アキラと猫のシキをめぐる熾烈な闘い(になるはずだったもの)

 アキラは猫が好きだ。
 仕事に余裕があれば、黒い城の片隅を通る猫の道に、適当な昼食を片手に訪れる程度には、好きだ。
 だからその日、昼を終えたアキラが執務室の扉を開けたときには、願望が幻を見せているのかと思った。主が座っているはずの長机にその姿はなく、代わりに耳を立てるようにしてこちらを見つめる猫がいたのだ。
 うっすらと青みを帯びた、美しい灰色の皮毛。瞳は縁がほとんど黄色に近い淡いグリーンで、中心に向けて青色を増す。縦に切れた瞳孔がすうと細まったかと思うと、猫はトッと軽い音をたてて机から飛び降り、アキラの前を横切って書斎の方向へ走っていった。そのまま奥の部屋から現れたシキの足に、なめらかな曲線で出来た体を擦り寄せる。
「……どうなさったので」
「知り合いから預かることになった」
猫は歩き出した長い足に、邪魔にならぬよう、だがけして離れもせずについてくる。シキが身を屈めて片手を差し出すと、慣れた仕草で腕に乗った。体を起こすのに合わせてうまくバランスをとり、最終的にシキの肩に両手をかけるようにして抱かれる。額をシキの顎に寄せ、喉を鳴らした。
「随分なついていますね」
「そうらしいな」
アキラは書類を長机の上に置くと、誘惑に耐えかねて猫の背中に手を伸ばした。だが触れる寸前、猫はするりとシキの肩を上り、頭の後ろを通るようにして逆の肩に移動した。
「抱いてみるか」
再び喉を鳴らしながら、シキの頬に鼻から額をこすり付ける猫の後ろ首を掴むと、シキはアキラに向かって無造作に、だが意外にも慣れた様子で差し出した。
 密かにうきうきわくわくとした気持ちを抱きながら、抱き取るために手を伸ばす。だが一瞬その胸に受け止めた猫はあっという間に腕の中を抜け出して、床に降りた。そして再び、シキの足にしなやかな体をよせる。
「……」
「嫌われたな」
主は微笑を浮かべながら小さな体を抱き上げる。その胸の中で、猫はちらりとアキラを振り返った。だがあとは一顧だにせず、ひたすらにシキを見上げ、その肩や首や顎に体をすりつけるのだった。

