熱病

0:現在、トシマ

 武道場の扉を開いた瞬間耳に入ったのは、跳ね上げられ持ち主の手を離れた木刀が、磨き上げられた松材の床に転がる音だった。鉄木の木刀が動きを止めると、場内はまるで詰めていた息を吐くように緊張を解く。
 滅多にない光景に、ニイオは扉に手を掛けたまましばし見入った。数歩先には上官の姿がある。珍しいのは彼が武道場にいることではなく、その眼差しが灯す熱だ。押し殺されてはいるものの僅かに滲んでいるのは、獲物に襲いかかる獣の獰猛さ、あるいは殺気に似たもの。
「もう一戦いくか」
「は」
 息を乱してすらいないアキラの声に、素早く刀を拾い上げながら応えたのは精鋭部隊の中でも中堅どころの兵だった。構えを取り相対したふたりは、再び木刀を打合せはじめる。
 それを横目にようやく扉を閉めて歩き出した。朝も早い時間、武道場の窓は障子とともに開け放たれ、わずかに夜の気配を残す冷えた空気を室内に呼び込んでいる。そんな時間でも人の姿が多いのは、定期的に行われる御前試合までひと月を切っているせいだ。
 普段より遅い時間に現れたニイオに、音もなく近付いてきたのは同部隊のひとりだった。鉄面皮に困惑を滲ませて、他の者には聞こえない音量の声をよこす。
「筆頭が」
 ニイオは視線をアキラに戻し、そして同僚の言わんとするところを理解した。この妙な緊張感はそのせいかと、あたりを見渡す。気もそぞろに精鋭部隊の長の様子を伺う連中が、ざっと見ただけでも目に付いた。
 アキラの踏み込む足には、普段よりも重みがある。間合いは狭く、相手の懐に飛び込むような動きが多い。相手を見据える瞳には、激しさが見え隠れする。どれもこれも感情の表出することの少ない彼らの上官には、似つかわしくない所作だった。
「ご機嫌斜めに見えるわけか」
「違うのか」
「そうだと言えんこともないが。剣が荒れているわけでなし。──俺としては、あのくらいでいてくださった方がむしろ安心する。最近どこか上の空でおられただろう」
実際落ち着いて様子を見れば、アキラの動きはしなやかで余裕があり、感情に任せた荒さとは異なっているのがわかる。壁際に荷物を置きながら事も無げに答えると、同僚は困惑気味に追いすがった。
「それはそうだが」
「むしろあれが、あの方の素だぞ。いつの間にか閣下の剣をなぞるようになられたが」
杖袋から木刀を取り出す。赤樫のこれといった特徴のないものだった。武道場備え付けのものを使っても良かったが、なんとなくいつも、手放せずにいる私物を持ち込んでいる。件のアキラとも、日興連時代から何度もこの刀で手合わせをしたものだった。
「一度だけ、本気で腹を立てられているところを見たことがあるが、相手を噛み殺しそうな勢いだった。機嫌が悪いというのは、ああいうのを言う」
「日興連の頃か。あの方が激するところなど想像もつかないな」
「閣下を侮辱されてな」
「……そんな輩がいたのか」
ニイオと違い、統一ニホン創立直前にシキのもとに組み込まれた同僚は、口をへの字に曲げて呟く。
 日興連の軍に属していたもののうちでも、皆が皆本部にいたわけではなかった。特に遠方に配置されていた兵たちのなかには、シキの敷く体制やその権力がある程度整ってから、つまり外部まで単なる噂以上に信憑性のある情報が出まわるようになってから、こちら側についた者も少なくない。同僚もそのひとりだった。
 ニイオが木刀に刻まれた傷から目を上げると、ちょうど手合わせを終えたアキラと視線が合った。睨んでいるようにも受け取られかねない、その強い瞳が言わんとするところを理解する。わずかに笑みを浮かべながら頷いた。アキラがそれまで刀を合わせていた部下に一言二言何か告げる。頭を下げて去っていく背を見送りながら、さすがに技量に差がありすぎたのだろう、物足りなさそうに小さな息をつくのが見えた。
 ニイオとて、アキラには二三歩遅れをとる。だが長年刀を合わせていれば互いの癖や弱点が見えていた。手の内の読み合いや駆け引きじみたものは、手合わせに意味をもたらす。視線に呼ばれるままに荷物の上に木刀の包を置いた。
「いたさ。俺の元上官だ」
同僚が目を見開くのを横目に歩み出した。

1:過去、日興連

 目を開いていることに気付いたのは、遠い風の音に似た音量で流れる話し声が、名を呼んだせいだった。自分のものではない。シキ、と。心臓に刻み込まれた所有者の名が確かに耳に入った。
 霧が晴れるように意識が覚醒する。目の前は暗闇だ。アキラは血の気がざっと下がる音を聞いた。つい先程まで自分は家路を急いでいたはずだ。まるで魔法のように一瞬で景色が変わったように感じられた。自分が今どこにいるのか、まったく見当がつかない。
 騒がしい心臓の音を無視して起き上がる。身体がぎしぎしときしんだ。関節や筋肉がこわばっているのは、しばらくの間体を動かさなかった時と似ている。僅かな頭痛は、神経系の薬物の後遺症を思わせた。
