綻ぶ雨

 ぱたぱたぱた、と、白い紙の上に鮮血が散った。
 手のひらに走った痛みはどこか覚えのあるもので、思い出そうとした瞬間しかし、慌てた声に名を呼ばれて我に返る。
 視線を上げれば机のむこうに見慣れた部下の顔があった。
 窓の外の雨音とともに、開け放たれた扉の先、廊下越しに伝わるフロアのざわめきが蘇る。黒い城の中に設えられた、精鋭部隊の長のための執務室にアキラはいた。
 総帥の秘書を兼任する都合上、この部屋で長い時間を過ごす機会は少ない。立場上ノックと挨拶が必要な部屋に慣れなければならないのはわかってはいたが、それでも忙しい折など煩雑で鬱陶しいだけに感じる。畢竟、総帥の執務室か、精鋭部隊の他の兵と同じ部屋で仕事をすることが多かった。必要最低限の物だけが持ち込まれ、人となりの伺えるような私物が全くないこの部屋は、真新しいホテルの一室のようにも見える。
 その、滅多に使うことのない部屋に珍しく篭っていたのは、人の気配を疎んじるような気分のせいだ。
 早口に何事か口にして慌てて出て行く部下の背を、アキラは言葉のないまま見送る。そうして再び手元に視線を戻した。
 手のひらを横一閃に割る傷は、そこまで深くはないものの未だに血を溢れさせ、白いグローブを染めている。その横には、先程まで眺めていたナイフが転がっていた。異国の文字が刻まれたそれは、物心ついた頃にはすでに数少ない持ち物としてアキラの傍にあった。廃墟のトシマを共にすごし、そして現在は軍支給のナイフのかわりに装備品のひとつとして身に着けている。
 研ぎに出していたのが今朝戻ってきたのを、なんとなく眺めていたのだった。ぼんやりとしていたところに急に話しかけられたのに驚いて、手に乗せたまま思い切り引いてしまった。結果的に、その切れ味を身を持って確かめるという醜態をさらしている。
 大きな窓からの光に頼って灯りのない部屋は、昼過ぎだというのにいつの間にか随分と暗くなっていた。強まる雨音に思い出す。手のひらの傷は、かつて廃墟だったトシマの路地裏で負ったのだ。いつまでも潤んで癒えなかったあの傷が、いつ塞がったのかは記憶にない。日興連の軍に慣れたころだったような気もする。シキの隣にあることを受け入れはじめたころ。抗う言葉の裏側を見透かす赤い瞳に、まるで造作のなく絡め取られていった日々。
 離れられないと、どうしても引き寄せられてしまうのだと、認めてしまえば目の前に道が開けたような感覚がした。なすべきことはほとんどの場合明快に目の前に積んであり、そうでなければ示された。むしろ難しかったのはタブーの部分だ。してはならないことのほうが、アキラにはなかなか飲み込めなかった。今でも時折、何がシキを怒らせたのか理解できないことがある。
 たとえば、シキ以外の手によって傷を負うこと。自分自身の過失による傷でもそれは変わらなかった──今のように。
 また叱られる、と、小さく溜息を吐いた。同時に何か甘いものがじわりと喉の奥からこみ上げる。手のひらをわずかに開いた。新たな赤色が溢れて、滴り落ちる。
「……上官?」
気付けば、先ほど出て行った兵が扉の横で立ち尽くしていた。その手には外科的な応急処置の用品が入った箱がある。
「……、悪い」
「……っいえ、……」
声をかけると、彼はぎこちなく動きを再開した。箱の中からガーゼを取り出す。アキラはそれを軽く握ると、ともに差し出された厚みのある布で落ちた血を手早く拭き取ってから、書類とナイフを鍵のかかる引き出しにしまった。
「医務室へ行く。何かあれば連絡を」
「──」
「どうした?」
返答がないのに眉を寄せれば、わずかに見開かれた目と出会う。訝しげに見返すと、男は慌てて姿勢を正した。
「は。お気をつけて」
その幾分不自然な返答に軽くうなずく。少し考えてから、窓をひとつ開いた。ニコルのキャリアーが集うこの城では、アキラの血は危険物だ。匂いだけで酔ったようになる者も稀にいることを踏まえての配慮だった。男もその気があるのかもしれない。
 硝子に映った自らの眼差しが濡れたような色を滴らせていることに、アキラは部屋を出たあとも気付かなかった。

 空気は雨のせいで湿気を含み、地下への階段は靴裏に吸い付くように感じられた。
