目隠し

 窓硝子は暗闇で、無機質な電灯に照らされた室内を全反射している。
 空調にコントロールされた室内では、軍服をきっちりと着込んでいても暑さや湿気を感じることはほとんどない。しかし、それでも雨音は入り込んだ。どこにでも染み入る。この音は。
 黒い廊下に人影はない。一応は戦時ではない現在、深夜に近い時間ともなれば多くの者は兵舎に戻っている。アキラもようやく報告書と次の任務のための申請書等を書き終わり、仕事を切り上げたところだった。
 窓には自分の青白い顔が映っている。硝子の反射では色などわかるはずもなかったが、そんなふうに感じたのは脳裏に色素の薄い、温度の感じられない横顔を描いていたからかもしれなかった。
 今日の昼、久しぶりに言葉を交わしたのを思い出せば、心臓にはっきりとした熱が宿る。ひどく懐かしい言葉を聞いた。数年前、日興連とCFCが統一されていなかったころ、シキがヴィスキオの王で、廃墟の町で白刃をひらめかせていたころのような。
 ──部下に敗れ俺の傍らから転げ落ちるような腑抜けには、それが似合いだ。
 刃物を首に突きつけられて放たれたその言葉。かつて廃墟だったトシマの街で、似たような台詞を幾度も吐き捨てられた。
 あの日の自分の反抗の理由が、今ならわかる。何もかも奪われることを予感していたのだ。そしてそれを快いと感じることを。あの反応は当然だったとも思う。ただ、相手はシキだったのだ。それだけで、それがすべてだった。すべて、だった。窓の外の暗闇から目を引き剥がした。
 向こうから来た将校とすれ違う。同い年くらいだろうか。何か視線を感じて見やれば目が合った。妙な間の後、男は慌てて目線を下げた後、思い出したように敬礼をしてよこす。上官に対する作法を忘れるとは、と思うものの、時間が時間でもありさすがに面倒だったため、不問に付した。
 長い廊下の中央、大きな階段の前に辿りつく。見上げる先は最上階、その廊下の突き当りにはシキの執務室の扉がある。何度も通った通路だ。扉の細工まで詳細に思い出せる。ノックはしない。本当は声すらなくとも、彼の王は気配でそれと気付く。低い許可の声。扉の向こうの、執務机から視線を上げもしない白皙。それでも、傍にいることを許されていることは、わかる。やがて向けられる赤い眼差し、──アキラは軽く首を振った。少し、疲れているようだった。否、疲れているのでは、ない。飢えているのだ。そうと意識すれば、ピアスがじくりと熱をもって疼いた。
 昼間のことで、少しだけ気にかかっていることがある。
昔を思い出させるきつい言葉、あれは、主なりの激励のようなものでもある。叩き潰しておいて、立ち上がって見せろと笑うのだ。そこにはたしかに鋭い棘が付いてはいるが、そんなものにはもう慣れた。ただその後に見たものが、小骨のように胸のあたりに引っかかっている。
 瞳の奥に見えた、一筋の、凍えた光。あれは。
 ──早く、戻らなければ。
 同じ城内にいるとはいえ、王の側近というポジションを自ら手放したのはアキラだった。シキは止めなかったが、だからといって何も思わないはずはなかった。怒りは予想していたものの、それだけではないかもしれないと不安が掠める。共に歩んで、もうすぐ五年になる。随分と長い時間を共にすごした気がするのに、未だに窺い知れぬ顔があるとは。そこまで考えて、否と打ち消した。失った幼馴染も、共に過ごした時間は、長かった。雨音が強まった気がした。
 ほんの小さな溜息とともに、上階に向けていた視線を戻す。階段を下り始めた。
 廊下には人影一つない。自分も早く帰って眠ってしまおうと、雨音と、ピアスにうっすらと宿った熱を振り払うように、足を心持ち速める。その時だった。廊下に整然と並んだ扉のひとつが音もなく開き、暗闇から伸びた腕に引きずり込まれたのは。
 室内に明かりはない。その上、すぐに白グローブの手のひらに目を覆われた。背中で捻られた左手は動かせない。驚きはしたものの、思考は急速に冷静になる。グローブが白ということは、汚れ仕事には当たらない上級将校だ。引き寄せられた後頭部に感じる肩の位置からして、身長は自分より十数センチ高い。一瞬でそれだけ計算し、開いている右腕で、背後に立つ人物のみぞおちを狙って肘打ちを繰り出す。止められた。変わりに固められていた左腕が自由になる。こちらの右腕を抑える相手の腕を逆に掴んで固定して、膝を折って重心を下げた。背後の体に自分の背中をやや下から押し付ける。同時に左腕で相手の首を掴み、遠心力を使って投げ飛ばす──はずだった。目を覆っていた指がこちらの動きを予想していたかのようにはなれ、首を狙った左腕を取った。