 猫は海外在住のシキの知人が、ニホン国内を観光する間預かったものらしかった。つい最近飼い始めたということで、未だ成猫ではない。腹の丸みや、ふわふわとした毛といった子猫の特徴は見受けられないが、ほっそりとした体は確かに、少しばかり小さいように思えた。
 鳴かない猫は、書類仕事をするシキの傍に静かに添って、一人遊びをしている。それなのに、なぜかアキラがシキに話しかけると、必ず二人の間に割って入った。説明の最中に書類の上で腹を見せ、シキから受け取ったばかりの書類にじゃれついて破り、アキラがシキの端末にメールを送るといえばキーボードで爪を研いだ。それでいて、アキラが触れようとするとするりと抜け出してシキの元に駆けていく。そしてシキはそれを笑って許し、抱き上げ、あるいは背を撫でてから横に避けた。
 アキラとて、猫はかわいい。とてもかわいい。犬も好きだが、どちらかといえばやはり猫だ。はじめのうちはシキが羨ましかった。細い毛先は光があたると白く見え、いかにも柔らかそうだった。通った鼻筋の先の髭は時折風もないのに揺れ、一心にシキを見つめる丸い瞳は愛らしくも理知的な光を帯びる。牙も露わにあくびをし、舌を出して顔を舐め、シキの様子をうかがって、構ってくれないようならば出来るだけ傍に寄ってから、しっぽを引き寄せ毛繕いする。かわいらしすぎて、気が狂いそうだった。
 だが、猫による示威行為が繰り返されるにつれ、だんだんとその気は失せ始めた。時折アキラに向けられる猫の冷たい瞳は、完全に「邪魔をするな」と言っていた。たった数時間前に現れた存在が、数年連れ添ったアキラに、だ。とはいえアキラは人間だった。猫ごときに腹を立てるなどばかばかしい。なによりやはり、かわいい。
 撫でさせてもらうのは完全に諦めたアキラだったが、すぐ近くで実物が毛繕いをしているのは、眼福と言わざるを得なかった。
 午後いっぱい、幸福とも歯痒いともつかない時間が過ぎた。その日の業務を終えて帰るという段になって、シキはアキラの用意したスプリングコートを羽織ると、猫を抱き上げた。
「……連れて帰るんですか」
「ここに置いていくわけにもいくまい」
確かにその通りだった。重要書類から認可の判まで、すべてこの部屋にあるのだ。いたずらされたらかなわない。
 微妙に領域を侵犯されているような気分と、どこかうきうきとした気分の両方を味わいながら、アキラはシキを追って屋敷に戻った。
 私室で、猫は殆どシキの膝の上にいた。仕事中もそうだったが、主の邪魔をすることはけしてなく、ひどくおとなしく鳴き声も上げない。猫とはこんなものなのだろうか。それとも、この猫が特別なのだろうか。まるで最初から、シキの好みを知っているかのようだった。
 猫はアキラの用意した餌を、すぐには食べなかった。だがその背中をシキがほとんど撫でるのと変わらない軽さで叩き、行け、と小さく命じると、ようやく膝を離れて餌に向かってきた。そしてアキラの顔を見もせずに、高級猫缶をそのときばかりは野生の垣間見える顔で、噛みつき咀嚼し、あっという間に平らげると丁寧に皿まで舐めて、そして再び読書を続けるシキの膝の上に戻って毛繕いをはじめた。
 おもしろくなかった。
 だが、可愛い。
 アキラが風呂から上がり、いつものように自室ではなくシキの部屋に戻ると、猫の姿がなかった。訊けば既に寝たという。夜行性ではなかったか。それとも人とともに暮らす内に、生活リズムも同じになったのか。あるいは時差ぼけの一種か。よくわからないが、見れば確かに、部屋の隅に用意された猫用の寝床の上に、丸い毛玉と化した姿があった。
「今なら撫でられるかもしれんぞ」
覗き込むアキラの背後で、シキはそう笑う。最後の方は諦めていたとは言え、ほとんど一日中撫でる隙をうかがっていたことを知っているのだ。
「いえ、もう」
だがアキラにその気はとうに失せていた。むしろ、と。
 肩越しに振り返れば、背後に立ったシキの、いっそ女性的なほどにすらりとした顎の線が見える。その下、わずかに緩んだタイに指をかけた。シキはほんの僅かに、目を見開く。
 なんだか今日の午後はずっと、お前はいらない、自分とシキの間に割り込んでくるな、まあ世話係としては許してやるが、出来るだけ気配を消せ、早くどこかに行け、と、そう言われているような気がしていた。
 猫とはこうしたものなのだろうか。暫定の飼い主に、ここまでの執着と独占欲を見せるような。
「……妬いたか」
「少し」
 軽くタイを引いて、口づけをせがんだ。そんなふうにしたのは、初めてのことだった。主は興をそそられたように目を細めると、アキラの望むままに頭の位置を下げる。届く距離に近づいた唇に、唇で噛みついた。シキがわずかに口を開く。誘われるように、舌を差し出す。温かく、柔らかい粘膜の奥から、もうひとつの舌が答えを返す。
「ん……、ふ、」
舌先をすりあわせながら、さらに交合を深めようと顔を斜めにしたときだった。
 足元から、猫の鳴き声がした。

