盤上

 本棚の片隅から現れた懐かしい本に、アキラは数秒の間まじまじと見入った。
 部屋には外からの蜩の声が沁み込んでいる。日が長い時期とはいえ、こんなに明るい時分に仕事を終えることができたのはいつ以来だろうかと考えながら、シキの私室の掃除をする最中のことだった。
 彼の主はプライベートスペースに他者が立入ることを好まない。黒い城の書斎と、この寝室を兼ねた私室は、自然アキラが管理することとなった。とはいえ、どちらも上品で質の良い調度品がそろえられているものの、物そのものは多いとは言えず、それほど手間の掛かる仕事ではない。
 周囲より一回り小さいせいで奥に入り込んでしまった本を見つけたのは、壁面の半分を占める本棚の埃を払っていたときだ。金字銀字で美しく装丁された上製本が多く並ぶ中にあって、それはひどくみすぼらしく異質に見えた。なんとなしに引き出してみて、自分のものと気づいてはっとする。その小本は軍に入り、シキの側近くに自らを定めた際に、意地の悪い笑みとともに放り投げるように与えられたものだった。かつて身に着けるようにして持ち歩いたせいで、よれて多少汚れてたそれは、言葉遣いや、書類や手紙などの書き言葉の基本が記されている。
 懐かしさに、本棚の整理の途中でありながら手を止めてページをめくる。角の折られた頁や、チェックをつけた痕跡が残っていた。
「──何をしている」
不意に背後から掛けられた声に振り返れば、扉を後ろ手に閉めるシキの姿があった。脱いだ軍服の上衣を掛けた片手に、品のいい包装紙に包まれた箱を持っている。
「いえ、──そちらは?」
シキは視線を箱に向けると、アキラの前を通り過ぎソファに腰を下ろした。ローテーブルで、ペーパーナイフを使って包装紙を開けていく。その動きに吸い寄せられるように傍らに寄った。覗きこめば、贅を凝らしたチェスセットと、どこかで見た覚えのある化粧箱が現れる。深い緑の地に、セリフ体の金文字がたった一行のみ印字された箱には、黒みを帯びた琥珀色のウイスキーが入っていた。
「S氏からですか」
海外任務で世話になった老人の名前を口にする。暇つぶしにと、アキラにチェスを教えたのは彼だ。技量は雲泥の差だったが、老人はゲームそのものよりも相手があることを楽しむように見えたのを覚えている。洋酒も彼の国で殊に名の知られた銘柄だ。たった数カ月前のこととはいえ、懐かしむようにわずかに和らいだ視線をむけていたが、しかしそれも瓶のラベルに書かれた数字に気付くまでだった。
「……これは」
「例の議員が最期に飲んでいたものと同じだな」
シキは瓶を軽く揺らすと、窓の外の光に透かすようにした。何十年もの歳月を経ていながら、濁ることなく黄金色に光を透過する酒は、テーブルの上に戻すと、赤みを帯びた黒と見まごう色にたゆたった。
「お前は何を見ていた」
シキはチェスセットから幾つか駒を取り出し、その繊細な細工を眺めながら問う。
「……これを」
何か気恥ずかしいような感覚を味わいながら、手にしたままだった小本を差し出した。主はほんの僅かに瞠目したのち、唇で弧を描く。受け取ると、組んだ足の膝の上でぱらぱらとめくった。
「懐かしいものを」
アキラに言葉遣いや、軍内部での所作を仕込んだのはシキだった。アキラが心身ともにシキの元に下ったことで、それまでの『躾』は一部が『教育』に変化した。この本は、その象徴のような存在だ。ただ、作法にしろ言葉使いにしろ、結局は実践の中で身につけていくしかない。言葉は生き物で、最終的に必要になってくるのは場を読み最適を選択する機転だと、あれはどこで聞いたのだったか。白いシーツのイメージが浮かんだのを、追い出すようにアキラはややきつく目を閉じ、開いた。締めたままのタイが少し息苦しい気がして、位置を直すふりをして少しだけ緩める。
「手間のかかる生徒だったな、お前は。酒の飲み方すら知らなかった。……ちょうどいい、付き合え」
