春早し

 アキラはボールペンを投げ出すと、緻密な刺繍の施された布張りのソファに背を預けて溜息をついた。
 蜜の波紋に似た木目の流れるテーブルに広げたノートの罫線の上には、インクの出ないペン先が残した溝が走っている。
 ボールペンは軍から支給されたものだ。半透明のボディの中には、インクが半分以上残っているのが見える。前のものも、使い切る前につまって書けなくなった。
 大戦以降、国産品は著しく品質を落としたのだそうだ。だがそれが事実なのかどうか、アキラは知らない。士官学校の講師を務める年配者たちは戦前を賛美しがちだった。かつて豊かであった国とその技術を語り湿らせた舌で、そのまま今どきの若者は、と始めるからあまり信用できない気がしている。この社会を作ったのは、誰か。急に肩が重くなった気がして、首を回して天井にむけた顔をそのままにする。
「いいのを買ったらどうだ」 
笑みを含んだ声に、アキラは開きかけの蕾を模したランプシェードから視線を戻した。
 声の主、シキは先ほどからキッチンで作業をしている。料理ではない。食事なら、通いのハウスキーパーが作った軽食が冷蔵庫の中に用意されているはずだ。
「それなりの給与は支払われているだろう」
士官候補生でも、給与は勿論支払われる。准尉に昇格したため、一等兵であったころより額も上がった。宿舎に部屋を用意され、三食保証され、軍服が支給される。アキラの場合、最近は宿舎よりもここ、シキの屋敷に呼び寄せられていることが多いが、寝食に金がかからないという意味では同じことだった。そのため、手取りのほとんどが自由にできる金だ。時折菓子などの嗜好品や、私用で外出する際の適当な洋服を用意する以外、これといった使い道もないから、それなりに溜まってはいる。だが。
「ボールペンなんて、どれも同じだろ。金の無駄、です」
抜け落ちかけた敬語を付け足す。
 十本に二本、粗悪品が紛れ込んでいるとしても、あとの八本は使えないことはないのだ。ただで手に入るものに、わざわざ金を出すのは何やら業腹である。
「どうだろうな」
笑みを含んだ声をよこしたシキは、相変わらずキッチンで半ばうつむくようにして手を動かしている。それに合わせて、さり、ともかり、ともつかない、かすかな音が聞こえていた。
「──氷、ですか」
シキは答えない。視線さえ上げない。つまり肯定だった。そういえば冷凍庫の底に、未開封の板氷があった。ロックアイスも見た気がするが、もしかしたら小粒の物ばかりだったかもしれない。酒が薄くなるのを厭って、どうやら自分で削っているらしかった。
 はるか昔、ミカサにいたころ、どこそこの店で雇われバーテンをはじめたという男が、傷だらけの手をDやエースに見せていたのをうっすらと覚えている。だがシキなら、あの白い指に傷一つ作ることなく角の取れた美しい氷を作ってのけるのだろう。この男は何でもそうだ。人間離れした勘のようなものが備わっているらしく、大概のことは難なくやり遂げてしまう。最初のうちこそ密かにではあるものの、驚きなり異様さなりを感じていていたが、最近ではいっそ呆れのような気持ちが湧くようになっていた。複数のパーツが混じり合った箱から、ものの数分でふたつの銃を組立てるだの、屋敷の半地下の棚に並んだ酒の味を年代まですべて覚えているだの、そういうことがざらにある。
 自分でやろうとしないのは、刀の研ぎくらいのものだった。なぜかそれだけは決まった職人に依頼する。トシマにいた頃はどうしていたのか知らないが、少なくとも今はそうだ。
「この間入った店でも見ただろう」
アキラのわずかな表情の変化に、だがシキは気付いてそう揶揄めいた声を投げてきた。アキラはうっすらと寄せていた眉根に力を入れる。
 シキに伴われて、日興連中心部の夜の街をおとなったのは数日前のことだ。連れて行かれたのは路地の合間に紛れた、どこか隠れ家めいた店だった。道に面した壁に窓はなく、中を伺い知ることもできない。扉の傍に吊された上品とも簡素ともとれる看板。それを照らすささやかなライトだけが、常連客にだけそっと店が開いていることを告げていた。
 店内はやや落とされた柔らかな照明のなかに、テーブルと椅子を並べていた。平日のその日、カウンターには壮年の男性客と思われる後ろ姿が一つあっていたが、彼は扉が開く気配にもこちらを振り返らなかった。
 小振りの樹木や、砂利で整えられた川にささやかな水の流れのある庭に向かって、大きく窓の採られた半個室は、周囲よりさらに照明が絞られていた。運ばれてきたのは二人分の国産ウイスキーと、チョコレートだった。そもそも酒そのものを飲みなれないアキラには不思議な組み合わせだが、実際口にしてみるとこれが思いのほか美味だった。
 それまで強い酒に苦手意識があった分、ウイスキーのロックでもうまいと感じられることが驚きで、店の居心地の良さも手伝って、結果、少々飲みすぎたのだった。
 思い出して、アキラはむっすりと、口を一文字に引き結ぶ。
「お前も要るか」
グラスに角を取った氷を落とす音、それからウイスキーを注ぐ澄んだ音をたてながら、シキがからかい混じりの低い声で問いかけてくる。
「いりません」
古いボールペンを屑箱に投げ捨てると、新しいものを取り出して再びノートに向かった。

 二月の風はまだ充分に冬の厳しさをはらんでいる。ビル風に軍帽を飛ばされぬように抑えながら、アキラは頭上を見上げた。雪でも降らしそうな空を切り刻むいくつもの灰色の壁に、かつて放り込まれた廃墟のビル群がフラッシュバックする。