「いッ……!」
次の瞬間、掴まれた手首に鋭い痛みを感じた。すぐにきつく噛まれたのだと気付く。呆気にとられてアキラは動きを止めた。次に感じたのは、今そうやって作られたばかりの傷を這う舌だった。
──この感触を、知っている。
 自ら刻み込んだ傷口に唇をつける、どこか満足気なかすかな笑みを。
 しなる唇を思い描いた瞬間、背筋をすさまじい快楽の熱が抜ける。下げようとしていた膝がそのまま、落ちた。
「……あ、」
抗う間もなく、そのまま床にうつぶせに組み敷かれた。両手が腰の後ろで手錠に結ばれる冷たい金属質の音が、数秒とはいえ呆然としていた意識を呼び戻す。
「……!」
首をねじる。わずかに隙間の開いた扉から射す廊下の明かりで、自分を押さえつける人影を確認しようとした。しかしそれは再び手のひらによって遮られる。目を塞がれた後は口だった。苦しい体勢で受けた口付けは、理性を半壊させるには充分だった。
「……閣っ……下、……!」
息をつく合間に呼ぶ。返事はない。しかし、歯列をたどり上顎を撫でる舌の味を、鼻孔に甘いかすかな体臭を、覚えている。忘れるはずがない。体の隅々に、とうに染み付いているのだ。それは麻薬のように、甘い水のように、飢えて乾いた脳髄を犯していく。ボタンが外されていくのに気付いても、抗う余裕はなかった。
「……っは、」
唇が開放されたときには、すでに軍服の上衣が後ろ手の上に引っかかるだけになっていた。目は塞いだままに、顎を掴んでいた腕だけが離れた。支えをなくして、冷えた床に肩から落ちる。すでに体に力が入らなかった。
「……っ、ん……ッ」
ワイシャツの上からピアスをなぞる指が、恐ろしいほどに優しい。アキラは慄いた。こんな風に触れるとき、彼の王はその身の内に怒りを溜めて、ひどく美しい笑みを浮かべてそれを愉しんでいる。絶対的な王者にとって、その感情を動かされることは一種の喜悦なのだ。後に続くきつい躾を予想して、恐怖と熱を同時に感じた。
 しかし膝に感じる硬い床の感触が理性を呼び起こす。ここは、夜中とはいえいつ誰が来てもおかしくない場所だ。お許しくださいと、言いかけた。けれど留める。先に許されないことをしたのは自分だと、咄嗟に、頭の隅が警告した。
「おやめ、くださ、……っ!」
代わりに口をほとばしった声は、臍に爪を立てられたせいで上ずった。熱を逃したくて、目を塞ぐ指から逃れたくて首を振る。ピアスを弄んでいた指はどちらも許さなかった。これは何だと問うように、張り詰めた場所に触れてくる。
「ッ……!」
びくりと動きを止めると、嘲笑うようにまぶたを押さえていた手のひらが離れ、振り返る間も許さずにアキラの頭を掴んで床に押し付けた。鼻と頬で冷たい床を感じながら、ベルトを外される金属質な音を聞く。身を捩るが、まともな抵抗にならずあっさりと下衣を引き摺り下ろされた。
 随分と、性急な気がした。いつもであれば、散々アキラを弄んで、欲しいと強請らせてようやく、触れるのに。違和感に少しだけ芯が冷える。背後にいるのは本当に、自分の主なのか。間違えるはずはない。自信はあった。けれど0.1%の疑惑が、アキラを捕らえた。
 優しく冷たい指が、アキラ自身を包みこむ。嗚咽に似たひきつった息が漏れる。久しぶりに触れられたそこは、すでに先から涎をこぼしていた。ぬるりと指に絡めるように撫でられた後、鈴口に爪を立てられる。歯列から悲鳴がもれた。一瞬頭が真っ白になるほどの痛みなのに、それは萎えるどころかますます熱を持って張り詰めて、自分の腹にすら当たりそうだった。
「ん……ッく、う、」
笑うように先端を捏ねた指が、後孔に辿り着く。息を呑む。つぷりと埋め込まれたのに、一瞬息を詰めた後、しかし満足気な息を漏らしてしまう。気が遠くなるほどの羞恥に襲われ、けれどそれも、抜き差しされればすぐに快楽に塗りつぶされてしまった。
「……いッ、あ、……、っ、」
