禁猟

 黒と金を基調としたホテルのロビーが、正面玄関から現れた人影に不意に静まり返った。
 ゆったりと椅子に座して外を眺め談笑していた人々の視線が、庭園に面した大窓から差し込む午後の光の中で、ホールを横切る軍人たちの姿に吸い寄せられ、そしてすぐさま伏せられる。波紋のように広がった静寂は恐れを映しこみ、うっすらとした不安が溶けている。
 磨き上げられた靴を毛足の長い絨毯に沈み込ませるようにして、歩みを進めているのはこの国の支配者と、他国から迎えている高齢の客人を基とした一群だった。その背後には、王の側近とその部下数名が、幾らかの荷物を片手に鋭く目を光らせている。警護対象であるはずの総帥とその賓客が最も前を行くなどということは、通常であれば有り得ざることだったが、この国に限ってはそれが当然の光景だったが。
 彼らはロビーの上座、一般客からは目の届かぬよう施された囲いの壁の中へと姿を消した。そこには要人のちょっとした休憩のために用意された特別席があり、ソファーセットからは手入れの行き届いた日本庭園を楽しめる。ここ数日は、常に彼らのために席が整えられていた。
 シキと老人がソファーに腰をおろすのを確認すると、部下の一人を伴ってアキラは姿を消した。ホテル側との打ち合わせ、用意させる飲み物の指示から、留守にしていた間のホテルの様子や、老人が宿泊している部屋に異常がないかなど確認のためだった。
 先日老人を狙った賊がホテル襲撃を企てた事件があったばかりだった。情報を掴み未然に防ぐことができたものの、特に今は国内外の情勢が佳境ともいうべき状態であり、厳重な警戒が必要だった。
 アキラの後ろ姿を見送ると、老人は目を細めてこの国の王に視線を移した。
「……なんだ」
庭園に目を置いたままシキは口を開く。
「いや?」
眉をひそめた横顔の上で、赤い眼球だけが動いて老人を射た。氷のような容貌に乗った僅かな不快にも、しかし老人はひるまない。飄々とした微笑を浮かべたまま、アキラが消えていった壁を飾る、夏の草花を描いた日本画に目を遊ばせる。
「相変わらず可愛らしい」
シキは傲岸に鼻で笑いとばし、視線を庭に戻す。美しく整えられた景色の中で、橙色の花をいくつもつけたかずらが、池の上に垂らした蔦を風に遊ばせている。田舎の方にゆけば軒先によく見かける気取りない花で、こういった場所で見るのは珍しかった。熟れて落ちた花冠が、水面をゆっくりとたゆたって鮮やかな色を撒いている。
「やらんぞ」
ホテルの給仕が、ティーポットと氷、茶菓子を盆に乗せて現れた。漆に黒く光るテーブルの上が、茶器で華やかに飾られていく間、二人は無言のままですごした。注がれた熱い紅茶に氷が弾ける音と衣擦れの音だけが部屋を満たす。やがて再びふたりきりになると、老人は涼しい音を立てるグラスを口に運びながらぽつりと零した。
「君のことだよ」
途端、空気が凍りつく。扉の横に控えていた兵が、不穏な気配に何事かと視線だけで様子をうかがったが、そこにはくつろいだ様子で庭景や壁の絵画を楽しむ要人の姿があるばかりだった。
「……ほう」
押し殺した声には、わずかに殺気が滲みこんでいる。
「あの子は、いくつになる」
老人はシキの放った鋭い殺気を受け流して、小さな笑い声を立てた。そんな芸当は、この国のナンバー2ですら不可能だった。それが、彼の積み重ねてきた年月というものであり、修羅場を潜った経験というものだった。グラスをテーブルに戻して、膝の上で指を組む。
「君のために駆け足で成長して、あっという間に実力をつけたな。才能もある。だが若さ故に柔軟で、頑なで、そして時に不安定だ」
ここ数日は特に、と老人は続けた。その頃には、シキも感情の切っ先を理性の鞘に収めていた。庭の季節の花に向けたままの横顔から、表情を消し去り、不快げに瞼を半ば閉じたのを見て取って、老人は笑みを濃くした。
「ところで、そろそろ豪勢な食事にも飽きた。この歳にもなれば、美しい景色と沈黙を友人に、飢えや乾きは思い出で満たせる。今夜は一人で酒を楽しみたいと思うんだが、夕食の約束はキャンセルということでいいね?」
ようやく顔を老人に向け、僅かな時間とはいえその視線で射たのち、シキは目を閉じた。そうしてから無言で立ち上がる。ソファーに立てかけていた刀を手に取った。
「気がかりを残して不機嫌な君と語らうのも一興とは考えたがね。……礼はいらんよ」