その言葉がテーブルの上でわずかに水面を波打たせている、濃い色のウィスキーを指していると気付いて逡巡する。その僅かなゆらぎを汲みとって、シキは鼻を鳴らした。
「嫌か」
「いえ、」
アキラとてそれほど酒に弱いわけではない。今なら自分にとっての適量を見定めることも出来た。明日の朝も早いとはいえ、今日のように明るい時分から愉しむ程度に飲むのであれば、特に響くこともないだろう。だだ、この酒を見ると思い出すのは、以前任務のために近づいた議員の顔であり、粘着く声であり、やたらと体を触られた悪寒を伴う記憶であった。気付かれぬよう鳥肌の立った腕を撫で、静かに息を吐く。もう、死んだ男のことだ。お付き合いさせて頂きますと口にしようとしたところで、だが、シキが思いついたように口を開いた。
「──これは、やれるのだったか」
その指先はチェスセットの上にあった。
「は。S氏に指南いただきました」
「……そうか。それはさぞかし、巧みな技を身につけたことだろう」
なにか含みのある声に、アキラは本能的に耳をそばだてる。しかし続けられた言葉に、すぐにその違和感を忘れてしまった。
「ゲームだ、アキラ。勝負は五回。一度勝つごとに、互いの希望をひとつ叶える。飲みたくないのならばそれでいい。ただし、俺に勝ってみせろ」

*

 ローテーブルに置いたチェスボードを挟んで、主従は対峙していた。ソファからやや身を乗り出すようにして盤を見つめるアキラの視線は真剣そのもので、それとは対照的にシキはくつろいだ様子で、テーブルに対して斜めに置いたソファーで長い足を組んでいる。
 老人に贈られたチェスセットは、それそのものが十分に鑑賞に耐える精巧さだった。一つ一つが人の手によって削りだされており、一部の駒は犬や狼の姿で盤上に睨みをきかせている。黒側は黒曜石に金、白側は緑味を帯びた雪花石膏に銀の装飾があしらわれていた。黒側のキングは目に赤い宝石が入った狼の姿をしており、一方白側のキングは耳をぴんと立てた猟犬で、目は濃い水色の宝石だ。ナイトはどちらもやはり狼の姿をしており、老人の遊び心が見て取れた。
 シキはまるで、アキラの手やその癖を見定めるかのように駒を動かした。それは決定的な一打をあえて見逃すようなものであり、アキラは手の内を暴かれるような嫌な感覚を味わった。
 とはいえ戦術など何通りも存在している。好みの定石や上手とする囲い方はあるものの、それはアキラの場合あくまでも味付け程度のものであり、こだわりはなかった。逆に言えば、あえて得意とする罠に誘いこむことに、メリットが生まれるほどの技量がまだないということでもある。
 最初の勝負は白軍、アキラの勝利だった。
 アキラが願ったのは、結局最初に提案されたとおり酒の辞退だった。シキがのらりくらりとした手を繰り返したこともあり、勝負がつくまでにだいぶ時間がかかり、窓の外は既に夏の夜の濃い闇に沈んでいる。ソファの横に据えた背の高いランプシェードから、柔らかな光があふれていた。琥珀色の酒を舐めるシキの頬はアルコールによって色づくことはなかったが、橙を帯びた灯りが普段よりも和らいだ印象を与えている。
「明日は何がある」
手許に駒を弄びながら王が訊いた。その問いが、自らの予定についてだとはすぐに察せられた。
「早朝に、手合わせの約束が」
「部隊の者とか」
「はい」
「さすが精鋭部隊の長だな。一時の楽しみよりも訓練をとるとは」
また引っかかるもの言いを感じて、アキラはテーブルを挟んだ王の顔色を伺う。だがそこから何か汲み取る前に、シキは盤上に駒を置いた。
「……お前の番だ」
二回戦は一回戦の半分の時間で決着がついた。シキの勝利だった。アキラは内心首を傾げる。負けたには負けたが、どうして負けたのかがわからない。気がつけばいつの間にか駒が奪われ、追い込まれていた。
「お望みは」
「そうだな。少々酔った。続きは向こうでだ」