 下りきった場所にはひっそりと扉が佇んでいる。それは黒い城に設えられた物よりも装飾的で、把手に指をかけるときに僅かな緊張を抱かせるような、重々しい貌を持っていた。繊細な彫刻の刻まれた扉は、何も知らない者が見たなら美しいと評するのかもしれない。その内部を身を持って知るアキラとしては、けしてそんな言葉を吐く気にはなれなかったが。
 かつては嫌悪と恐怖とを従え、諦念を抱いてこの扉を通った。俯きがちに歩けば視界にうつるのは先をゆくシキの乱れない歩みだった。時折は慈悲を乞うようにその背を見つめたが、心変わりが起こったことは一度もない。まるで見えない鎖に繋がれた囚人のように、アキラは彼の主に従ったのだった。
 今はひとりその扉を開き、ランプを高く掲げる。酷く馴染んだ光景がそこに浮かび上がった。打ちっぱなしのコンクリートの壁と、黒石でできたタイルの床。扉に反して部屋の内部は殺風景だ。艶を出した紫檀のサイドテーブルと、革張りのどっしりとした椅子のほかには、隅にチェストがひとつあるきりだった。
 手のひらの中から、まるで皮膚の一部のように馴染んだドアの把手が滑りだしていく。背後で閉まる扉の音に、密かに安堵の息をつくようになったのはいつからだったか。
 視線を上げる。天井から吊るされた滑車が目に入った。ランプを掲げた手の傷が痛んで、それに呼応するように臍の所有の証が疼いた。
 軍靴の硬い足音とともに数歩の距離を歩く。威厳すら漂わせる椅子の背もたれに触れた。この部屋にあるものはどれもこれも馬鹿げて肌馴染みが良い。初めからではなかった。いつのまにかそうだった。床に膝をつき、座面に頬をつけるようにしてうずくまる。
 シキのための玉座。この国を統べるように、この部屋に君臨するのもまた、あの赤い瞳に他ならなかった。
 だが。
 ──ここは、自分の部屋だった。
 世界中のどんな場所よりもそうだった。
 傍らに置いた洋燈の中で、炎がゆらりと揺らめくのを、閉じた瞳の向こうに感じた。
 何の音も聞こえなかった。ここには外のどんな音も届かない。ただ雨の気配だけが染み入って、ひたりひたりと空気を満たした。目を閉じてしまえば、体温よりもほんの少しだけ低い温度の水の中にたゆたっているような感覚がして、ひどく落ち着くのだった。
 扉以外にはひとつの装飾もなく、ほとんど何もない空間は、だからこそ目的と意図だけで濃密に満ちる。
 熱を持った息を吐く。眉間には浅い皺が寄った。手のひらを握る。傷が痛みの鼓動を鳴らした。泥に沈むように部屋の空気に同化する。耳だけをそばだてて、あとの感覚は眠らせるようにして、アキラは待った。この部屋の、そして自らの支配者が石の階段を下る、音楽に似た足音を。
 扉が開かれるのに音はなく、ただ空気だけがわずかに動いた。
 傍らに立った気配を、アキラは視線だけを動かすようにして見上げた。不遜なのは自覚していた。不興を買いたかった。シキはそれを鼻で笑って、アキラの頬をするりと撫でた。
「機嫌が悪いな。──見せてみろ」
命じられてようやく体を起こす。片手を差し出せば、傷をくるんでいた白布が床に落とされた。
「碌な手当も受けず、か」
「……ッ!」
熱を持った傷にわだかまっていたじくじくとした痛みが、急に鋭いものに変わる。身をかがめたシキが、裂け目に舌を這わせたせいだった。
「自分でやったと聞いたが」
手のひらでその唇の動きを感じ取りながら、アキラは自らの腕を辿るようにして潤んだ視線を上げる。赤い瞳が艶然と微笑んでいた。脳髄が熱を持つ。そのまま溶けるのではないかと思われた。
「……っ、はい」
「ここのところ上の空だったな。手が滑ったか。──それとも」
傷口から移った赤を載せたまま、形の良い唇の描く弧が深くなる。
「わざとやったか」
躾けられたかったのかと言外に問われたのに、アキラはただ視線を引き寄せられるまま主の瞳を見つめた。否と言えばよかった。嘘ではなかった。だが引き結んだ口は開かなかった。
 自らの血を見て最初に脳裏をよぎった思考はなんであったか。この部屋までの道をたどる一歩を踏む度に、昏い熱が体の奥に沈んだ。辿り着けばその重みに引かれるようにして膝をついた。
 はなからそれを目的としていたわけではなかった。けれどたしかに、欲していたのだ。
 残酷な指先を、自由を奪う戒めを。
 唇の端をゆるりと引き上げるようにして、シキはより深い笑みを浮かべた。
「……望みどおりにしてやろう」