 腰のホルダーに拳銃が入ったままなのを確かめる。弾倉は抜かれていなかった。あまりの暗さに視認することは出来ないが、重さから中身が空でないのもわかる。外した弾倉を再び押し込んでから、腕時計で時間を確認しようとしたが、暗闇に文字盤の白がうっすらと浮かび上がるだけで、時間までは読み取れなかった。
 地面についた手のひらの下には、表面の加工が充分でない、コンクリートのざらりとした感触がある。横になっている間接地していた部分が冷えて、痺れたようになっていた。
 聞こえていた輪郭のはっきりしない声が、荒らげられてほんの少し大きくなる。アキラは耳をすました。音の方向に頭を巡らせれば、灰色の長方形が浮かび上がっている。隣室か、あるいは廊下に繋がる出入り口らしかった。立ち上がりかけ、目眩に襲われて再び膝をつく。
 暗闇のせいで平衡感覚を失っているというだけではない。薬物でしばらくの間眠らされていたのだろうという想像が確信に変わった。数秒の間、焦りや不安を悔しさが上回った。床に爪を立てて奥歯を噛む。歯の軋む音が頭蓋に響いた。
 きっとまた、シキの足を引っ張るような事態に巻き込まれたのだろう。これまでにも何度かあったことだった。特にシキが階級を駆け上り、現在の中佐という地位に落ち着いてからは。
 階級や立場こそ違えど同時期に日興連の軍に現れ、シキに引き上げられるようにして傍に置かれたアキラを、他人がどんな目で見ているかはよく知っている。
 やっかみ、僻み妬みから発される皮肉ならば、殆ど実害がないだけまだ良かった。厄介なのは、シキの弱点として自分が利用されてしまうことだ。現状のように。
 危険に対する嗅覚や警戒心のようなもの。それがアキラには決定的に欠けていた。気を配っているつもりでも、こうしてあっけなく罠にかかる。
 舌打ちしたい気持ちを押し殺し、今度は先程よりもゆっくりと立ち上がった。出入り口まで辿り着くとわずかに明度が増す。内側に開いたままのドアの横を抜ければ、それまでなかった圧迫感を感じた。人一人の肩幅があるかどうかの細い通路のようだ。それまで小さく聞こえていた人の声も大きくなる。
 再びシキという言葉が耳に届いた。
 細かな凹凸がそのままに残されたコンクリートの壁に軽く手を当てる。足音を立てないように声の方角に向かえば、ある場所で急にはっきりと聞こえるようになった。壁の向こうにある部屋の話し声は、幅はほんの数ミリ、高さは5センチにも満たない隙間から、線状の光とともに漏れている。ずいぶん高い場所に開いたその隙間は、あたりの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる明かり取りの役割を果たしていた。
「……シキ中佐の様子はどうだった」
隙間とは逆の方向の壁に背中をつけ、アキラは耳をそばだてた。
「冷静なものでした。が、隣県とはいえ出先にいながら、知らせを受けた誰より早く火災現場に訪れたくらいですから、内心は推して知るべしと」
「顔には出さなんだが、か。慌てふためくさまを見てやりたかったが、まあいい。それで?」
壁の向こうには少なくともふたりの男がいるようだった。報告を促したのは年齢のいった、どこかくぐもったような声だ。おそらく年齢は60前後だろう。対するのは軍で訓練されたことが明らかな、張りのある声音である。こちらは40はいっていないものと思われた。どこかで聞き覚えがあるような気もしたが、軍人の、特に上官に対しての話し方は似通っている。気のせいかもしれなかった。
「予定通り、各所への連絡はこちらでコントロールしましたので、消防が駆けつけたころには屋敷はほぼ全焼。調査にあたる軍警もこちらの息のかかったものを回し、出火原因はキッチンの火の不始末ということで。ただ、」
「なんだ」
「はじめに申し上げましたとおり、中佐は予想以上に早く到着なさいましたので」
わずかに口ごもるような沈黙が流れた。
「あの男への敬語はいらん。それでどうしたと訊いている」
「中尉の遺体を、こちらで確保する前に」
「持っていかれたのか」
「は」
吐き捨てるような声に返るのは短い響きだった。
中尉の遺体、という言葉に引っかかりを覚えながら、アキラは頭ふたつぶんは上の光源を見つめる。中尉といえば、今の自分と同じ階級だ。遠方に届いた訃報に、あのシキが慌てて現場まで駆けつけるような人間とは、誰だ。すぐには思いつかなかった。
「薬は」
「元々残るものは使っておりませんし、遺体は炭化させました。解剖した所で、こちらに不利になるような証拠が出るようなことはないと」
「ならばいい。……しかし、そうとなれば愉快だな」
嘲笑の気配の滲んだくぐもった声からは、わずかな時間とはいえ現れていた緊張を解いて、ゆったりとしたものになる。