色とりどりの菓子の載った皿から、星の形をした金平糖を一粒つまみ上げて老人は言う。
「する気もない」
「つれないね」
「……死にたいか」
「困るのは未来の君だ」
「減らず口を」
「早く行きたまえよ」
鋭い一瞥を受けて、含み笑いの老人は大仰に肩をすくめてみせた。シキは鼻を鳴らすと歩き出す。その視線は、たった今エレベーターから歩み出たアキラの姿を捉えていた。

*

 太鼓や笛の音を背景とした雑踏のざわめきの中にいた。祭りの提灯ややけに明るい電球、はしゃぐ子供が顔に斜めがけにした狐面等を横目に、アキラは足を急がせる。
 とはいえ、目指す場所があるわけではなかった。祭りの見物でもない。ただ、身を隠す場所を、本来ならば多少苦手な人ごみの中と定めただけだった。
 上はワイシャツだけの姿である。右手にかけた軍服の上着でさり気なくサーベルを隠せば、祭で混みあった雑踏の中なら、軍人に怯える人々に距離を置かれることもない。グローブも外した。俯いて歩いていた者が軍靴に気付き、ぎょっとして顔を上げることも時折はあったが、その程度だ。
 人いきれにげんなりしながら、夕暮れを控えた夏の青空を見上げる。新鮮な空気を求めて深く息を吸い込めば、首筋を汗が伝った。
 事の発端は一時間ほど前だ。祭見物を含んだ観光から、国賓であるS老人と総帥をホテルに送り届けた時だった。ホテル側との確認や打ち合わせを済ませ、部下からの連絡を受けた後、ロビーの賓客用の一角に戻ろうとしていると、口元に僅かな笑みを刷いたシキが歩み出てきた。
 今日は少しの休憩を挟んだ後、このままホテルで会食の予定だった。何事かと思っている間に、軍帽を攫われた。あっけにとられて見返した視線は、赤い瞳に絡めとられた。
 名を呼ばれ、なにか咎められるのだろうかと、わずかに身を固くする。面白がるように目を細め、主はしかし、唐突に、かつ予想外の言葉を吐いた。曰く、いつも追う側ばかりではさぞ退屈だろう、と。そして命令を下した。『二時間、俺から逃げきれば褒美をやる。だがもし捕まれば、3日の休暇だ』。
 仕事中毒のお前には、これ以上ないほどの罰だろうと笑った、楽しげな口調までそのまま思い出す。 行け、と体の角度を斜めに変えて、その先の玄関を示されれば、反論や理由を問うことなどもっての外だった。
 元来表情に乏しい質でもあり、動揺を表すことはせずに済んだものの、確かに戸惑ったままアキラはホテルを出た。ただ、軍属の常として、頭は今なすべきことを第一に考える。感情は横においておき、アキラがまず最初に目指したのはできるだけ人の多い場所だった。王はアキラの気配を探るのに長けた。ともすれば、身に宿すウイルスの作用もあるのかもしれなかった。ひと気がないほどに居場所は割れやすくなる。木を隠すなら森と、まずは他人の数多の気配の中に紛れてしまうのが最善と思われたのだ。
 とはいえ、気配を撹乱するために市街地に向かうことなど、アキラの思考を熟知したシキなら簡単に思いつくだろう。足跡を消す効果は期待できるが、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。残る時間をどこに隠れるべきかと視線をめぐらす。するとその先に、不安げにあたりを見上げる子供の姿があった。
 年の頃は学校に上がるか上がらないかといったところか。子どもと触れ合うことの殆ど無いアキラには、今ひとつ正確に年齢を見極めることができない。
 なんとなく、その姿を目で追った。どうやら迷子らしいとは、すぐに気づいた。やがて道は木々に囲まれた緑地にたどり着き、その端に沿うように屋台を伴って蛇行した。少年は道から外れて芝生へと足を踏み入れる。
 ちょうど人ごみに耐えられなくなってきた頃だった。背後からちらりと見た泣きそうな横顔が、放っておけないような気もした。足は自然と小さな背を追った。かと言って自分から話しかけるのも躊躇われ、暫くの間のろのろとした足取りに合わせて歩み続けた。屋台から少し離れたころ、子供が不意に振り返る。涙をためた茶色の瞳がアキラを捉えた。一瞬面食らって、そのあとでようやく意を決して、びくりとしたまま固まっている少年に向かって口を開く。
「……迷子か?」
アキラの声を聞いて、子供は丸い目をさらに丸くした。ひらめいたのは怯えだった。ぼろりと、涙がこぼれおちた。