目眩がした。
 はじめに縛られたのは両手首だった。続いて身体に沿わすように腕が固定された。
 自由が奪われるにつれて、何かが剥ぎ取られてゆくのを、アキラは感じた。その下に隠しているものが正体を表すのを。それは支配を快楽として隷属を望む、矮小な欲望だった。ずっと目を背けてきた弱さの象徴ともいうべき感情を今は、否定する気にならなかった。
「……っ……!」
最後に強く引かれて締まった縄に、身体が僅かにきしむ。ぞくりと、熱が背骨を駆け上って、そのまま小さな息に変わった。これまでけして手放さずにいた何かが指の間を落ちていき、足元でひそやかな音をたてて砕けた。

「満足か」
余った縄を床に落としながら問えば、アキラは床に向けていた視線をゆるりと上げ、肩越しに俯きがちな横顔を見せた。
 シキはほんの僅かに瞠目する。そこにはこれまで気配だけを漂わせながら、しかしけして表面までのぼってきたことのない何かが、顕れていた。しなやかな獣がその毛並みの下に沈めたもう一つの貌。
 鎖を噛みちぎってみせろと、そう告げたのは数週間前の事だ。はじめの混乱を超えた後アキラは、その視線に問いを乗せたまま、けれど口にだすことは出来ずに、少しずつ沈み込んでいった。職務の最中ですら心ここにあらずと、そんな顔を見せることはこの従僕に限って非常に珍しいことでひどく、興をそそられた。
 そうして極めつけに、これだ。
 高嶺の花と、本人は厭うその軍属らしからぬ呼び名の存外な正しさを、察しのいい者だけが知っている。知っていて、目を逸らし黙すのだ。どうしようもなく引き寄せられるのを、押し隠し、あるいは否定して。それはNicole・非Nicoleの作用だけに依るのではなかった。
 こんなものが、ただのウイルスのせいであるはずがない。シキは口の端から息を漏らすようにして笑う。
 前髪の下の灰青の瞳は、どこか夢を見ているような茫洋としたものでありながら、熟れた熱を宿して目の端に色を滲ませていた。口元から滴り落ちたのはまごうことなき微笑だった。
「……、まだ、」
足りません、と。応えた声は掠れ、濡れている。
「……まったく、面白い」

 聞き取りきれなかった呟きの意味を問うように、アキラは顔をあげた。だがシキの表情を窺い知ることはできなかった。床から抱き上げられ、外見に反して肉厚で柔らかな革張りの椅子の上におろされる。深い座面に体が沈みこんだ。シキは足元に置かれたままの洋燈を指にかけると、すれ違うようにして視界の外に消えた。
 部屋の隅にひっそりと置かれたチェストの引き出しが開かれる音が、背後からアキラの耳をざらりと撫でる。何かかが取り出される気配がした。洋灯が壁の高い場所に設えられた窪みに置かれて、床の上を光の輪が広がる。小さな炎が揺れるたびに明暗を繰り返す、黒いタイルの上に落とした視界の中、尖った靴先が入り込んだ。
 かたりと、何かがテーブルの上に置かれた。ピアノに似た光沢をもつ黒塗りの、見たことのない箱だった。蝶番で閉じられた蓋を開けぬまま、白いグローブに包まれた指がアキラの顎を捕らえた。
「満たしてやる」
シキはひどく美しく笑っていた。アキラの唇を撫でた親指が、人差し指に変わって首筋をなぞる。ワイシャツの襟元にたどり着き、ボタンをひとつ、ふたつ、外した。薄い布越しの指先が肌に触れる、そのたびに、神経の枝がちりちりと小さな火をともした。
「……っ」
「足りんと強請ったのはお前だろう。何を怯える?」
ほんのわずかに首をかしげるようにした、まるで優しげな笑み。その意味するところを、既にアキラは知り尽くしていた。
 縄のせいでワイシャツはほとんど乱れなかった。釦をはずし終えた次はブーツで、その後はベルトだった。前を寛げられ、下衣の下に手が差し入れられて、思わず息をつめる。それは肌の上を滑って、穿いていたものを下着ごとするりと引きおろし、片足だけ抜ききった。
「……、っ」
起こしていた上体が後ろに倒れる。膝裏に差し入れられた手のひらに足が開かれ、両脇の肘掛に掛けられたせいだった。背もたれに寄りかかるというよりは、一人がけには大きすぎる椅子の中に落ち込むような感覚がした。
 既に兆した自らの熱が、目線とほとんど同じ高さに見えた。アキラはわずかに目を見開いて、やがて顔を歪めて視線をそらす。その視界の端で、シキが身をかがめた。