 日興連の繁華街、その外れ。現在は西ニホンの実質的な中心地にあたる場所であった。だが有名デパートが並ぶ大通り沿いを外れると、壁の黒ずみや罅もそのままのビルの姿が増える。先の大戦から続く不況や、資材そのものの不足のせいだ。
 それでもこの街の窓には硝子があり、明かりが点っていた。人の気配が感じられるというだけで、トシマとは雰囲気がまったく違う。活気や生気と呼ぶべきものがたしかにある。
 アキラは雲と同じ色の白い息を吐いた。仰向けていた首を戻すと、腕時計をのぞき込む。この場所に立ってから、すでに三十分が経過していた。
 待ち合わせがあった。といっても、個人的な約束ではない。地方から招聘するという講師の迎えを命じられているのだ。
 士官学校の上層部に呼び出されたのは三日前。新しい客員講師は、大戦で目ざましく働いた人物だという。大敗を喫した日本が東西に分裂したまま復興を試みた際、日興連軍側でその基盤を作った。年齢のために退役するまで、教育総監、参謀総長を歴任、最終階級は大将。現在は八十も近い老体。その出迎えに、なぜかアキラが抜擢されたのだった。
 華々しい過去を持つお偉い年寄りを、どうして半年前士官学校に放り込まれたばかりの下っ端准尉が一人で迎えに行くよう命じられるのか。しかも交通手段は自由、要するに車の必要はないという。
 アキラの成績は順調に順位を上げていたが、中の上といったところである。優秀なものは他にも大勢いる。だが、なぜと理由を問うことはできなかった。士官“学校”とはいえ軍の一部である。授業中や、許しを得た場合は例外としても、上の命令に質問をかえすなどもってのほかという風潮が、戦中そのままに残っていた。
 指定された場所は街の中心地だった。戦後割合早い段階で復興した電車の駅からは一キロほど距離がある。バス停でもあるのかと思っていたが、着いてみるとそういったものも見当たらない。車で来るのなら、こんな場所で待ち合わせはそもそも不要だ。なにかと不自然なものを感じながらも、待つしかなかった。持たされた携帯端末に連絡が来ない限りは、アキラに許されているのはここに立っていることだけだ。
 とはいえさすがに遅すぎる、と、胸ポケットに入れた端末を意識した瞬間だった。タイミングを見払ったかのように、高い電子音が響く。画面に表示されているのは知らない番号だった。軍の関係者であれば、端末に登録済みのはずだが。
『准尉か』
枯れ葉を連想させる、乾いた低い声だった。
「は」
『到着が遅れている。甘い物でも買って時間をつぶせ』
アキラの短い返事に、枯れ木の声はそう命令すると返事も聞かずに電話を切った。こちらの都合や感情など斟酌の余地もないと切り捨てるような態度は、よく知った誰かを思い出させる。
 軽い溜息を一つ着くと、アキラは背後の、待ち合わせ場所の目印として指示されたチョコレートショップを振り返った。
 あまり菓子屋らしくないな、というのが、最初に目にした時の印象だ。どちらかというと、照明を暗くした宝飾店に似ていた。小さなショーウインドウには昏い金の絹が敷かれ、濃緑のリボンが流れる。その上にまるで宝石のようにチョコレートが飾られていた。
 型押しでうっすらと格子模様の浮かび上がる黒い箱もディスプレイされている。その隅に貼られた、異国のコインを模した銀色のシールに見覚えがあった。先日飲みすぎたバーのメニューに、印刷されていたのと同じものだ。一枚ではなく、端を重ねるように二枚セットで貼られたデザインは間違いようがない。木製の扉にはめ込まれたガラスにも、同じものが描かれていた。
 携帯端末を胸ポケットに戻す。逡巡しながら店内を伺っていると、レジのそばに置かれた箱に目が吸い寄せられた。黒字にストライプが二本、銀で箔押しされた包装紙に、深紅のリボン。
 さらに数秒迷った後、結局アキラは店の扉に手をかけた。
 店の外まで漂っていた甘い香りが襲い掛かってくる。まず目に入ったディスプレイケースには、船の形をした銀盆がいくつも並び、その上にチョコレートが整然と盛りつけられていた。種類が、想像以上に多い。値段は量販店で売られているものの十倍を優に超える。正直なところ辟易しながら、だが先日口にしたものは、確かに美味だったと反芻する。
 ディスプレイケースの上には飲み物のメニューもたてられていた。奥にカフェがあるようだ。
「贈り物ですか」
店員の声に、顔を上げた。
「時期ですから、包装もこちらに各種そろえております。ご希望等ございましたらお申し付けください」
こちら、と言った店員の前には、何種類かの箱と包装紙、それからリボンが並んでいる。店の外から見えた、シキを思わせる包装とリボンもその中にあった。
「……、時期?」
「バレンタインでございますので」
そういえば、そんなものがあったか。孤児院にいたころ、二月半ばにチョコレートの配られる日があった気がする。久しぶりに聞いた言葉だった。
「ご自宅用ですか?」
改めて問われて、アキラは相手を見返した後、目をそらした。そうしてから、先日のチョコレートはほとんど自分が食べてしまったことを思い出す。
「……いや」
「よろしければ、お勧めのものなど、説明などさせていただきますが……。何分種類も多くございますので」