「……おい!」
小さな体を翻して、彼は走りだした。その足の向かう先は林で、そこを抜ければ未だ廃墟のままの街があるはずだった。
 アキラは逡巡した。放っておけばいいと、そう思う傍らで、廃墟の倒壊事故のニュースが頭をかすめる。さすがに最近は減ったものの、トシマに統一ニホンの中心を構えた当初から、定期的に報告を受けていた。
「…………ッ」
迷ったのは数秒の間だったが、その間に少年の足は既に木々の間に入ろうとしていた。小さな悪態をついて、結局その背中に向かって走りだす。親まで探してやる義理はないが、廃墟に迷い込むのは場合によっては生死に関わる。
 そうしながら、先ほどの少年の怯えた瞳を思い出した。あれは、軍人に対する正しい反応だ。そばに庇護する大人がいないなら尚更だった。軍の、特に末端の者たちはすぐに一般人に手をあげる。そしてそれを抑止する法はこの国にはない。ただ強さだけが絶対のルールだった。
 強さとはなにかと、時折アキラは考えた。娯楽や優越感のために弱者を蹂躙すること、それは、弱さをさらけ出すことに思えた。一度だけ主に問いかけたこともある。シキは笑って、イグラ時代に辻斬りをしていた俺と何が違うと笑った。
──天と地の程の違いがあった。シキは、自分より強い者、たとえばあの紫の目をした男が目の前にいたのならば、そこらの雑魚など歯牙にも掛けなかっただろう。シキは戦いを欲し、そして不幸にも、周囲には彼より強い者はいなかった。
 だが、一般人に手を出す兵隊たちは違った。彼らは弱者を選んで暴行を働く。自分より強いものには恭順し、そうでないものには居丈高に振る舞う。日興連の軍にいた頃にもよく見たタイプの人種だ。正直、醜悪と言わざるを得ない。
 そう返すと、シキは目を細めた。どこか愉快そうですらあった。そうしながらも、こう応えた。お前に他人の弱さを気にする余裕が有るのか、と。
 辛辣な言葉だった。そのとおりだった。いくらアキラが研鑽を重ねたとはいえ、王の強さは圧倒的で、ナンバー2になったところで及ぶべくもなかった。アキラは口をつぐんだ。
 その頬を、シキは手の甲で撫でた。そうして、従僕の賢明さに無言の満足を示したあとで、こう呟いた。『真に強い者は必ず、あの泥の中から立ち上がる』と。
 アキラは主の意図を解した。それきりその話題は出していない。
 とはいえ、子供が危険な地域に入り込もうとしているのを思わず止めてしまうのは、アキラの本質的な部分に沿った行動だった。シキの歩みを邪魔する者であれば、幾千幾万殺すことも息をするようにやってのけるが、目の前の小さな生き物をみすみす見殺しにすることはできないのだった。それが矛盾だとは、アキラ自身気付いてはいた。偽善ということもできたのかも知れなかった。シキとともに歩むと決めた時に、お仕着せの倫理観や善悪の基準など捨ててしまってはいたのだが。
 アキラは自分でも気付かぬうちに唇を噛んでいた。最近の己は矛盾だらけだった。頭の中は辻褄の合わない論理が絡み合っている。
 下生えの生えた林は、むしろ子供の足に有利だった。大人が肩や膝をひっかけてしまうような場所を、軽々と超えて走っていく。やがて木々のむこうに並ぶ崩れた建物がはっきりと見え始め、アキラは焦りを覚えた。それは復興が進んでいない地域の中でも、特に状態の良くないあたりだった。
「……待て……!!」
切迫した声に、子供はびくりとして振り返った。しかし追ってくるアキラの姿を見ると、再び速度を上げて走りだし、林を飛び出す。
 結局アキラが追いついたのは、少年が元雑居ビルの一階に入り込んでしまってからだった。眉根を寄せて暗い建物の内部を伺う。床にはごちゃごちゃとものが落ちており、暗さに慣れてみれば家具の残骸と崩落した天井だと知れた。コンクリートの瓦礫からなる小山の上で、赤錆の浮いた鉄筋が折れた肋骨のように垂れ下がっている。穴が開いて二階の窓からの光が射す場所すらあった。少年としては、物が多く隠れやすいためにここを選んだのだろうが、いつどこが崩れておかしくない。
「おい、戻れ!」
 思わず強い口調になる。それが怯える子供に対して逆効果だとは、扱いに不慣れなアキラには分からないのだった。どこかから砂が落ち、重い石が転がるような音がそれに続いた。逡巡の後仕方なく内部へと入り込んでいく。元々は何かの会社の受付兼事務所だったらしい薄暗い室内は、埃と黴の匂いが漂っていた。大きなコンクリートを乗せたまま天板をひしゃげさせた、無骨な仕事机の後ろから覗く黒髪を、辛うじて見つけた。