「……!」
まるでかしずくように床に膝をつく、その行為の意図するところを、一瞬遅れて理解する。血の気が引いた。
「閣下! おやめくださ……、ッ!!」
静止の言葉を言い切る前に、ぬるりと熱い物にその器官が包まれて腰が浮くような感覚に襲われた。一瞬、脳が快楽に飲まれる。あわててそれを振り払って、抵抗しようとしてから腕が自由にならないことを思い出した。縄がみしりと肌に食い込む。
「……ッ、こんな、……ッ」
濡れた声を呑みながらの切れ切れの拒否の言葉を汲み取る気は、シキには全くないようだった。舌が雁首をぐるりと巡る。せり上がる感覚に乱れた息を、口の端から熱とともに逃がしながら、アキラは彼の主を睨みつけようとした。
 逆ならば、よかった。かつては屈辱でしかなかった口での奉仕は、今ではむしろ快楽をあおる行為に変わっている。だが、自分がそうされることにはどうしても耐えられなかった。抵抗がかえって相手を喜ばせるのだと思い至るのに、いつも少しの時間を要した。
「……っく、ん……ッ」
熱が溜まって腰が痺れたようになり、身体は意に反して跳ねた。ばたつかせた足を押さえ込まれ、無駄を悟る。せめてと噛んだ唇の隙間からは上ずった声が漏れた。
 濡れた音に、耳をふさぐ代わりに強くまぶたを閉じて、けれど感触が浮き彫りになるようであわてて開く。瞬間、赤い瞳と目が合った。逸らすことが出来ない。シキはアキラの視線を絡めとったまま、勃ち上がったアキラのそれに横から唇を這わせた。
「ッい、あ……!」
根元から先端に向けて舐め上げられ、軽く歯を立てられる。鋭い痛みに、けれど思わず漏らした声には甘さが滲んだ。最後に赤い舌で鈴口を抉られて、僅かな痛みに体を強張らせると、ようやく開放される。
「いい加減慣れたらどうだ」
そう笑いながらアキラの腹に手のひらを滑らせる。うっすらとかいた汗が、荒い呼吸に上下する胸にシャツを張り付かせていた。ピアスに触れられてびくりと震えた体を、宥めるように軽く撫でて、シキは立ち上がる。
 肘掛けに掛けられ大きく開かされた足を、アキラは無意識のうちに動かした。直後、するどく膝を打たれる。思わず手の主を見返せば冷笑に迎えられた。勝手に動くことは許されていないのだと、瞬間悟る。
 無防備にさらされた身体に高みから視線を注がれて、アキラは小さく震えた。顔を背けるのを止めることができなかった。主はそれを喉の奥で笑う。
「さっきまでの威勢はどうした? 足りんと強請った、あの淫蕩な顔はどこに隠した」
「……ッ」
ゆっくりと、わざと抑揚をつけた言葉を落とされ、膝が肘掛けのさらに奥に押しやられる。シキは出来たスペースに横から寄りかかるようにして浅く腰をかけ、もう片手を反対側の肘掛けに下ろした。アキラの視界の半分を支配者の姿が占めた。まるで狭い場所に閉じ込められているかのような感覚に陥る。これでは戒められた上半身はもちろん、首以外ほとんど身動きができない。
 シキが椅子の横、サイドテーブルに手を伸ばすのが見えた。そこに箱があったことを思い出す。蓋を止めていた金具がはずれる、かちりという金属質の音がひどく大きく聞こえた。
 白グローブの手が戻るのを、顔を背けていたことを忘れて目で追った。その指が挟んでいたのは、ほんの僅かな曲線を描く、銀色の細い棒状のものだった。丸みを帯びた先端には小さな穴が開いており、それがどうやら筒状であるらしいと知れた。
「……?」
だが何に使われるものかは全く想像が及ばなかった。いくつか、こういった行為に使われるものを目にしたことはあるし、意に反するとはいえ体に覚えもある。けれどそれは、そのどれにも似ていなかった。開いた手のひらの端から端まで程度の長さをもった金属は、傷一つなく滑らかに磨き上げられ、部屋の隅の揺れる洋燈の光を反射している。
「わからんか」
シキの声に、自分がそれを凝視していたことに気付いた。そろりと視線を動かす。そうして、肘掛けから下ろせぬようにほとんど固定された自分の足と、先ほどの口での行為によって濡れたままの、勃ち上がった自らの雄が目に入った。
 体が強張った。