たしかに、何種類ものチョコレートが並ぶ前で、何をどう選べばいいのか見当も付かない。
 ためらいがちにうっすらと頷く。
「女性でしょうか、お幾つくらいの方ですか?」
こういうものは、異性に渡すものなのだろうか。そう言われてみればそのような気もする。年齢など訊いたこともない。
「もしお相手の好み、一緒に飲まれるもの……、コーヒーやお茶ですとか、お酒をご存知でしたら」
咄嗟に答えられずにいるところに、さらにかけられた質問に、ようやく口を開いた。
「……ウイスキーに合うのは」
「こちらのあたりのものをお勧めしております。ちなみに、国産ウイスキーでしょうか。それでしたら、やや柔らかめのこちらのほうがお勧めですが」
「いや」
「では、少し強めの味のほうがよろしいかと……、こちらをお勧めします。有名なバーにも出させていただいているもので、……」
数分後、アキラはチョコレート店のロゴの入った紙袋を受け取った。最初から先日の店の名前を出して、そこで出しているもの、とオーダーすればよかったのかもしれない。そんなことを考えながら、店から出ようとドアノブに手をかけた時だった。
「お客様」
再び、店員の声がした。
「奥のテーブルでお連れ様がお待ちです」

 老人は彫刻のように微動だにしなかった。
 小柄だが、背はしっかりと伸びている。その姿勢の良さがなおさら作り物を思わせた。無感情な目は、瞼のついた魚のそれだ。ツイード地のスーツの胸には、軍に特別に貢献した者が退職時に与えられる勲章のうちで最上級の物が、一つだけ光っていた。アキラが迎えを命じられた際に教えられた、臨時講師の目印だった。
 アキラがテーブルのそばに立つ気配を感じても視線を正面から動かしもせず、名乗りや口上すら待たずに座れ、と命令を発した。その視界に入るのは、誰であっても少しの覚悟がいるだろうと思われた。シキのような人間でもない限り。
 テーブルに着くと、窓からは先ほどまでアキラが立っていた道端がよく見える。なるほど観察されていたらしかった。だが、何のために。  
「彼にホットチョコレートを」
やはり相手の顔を見もせずに、老人はアキラの飲み物を注文した。案内の店員もいなくなると、テーブルには沈黙が落ちる。
「この店のマークの意味を知っているか」
首を振る。コインを使ったデザインはよくありそうなものだが、二枚の端を重ねて、というのはあまり見覚えもない。
「冥府の河の渡り賃だ。死ぬほど美味なチョコレート、というわけだ」
それきり会話は途切れた。
 どうしてこんな場所で待ち合わせをしようとしたのか、あるいは自分を観察していたのか、といったことを、アキラは問わなかった。答えが期待できそうもなかったためでもあるし、なにより警戒心が、不要な口をきくことをとどめていた。
 それに怪訝には思いはしたものの、不思議と腹は立っていなかった。上層部の気まぐれなら、もっと怒りなり憤りなりを覚えるようなことは普段からいくらもあったからだ。少なくとも自分が路地で待ちぼうけを食らったところで、人死も負傷者も出ない。
 老人は黙っている。見られているのがわかった。多分この新しい講師は、シキと少し似たタイプの人間だ。相手の身なり、表情、動作、何を話し、何を喋らないか、そういったことから、恐ろしく多くの情報を引き出す。じろじろと眺められるというよりは、空港等の厳しいセキュリティのもと、高機能なコンピュータにつながった防犯カメラに精査されている、といったほうが、今の気分にぴったり来る。正面から受け止めるよりなかった。どこか斬り合いじみてもいた。正確には、斬り合う直前、刃を互いに向けて構えながら、力量や隙や出方を伺う時間に。
 甘い香りの飲み物がアキラの前に用意されるまで、二人はそうして言葉もなく向かい合っていた。
「古い友人が、“面白いものが見られる”と連絡をよこした」
湯気の向こうで、彫刻が口だけを動かす。飲みなさい、という声がした。
「聞けば、あのシキが戻っており、何やらはじめようとしているから屋敷を貸したという。だが何より驚いたのは」
言葉が切れる。老人の目はどこか眠たげで、どこを見ているのか今一つ判別つかない。にもかかわらず、うっすらとした重圧のようなものを伴っていた。感情を伺わせないが故に魚を思わせるその目は、魚は魚でも鮫のそれなのかもしれなかった。
「──あれは、人間ではなかった」
うっそりとしたつぶやきが、鑿で削り出されてから久しい口から洩れた。それを皮切りに、とつとつとした、まるで独り言にも似た声が流れ出す。
「友人と呼べる人間はいなかった。そばに誰かいることはよくあったが、シキの側には利用価値のある人間か否かという思惑しかないように見えた。弟に対しては若干違ったらしいが、私はその様子を見ていない」
あれは人間ではなかった。
 その言葉が繰り返される。
 たくさんの人間を見てきたが、まれにいるのだ、という。母親の腹から生まれ落ちた時からそうなのか、それとも後の環境によるものかわからない。人を人と認識し、その感情を読む能力にもたけていながら、人の心をまるで重みのないものとして扱える、そういう人間が。
「幼いころからそうだった。十を超えるころには顕著になった。場合によれば、ともすれば親兄弟すら捨てるだろうと思われた。剣技の研鑽以外に積極的な目的を持っていないのが、救いに思えた。美しい鬼。そんなものだ。……」