久しぶりのそこは痛みを伴って、けれど、それが悦かった。指先は、アキラの感じる場所を正確に探り当て、執拗に煽ってくる。びくびくと体が痙攣するのを止めることが出来なかった。這い上がる快楽の波に足元を掬われて、頭が物を考えるのを放棄し始める。
「ふ……っ、う、あ……!」
ぶるりと体が震えたはずみに、自身の先端から雫が落ちていくのを感じたが、それを恥じる余裕はすでになかった。いつもの焦らすようなやり方ではなく、ただひたすらに追い上げられる。
 理性の限界があっという間に近づく。そこを越えれば、楽になれる。ただシキに与えられる感覚だけを追っていけるその場所に、手を伸ばそうとした。
 だが飛ばしかけた思考を、不意に呼び戻すものがあった。人の足音だ。兵士が二人、小さな声で会話しながら廊下を歩いてくる気配がした。アキラは身をこわばらせた。かすかに開いたドアから一筋、部屋には光が差している。完全に閉まっているならまだしも、これでは。
 息を呑んだのに、不意に指が引き抜かれた。声をあげそうになるのをなんとかこらえ、成功したことに安堵したとき、緩く口をあけたままのそこに違うものがあてがわれる。知っている感触だった。待ちわびた感触でもあった。そうと気付けば、その先に与えられるものを想像して、腰と膝ががくがくと笑い出す。しかし、今、それをされたら。床に落ちた明かりを揺れる視線で凝視する。最早何もかも捨ててシキの熱を求める感情と、状況を俯瞰する理性とが、忙しい心臓を加速させる。
 だが今のアキラにできるのは、奥歯を噛締める程度の抵抗だけだった。せめてと、きつく瞼を閉じる。
 背中に体温を、耳元に吐息を感じたのは、その時だった。
「……アキラ」
低い美声が滴り落とされる。そんなふうに、最後に呼ばれたのはもうふた月以上前だった。条件反射のように沸き起こった安堵と歓喜に、一瞬、体から力が抜けた。
「──!!」
見計らったかのように突き上げられて、思考がはじけた。目の前が赤く、次いで白く染まった。ただ快楽と痛みに蹂躙される理性が、一瞬にして焼け落ちたのだけは見えた。
 床に落ちた光が陰り、話し声が遠のいていく。
 けれどそれを感知する余裕は、アキラにはすでに残されていなかった。
 気がつけば床に額を擦り付けて痙攣を繰り返していた。すすり泣くような息で空気を吸い込めば、ぼんやりと青い匂いが鼻をつくの感じた。
「……挿れただけで、か」
「……っぁ、……、……ッ」
震える体を止めることも出来ないままに、何も考えられずにその声を受け入れた。耳が喜んでいた。頭を抑えていた指が、髪をもてあそぶようにした後で首筋を通り、背筋をたどって離れていく。
「声ひとつ上げんとは。だからお前は、強情だというのだ」
「……シ、キ……ッ」
われながら情けない声だった。しかし主は動きを止めて、耳元に唇を寄せてくる。甘く噛まれ、それだけでまた震えた。
「どうした」
背中に当たる体温が、低い声が、匂いが、そのたしかに自らの王だという証拠が、アキラにとっては快楽そのものだった。
「……シキ、」
けれどもう名を呼ばわるしか、出来ることがなかった。それ以外の言葉は溶けきって、熱い水になって今にも目から溢れそうだった。未だ穿たれたままの腰が勝手に揺れる。
 シキはねだるような動きを冷酷に無視した。髪を掴むようにして床から顔を上げさせる。虚ろになったアキラの瞳からは理性が剥がれ落ちかけ、その奥でひたすらにシキを求めていた。噛み締めすぎた唇の上で、血が滲んで玉になり、端から一筋流れ落ちた。
「……お前は、……」
あきれたようなその言葉には、ほんのわずかな驚愕が乗った。鼻から息を漏らすように、シキは笑った。表面は乾いた、けれど深い場所の色づいた、声だった。アキラの唇から溢れた赤を舐めとり、吸い上げる。
「……手に負えん」
それが自嘲だと、シキ本人すら気付いていなかった。アキラの手首を戒めた手錠を外してやる。
「……ッあ、いや、だ……!」
惜しむように追ってくるアキラの頭を再び押さえつけ、腰を一度引く。組み敷いた体を反転させた。向かい合うような形で再び穿つ。仰け反ったアキラの喉はすでに、濡れた声をこらえることなど忘れていた。