シキの視線がベッドに向けられているのに、かすかに口元をこわばらせる。それに気付いたシキは鼻で笑うと、立ち上がりタイを外しながらグラスだけを持って寝台に向かった。
「盤を持って来い」
「……は」
そういう意味か。内心胸を撫で下ろす。藪蛇、という言葉が脳裏をよぎった。しかもシキの藪に潜むのは、狼の頭を持った大蛇だ。可能な限りの冷静を装うが、恐らくは見透かされているのだろうとは、思う。
 命じられたとおりにチェスセットを寝台に運び込んだ。手許を照らすために枕元のランプに火を入れる。ゆらりと一度大きく揺れた後、炎は曇硝子越しにシーツを暖かく染めた。シキの手から空になりかけたグラスを引き取り、新しい氷と酒を用意する。ベッドヘッドに肘をついた主は、盤上を眺めたまま無言でそれを受け取った。赤い瞳と手許のグラスとが同じように、揺らぐ光を透過する。アキラは奪われかけた視線を引きはがすと、問いかけた。
「……外の空気を入れても?」
「ああ」
逃げるようにベッドを離れた。空調を切り窓を開ける。夏の夜のしっとりと湿った空気が、すぐ外の木々がたてる葉擦れの音とともに流れ込んだ。涼しげな虫の声も聞こえる。息苦しさが多少なりと解消されたように感じられ、静かに深呼吸した。
 だが踵を返すと、そこにはかわらず絵画に似て整った主の冷たい美貌と、それを取り巻く磨き上げられた調度品が浮かび上がっている。しかも実物であるがゆえに、ある種の迫力を伴っていた。普段近すぎて見えないものが、少し遠ざかってみると急にまざまざと感じられて落ち着かない。シキの視線が手許の盤上に向いていることだけが救いだった。唇を引き結ぶと、アキラは戦場へと戻っていった。
 三回戦の勝者は再びアキラだった。ただ今回もまた、投了までに時間がかかってしまった。
 シキの手はアキラの選択を楽しんでいた。二回戦を戦ったあとでは明らかに本気でないと流石に判る。しかし勝ちは勝ちだ。時間も深夜になろうとしていた。
「何を望む」
主のグラスに酒を注ぎ足しながら、おずおずとアキラは望みを口にする。
「……僭越ながら」
勝負を終えましたら、自室に下がらせていただきたいと、わずかに緊張の滲んだ声で告げる。シキは目を細め、口元に笑みを刷いた。
「明日の約束が気になるか」
「思いの外、遅い時間となってしまいましたので」
実際、このペースであと二戦となれば日付が変わる。その後いつもどおり、となれば、耐えられないことはないが厳しいものがあった。明日の昼には財閥との会談への随伴予定も控えている。
「よかろう」
シキは笑みを浮かべたまま、アキラを貫いていた視線を再び盤上に戻した。その睫毛が、白い頬に針のような長く濃い影を落とした。

*

 シキの手にしたグラスの中で、角を取られて丸い氷がぴしりと音を立てた。
 四回戦の勝利者はシキだった。
「……」
自軍の惨状を見つめ、アキラは言葉を失っていた。
「今まで、……」
謀っていらっしゃったのか。アキラが口の中で噛み殺した言葉をシキは正確に拾い上げて目の前に広げ、しれっと火をつけてみせる。
「毎日忙しいお前の為に、時間を短縮してやっただけだ」
シキの軍隊の強さは現実さながら圧倒的だった。何が起こったのかもよくわからなかった。あっという間に、食い荒らされるように駒を奪われ、気付けば惨敗していた。二戦目の時点で気付くべきだったのだ。技量が違いすぎる。
 アキラは奥歯を噛みしめ、数秒瞳を閉じた後、瞼とともに口を開いた。その声音は唸るようでありながら、僅かな怯えも含んでいる。
「……何を?」
「そうだな」
シキは弄んでいた駒を戻す。酒の給仕のために、靴を脱がぬままベッドに腰掛けているアキラの方に、チェスボードを押した。そうして自らの身体と盤の間に空間を作る。
「来い」
アキラは僅かに目を見開いた。
「どちらに、」
シキは答えずに、微笑んだままグラスに口をつけた。訊くまでもないことをと、伏せられた目が告げている。
「……ッ」