再び言葉を切ったとき、それまでどこか茫洋としていた老人の目がはじめて、きわめてまっすぐにアキラを見据えていた。そこに敵意はないのにも関わらず、大口径の弾丸を思わせる視線だった。魚のようだった瞳はいつの間にか生気を取り戻し、人間のそれ以外の何物でもない。
「シンパではないらしいな。これだけ言われても、上司を一つもかばおうとせん」
「別に、本当のことだろ……う、と思います」
敬語を付け忘れかけて、慌てて言葉を足す。
 出会ったころのシキは、まさに今耳にしたとおりの印象だった。自分など、あの男にとって少し珍しい玩具と違わないのだと、昏い部屋でもてあそばれながら何度も実感した。
 今でも時折、そう思わされることがある。だが基本的にはきわめて当たり前に扱われていた。それどころか、なにものかに成ることを、期待されているように感じることすらある。ただシキを楽しませるだけのものではなく、見上げるだけのものでなく、対のウイルスを宿しているというだけの存在でもなく。
「友人には、田舎の穴倉から出てきて手を貸せと、そう言われた。だが私には、人でないものに人の世を任そうとは思えなんだ。そう言うと、友人は、あれが番(つがい)を連れて帰った、と言った。
なんという言いざまだ。だが、あの冷たい目をした少年が、どのようなかたちにしろ他人を伴ったのなら、一見の価値はあると思った」
その友人というのは、シキにかなり近しい人間なのだろう。ニコルウイルスについては詳しい研究結果はともかく、ある程度の情報を軍の機関に報告している。だが非ニコルに関しての情報は秘匿していた。シキがそのように指示したのだ。
 番とは、おそらくウイルスに関する含みの言葉であっただろう。この老人は誤解をしている。だがそれを訂正することはせず、アキラは口を閉ざし続けた。安易に情報を漏らすわけにはいかない。
「あの少年の友人面していた連中のことを覚えている。有能であるがゆえに愚かな連中、折られたことのない自信に身を包み、自分が何と話しているかにも気付いていないばかものども。……きっと大戦を生きながらえはしなかっただろう。もっとも彼らを殺したのは、シキではなく我々の命令だろうが」
老人は手元のカップを口に運ぶ。アキラもつられるようにして、勝手に注文されたホットチョコレートとやらに口を付けた。想像していたようなしつこさはなく、香辛料の香りが鼻に抜け、ほんのりとした甘さと苦みが口に広がる。素直に美味だったが、温かいうちだけだろう。老人のカップからは湯気が消えて久しく、白い磁器の内側に、冷えたせいで凝固したカカオが見えた。
「──君は、あのころシキのそばにいた連中にはあまり似ていないな」
老人の目元が、僅かにゆるんだ。それは笑みといえるほどの物ではなく、目尻の皺の僅かな動きでしかなかった。それでも、最初に向かい合って座ったときに感じた、彫像めいた雰囲気は薄れた。
「エリートの匂いもしない。前線の人間とも違う。軍を選ぶようには見えない気もするし、君のような人間こそが軍では活きるようにも思える。あれはどこだったか、中央アジアだったか、それとももっと北のほうだったか、……少数民族の少年が、君のような目をしていた。誇り高い民族の数少ない生き残り、ニホンには絶えて久しい正しい矜持のために生きる人々。老いぼれどもは皆口をそろえて大戦でそれらが失われたかのように言うが、とんでもない。そんな人間は3rd Divisionの気配がし始めた頃にはとうに、」
不意に老人は口をつぐむ。沈黙の上を、遠い飛行機のエンジン音が横切る。戦闘機特有の、高い周波と低いうなりの両方を伴った、冬の薄い色の空を裂くような質量のある音。
 それが遠く消える頃、言っても詮無いことだった、と、老人が小さく、おそらくは自らの饒舌をこそ笑った。
 窓の外に磨き上げられた白い車が停まった。しばらくのち、アキラが背を向けているカフェの入り口の方向から、店員の足音が近づいてきた。
「お客様。お車が迎えに来ております」
老人は小さくうなずき、店のものを下がらせた。すぐに立ち上がる気はないらしい。
 内側を隠すための仮面と明らかになった、眠たげな魚の目が、アキラの手元に注がれている。
「……それに君は、ずいぶん人間臭い」
見れば、先ほど買ったチョコレートが──黒い包装紙に深い赤のリボンの箱が、バッグから頭を出している。
「これは……、」
電話口で勧められでもしなければ買おうとも思わなかったものではあった。だが、今更それを口にしたところで言い訳にしか聞こえないだろう。おそらくは、購入時の店員とのやりとりも聞かれていたに違いなかった。誰のために買ったものかまでは気付かれていないだろうが──おそらくは。わからなかった。この種の人間の洞察力は、アキラには計り知れない物がある。
 選んでいる間から、たぶん、買った後にどうするかは、あまり想像しないようにしていた。包装の色に、思わず反応してしまっただけで。
 きっと、渡さない。それは、そうだ。渡さないだろう。どんな顔で差し出すのだ。部下が上官に。男が男に。自分がシキに。場面を想像して、そのありえなさに、舌打ちをしたくなる。
 何事かの言い訳のようなものを口にしようとして、結局やめた。鞄のもっと奥にしっかりしまっておけばよかったと、それだけを思った。
 老人は黙りこくったアキラを少しだけ笑ったようだった。やがて音もなく立ち上がった。その動作には八十歳を前にしてなお、健在な確かな筋肉と、軍に籍を置いていたものの匂いがした。