 自由になった従僕の腕はただシキを求めた。叩きつけるような容赦のない律動の中、その動きの一つも逃すまいとして背中を抱く、その必死な十指に、主は目を閉じた。
 アキラに、飢えを教えたのはシキだった。奈落の底に引き摺り落とし、けして逃げられぬよう、檻から逃げ出す気も起きぬように。痛みと快楽の鎖は、単純ゆえに強固なはずだった。それが、形を変え始めたのはいつからだったろう。薄々気付いてはいたものの、手を打つ事はしなかった。結果をはっきりと目にしたのは今日の昼だ。半地下の保管庫での、アキラのあの眼差し。色を滲ませ、しかしそれを理性によって底に沈め、その上でさらにシキを求めた。そんな複雑なもので繋いだ覚えはなかった。
 だからこうして確かめに来たのだ。そして確信した。アキラの内部は変容し、戒めは変質している。恐らくは、離れていた半年余りの間に急速に。
 それをあるべき形に戻すことも、ともすればできるのかもしれなかった。だが。
「全く、手のかかる……」
 王は呟いた。ほんのかすかな、にじむ程度の笑みを浮かべると、意識をとばした従僕の額に張り付いた髪をよけ、おもむろにそこに軽く唇をつけた。シキの顔からつかの間表情が消える。やがて鼻で笑うと、静かに体を離した。

*

「それでは、こちらを頂きましたら、失礼致します」
執務室の長机の前で、引き継ぎに関する簡単な報告を終え、イチヤは書類を差し出した。
 時間は夕刻近い。精鋭部隊のトップである第零部隊筆頭として、また総帥付の秘書としての仕事を、彼は半年以上の間務めた。だが先日アキラが海外任務から戻ったことや、一度は勝利したものの結局は惨敗を喫した御前試合の結果によって、本日付でその座を再びアキラに帰すこととなった。
 詳細な引き継ぎはすでに済み、あとは数枚の書類を手渡せば、彼の執務室での仕事は終了である。今後は通常の精鋭部隊の職務に戻ることになっていた。
 シキは書類に目を通し、サインののち机の上を僅かに押し出した。拝受してブリーフケースにしまうと、イチヤは意を決して姿勢を正した。
「総帥」
「……何だ」
「アキラ様が来られるまで、少々お時間をいただいても」
「……」
王はかすかに唇の端を上げ、ゆったりと椅子にもたれ足を組む。
 これがこの二人の関係の全てだった。総帥は必要以上の言葉を避けた。会話らしい会話が成立したことは、数えるほどしかない。それでもイチヤは正確に主の意を汲み取り、ミスのない仕事ぶりを発揮した。優秀な人材だった。だが。
「先日の、連続殺人の件ですが」
「……あれか」
シキは唇を歪ませるようにして笑うと肘掛けに頬杖をついた。視線は机の上、漆の文箱の天板を飾る金彩にある。イチヤは顎を引いた。
「なぜ、アキラ様への指示とお教え頂けなかったのでしょうか」
シキの視線が彼を捉える。ガラス玉に似て非なる輝きの底には、かすかな狂気の熾火が見て取れた。それは事あればすぐにでも燃え上がり、周囲を焼きつくすことをイチヤは知っている。その赤が今は、主に意を問う無礼さを咎めているようにも見えて、身をすくませた。だが数秒の後、王は視線から彼を逃した。
「俺の指示ではない。許可はしたがな。あとはあれの意思だ」
「……意思?」
なんだそれは。我々は兵卒から筆頭に至るまですべて、主のための駒ではないのか。イチヤは耳を疑った。
 たしかに、精鋭部隊でもトップに位置する第零部隊ともなれば、自律してそれぞれの判断によって動くことも多い。しかしそれは下された命令を遂行するためにこそだ。意思という言葉のイメージとは程遠い。
 総帥とアキラの関係は力こそ全てという前提を覆すようで、正直かすかな違和感と嫌悪感を感じていた。アキラの強さが証明された今となっても時折、それは小さな火種として、彼の胸のうちで不安や苛立ちに姿を変える。
 心中を察したかのように、王は鼻を鳴らした。いち部下の戸惑いなどどうでもいいことには違いなかった。だが、イチヤの潔癖さとある種の生真面目さは、放っておけば憎しみや裏切りに転化する可能性を孕んでいる。それも面白い、とも、思いはした。その気を変えさせたのは、廊下を歩んでくる気配だった。
「──……あれは昔、はじめから俺に逆らった。そのために死への恐怖すらねじ伏せた」