敗北は、敗北だった。釈然としないものを感じながらも、しかしこれまでの自分の勝ちそのものも、本来ならば手に入れられるはずもなかった物だと思い至り、歯噛みする。
 このままでは次も負けが確実だ。ただ、これまでの勝ち分で、懸念される事態を避けるよう対策を講じていたのだけは幸いと言えた。さすがにシキでも、約束を反故にするようなことはないはずだ。アキラは観念して靴を脱いだ。盤上の駒を倒さぬよう、そろそろと広い寝台の上を移動する。ベッドヘッドに肘をつき、横向きに寝転がるような体勢の主の腹の前に腰を落ちつけた。
「これで、よろしいですか」
シキは答えずに、指先でチェスボードの角を押して盤を回転させる。白側が手前になった。
「俺はこちらから逆さにやる。……クイーンも外してやろう。足掻いてみせろ、アキラ」
でなければこれが、お前に食らいつくぞ。シキの指先で黒い狼が笑った。
 ハンデがあったとはいえ、アキラは善戦した。背中に感じる体温や、駒を操るたびに鼻をかすめるかすかな体臭は、熱を孕んださざ波になって肌の上を寄せて返したものの、盤上に集中することでなんとか冷静さを保つことはできた。ここ数日のうちで一番に頭と精神力を使ったといっても過言ではなかった。しかし。
「囲い込まれたか。だが」
斜め下からシキの声がする。
「甘い」
その指が、漆黒の狼を横に滑らせた。それで、終わりだった。
「……あ、」
黒い狼の背後から現れたルークが、アキラのキングに銃口を定め、さらに黒犬の姿をしたナイトが退路で牙をむき出しにしていた。
 黒いビショップが、盤の隅から白のクイーンの首に刃をあてていた。白のビショップはすでに獲られ、攻撃の要としていたルークは、クイーンとともに黒のキングを狙っていたために、咄嗟には自由な動きができる位置にない。
「……参りました」
目に鑢を掛けられるような気分で盤上を眺めたのち、噛み締めるようにアキラは言った。ベッドのスプリングがわずかに沈み込む。背後の主が体を起こしたのだと、遅れて気付いた。
「……もう一戦、付き合え」
「……!」
シキは一回り小さい体を後ろから抱き込むようにして、駒を整列しはじめる。
「閣っ、…下、」
アキラは息を詰めた。背中に感じるワイシャツ越しの熱に、二の腕をかすっていくシキの腕に、心臓が走り出す。逃げ場を塞がれたような息苦しさに呼吸がわずかに浅くなった。
「次は純粋に楽しむだけだ。そうだな、ビショップも外してやる」
熱い。頬を撫でる夜風は冷たかったが、それを感じる余裕はすでにとんでいた。
 これまで、肌を合わせる時でもなければ、たちの悪い悪戯を仕掛けられでもしない限り体が密着する機会など殆どなかった。こんなふうに、背後から抱かれるようにして座っているだけなど。
 逃げ出したい。正直そう思った。落ち着かない。耐えられない。
 息が、できない。
 先ほどの一局に続いて先攻を許されたアキラは、飲んでもいない酒に酔ったような気分でナイトを跳ねさせた。
「老人がお前によろしくだそうだ。ニホンに飽きたらいつでも歓迎すると」
続いて一手を打ちながら、シキは言う。少なくとも表面上はよどみなく続きながら、アキラも駒を進めた。
「……、疑問が、あります」
「なんだ」
「貴方の色を模すのなら、黒に銀のほうが、合っていたはずだ」
アキラの視線は、主の手にした駒に向けられていた。
 シキの脳裏に、昼に受けた電話の、切り際の老人の声が蘇る。
──悪魔は金を好むもの。貴方には魔除けの銀は辛かろう。
 含み笑いを思い出しながら、アキラのために作られた白と銀の駒を、冷えた目で見つめた。魔除けの、銀とは。
 知らず冷笑が浮かんだ。くだらない冗談を。
 いくら老人に教育の一部を任せたとはいえ、そもそもアキラの基盤は自分が作ったのだ。体を作り替え、新しい言葉を教え、思想を教育した。精神に秩序を、そして思考する力を与えた。すでに除けられるようなものではない。