 更に踏み込もうとして、足元の不自然な傾斜にアキラは気づいた。よく見れば床は椀状に凹んでおり、子供はその中心にいた。リノリウムに罅はない。だがかわりに皺のようなものがいくつか走っている。先ほど地下に続く階段も見えた。みし、と部屋が軋む音がして、天井からパラパラとコンクリートの粉が落ちる。背中を嫌な汗が流れた。
「……」
アキラは息を吸って、吐いた。強い言葉で命令するだけでは子供に意図が通じないと、ここに来てようやく思い至る。とはいえ、笑顔を浮かべて優しい声を出すような芸当もできないのだった。せめてと、できるだけゆっくり静かな声で話そうと心がける。
「いいか。そこ、床が崩れかけてる。いつ地下に落ちるかわからない」
3メートルほど先の机の向こうから、子供の顔の上半分が覗いた。警戒心丸出しの瞳は、未だに怯えに潤んでいる。荒い息遣いと、時折鼻をすすり上げる音も聞こえた。追われたのが相当に怖かったらしい。アキラはしばらく黙っていた。少なくともすぐに襲いかかったりはしないと示したかった。おもむろに、手にしていた軍服を床においた。腰に吊ったサーベルと拳銃が顕になる。子供の顔がそれを見て引きつるのを、目の端に確認した。
「……」
少年の視線を受けながら、アキラは武器を外した。まずは拳銃を、続いてサーベルを、少し離れた床に置いて、そうしてから再び少年に向きあう。
「……攻撃しない。わかるな」
涙をためた目が瞬いた。頷きはしないものの、怯えの壁は少しだけ薄くなった気がした。再びみしりという嫌な音が響いて、近くで先程より派手に埃の混じった崩落が起こった。呼応するように、部屋が軋む。子供の恐怖が、目の前の若い軍人とは別の対象に移りつつあった。
「そこは危ない。ゆっくり、こっちに」
そう言って、ほんの少しためらった後に、腕を広げてみせる。子供は固まっていた。鼻先に、砂埃と黴の匂いの交じり合ったものが届く。上階から物が崩れる音が聞こえた。危険なのはアキラにとっても同じ事だった。
「おいで」
少しだけ強い口調で言ってしまってから、しまった、と思った。だが予想に反して、子供は一度天井を見上げてから、意を決したようにそろそろと動き出す。机を回りこむようにして這ってくるのに、内心ほっと胸をなでおろした時だった。
 それまでのみしみしという音とは比べようようもない、いっそ破裂音に近い大きな音が部屋中に響いた。体が傾いだ、と思った時には、既に浮遊感の中にいた。アキラはとっさに子供に手を伸ばした。細い腕を掴んで引き寄せた時、体中を衝撃が襲った。
 数秒の間意識が飛んだ。気がつくと、腕の中に小さな体を抱えて暗い穴の中にうずくまっていた。
「……ッつ……」
黴の匂いと砂利の感触が口の中に広がってむせる。周囲を確認しかけてすぐに瞼をきつく閉じた。何一つ見えず、それどころか周囲に舞い上がった土埃が目に入り、痛みに開けていられなかった。ワイシャツの腕を口に当ててひたすら待つ。抱えた子供も、アキラと同じようにしているようだった。
やがて僅かな明かりが瞼の裏にさして、舞い上がった粉塵の勢いが収まりつつあることを告げた。そろそろと目をひらく。頭上三メートルほどの位置に、今できたばかりの穴が見えた。
腕の中から体温の高い柔らかな体が抜け出していった。
「……怪我は」
少年は自分の腕や足を確認して、こくりと頷いた。先ほどまでの怯えは既になかった。落下した驚きに、他の感情を忘れているようだ。アキラの目から見ても、汚れてはいるものの出血は無さそうだった。少しだけ安心して、自らも体を起こす。
「ぃ……っつ、」
足を動かそうとして小さくうめいた。見れば片方が大きめのコンクリートの塊の下に埋まっている。小さく悪態をつき、折れていないことを祈りながら、体をひねるようにして腕で持ち上げてから、足を引く。動いた。ともすれば罅くらいは入っているかもしれないが、とりあえず大事ないようだ。頑丈なブーツが幸いした。
「叱られるな、これは……」