「君は少しゆっくりしていくがいい」
一瞬だけアキラに視線を合わせる。なにかを言おうとした気配があったが、開き掛けた口を結局引き結んで、老人は歩き出した。
「──あの少年は、人間になったのかな」
そうしてすれ違いざまに、そんな独り言にも似たつぶやきを落としていった。
 やがて窓の外で、運転手に扉を開けさせた老人のまっすぐに伸びた背が車に乗り込む。純白の自動車は、硝子越しにはほとんど聞こえないエンジン音とともに遠ざかっていった。
 アキラは誰もいなくなった正面を見つめる。空のティーカップだけがそこに人のいた痕跡だった。一方で手元のホットチョコレートは、半分以上が残っている。冷たくなったカップを口に運ぶと、舌に残る強い甘みと苦みが口内に広がった。ソーサーにカップを戻すと同時に、ため息が出る。
 人の話をあまり聞かず、自分のペースでのみ動いて他人を振り回すところは、老人とシキはよく似ていた。
 目の隅で、バッグから頭を出したチョコレートの箱を捉える。
 激しい徒労感に襲われて、アキラは三度目のため息をついた。
 屋敷に帰ったら包装を解いて、中身だけを器に移して冷蔵庫にでも入れておこう。
 そうすればハウスキーパーが気を利かせたのだと、そう思われるに違いなかった。

 屋敷の部屋に帰りつくなり、アキラはソファに座り込んだ。さらにそのまま傾いていき、肘掛けもたれて四十五度の角度で止まる。
「ベッドまで世話が必要か」
「……いらない」
 敬語は、抜け落ちていた。数分前からそうだった。それを感知して修正する余裕は、今のアキラにはない。
 窓の外は夜のとばりが落ちて久しい。アキラがのろのろと眼球を動かして置き時計を見ると、深夜も近かった。
 シキに伴われた外部の用事の後、また先日と同じ、酒と一緒に例のチョコレートを出す店に連れていかれた。菓子が好きだろう、という揶揄に逆らうようにウイスキーを流し込んで、結果がこれだ。
 気分はそこまで悪くないが、目眩がした。体に力が入らない。
 正面に座る気配がして、瞼の落ちかけていた目をうっすらと開いた。テーブルの上にはパソコン端末と、それから、酒の満ちたグラスがある。どうやらまだ飲む気らしい。だがそれ以上にアキラを驚かせたのは、自分の前に水の入ったタンブラーが置かれていることだった。
 こういうことをする男だっただろうか。
──あの少年は、人間になったのかな。
不意に、しばらく前に聞いた言葉が脳裏に蘇る。
 老人とチョコレート店で言葉を交わしてから、もう一月がたとうとしていた。テストだの、ほとんど役には立たないものの、シキの手伝いという名目でなにかと連れ回されているうちに、あっという間に日が過ぎた。老人はあのあと何度か、校舎の中を歩いているところを遠くから見た。
 書類を肴に酒を飲むシキを、ぼんやりと見つめる。
 人間の定義とは何だろう。シキも、それから自分も、あまりそれに当てはまる気がしなかった。シキのものになると決めた時、初めてシキのために人を殺めたとき、日興連に伴われた時、トシマのあの暗い路地で、拾われたとき。ターニングポイントはいくつもあったが、その都度、アキラは多分、人であることを捨ててきた。そうでなければシキの傍に立つことはできないと、わかっていたからだ。
 人間でないならば何なのだと、問われても答えることはできない。ただ、アキラ自身はともかく、シキは、シキだ。シキという生き物だった。とてもきれいな、──獲物めがけて空から落ちる猛禽や、空に体を投げ出してきりもみする戦闘機、人間よりもそういった物に通じた。
「酒が足りん顔だな」
ぼんやりと眼差しを向けていると、書類に視線を落としたままでシキが笑う。
「……別に」
酒など飲まなければよかった。シキがテーブルに広げた書類を目にしながら、思う。こうしてソファーから立ち上がることができず、かといって眠りもしない時間が、とても無駄だ。
「別段弱いわけではない。適量を知らんだけだ、お前は」
違う。実際に、酒はあまり得意ではないのだ。
 このときようやくアキラは素直に認めた。弱いとか強いとかではなく、苦手なのだ。シキの傍で酒を飲むとき、それは問いを飲み込むのに似ていた。アキラの内側は次第に、何かを問いたいような気分が水位を上げる。沈殿しているたくさんの何故、が、アルコールに滲んで浮き出す。どうして自分を選んだ、どうして連れてきた、どうしてあの雨の路地で自分を。唯一の非ニコルの保菌者であるということが、シキにとってそれほど重要な意味をもっていないらしいということに、アキラは気付いていた。
 かつては幾度か口にした気もする問いを、しかし今は口にできない。それを口にする前に、アキラは、自分で自分の身を、立てなければならなかった。シキの傍に立つのにふさわしいものにならなければならなかった。シキの歩む道を露払いし、傍を守る、そういうことができるようにならなければならない。もし問うなら、それからだ。
 一方で、傍にシキがいない状態で酒を飲めば、十中八九悪酔いした。いろいろと、思い出すのだ。楽しく陽気な気分などにはけしてならない。それは、昔からだが。
 目を閉じる。このまま眠ってしまいそうだった。