 だが、僅かな苛立ちを感じたのも確かだった。アキラの陣営からビショップを獲り、シーツの上に放り投げる。
「覚えているか、アキラ」
「……なんでしょうか」
答えを与えることなく話題を変えられたのを、特に気にした様子もなく従僕は応える。
「お前に口のきき方を教えてやった頃のことだ」
「──」
腕の中の体が少しだけ身を固くした。耳元で笑ってやる。
「お前は椅子の上で机に向かうよりも、こちらで教えてやったほうが物覚えが良かった」
こちら、という言葉が指すのが、たった今身をおいている場所だとすぐに気付いて、アキラは反論する。
「……そんなことは、」
「あっただろう?」
言葉尻を捕らえながら手を伸ばし、進撃する。偶然を装って、アキラの首筋に唇をかすめた。このまま噛み切ってやりたい、と思った。
「……ッ、ん」
「酒の飲み方も教えてやったが、共に飲む機会はあまりなかったな。そのうちまた、いつぞやのように正体を失ってみせろ」
酒でな、とあえて繰り返す。
「……っ、貴方こそ、酔ったところを見たことがない」
アキラが逃げた。話題の方向性を変えようと、必死で言葉をつないでいるのがわかる。シキは唇で深い弧を描いた。端に逃げたとしても、結局檻の中ということは変わらぬというのに。無駄だとは、おそらくアキラ自身気付いているだろうに。
「見たいか」
「……そうですね、是非、……ッ!」
答える声は、髪の中にシキの鼻がもぐりこんできたのに語尾をはねさせた。完全に弄ばれていると、アキラは歯噛みする。肩越しに睨もうとするが、首をねじれば盤上に手を伸ばし身を乗り出したシキの横顔があり、図らずも唇の端に口付ける形となった。わずかに瞠目して従僕の顔を見返した主は、すぐに意地の悪い笑みを浮かべて、可愛いことをする、と呟いた。
「────!!」
違う、そうじゃない、そんなことをしようとしたのではない、舌の上で様々の言葉が暴れまわったが、結局ひとつも形に出来ないままにただ口をぱくぱくと開閉した。そんなことはシキも理解しているのだ、あれはただ自分を苛むための呟きだ。何か反論できたとしても、ますます絡め取られて羞恥の沼に沈められるのは目に見えていた。
 結局無言のままに駒を乱暴に盤に打ち付けた従僕を、主は鼻で笑う。
「近々、老人が来国する。面白いものを貰った礼をせねばな」
そう言って、饗応を考えるのには似つかわしくない笑みを浮かべた。それは悪戯を考える子供の純粋な悪意の中に、濁った大人の悪意を一滴落としたような表情だった。
 不意に湧き上がった不穏な気配に、アキラは背後の様子を伺う。
「閣下……?」
意に介さずに、いい余興だった、とシキは呟いた。汗をかいたグラスから一筋、水滴が流れ落ちてシーツに染みた。
「また遊んでやる。次はゲームで楽しませろ」
アキラは背後から伸びた指に顎を掴まれるのを感じた。首を捻るように斜め後ろを向かされ、あっという間に唇を塞がれる。
「……!」
口内に流れこんできたのは、一瞬の冷たさとその直後に襲い来る熱だった。喉を苦く甘い液体が流れ落ち、それを焔が追った。飲み込みきれなかった分は口の端からこぼれ落ち、喉を駆け下り鎖骨の間を流れていく。
「……かはッ、……、……ッ!」
体を折ってむせるアキラの前で、シキは駒を動かした。
「チェックメイトだ」
灰色の毛並みと青い目をもった、犬のキングを獲る。逆の手には氷だけになったグラスがあった。
「閣下、……げほッ、……っ約束違反だ……!」
生理的な涙を浮かべながら抗議するアキラを片腕に閉じ込めるようにして、シキは灰色の犬を目線の高さで眺めた。落ち着かないというように身動ぎするのに、わずかに腕の力を強める。肩の上に顎を乗せた。
「忘れていた。少々酔ったようだな」
「……! 卑怯な……!」
「卑怯?」
耳元で笑ってやる。アキラは小さく震えて、ますます体を固くした。
「主に向かって随分な口のききようだ」