溜息とともに小さく呟き、再び頭上を見上げる。一人では這い上がれそうになかった。周囲を見渡すが、暗くてよく見えない。十畳ほどの、元々は倉庫代わりの地下室のようだった。床を埋めたコンクリート片の中に、鉄のラックがいくつかファイルをばらまきながら倒れている。
 土埃が完全には収まっていなかった。動き出すのは、しばらく待ってからのほうが賢明なようだ。 辛うじて少し離れた場所に鞘尻を見つけ、安堵の息を吐く。にじり寄って土埃に埋まったサーベルを拾い上げた。軍服の上着を瓦礫の下から引きずり出し、柄をすぐ掴めるような状態でくるむ。子供が怯えないようにとの配慮だった。運よく、拳銃もすぐに見つかった。多少傷がついてはいたが、一瞥した限り歪みや破損はない。ただ一度砂埃に埋まったとあっては、オーバーホールしてからでないと使うのは危険だろうと思われた。
 視線を戻すと、光を反射する二つの眼に出会った。
「……おこられる?」
子供が初めて口を開いた。舌っ足らずな声は、わずかに震えている。
「……痛むところは」
「ここ、ちょっと。でもおこられるから、けがじゃない」
こどもは肘をアキラに見せるようにした。目尻にじわりと涙が浮かんだのを、必死でこらえているようだった。
「そうか」
「けがした? おこられる?」
「そうだな、怒られるな。……まったく、」
アキラは近くの瓦礫に背を預けた。右肩から落ちたらしく、腕にかけて違和感がある。この状態では、恐らく顔や手などの露出した部分は小さな切り傷や擦り傷だらけになっているだろう。その程度で済んでよかったと思うべきだった。床が抜けた衝撃で、さらに天井まで崩落していたらと考えるとぞっとする。
「おかあさん?」
「いや」
「おとうさんがおこる?」
「……。違う。王様だな」
「おうさま? おうさまはおとうさん? けらい?」
子供の口から、急に言葉が溢れだした。どうやら興奮しているらしい。少しだけ面食らいながら、他にすることもなく返事をする。子どもと会話するというのも、何か物珍しかった。
「家来だ」
「うそだ。おうさまなんていないよ。にほんは、そうすいしかいないよ」
「……そうだな、総帥だ」
「どうしてわるいひとのけらいになるの?」
アキラはびくりとして子供の顔を凝視した。そこに悪意はなかった。怯えも恐怖もなかった。ただ単純な疑問符があった。
 廃墟の穴の中は、建物中が軋んでいた先程までとはうって変わってしんと静まり返っている。雑踏の音も遠く、祭りの笛の高い音だけが、時折届いた。
「……総帥は、悪い人なのか?」
大人であれば気にしたであろう不自然な間を、しかし子供は意に介さぬようだった。
「そうすいのぐんじんがたくさんころすよ。こないだしょうちゃんしんだ!」
「──」
言葉無く、アキラは少年を見返した。興奮した子供はさらに続ける。
「そうすいはどうしてひとをころすの? わるいことするの?」
しょうちゃん、とは、友達だろうか。アキラが軍人と気付いて、過剰に怯え逃げ出した理由に思い至り、わずかに眉をひそめる。子供にまで手を上げる者がシキの軍にいることへの不快感に襲われていた。それは目の前の子供に対する痛ましさに依るところもあったが、なにより精神的な弱者がシキの軍隊に属するものとして軍人面を晒していることへの苛立ちが大きい。そういった自らの心の動きに、アキラは僅かな違和感と嫌悪感を覚え、だがすぐさま飲み下した。溜息とともに、答えを待つ少年に意識をもどす。
「──戦いたいから、だろうな」
「どうしてたたかいたいの?」
「強くなりたいから」
「どうして?」
「……そうしなければ、あの方はあの方であれないからだ」
「なんで?」
「そうだな……人間が酸素がないと生きていけないのと同じかもな」
そして俺が、あの方がいないと生きていけないのと。そう呟いてみると、何かに少しだけ、胸を突かれる感覚がした。
 アキラの言葉は子供には難しかったらしい。少しだけ口をつぐんだ後、少年は再び最初の質問に立ち返った。
「どうしてわるいひとのいうことをきくの?」
「お前は、どうして母親の言うことを聞く?」
「ははおや?」
「……お母さんのことだ」
「おかあさんのいうことは、きかなきゃだめ」
「なんでだ」
「おかあさんだから」
「お母さんが好きか」
「……。すき」
「俺も総帥が好きだから、言うことを聞く」
「どうしてわるいひとをすきなの」
「あの方は、綺麗だから、」