 意地を張らずに、ベッドに行っておけば良かったのかもしれない。だがシキが仕事を続けている。こんなことでは、いつまでたっても追いつけないような気がした。それでも一度目をつぶってしまえば、まるで体がソファに沈み込んでいくような感触とともに、意識が深いところに落ちていく。
 すぐそばを、シキの気配が通り過ぎた。それを認識しても、頭がくたりと傾いていくのを止めることができない。行かないで欲しい。そう思った。ここにいてくれ。口にはできなかった。シキが、いなくなる。
 シキがいない。落ちていく。落ちていく。昏い淵のような、渦を巻く夢。
 普段しまいこんでいる記憶の蓋が緩み、なくした面影が、影のように立ち上がってくる。細部のぼやけはじめた顔。それに比例して鮮やかになる、表情にまつわる印象のようなもの。どこか困ったような横顔。急に話しかけると、必ず慌てたように振り返った。こちらの言葉に、なにか驚いたように少しだけ目を丸くしてから、柔らかく笑った。そういったまるで一瞬の、気配を伴ったイメージ。それがあぶくのように浮かんでは消える。名前を呼ばれるときの声ばかりは、よく覚えている──。
「アキラ」
低い声に瞼を打たれて、眠りが破れた。目の前に、鮮やかに赤い瞳がある。一瞬にして現実に引き戻された。見透かすような、命じるような、静かな意志を持った眼差しに射抜かれて、息を止める。
「……っ!?」
 ぐん、と体が持ち上げられて視界が急に高くなる。
 なにが起こったのか、咄嗟にはわからなかった。
「お……っい、シキ!」
数歩のあと、投げ落とされたのはベッドの上だ。もがいて起きあがろうとすると、片手の手のひらで肺を押すようにしてシーツの上に押し戻された。
「……っ」
赤い瞳に、再び覗き込まれる。
 ワイシャツ越しの五指が、ひどく冷たい。自分自身のわずかに荒い呼吸が耳につく。背中がじっとりと濡れていた。ああ、また、夢を見ていた。それで、シキが怒っている。
 そこにどうして因果関係が発生するのか、アキラにはよくわからない。けれど、どうやらそうらしいと気付いたのは最近だ。
 ぐ、と体重をかけられ、のしかかられる。馴染みはじめた、心地のいい重み。普段であれば非難の声の一つもあげていただろう。シキの元に下ったとはいえ、反射のようにアキラは抵抗の素振りを見せた。それが真実素振りにすぎないと気付いてからもやめられなかったのは、男でありながら男に組み敷かれることへの羞恥からだ。
 だがこのときアキラはただ、ひたすらにシキを見上げた。
 酔っているせいで、うまく体が動かない。手足に砂の錘でも付けているかのように重く感じられ、腕を上げるだけのことが、ひどく億劫だ。
 だがアキラに抵抗を忘れさせたのは、それらの物理的な理由のせいではなかった。
 過去にまつわるものに触れそうになるたび、シキはアキラの名を呼んだ。なぜか、こちらの胸の内はすべて把握しているかのように、シキはそうする。そうして強引に、アキラを過去から進むべき道へと引き戻す。それが何か、禁忌、という言葉すら思い起こさせた。まるで一瞬でも早く、過去から遠ざかれと──遠ざかろうと、しているようだった。そこにアキラはいつも、ほんのわずかな違和感を抱く。行動そのものにではなく、シキをそうさせる物の中に、何か、シキにはおよそ似つかわしくない感情が、潜んでいる気配を感じて。
 赤い瞳の奥で揺らぐもの。生々しい、血や肉の色をしたもの。その正体が見えるような気がして、素面であれば飲み込まれる赤色の底を、こんなときアキラは、恐れを忘れて覗き込む。
 シキは振り返らない。ただ前ばかりを見据えて、進む。それは獲物をとらえて羽を畳んだ猛禽に似ている。空の高い場所から真下へと、まっすぐな落下を思わせる。シキには過去がない。しがらみも、ない。ただ己が定めた走るべき道を、どんな障害であれ排除して、進む。──自らの傷さえ、厭うどころか、存在を認めもせずに。
「……アンタ、昔から、こうだったんだな」
ふと、そんな言葉がこぼれた。目の前の男は、苛烈で、鮮やかで、そしてときどきほんの少し、悲しい。
 人間とは、言えないかもしれない。だがアキラにはそんなことはどうでもよかった。ただ勝手な物差しで、この男がはかられるのは、厭だった。
「何の話だ」
「綺麗な鬼みたいだったって、聞いた」
「……。誰に、だ」
「新しい講師。地方から招聘された、元軍人の」
「くだらん戯れ言だな。何を吹き込まれた」
「別に。たいしたことは」
だが、遠いシキの過去を、聞けたことは少し──そう、すこし、嬉しかった。その感情が、声をほんの僅かとはいえ柔らかくしたことを、アキラ自身はこのとき気付かなかった。
 シキはしばらくの間黙ってアキラを見下ろしていたが、やがて眉根を寄せて嘲るように鼻を鳴らした。
 アキラの胸の上にあった五指が、動き出す。シャツを捲り上げるようにして、素肌の上に冷たい手が入り込んでくる。腰骨から、脇腹、そして胸へと、手のひらが滑る。ぞくりとした感覚が背中を淡く広がったのは、否定しようもなく期待のためだ。
「……っ人形みたいなのを、抱いて楽しいか」
びくりと背をそらした、その反応をごまかすように、言葉が口をつく。
「抵抗もできずに蹂躙されることに、屈辱を感じないか」
「……、アンタなら、別にいい」
逃げ込むように、自らの顔の上に腕を乗せながら、アキラは正直な言葉をつぶやいた。酔っていなければ、けして口にしなかっただろう言葉だった。
「……」
ひたり、とシキの動きが、止まる。腕の下から見上げると、シキはなにやら不機嫌そうに、形のいい眉をわずかに寄せていた。