その眼前、犬の駒が描く背中の曲線を指でなぞる。アキラの背にそうするのと寸分たがわぬその動きを、思わず視線で追う従僕を笑いながら、また躾けられたいか、と耳に直接声を滴り落とす。
「……結構、です……!」
低く押し殺したような声が返る。ああ、毛を逆立てた猫のようだ。身を伏せ唸る犬のようだ。シキは口元の笑みを深くした。逃がすには惜しく、今すぐにでも食いつぶしてしまいたかった。
 肩口に鼻を埋め、息を吸い込んだ。そのままワイシャツ越しに歯を立てる。
「……っぁ……!」
甘咬みを繰り返し、肌の弾力を楽しんだ。未だ締められたままのタイを指一本でゆるめ、ボタンを二、三個外す。弱い刺激に、しかしそのたびアキラは肩を強張らせた。
「……! ……っ、……」
──逃げ出そうとしたなら、無理矢理にでも自分とシーツの間に引き摺り込むつもりだった。
 しかしアキラは声を殺すために唇を噛み、体をふるわせながらも、腕の中に収まり続けた。それは嗜虐心と支配欲を同時に満たした。飢えは満ちることはなかったが、いつものことだった。この飢餓は消えることはないと、シキはすでに知っていた。
 ふと思いついて訊いてやる。
「明日朝の手合わせは、イチヤとか」
「……そう、です。それから、ニイオも」
万全のコンディションにこだわる理由に思い至って薄く笑う。イチヤは精鋭部隊の一員で、以前たった一度とはいえ、ニホン統一後、アキラが敗北したことのある唯一の相手だった。勿論、シキを除けばの話だ。精鋭部隊筆頭の意地があるのだろう。
「俺が代わりに出てやってもいいぞ」
「駄目です」
「なぜだ」
「それなら、俺が貴方と、戦いたい」
くく、と喉の奥でシキは笑う。そうして、おもむろに腕をほどいた。
 枕元に置かせた酒の瓶を取り手酌する。氷が澄んだ音をたてた。アキラが肩越し、ためらいがちに振り返り、息を整えながら様子をうかがっている。
「……行け」
注いだばかりの濃い酒を舐め、灰色の犬の駒を指先に眺めながら、言外に見逃してやると笑った。
 アキラはわずかに眉根を寄せ、口を開き、閉じた。その表情の乏しさは何年経っても変わらなかった。だが主従の間に存在する、何かうっすらとした糸のようなものが、時に目にも耳にも知覚出来ない何かで、互いを伝えた。
 アキラがまるで執念とも言える一心で、国内から逃げ出そうとした裏切り者どもを狩るケルベロスを演じきってみせたのは、ついこの間のことだ。だが冥界の番犬も、主の前ではただの飼い犬だった。アキラは身動ぎの後、正面を向き直すと、シキに預けていた背にわずかに体重を乗せた。
「……俺も、酔ったようです」
「あれだけで、か」
「強い酒だったので」
「たった一口だ」
アキラはシキの指ごと酒のグラスを掴んだ。そのまま自らの口元へと持っていく。ロックグラスを三分の一ほど空にして、薄い硝子の縁から口を離すと、こぼれ落ちようとした琥珀を舐めとるために主の指に舌を這わせた。
「、シキ、」
強い酒に灼かれてかすれた、名を呼ぶ声にはほんのかすかに懇願が滲む。それはまるで、撫でてくれと飼い主の手のひらの下に鼻先を潜り込ませる犬のようだった。喉の奥で笑うと、シキは肩口に後頭部を押し付けてきたアキラの、髪の間に指を滑り込ませる。緑がかった灰色の髪を掴み、上向かせた。
「加減はしてやらんぞ」
逆さに唇を噛む。びくりと体を震わせたあと、熱っぽい息を吐いてアキラは弛緩した。
「ご存分に」
「明日負けることは許さん。必ず勝て。いいな」
首筋を味わい、歯を立てる。
「……っ当然です、──ッぁ、」
シキの手から、灰色の犬が零れ落ちた。それはアキラの膝に当たった後、乱暴に押しのけられたチェス盤とは別の場所に転がっていく。
 作り物の青い目はしばらくの間、斜めに傾いたまま二人の様子を見守っていた。だがやがて、どちらのものともしれない裸足の足に蹴られて、シーツの隙間へと沈んでいった。

end.

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