 動悸が急速に激しくなる。まるで心臓が胸全体に広がったかのような錯覚。見開いた目でシキを見つめる。笑みを湛えてひどく美しく、殊更に鮮やかに血の色をたたえた瞳は、獲物を弄びながら追い詰める肉食の獣の光を宿していた。身動きできない体で、それでもアキラは少しでもその銀色の輝きから離れようと無意識にもがいた。だが、椅子はほとんど二人分の体重を受けていてなお、軋むことすらしなかった。
 必死で動かそうとしていた膝の上にシキの手のひらが乗った。
「閣下……!!」
まるでさり気ない動きだのに、足は動きを完全に封じられた。それが尚更アキラを恐慌に引きずり落とす。
「……ッ!!」
「こちらを見ろ」
アキラの焦りに上ずった声とは対照的に、シキの声音は相変わらずなめらかに低く、まるで音楽のようだった。それでいて、有無を言わせぬ強い力を持っている。
 びくりと体を震わせて、見開いた目が赤い瞳に覗きこまれる。シキの視線は眼窩から入り込む見えない指になって内側を蹂躙した。温かく柔らかな脳を直接、撫でられている。逃れられない。
「お前の大好きな、痛みをやろう。──アキラ」
ひどく優しい響きで名を呼ばれて──ひゅ、と喉が締め付けられたような音をたてる。ずぐりと、まるではじめて貫かれた時のように臍のピアスが痛む。背で戒められて今は身体と柔らかなクッションの間に挟まれた、手のひらの横一線の傷も同じだった。声だけで、快楽を引きずり出される。抗いようもなく。
「いい子だ」
「……ッ、……!」
触れられてもいないのに産まれた熱は鼓動と同じ速さで脈打って、ざわりと背中に鳥肌をたてさせた。拡散していた熱は腰に落ちて、萎えかけていた場所を張り詰めさせる。
「……っ、嫌、だ……!」
先端から滲み出しぷくりと玉になった水滴が一滴、糸を引いて腹の上に落ちた。
「やめてください、閣下、おねが……ッ!」
懇願は、鈴口にひたりと当てられた銀色の輝きの、その質量に引きつるように途切れた。指は勿論ペンよりも細いそれが、今はひどく太く感じられた。震える口元はそれ以上言葉を発しなかった。諦念というよりは、ありえざる現実の前にどんな言葉も忘れたのに近かった。
「楽しめ」
残酷に優しい、声が耳朶に滴り落ちた。
「……ッ!」
押し広げられる感触に体を固くする。
「…ッく、う……!」
指先でなじられたことなら何度もあった。それはほとんど痛みだけをもたらして、だからこその快感だった。だがその感触と、今与えられているものとは違っていた。むしろ痛みは少ないかもしれなかった。その僅かな安堵が、強ばっていた体を一瞬弛緩させた。
「ぁあ……ッ!!」
見計らったかのように押し進められる。未知の場所が拓かれる感触が、より凶暴な恐怖となってアキラを襲った。だが暴れることは出来なかった。先ほどまで膝の上にあったシキの手が、今はアキラ自身を軽く握りこむようにして支えている。下手に動けばどうなるかわからなかった。
 短く速い自らの呼吸の音。それが半ば恐慌に陥った頭をいっぱいにする。
「う……っく、やめ、……うぁッ、……!」
「ほら、もう半分だ」
目の前でゆっくりと、自らの器官の中に飲み込まれていく。あるかなしかのS字カーブの山のひとつはすでに体内にあった。信じられなかった。
「……ッ!」
ぬる、と僅かに引き出される感触に背が跳ねる。
「嫌だ嫌だと喚きながら甘い声を漏らす。いつもそうだな、お前は」
「ち……っ、ちが、い……ッ!」
「何が違う」
再び奥へと差し入れられる。
「うぁ……ッ!」
小刻みに出し入れを繰り返され、少しずつ奥まった場所に突き進められる。鈍い痛みはじわじわと下肢を蝕み、思考を痺れさせる。
シキは目を細めると、アキラの雄を支えていた指の輪を、銀色の棒が挿しこまれ拡げられた先端に移動させる。
「……っ」
ぬるりと濡れたそこから、根本へ向かってストロークされれば、自ずとその内側の異物感が強調された。すでに三分の二が体内にあった。
「……ん……っ」
噛み締めた口の端から鼻にかかった息が漏れた。先ほどのシキの言葉をそのまま証明するかのような有り様に、尚更きつく奥歯を噛む。だがそれは、次の瞬間びくりと背を逸らした弾みにほどけた。
「あ……!」
ぬめりを伴ったまま足の間を撫で下ろしたシキの親指が、後ろの窄まりにあてられていた。ひくり、と喉が震えて、同時にただ指が乗せられているだけのその場所が、欲しがるように蠢いたのが自分でもわかった。
「先程から随分と物欲しげにしていたが」
「あ、は、……っ!」
