配との距離が最短になり、手をかけていたサーベルの柄を引き抜いた瞬間、ふと、そう思い至った。踏み込みながらの抜刀からの一撃。それで、片はついた。自分よりも一回り大きな身体が、濡れた音とともに地に伏す。頭は辛うじて胴に繋がっている。夜、しかも雨に降り込められた闇夜には、刎ね飛ばしてしまうと捜索が中々困難であったりする。
 すぐに、護衛兵が現れた。失態に青くなりながら謝罪を繰り返す彼に始末を任せると、その場を後にする。
 鬱蒼と茂る木々の影の先に、多面体の水晶のようなサンルームが、橙色に浮かび上がり揺らめいていた。肘をついてこちらを眺めるシキの姿を見留める。やはり、外から見たほうが美しかった。
 硝子の嵌めこまれた扉がいつの間にか開かれていた。主の意に素直に甘えて、靴底の泥だけは丁寧に落として室内に戻る。髪や衣服は湿っていたが、木々の影にいたため雫が滴る程ではなかった。
「珍しいな」
声に、僅かに刺。何が不興を買ったのかと、背筋が冷たくなるのを感じながら動きを止める。シキが組んでいた脚を解いて、踵で床を軽く打った。アキラがそこに膝をつくと、形の良い、けれど硬い指が頬を拭うように撫でた。梅の木が汚れぬようにと気を回したせいで、返り血を浴びてしまったことに遅れて気付いて、アキラは眉間に皺を刻む。酒器の傍に添えていた白布にとっさに手を伸ばした。ワインを供じる際と同様の、大判のグラスクロスは、酒器の汗を拭ったせいで都合よく表面が濡れている。
「……申し訳ありません」
指先を清めながら、手の甲に向かって呟く。少しの沈黙ののち、返ったのは唐突な言葉だった。
「お前が初めて手を下した時のことを思い出した」
一瞬アキラは顔を上げたが、すぐにシキの指先に視線を戻した。数年前の話は、思い出話にするには近すぎて面映い。たった今そうしたようにシキの命を狙った男を手にかけたのは、トシマを抜け日興連の軍に入るほんの少し前のことだった。
 トシマを脱したのちに連れてゆかれた、オオサカの海の傍の部屋には、しばらくの間潜んでいた。あの冬は近年稀に見る厳しさで、倉庫街には幾度か雪も積もった。だがゆっくりとではあるものの昏い海からくる嵐は頻度を減らし、風は強いながらも温んで、窓に吹き付ける雪はいつしか桜の花弁に変わっていた。
 シキの拓く世界と、そこに敷かれる新しい秩序を理解し始めたのはその頃だったように思う。少なくとも、初めて人を殺めた時には、シキを守ることが何を意味するかを知っていた。
 初めて人の命を奪った日、絶命した男をアキラは暫くの間見下ろしていた。なにか信じられない気がした。やがて降り注ぐ桜の花弁のひとつが、二度とまばたきをすることのない瞳に舞い降りたとき、自分が人を殺めたのだという実感が湧いた。想像していたような恐慌はなかった。その代わり耳鳴りが、いっとき頭を塞いだ。それが収まると、胸の内が凪いで、酷く静かになった。澄んだ、といったほうがいいかも知れなかった。戻れない場所に足を踏み入れた実感は、自分がこれから手放していくであろうものと、たったいま手放したもの、そして希みをはっきりと浮き上がらせた。
 だがその後も、シキに押さえ付けられるたびにじたばたとみっともなく抵抗し続けたのは、今振り返ってみればきまり悪くも不思議なことだ。モラルや倫理を犯すことよりも、自分を自分自身の手から手放すほうが、あの頃のアキラにとっては困難だったのだから。俺は俺のものだと言い張って、シキもそれを興がった。
「お前は返り血の避け方も知らなかった」
もういいとばかりに、手元から白布が攫われて、一時過去へとさかのぼっていた意識が戻る。他人の血が主の指を汚したというのがなんとなく気分が悪く、指が元の白さを取り戻した後もいつまでも拭い続けてしまった。
 シキの指は花の沈んだグラスを手にして、再びアキラの眼前に戻る。
「……あの日も桜が咲いていたな」
あてがわれた指先に、アキラは唇を開いた。するりと口内に入り込んだ指が、舌の上に置いていったのは酒に沈められていた花だ。まるでそのために咲いたかのように、狂ったように散る花。
 あの日、一線を越えたアキラに、シキは何も聞かぬまま酷く満足気な笑みを浮かべた。返り血に汚れた姿に目を細めて、形の良い唇でアキラの名を呼んだ。その瞬間、きっと自分は、幾千幾万の人の命よりも、シキ一人を選び続けるのだろうと思った。桜の下には死体が埋まっているという話を知っているかと問われて、答える余裕もなくただ、散り続ける桜を美しく長く咲かせ続けるために、獲物を与え続ける自分の姿を夢想した。
 アキラは甘く苦い花を飲み込むと、唇にあてがわれたままの指に舌を這わせた。視線を上げると、赤い瞳が愉しそうに細められている。
 小さく灯っていたランプに手を伸ばした。程なく酸素を絶たれた炎が、ふつりと消え果てる。透明な硝子の部屋は、二匹の獣を内包したまま、すっかり闇色に染まった。

end.

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