反抗と挑戦は別物だ。あの時のアキラはけして強くもなかった。だが、あんな瞳は見たことがなかった。数年の年月がたった今でも。
「命を投げ出すかと問えば、抗うために使うことを選んでみせた。ただ、自らの意思などというくだらないものを守るためだけに、だ」
まるで野生の獣だった。プライドや誇りといったものですら生ぬるい、守らなければ自分であれない、そういったどうしようもない本能を宿す生き物の、気高さを持ち合わせていた。
 だからこそ、手に入れる価値があるのだ。
「──できるか。貴様に」
シキはイチヤを見据える。爛々と輝く瞳は肉食獣のそれで、鉄の匂いが滴った。夏の、沈む直前の鮮烈な赤が、窓の外で空を染める。直接は夕日の光の射さない部屋にも、昏い赤が忍び込んだ。それは血の色に似て部屋を満たす。
 イチヤは身じろぎ、そして、数秒のち目を伏せた。
「──いいえ。……出すぎた質問をお許し下さい」
背中を流れる脂汗の冷たさを、久しぶりに思い知る。まるで、首筋に刃を突きつけられているような、狼の顎に首を差し出しているような心地だった。手のひらを握る。イチヤとて、敵の手に落ちたとしても誇りを貫く自信はある。いいように利用され、味方の不利益となるくらいなら、自ら死を選ぶ覚悟も決めていた。しかしこの威圧感を前にして、逆らうことなど考えようもない。この国の王は、まるで人ではない何かのように、本能的な恐怖を呼び起こす。
「……支配したと、思っていた。だが未だに、あの時守り通した意思とやらで俺に従っていたらしい。──あれは、」
シキは視線を閉ざした。その言葉尻に、ほんの僅かな諦念に似たものが含まれてはいなかったか。イチヤは耳を疑った。しかし再び主の表情を窺うことなど不可能だった。
「俺が自ら望んで手に入れた最初の狗で、そして恐らくは最後まで、完全には支配しきらぬ唯一の、──」
「失礼します」
扉の向こうから、件のアキラの声が響いたのはその時だった。
 イチヤは姿勢を正したのち敬礼する。彼は概ね、理解した。つまり今のところアキラだけは、王の業火に似た視線の中で、焼き切れることもなく立つことができるらしいということだった。それは信じられないことではあった。少なくとも今の自分には、到底無理なことだ。
「……では、自分は」
「ご苦労。下がれ」
入れ違いに現れたアキラは、敬礼の姿勢をとってみせた後、物言いたげに唇を引き結んだ。イチヤの足音が聞こえなくなるまで、そうして主従は対峙した。
「……なんだ」
シキが言葉を許すと、アキラは額近くに上げていた手を下げる。
「……俺はすっかり、貴方のものになったつもりでおりますのに」
「今にも噛み付きそうな目をして、よく言う」
「それは、貴方が」
まるで俺を、貴方の物でないように言うからです。そう言いかけて、しかしアキラは言葉をやめた。視線を落とす。床や壁を染めていた赤はゆっくりと彩度を落とし、青みを帯び始めていた。
「アキラ」
「……はい」
不意に強い力を感じさせる声に呼ばれ、アキラは視線を上げた。そんなふうにまともにシキの視線を受け止めることのできるのは、軍の規則を除いたとしてもこの国においてはアキラ以外にはなかった。青い瞳の中にあるのは恐れではなく畏れで、追うことこそあれ怖じけることはなかった。
「言え。お前の主は、誰だ」
その青がいっとき、光を反射した。そういえば炎は、その温度を上げるほどに色を青く変えるのだったかとシキは思い出す。
「──貴方です、我が君」
「わきまえてはいるならば、良い。たが、所有物の分際で支配の方法にまで口を出すのは、僭越だ」
窓の外を、沈む太陽の断末魔が駆けた。
「お前をどうするかは俺が決める。好きに戯れていればいい。身の程すら忘れて遊び呆けるようならば、初めからやり直すまでだ。かつてお前を拾った時のようにな」
声は滴り落ちるように、アキラの耳から脳を犯す。所有の証が甘く疼いた。赤い目が細められれば、始まるのは夜だ。昏い、黒い夜だ。
「それとも人形のように俺の意のままに動く何かになるか。三日で飽きて捨ててやるぞ」
「いいえ。いいえ、けして。俺の王」
熱を孕んだ瞳で、アキラは再び敬礼した。
「──ただ今、戻りました」

end.

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