膝頭が跳ねた。親指の先端が埋め込まれたせいだった。不意に与えられた慣れた快楽の、その先を強請るように勝手に腰がうねる。
「淫らだな」
「……! あぁ……ッ」
親指を回すような浅い刺激を与えられれば、がくがくと勝手に腰が揺れる。指を奥へと誘いこむように、内側が蠢いていた。羞恥が頭を染め上げる。しかし身体は理性を無視して、苦痛の中に与えられた甘さに逃げ込もうとしていた。止まらなかった。
「……っふ……、」
 すすり泣くような情けない息が漏れた。椅子の背凭れに頭を擦り付ける。だがいくらアキラの身体が欲しがる素振りを見せても、それ以上指が進められることはなかった。
「……ッ! も、やめ……っ!」
黙って見下ろしていたシキが、再びアキラ自身に埋めんだままの銀色の先端に触れる。また数ミリ、奥へと押し込まれた。すぐに引き抜かれ、再び奥を穿たれる。じわじわとした痛みが繰り返される。時折後ろを抉られ、それは思いの外強い快感となって背骨を灼いて、そのあと散り散りの熱に変わって腰に落ちた。
「……! う……っく、ぁ……ッ」
やがて欲しがる場所を無視されたまま施される挿送が、少しずつはっきりとした快楽に変わりはじめる。体温と同じに温まったなめらかな表面の金属に、圧迫感はあっても異物感はもはやほとんどない。押し広げる感触は僅かな痛みと、熱をもたらした。なによりシキの手によるということに、正体不明の高ぶりを感じ始めていた。
「……ふ、ぁ……、……!」
じわりと、犯された場所から溢れだした甘さが腰全体に広がる。ほんの僅かな間、羞恥や苦痛を快楽が上回った。体が熱を持って、汗が滲んで目が濡れる。ようやく訪れた熱は、あっという間にアキラを包みこんだ。無意識のうちにそれにすがりついて、快楽を追って目を閉じる。
「……は……ッ、う……」
強ばっていた体に力が入らなくなっていく。ゆるく顔を横に振ると、弾みに鼻筋の上を快楽の涙が一粒落ちた。
 思考がどろりと溶けだそうとする。その瞬間だった。
 金属の先端が、奥のある一点をついた。
「ッあ! あ……!?」
縛られた身体が盛大に跳ねてきしんだのを、一瞬遅れて気付いた。強すぎる快感はさらに遅れて知覚に到達して、口を内側から割り開く。
「……ッああぁ……ッ!」
「ここか」
「────ッ!!」
同じ場所を再びえぐられる。なにが起こっているのかまったく理解ができないまま、痛みに限りなく近い快楽に鋭く背骨の終点を灼かれた。
「あッ、あ、──ッ!  あ゛、ぁああ……!」
ゆるく同じ場所で出し入れを繰り返される。そのたび背の骨を砕くような熱に貫かれる。口から悲鳴に近い嬌声をあふれた。仰け反った体に縄が食い込んで、みしみしときしんだ。
「いっ……! く、うぁ……!! ……! 」
酸素が、足りない。
 叫ぶために口を開けても、肺の中にはもう吐き出す空気が残っていなかった。拒否も静止もかなわない。そうすることに意識を割く余裕はまったくなかった。
 目の前が、真っ白に染まる。
 電流の中に投げ込まれたような強すぎる感覚の中で、神経が過負荷にふつり、焼き切れた。
 だがブラックアウトした意識はすぐに呼び戻される。破裂音のようなものを聞いた気もした。身体は痙攣を繰り返して、視界は涙に歪んでいた。忙しい呼吸のまま、呆然をシキを見上げる。頬を張られたのだとは遅れて気付いた。ワイシャツが濡れて肌に張り付いている。それが汗だけのせいではないことは、鼻を突く青い匂いが証明していた。
「まだ、だ。アキラ」
「……っ!!」
顔が引きつるのを感じた。
「無理、です、やめ……ッ……!!」
引きぬかれていたそれが、再びアキラのその器官にあてがわれる。意に反してそこは高ぶったままで、初めよりもスムーズに飲み込んでゆく。
「……っあ、う……ッく、っあ!」
背骨を蝕むような快感は、その先の行き過ぎた快楽を予想させた。悦いというにはあまりに強すぎる感覚を伴う場所の、ほど近くをじわじわとなぶり、時折かすめるようにして金属を挿送される。そのたび、先程のようにされるのではないかという恐怖に反射的に身を強張らせる。
「っふ、ぁ……っ、いや、嫌だ、あぁ……ッ!」
何度も強引に頂点に導かれた。射精しなくとも達して、身体だけが勝手にびくびくと跳ねた。顔は生理的な涙と飲み込みきれなかった唾液で濡れた。腹や下肢もぐしゃぐしゃに汚れているのがわかった。無理やり引きずり出される強すぎる快楽は、苦痛と同義だった。