「……腑抜けたセリフを吐くものだな」
「……」
不興を買ったらしいと気付いて、気持ちに冷たい影がさす。しかし気に入らないなら 退 けばいいと、腕の下から睨みつけた。普段であればなおさら愉しそうな笑みのひとつも返るようなものだった。だがこのときシキは、無言のまま表情を変えなかった。
 突然、乱雑な動作で下着ごとパンツが引き下ろされた。膝を割開かれて、秘所を露わにされる。その上に、ぐ、とシキが覆い被さってくる。
「待っ……!」
いっさいの準備のないままに行為に及ばれるのかと、恐怖に体を硬くする。だが、シキは一度身を引いた。その手には枕元にあった青色の瓶を掴んでいる。コルク栓が噛みちぎる勢いで引き抜かれ、入っていた潤滑剤がアキラの下腹の上に盛大に飛び散った。
「……ッ」
今度こそシキに膝を抱え上げられる。足の間にしたたり落ちていく、粘りを帯びた液体の冷たさに息を詰める暇もない。膝を限界まで割り開かれたかと思えば、その場所に、熱杭の先端を押しつけられた。
「ぐ、ぁ……ッ!!」
侵入は性急だ。だがアキラの体は、すでにシキに慣れていた。そのための用意をほとんどされなくとも、受け入れるだけならばあっさりと道を開く。だが圧迫感は相当に強い。
「……ッ、……ッ」
最奥までいっぱいに飲み込まされて、アキラは呼吸を忘れて体を強ばらせた。幸いにして、シキはそこで一度動きを止めた。
「……っきついな、……」
アキラは短く浅い呼吸を、間をおきながら必死で試みる。たった数秒で額に浮かんだ汗を、前髪をかき分けるようにしてシキの手のひらがさらっていく。それを、苦しさのあまりゆがんだ顔で睨みあげた。するとシキはようやく、唇の片側をあげるようにして笑った。
 不意に、軽いものが胸の上に落ちてきた。長辺が18センチほどの細長い箱だ。
 きれぎれの呼吸を食いしばった歯の間から繰り返しながら、アキラはそれを見下ろす。リボンに、見覚えがある気がしたのだ。サテンではなく絹の、あまりみないタイプの深い赤。
「先日の礼だ」
「……っ」
はっとして、思わずシキを見返した。そのわずかな身じろぎで、不意に強まった圧迫感に息が止まる。小さくうめきをあげた。
 チョコレートを包んであったものだ。あれは結局、当然ながらシキには渡さなかった。包装を自分でほどいて、中身だけをガラス器に移して冷蔵庫に入れたはずだ。
「……っ、なんで、……」
「次からは片付けまできっちりやるんだな」
そういえば、包装紙を捨てた記憶がない。後からどこかにしまうつもりで、シンクのそばの作業台で適当に畳み、上にリボンを置いたところまでは覚えている。まさかそのままにしたのだろうか。
──したのだろう。シキに気付かれたということは。
「……ッあう!」
気まずさと居心地の悪さに浸されたところを、思い出したように突き上げられる。
「……ッん、待て、まだ、……ッあ、あ!」
多少は慣れたものの、未だきついままの場所を容赦なく抉られる。繰り返されるこの行為に順応して感じるようになったばかりの奥を、熱の杭でぐりぐりとこじられる。
「ひ……っう、ぁあ……ッあ……!!」
唇を割る声は悲鳴に近く、だがそれも少しずつ嗚咽に近づき、やがて甘さを帯びる。そのころには青灰色の瞳は潤んで輪郭を曖昧にしている。だがそうなってもまだ、僅かに残ったアキラの理性は、声をこらえるために唇を噛ませた。外界からの刺激をなるたけ減らそうと、瞼をきつく閉じる。
 唇になにかが触れた。それはその柔らかさと熱で、噛みしめられたアキラの歯列を開かせようとする。口付けと、気付いてアキラは目を開く。滅多にないことだった。あったとしてもアキラの肉欲を引きずり出すためのもので、それですら数は多くない。
 うっすらと開いていた赤い瞳は、すぐに閉ざされ、そして離れた。
 ひざを胸につきそうなほどに抱え上げられる。
「……ッあ! く、う、……ッぁあ……!」
 ぎしぎしと、けして甘い作りでないはずのベッドがきしむ。
 枕元に転がっていたリボンのとけかけた箱が、振動に少しずつベッドの端によって、落ちていく。なにかが転がる音に、アキラがはっとして視線を向けると、部屋の隅に銀色に光るものが見えた。だがそれが何かをはっきりと認識する前に、最奥を強く突かれて背中を反らす。視界がちかちかと明暗を繰り返すような、ほとんど衝撃と一体化した快楽。だがそれは一瞬のち、広がる熱と化して背骨の付け根を、腰を、かき混ぜられた腹の中を、溶かしていく。ピアスのうがたれた場所が、じくじくと脈を打つ。
「あ、う、ぁあ……っ」
「……っ」
シキが息をのむ気配にぞくりとする。頭上でシーツの上に縫いつけられていたはずの手首がはなされ、空気を掴んでいたはずの手の平の上、指の間に、シキのそれが入り込んでくる。
「……シキ……っ」
名を、呼んでしまう。また、腑抜けとそしられるのではないかと、そんな考えが一瞬脳裏をよぎる。だがシキは何も言わず、かわりにさらに体重を掛けながら身を屈めた。足があり得ないくらいに大きく開かれ、シキの体を受け入れさせられる。顔が近づきすぎて見えなくなり、そして次の瞬間、首筋に鋭い痛みを感じる。歯をたてられたのだ。皮膚の薄い場所で感じる、普段よりも荒いシキの呼吸は、アキラを煽った。