答えながら、喉に何か引っかかるような感覚を覚える。綺麗と、言ってしまえば簡単だった。ただ他の人間が綺麗とは言わざる場所までを含めて、自分がそう感じているのだろうということには、辛うじて知っていた。例えば体中に走る傷跡や、時折見せる狂気、楔に似た力で自分を縛るあの指先、そういったものを目にし感じるたびに、見えざる手に心臓を掴まれ、そこからじわりと何かが滲んだ。それをアキラは、綺麗と、表現した。その言葉が、本来より多くの意味を持つ言葉に変質していることに、彼は気付いていなかった。それが胸のうちで絡まりあう矛盾を引き起こす原因そのものであり、同時に、ひとつの答えであることも。
「綺麗、なんだ。とても」
ただ、そう口にすれば、肺を溺れさせそうに水位をあげていた何かが、少しだけ落ち着くような気がした。
「……言っておくけど、俺も悪い人だ。それにあの方のように綺麗じゃない」
「ひとごろし」
「……そうだ」
「わるいことは、しちゃいけないんだよ」
「そう思うなら、強くなれ。悪い人殺しを、お前が正せるように」
ざわり、と、気配のようなものを感じたのはその時だった。僅かな光を降らせる頭上の穴を自然と見上げて、ああ、シキが来る、と思った。それだけでじわりと熱に似たものが、心臓から染みた。
 何故か、わかるのだ。それほど強い感覚ではない。項を微風に撫でられるような、その程度の感覚だ。
 立ち上がりながら、アキラは口元を緩めていた。周囲を見渡す。土埃はほとんど収まっていた。視界の先、暗がりで、丸い金属が光を反射した。ドアノブだった。
 それを確認した時、足音が響いた。聞き慣れた、耳に快い、音だった。目を閉じればそれは鼓動に重なるようにして身体に反響する。やがて頭上からの声に瞼を開いた。
「──何をしている。全く、お前は……。拾われるのが趣味か」
「……閣下」
薄暗闇の中に浮かぶ、赤い瞳が反射する光に、アキラは誰の目にも明らかな微笑みを浮かべた。子供が身をすくませるのを感じて視線を下ろす。シキの威圧感のためだとアキラは勘違いをしたが、実のところ一瞬にしてまるで別人のように雰囲気を変えた、彼自身に対する怯えだった。数秒ののち、再びそれまでどおりの面持ちに戻ったアキラに、少年は丸い目をくるりと回して頭上を見上げた。
「なんだそれは」
シキのからかいを含んだ声を聞くなり、小さな手で指さして叫ぶ。
「……そうすいとにてる!」
「ご本人だ」
アキラが常通りの無表情の上に、それでもかすかな苦笑じみたものをにじませて教えてやると、建物中に響き渡るような興奮した声がほとばしる。
「そうすいはやさしくないからちがうよ!」
「確かに貴様に優しくしてやる義理はないな」
シキは引き絞るように目を細めた。
「そう言わず、引き上げてくださいますか」
アキラが子供に手を伸ばしながら言う。
「それをか」
小さな体の脇の下に手を入れて持ち上げる。
「彼は未来の、──貴方の脅威です」
肩車してから、自らの頭を支えに肩に立ち上がるように言うと、落ちる恐れなど微塵も感じさせない動きで少年は従った。
「──それは丁重に扱わざるをえんな」
鼻で笑うようにして、王は床に刀を横たえる。
「手を伸ばせ。両方だ、でないと抜ける」
子供は素直に従った。特有の高い体温と、柔らかな感触を感じながら、軽々とシキはその体を引き上げた。そのまま片手に抱いて、空いた手で刀を手に取る。そうして踵を返した。
「そうすい!」
「……耳元で叫ぶな」
「あのひとは?」
まだ穴の中にアキラを残したままだと、子供はシキの肩から背後に身を乗り出すようにして訴える。それを鼻で笑って、教えてやった。
「もう逃げた」
彼らの後にした地下の暗い穴の中には、開かれたままの扉があるきり、すでに誰の姿もなかった。

*

 掌の中に細かな細工の施されたドアノブの冷たさを感じながら、後ろ手に扉を閉じた。 執務室のさらに奥に作られた書斎は、今は窓から差し込む夕陽の赤橙に染まっている。誰の姿も気配もないのを確認して、アキラは小さく息をついた。
 軍服の上衣は、黒い城に戻るなりワイシャツごと交換した。いつの間にかなくしていたグローブを嵌めなおし、シキに奪われたままの軍帽もスペアをかぶっている。髪の間に入り込んだ砂や埃を流してから部屋に入りたかったが、さすがにそこまでの余裕はなかった。