「……痛みが快楽にしかならんとは、仕置の方法を探すのも骨だ」
やがて呆れを含んだ笑みとともに、飽いたようにシキはアキラを苛むのをやめた。
「……、は……、……っ、……」
荒い呼吸を繰り返しながら。アキラは虚ろな目で緩慢に主を見上げた。眼球の動きは鈍く、言葉の意味を理解できているのか怪しかった。
「これが、お前の求めたものだろう」
シキは従僕の額に手を伸ばす。汗で張り付いた前髪を避けてやると、青い瞳が幾度か疲労を滲ませた重たげな瞬きをした。そのまま閉じたままになるかと思われた瞼は、震えるように開いて、その下からは物言いたげな眼差しが現れる。
「なんだ」
子供をあやすような声音で、シキは問う。
「……、欲しいのは、いつだって──……、」
アンタだけだ。
 荒い息の合間、殆ど声にもならないその音は、けれど確かに所有者の耳に届いた。
「……随分と、不遜な言葉を吐く。それが本音か」
咎める低い声には、しかし蜜の艶があった。酷く甘いものを脳髄に直接垂らし落とされたような感覚に、アキラはわずかに眉根を寄せて目を細める。麻薬の煙に似ていた。不安定な意識は酩酊へと誘いこまれ、絡めとられる。
「……痛みを、……ください、……」
「まだ罰を強請るか。苦痛が仕置にならんお前が」
からりという音がした。先程までアキラを苛んでいた金属が床に落とされたせいだった。それは澄んだ音を後に引きながら数秒の間転がって、止まった。
 アキラは少しの間、赤い瞳をただ見つめた。まるでその中に答えを探すように。そしてそのまま小さく、否を唱える。
「痛みは、……、」
そうして、アキラは不思議な表情を見せた。涙や、飲み込みきれなかった唾液のあとを残したままの顔は、嵐が去った後のように凪いで澄んでいる。やがて滲ませたほんの僅かな笑みは、花弁の先に青みを残した花が、咲く時期を間違えてほころんだようだった。
「貴方、そのものだ、……シキ」
シキはしばらくの間、ただその顔を見下ろしていた。やがてアキラの頬に手を伸ばす。両手で掬い上げるようにしながら、青い瞳を覗きこむ、その顔からは一切の表情が抜け落ちていた。
 真っ直ぐにシキを見つめる青灰はどこまでも透き通り、それでいて底が見えなかった。誘うのではなかった。だが喚んでいた。
「……そうか」
小さく呟くと、シキはアキラの唇に自らのそれを重ねた。ほんの一瞬、ぬくもりだけを落とすようなくちづけを放した時、そこには今まで見せたことのない種類の笑みが浮かんでいた。自信に満ちた覇者の笑みでも、皮肉げに唇を歪めるのでもない、ただ柔らかな微笑は、世界を蹂躙する暴虐の王にはおよそ似つかわしくないものだった。
 たった数秒のことだった。言葉をなくしたアキラの前で、その表情は血が水に流れ落ちるように消え去った。
「……閣下……?」
問う声には答えないシキの手が、体を縛る縄にかかる。アキラは血の気が引く音を聞いた。
「……っ、」
──放されたくない。
 その思いが頭を占める。
 すでに体は限界に近かった。もうやめてくれと、はっきりと言葉にならないまでも、うわ言として繰り返した直後だった。それでもとっさに向けた眼差しは懇願の色を帯びる。気付いたシキは、口の端から息を漏らすようにして笑った。
 体が浮くほどに顎を強く捕らえられて引き寄せられる。骨がきしんだ。至近距離で覗きこんでくる赤い瞳に、既視感を覚える。なにもかも顕にされ、内側まですべて手に取られ眺められているような、焦燥にも似た感覚。
──あの日と同じ目だ。
 廃墟のトシマから、はじめの一歩を踏み出した日。
「……お前は思い出すだろう」
逃がさないと、そう告げられた日。
 聞こえるはずのない雨音が耳朶をうった。
「自由になればなるほどに、この縄のきつさを、──戒めの感触を」
ぞくり、と、熱とも悪寒とも取れないものが背筋を駆けあがる。
 悪魔のように美しく微笑む、その赤い瞳には狂気が燃えている。
「心配しなくとも、まだ終わらせん。……外せ。可愛がってやる」
口元に白グローブの指が寄せられた。飢えた獣の前で、目を見開く他なすすべのないひとのように、アキラは唇を震わせる。それはそのまま所有者の名前に変わった。
 シキは答える。嵐が不意に凪いだ時の静けさを思わせる声で。