 互いの腹の間で、前後に揺れてぶつかっていた反りたつアキラの雄を握り込まれる。早く達しろとばかりに擦りあげられると、実際にもうすぐにでも果ててしまいそうだったが、それよりもシキの限界の近さを感じたことに、余計になにかがこみあげる。
「……っは、う、ぁあ、……ッ」
強い痛みを与えられたときのように歯の根が合わなくなる。ぶるりと体が震える。
 思考が、白く溶ける。
「……っぁあッ、あ……ッ!!」
力の入らない指でシキの手を握りしめる。
 達しながらうつつに、再び名を呼べば、内側でシキのそれが脈打ったのがわかった。

 翌朝早く、アキラが酔い覚めと同時に目覚めた頃にはすでに、シキの姿はなかった。多忙はいつものことだが、未明とも早朝ともつかない時間に出かけていくのは珍しい。そのまま起きてしまおうとしたが、あまりの眠気とだるさに再び眠りに呑まれた。
 数時間後目が覚めると、日はすでに高く上っていた。相変わらずシキの姿はない。休日と聞いた気がしていたのだが、と身を起こす。
 視界の隅、チェストの下で、光を反射する物があった。昨日、シーツから落ちていった箱の中身だと気付いて、重い腰に顔をしかめながらベッドを出る。体が軋んだ。首や手首、関節が痛む。
 窓のそばで光の中に持ち上げてみれば、それは銀色をしたボールペンだった。持つときに指の触れる部分だけだが木製になっており、あたりが柔らかい。程良い重さといい、太すぎず細すぎないボディといい、ひどく手になじんで持ちやすかった。
 振り返ると、絨毯の床の上には様々なものが散らばっている。木製の箱、上げ底だったのであろう板と、替え芯数本も転がっていた。
 それを一つ一つ、拾い集める。身を屈めるたびに襲ってくる腰の痛みよりも、僅かに残る熱の方が気になって、あさましさに気がふさぐ。
 手にとって確かめたが、メーカーやブランド名らしきもの、それに準ずる印らしきものは、本体はおろか木製の箱にも、どこにもなかった。シキの持ち物も刀をはじめとして多くがそうだ。道具としてその本分を全うすることだけを目的とした、ある種の鋭さともいうべきものを持った物たちは、不要なものがいっさい付いていなかった。
 薄青い影を落とすシーツの上に、並べてみる。
 形のあるものをもらったのは初めてだと、そんな思いがよぎった。
「……腑抜け、か」
 ため息を一つつくと、本体以外を丁寧に箱にしまいなおした。
 隣室の机の上、開きっぱなしにしていたノートの上にそれらを置くと、洗面所に向かう。明後日提出の課題が少し残っているし、予習にも手を着けなければならない。さっさと済ませてしまった方がいい。
 だが顔を洗った後、鏡に映った自分の姿に、アキラはぎょっとして体を硬直させた。
「……っ」
 首筋の噛まれた場所にはくっきりと、歯形の傷が腫れ上がっていた。その周囲や鎖骨に、ちいさな痣がいくつもある。左の首筋をほとんど覆うような、赤や紫の痕。少しの思考停止の後、それが唇で吸われた跡だと思い至る。
 昨日のことは、半ばよりは記憶が途切れ途切れで、手荒にされたという感触だけが強く残っていた。噛まれたのははっきりと覚えている。その甘い痛みも、傷口を這う舌の熱さも。そういえば腰を強く打ち付ける間、シキはそこに顔を埋めていたかもしれない。
 快楽の悪寒が、ぞくりと背骨を駆け上がった。白い陶器の洗面台を握りしめる。
 片手で、その痕たちに触れてみる。そこからなにか、シキの感情の残滓のようなものを読みとろうとしてしまうのを、とどめる。腑抜けたことを、という言葉が再度脳裏をよぎる。鏡の中の顔がわずかに歪んだ。
 シキに、望まれるような人間になりたいのだ。だからこれまでにも何度も繰り返されてきたはずのあの言葉に、今更薄く傷ついたのだと、アキラは気付いた。
 研ぎ澄まされた道具のようであれと命じられている気がしていた。シキのように、ただ目的のためにひた走るような、そういう生き物であることを望まれているのではないかと。服従を強いられたのはそれが理由なのだと。だがそれならば、主に従順であることはむしろ、正しい自分のあり方ではないのか。少しずつ、辻褄の合わないシキの言動に混乱してくる。あの男の考えることは、いつになってもよくわからない。
 本当に、わからない。どんどんわからなくなる。そしてアキラは、わからない物が苦手だった。確かにそこにある、それなのに見えないもの。問うことができないもの。
「……、」 
鏡を睨みつけると、踵を返す。意識したとたん存在を主張しはじめた傷口の痛みを、うずき始めるピアスの熱を、体の軋みを、すべて無視して乱雑に服を着て机に向かう。
 わかるもの、わかりやすいもの、理解ができるもの、正解が用意されたもの。それらに縋るように、ノートとテキストに向かう。粗悪な紙にプリントされた課題を見つめる。一瞬、ほんの一瞬、向かい合わずにいたせいで、失った過去の面影が、薄刃となって胸を横切る。
 新しいボールペンを握りしめたまま、真っ白なままのノートの前で、アキラはしばらく動けなかった。
 名前を、呼ばれた気がするのだ。
 昨日、あのベッドの上で、疲れ果てて閉じた瞼の上に、扉を静かにたたくような声で。感情のほとんどにじまない、だが穏やかな、胸の一番奥から出した空気でできた、心地の良い深い低音で。
 記憶は、現実と夢の間にあって定かでない。

end.

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