 腕時計で時間を確認する。約束の二時間まで、後3分だった。裏をかくつもりでこの部屋に戻ってみたが、正解だったらしい。最悪今すぐシキが戻ってきたとしても、立ち会いにもちこめば、3分ならなんとか持ちこたえられるはずだ。
 僅かな主の残り香を嗅いだ気がして、アキラは顔を上げた。なんとなく振り返り、誰も居ないのを見て取って、ここは彼の部屋なのだからその匂いがするのは当たり前だと、小さな息を吐く。
「──……」
 細流しの赤い絨毯を踏んで、アキラは歩を進めた。窓からの橙の光のなかに歩み出て、書斎机の前に立つ。
 机の上には、万年筆が一本だけ出されたままになっていた。美しい光沢を持つ黒地の胴に、銀の線が回り込んでいる。一見シンプルに見えるが、蓋を外せばペン先には瀟洒な文様が刻まれていることを知っている。少しの間眺めてから、文箱の中に戻した。
 不意に微風が髪を揺らし、アキラは視線を巡らせた。斜め後ろの窓が一つだけ開いている。そういえば、誰も居ないのにもかかわらず、この部屋の温度はそれほど高くなかった。
 ひどく、静かだ。シキに逆らう者の命乞いや呪詛の叫び声さえなければ、心地良い重さの静寂が空気を満たす。しかし今日はそれがなぜか少しだけ、厭わしかった。主のいない部屋と、夏の夕陽の光と、遠いひぐらしの声は、肺の中に重く苦い水のように入り込む。
──早く帰ってくればいい。
 逃げてみろなどと、ひどい命令もあったものだと思う。挙句、結局シキの懐とも言えるこの場所に、戻り隠れる自分も滑稽といえば滑稽だ。
 アキラは主の机に両手をかけた。そのまま身をかがめる。磨き上げられた、わずかに赤の泳ぐ黒色をした紫檀の天板に口付ける。軍帽の庇が先にあたって小さな音を立ててずれた。冷えた感触はシキの肌の温度に似て心地いい。数秒の間目を閉じた。
 瞼の裏が陰った気がしたのはその時だった。鼻孔をまた、かすかなシキの匂いがかすめて、目を開く。しまった、と思った時には、首筋に食い込む歯列を感じていた。
「……!!」
びくり、と体をこわばらせる。首根を背後から噛まれた事に気づいたのはそのあとだ。
 シキはかすかな笑みの気配とともに、付けたばかりの歯型に舌を這わせ、味わうように再び歯を立てた。それは子供の首根を咥えて巣穴まで運ぶ、狼の仕草にも似ていた。覆いかぶさって机との間に閉じ込めたアキラの身体が、震えるのを嘲笑う。
「随分と、可愛いことをしている」
「……いつの間に……っ」
羞恥と驚愕の他に、ありありと悔しさが浮かぶ従僕の声は、耳に心地よかった。身を起こそうとするのを、体重をかけて阻む。自然身体は密着して、互いの熱を伝え合った。
「そんなものに口付けるよりも、直接強請ってみせろ」
そう言って、再び首筋に顔を埋め、タイに指をかける。止めようとするアキラの腕を机の上に一つにまとめて押さえつけた。慣れた仕草で衣服を乱してゆけば、押し潰した身体が焦って身を捩る。許さないと、耳朶に歯を立て、舌を滑り込ませた。
「……ッ、閣下、おやめくださ……ッ」
「何故だ」
耳に直接声を注ぎ込む。肩を震わせた従僕の声は濡れている。
「人が来ます!」
喉の奥で笑うシキに、アキラは叫ぶように答えた。そうでもしなければ声が揺れた。
「今更だな。ここでお前を抱いてやるのは初めてではないはずだ」
「扉、鍵が、……ッ、こんな、……ぅ、んッ」
「知られたくないか。何を恥じる? もっとも、勘の良い者はとっくに気づいていると思うが」
「そういう問題では、……!」
形の良い指が軍服の下に潜り込み、ピアスを弾いた。アキラはびくりと大きく背をしならせ、そうしてから、熱を持った息を吐きながら机に額を擦りつけた。一度こうと決めたシキの意思を変えるのは難しい。ならば無様な声を漏らさぬよう、努力するのが精々だ。観念してきつく目を閉じ、唇を噛んだ時だった。身体の上にあった重みが不意に消えた。
「……冗談だ。口を開け、アキラ。また噛み切る気か」
あっけにとられて動きを止めたアキラの口元を、白グローブの指がなぞる。それはついで髪に触れた。ふわりと、あの廃墟の匂いが漂った。
「お前はまず風呂だ。まったく、よくもこれだけ汚れたものだな」
少し櫛っただけで、白い手袋と机にこぼれ落ちた砂埃に、シキは苦笑する。
「……、」