 猫はことごとく、アキラの邪魔をした。
 無表情のシキに叱られてから、仕事の妨げとなる問題行動はなりを潜めたが、そのかわり夜、屋敷に戻ってからの妨害はすさまじかった。
 アキラがシキに近づこうとすれば、その傍を走り抜け一足先に膝に乗り、あるいは腕に飛び込んだ。餌は相変わらず、シキの指示がなければ食べない。シキの風呂にはついていく。猫用の寝床ももう使わなかった。当然の顔で、シキの傍に潜り込んだ。
 たかが猫とはいえ、意志のある生き物のそばであれこれの行為に及ぶ気には、アキラはなれなかった。それはシキも同じらしく、アキラに触れることは幾度かあったが、都度そのときばかりはしっかりと鳴く猫に、行為は中断された。
 アキラは三日目までシキと猫と同衾した。夜中何度も蹴られて目を覚ましたが、ほとんど意地だった。だが四日目以降は、猫を相手に張り合うのもどうかと思われて、自室で寝ることにした。どうせ、そのうち元の飼い主の元に戻る猫だ。だが六日目の昼、シキから先方が旅先で入院することになり、猫を預かる期間が一週間増えたと聞いたときには、少しだけリアクションが遅れた。シキの肩章に爪を乗せて首筋に額をこすりつけていた猫が、一瞬振り返ってアキラを鋭く睨んだ、気がした。
 そのころからだったか。
 シキがアキラの名を呼ぶたびに、アキラだけではなく猫も返事をするようになった。丸くなって寝ていようが、足を開いて腹を毛繕いしていようが、シキの『アキラ』という声を聞けばぴんとしっぽをたてて、主の足元に向かった。お前もアキラかと、笑って撫でられれば満足げに、喉をごろごろと鳴らしながら白い指先に押しつけた。その光景のそばで、アキラは為すすべもなく、立ち尽くした。
 猫との闘いには、完全に負け続けた。
 というよりも、相手にしないでいるうちに完全にシキをとられた。
 仕方がないといえば仕方がない。というより、相手は猫だった。相手にしようがなかった。一人寝が寂しいとは言わないが、少しだけ空しかった。いつもそばにあった体温がない。それだけで、シーツが硬く冷たく感じられ、静寂が身体の周りでこごるようだった。これまでにもシキだけが遠征に向かった折など、なんどか経験はあった。しかしまさか、猫に、シキをとられてこんな気分を味わうとは。わき上がる感情は複雑に過ぎた。
 眠りかけていたアキラが、すぐ傍に人の気配を感じて目を覚ましたのは、10日目のことだった。
「うちの犬は、随分と我慢強いな」
ぎしり、とベッドがきしんだ。追って、シキの匂いがした。
 珍しく邪魔は、入らなかった。

 翌朝、アキラは指先にざらざらとしたものを感じて目を覚ました。少し、痛い。にあんにあんと、甘えるような声が聞こえる。
 ベッドの上にうつ伏せに眠っていた。はみ出て落ちた指を、ざりざりとした舌で舐めているらしかった。多分、窓側の奥に横になっているシキと勘違いしている。きっと匂いが残っているのだ。手の甲に柔らかな感触。鼻をすり付けられているらしかった。ふ、とアキラは笑うと、その手で猫をすくい上げた。
 自分を抱き上げたのがシキではないと知って、猫は一瞬硬直した。暴れ出す前に、シキの胸の上に乗せてやる。主は既に目を開いていた。
「寛容だな」
シキは、あっというまに布団の中に潜り込んだ猫の頭を撫でる。
「貴方が猫と戯れているのを見るのは、嫌いじゃない」
アキラは珍しく、微笑みらしきものを唇に乗せた。
 動物に対するとき、彼の主はほんの少しだけ、眼差しを柔らかくするのだ。犬や猫に語りかける低い声は、小さいが甘やかといえるほどだ。
 それは人間に対しては、けして発されない種類の声だった。
 犬もいいが、猫のほうがより多くの表情を引き出してくれる気がする。
 アキラは、猫が好きだ。

end.