「アキラ」
どく、と、心臓が脈打つ。
 ほどけて滑り落ちた縄が、椅子の上や床に蛇が死んだような音をたててこぼれた。

 *

 ゆっくりと意識は覚醒して、目を開けば数歩先に部屋の扉があった。
 手のひらのしたには肘掛けの、木製にしては冷たく硬い感触がある。椅子の上に座る格好で眠っていたようだった。
 地下室に、すでにシキの気配はない。アキラは暫くの間、夢うつつのまま目の前の扉を眺めた。視界がゆらゆらと明暗を繰り返している。壁に置かれた洋燈の芯が短くなって、炎が酷く不安定に大きさを変えていた。
 視線を自らの膝に落とす。身につけたものはさらりと乾き、肌を滑った。意識を失っている間に、体が清められ着替えさせられたらしい。
 霞がかかったように頭がはっきりしなかった。どのくらい時間がたったのだろうかと、ぼんやりと背凭れから体を起こし立ち上がりかける。瞬間、息が詰まった。
 身体のあらゆる場所がきしんで痛みを訴える。
 そのまま、一歩も歩けずに床に崩れた。何が起こったのか理解できずに再び立ち上がろうとすれば、膝ががくがくと笑った。足にほとんど力が入らない。結局2,3歩進んだところで、再び視界が落ちた。黒いタイルと、そこについた手を呆然と見下ろす。めくれたワイシャツの袖下から覗く手首の縄の痕と、そして赤い手形が目に入った。
 体中に残る痕跡が、目を覚ましたかのように熱を持って燃え上がる。肉が裂けるほどになぶられたピアスの傷の痛みに貫かれて、アキラは呻いた。だがそれは、ただ喉を空気が出入りする音に過ぎなかった。声が完全に枯れ果てていた。
 意識を失うまでのことが走馬灯のように思い出された。肉食の獣に体を食い荒らされれた感触。足りないと心臓に爪を立てるような、臓腑に牙を突き立てるような、貪り方をされた。身体に力が入らないのは、既に骨しか残っていないからだと言われても納得がいった。
 血が溢れるほど歯をたてられ、傷口を吸われた。感覚がなくなるまで揺さぶられた。ただ、気を失っても、それまでのように手荒く目覚めさせられることはなかった。眠りとは似て非なる短い時間の後にアキラが意識を取り戻せば、途切れた時と同じ体勢でシキはこちらを見下ろしていた。そうして形の良い唇の端を引き上げてささやくのだ。まだだ、と。
 シキの肌の下には、酷く生々しい、渇きや飢えの気配があった。
 いっそ痛々しいほどのそれは、何故かアキラまでも傷つけた。忠誠を誓い、何もかも捧げた。いのちも魂もすべて明け渡した。最早差し出せるものなど何も残ってはいないのに、それでも尚、足りないのかと。ならば満足するまで喰らい尽くし支配し尽くせばいい。アキラは思った。だが同時に、シキはそうはしないだろうことを、どこかで気付いていた。後ろから腰を抱き込まれるようにして貫かれ床に爪を立てながら、焼ききれそうな意識の中、時折ひたひたと押し寄せた感情は、どこか悲しみに似ていた。寂しさだったかもしれなかった。それが何と呼ばれるものなのか、アキラは知らなかった。心臓の傍に空虚な穴があることを知らされるような感情は、溢れでたばかりの涙や血と同じ温度の熱を持っていた。たまらなかった。
「……っ」
胸をかきむしりたいような衝動に駆られて、顔を上げる。目の前には扉があった。内側からしか鍵のかからない、それが。
 這うようにして、歩き出す。
 辿り着いた扉の把手を支えにして立ち上がる。扉は静かに開いて、支えをなくしてまろぶように、アキラは部屋を出た。雨の匂いがした。それから濡れた土の。
 階段は立ちふさがるように伸びていた。削りだされたままの石の表面に爪を立てるようにして登りはじめる。
 痛みは時折動きを止めさせ、息をつまらせた。けれど同時に自らの体の形を確認させもした。熱く、──甘く。
 奥歯を強く噛みながら、アキラは頭上を睨んだ。
 シキ、と、その唯一の名をつぶやく。
 それだけで、肺の中を何かが満たす。
 それが自分を突き動かす全てだった。何にも代えがたく、全てだった。
 あの狂気に寄り添い、飢えた獣の腹を満たせるのなら。この、胸の内から切り刻まれるような痛みのためならば。
 何にでもなってやろうと、思った。

end.

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