アキラは知らず握りしめていた手のひらをゆっくりと開いた。数秒後、憮然として身を起こし、衣服を整える。タイを結び直す指の動きには、怒りのための乱雑さがあった。口元を歪め、腕を組んで眺めていたシキが、タイの曲がりを直してやるとそのままアキラの顎をとり、上向かせる。だが従僕は唇を引き結び床を睨みつけたままだ。唇の弧を深くして黙したままそれを見つめた。無言で過ぎた時間は、数分に渡った。やがて、アキラの眉尻がわずかに下がり、眼差しから棘が抜け落ちる。躊躇いがちに、青い目が視線を上げた。
「──閣下、」
呼べば、赤い瞳がわずかに笑みの気配を濃くして応えた。そこには珍しく、貫く苛烈さはない。
 アキラは口を開いた。伝えたいことがある気がした。けれど言葉にならなかった。その頭を、シキは鷹揚に片手で引き寄せる。飾緒とは逆の肩口に顔が触れると、アキラは思わず小さく息をついて、ほんの少し頬を擦るようにした。
「……どうした」
あやすような声だった。それが少しだけ、アキラの自制心を緩める。
「……最近貴方は、すぐに、俺の手を放す」
声は多少なじる雰囲気を宿す。けれどそれが、八つ当たりに等しいことに、アキラ自身気付いてはいた。同時にアキラが知っていて言うことを、主が察することもわかっていた。──甘えだった。 本当に言いたいことは、そんなことではなく、けれど、それほど遠くもない気もした。
 同時に、矛盾したまま絡まっていた感情が、後頭部に当てられたままの手のひらにあっという間に吸い込まれていくのを感じた。結局、なにもかもが、シキによってもたらされ、還っていった。ささくれだっていた感情が、その存在の確かさを感じさせる体温の前で凪いでいくのに、アキラは目を閉じる。
「不服か」
「……いいえ。信用いただいているのだと」
シキはその言葉を鼻で笑った。目を半ば伏せるようにして、従僕の頭を引き寄せた指にわずかに力を込めた。赤みを増した斜陽の中、睫毛が白い頬に長い影を落とす。
「信用、か」
「……なんです」
答えの代わりにかすかな笑みの気配があった。アキラは更に問を重ねる。
「なぜ、逃げろなどと?」
「泥遊びは楽しんだか」
続けてはぐらかされて、口を引き結ぶ。ろくな目に合わなかったのは自業自得とはいえ、仕事を途中で遮られたのは、気持ちのいいものではなかった。シキが返事をしないのは、自分で考えろという意味なのだと知ってはいたが、それでも少しばかり、釈然としない物がある。
 後頭部にあった指が髪を弄びはじめた。ときおりその小指がうなじをかすっていくのに、眉根を寄せる。少しだけ強い語調で、再び呼んだ。
「閣下」
「少々、喧しいぞ、アキラ」
それをシキはぴしゃりと叩き落とした。傍らの身体が硬直したのを感じながら続ける。
「……たしかに、勝手を許しすぎたようだな」
その指先はひどく優しく、アキラは見なくとも主の表情を想像することができた。瞳を半ば閉じるようにして微笑む、あの恐ろしく美しい顔を。
「休暇は正解だった。今月中に用意をしろ。"3日"だ──わかるな」
「……ッ、ぁ、」
小さくうめいた従僕に、今頃気付いたかと口の端から嘲る息を漏らす。三日間、それは、仕置や躾を前提として取らせる休暇の日数だった。ここ一年ほどの間も、何かあるたびにこまごまとした罰は与えてきた。だが、トシマで初めて出会った頃や、日興連の軍にいた頃のように、そのためだけにきっちりと時間を取ることはなくなっていた。統一ニホン創立の忙しさのせいもあったが、なによりシキの意向に拠っていた。
 アキラは息を呑んで、自らの行いを省みた。例えば一年前の自分なら、先ほどのように主の思惑を聞き出そうと問いなおすことなどあっただろうか。答えは否だった。
「……申し訳、」
「いい。お前の変化は見ものだった。──アキラ」
謝罪の言葉を遮って、シキは続ける。満足気な笑みの気配は、アキラを赦し、同時に追い詰めて煽った。
「暴いてやろう。今のお前を何もかも全部、さらけ出してみせろ」
「……ッ」
耳元に声を滴り落とした。そのかすれた囁きに、アキラは耐え切れずに体を震わせる。
「…………っシキ、」
熱を持った吐息とともに名を呼ばれた王はあやすように、首元に額を擦り付けるの彼の犬の頭を抱いた。陽が沈んだのを瞼の裏に感じ、笑みを濃くする。口元を彩るそれは歪んで、宵闇の中細く浮かぶ三日月を描いた。

end.

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