「流石に目を掛けていた腹心──には未だ力不足だったかもしれんが。可愛がっていたようだからな。堪えるだろう」
「……」
返事はなく、代わりに聞こえたのはグラスに液体を注ぐ音だった。強い酒を飲み干した後のようなため息を吐いて、男は続ける。
「これで大尉に昇進するのはうちので決まりだ。その上あの男はちょろちょろと煩い飼い犬を失う。悪くない」
「ご子息も、アキラ中尉にはあまり良い印象をお持ちではなかったようですので、此度の件はお喜びになられるでしょう」
不意に上がった自分の名前に、アキラは思わず息を止めた。シキの腹心、中尉と聞こえた時点で、なんとなく想像はついていたが、それでもいやな鳥肌が立った。静かに呼気を吐き出す。死んだことになっているのは、──自分だ。
「良い印象など持てるものか。あのどこから現れたともしれん野良犬と肩を並べるだけでも耐え難かっただろう」
言葉尻にドアをノックする音が重なった。
「クシマ少将、お車が到着しました」
「今行く。ところでうちのはどうしている」
グラスをテーブルに置く音、立ち上がる気配や物音が相次ぐ。
「は。5日前に出立なさったアイヅにて恙なく、と聞き及んでおります」
「そうか。いや、これまでなら毎晩掛けてきていた電話がないと、家内がうるさくてな。……言うまでもないが計画は続行だ、問題があれば連絡しろ」
「は」
人の出入りするざわついた雰囲気は、しばらくすると静まった。扉が閉じる音の後は、人の話し声も途絶える。アキラは頭上の光源に自然向けていた視線を落とす。
 クシマ少将の名前には聞き覚えがある。作戦や演習で顔を合わせる度につっかかってきた中尉の名だ。親子で軍属と聞いたことがあるから、話に出た子息というのが、あの男をさしているのは間違いないだろう。
 かわりばえのしない皮肉と当てこすりを何度も受け流したのを覚えている。大概が、出身や身分に関する内容だった。初めのうちこそ多少の反論はした気がするが、最近ではそれすら面倒になっていた。シキへの言及すら捨ておいている。そもそも事の発端もそれだったのだ。
 クシマは少尉、アキラは准尉だった士官学校時代に、剣術の試合があった。対戦相手として初めて向かい合った時に、何を思ったか当時のクシマ少尉はシキへの侮辱を口にした。許しがたいことだった。試合は圧勝した。というより、少しばかり、やりすぎた。以来すでに1年以上の月日が経つが、事あるごとにつっかかられている。特に一つ下だったはずのアキラの階級が、彼に追いついてからは。
 最後に顔を合わせたのは数日前、演習場からの帰り道だ。肩を掴まれて何事か言われたのを、視線すらやらずに振り払った。どのくらいの間眠らされていたのかまったく判別つかない今、日数に関しては曖昧だったが。
 ふと何か引っかかりを覚えて、アキラは記憶を遡る。クシマ中尉はあの日、叩き落された手を撫でるようにして、にやにやと嫌な笑みだけを残して早々に引き上げていった。普段なら去ろうとするアキラの背にまで皮肉を投げるほどであるのに、あまりにもあっさりと。今考えてみればあれは、今回の自分を排除する計画を事前に知っていたからこその態度だったのだろう。気になるのはその後だ。不審を感じて、少しの間後ろ姿を視線で追っていたアキラに、代わりに話しかけたのは彼の取り巻きの一人だった。
──腹は、たちませんか。
 そう問われた。これまでついぞ無かったことにほんのすこし虚を突かれて、男の顔を見返したのを覚えている。襟章はアキラよりも3つ下の階級を示していた。軍人らしい筋肉のついた太い首の上の、30がらみの無骨な顔は、こちらの返答を待っていた。
 腹など最早たつはずもなかった。他人の言葉に汚されるようなものを、アキラはすでに信用していなかった。シキへの侮辱ですら、気にならなかった。それは何人もシキを汚すことも揺るがすこともできないと、身に染みて知っていたからだった。腹が立つとするならば、その傍らに沿うほどの力のない自分自身だった。シキに選ばれておきながら、その汚点にしかなれずにいる。
──たつと思うか。
 浮かびかけた自嘲を振り払いながら、応えた。自虐や自棄は、現状最もやっかいな敵だった。無意味な思索に引きずり込まれかけたのを、何度かシキにも戒められた。
 ひたりと合わせた視線を、数秒の間男は受け止めた。その後すと、姿勢を正した。
──くだらない事を、申し訳ありませんでした。
 軍属らしい硬い物言いは、けれど確かな敬意を含んでいた。わずかに目を見開いたアキラの前を、音もなく男は去り、クシマ中尉とその取り巻き仲間の後を追ったのだった。
 あの声は、そういえば先程まで壁の向こうから聞こえていた声に似てはいなかったか。
 声だけでは確証までは至らなかった。
 落ち着こうと、息を深く吸って、吐いた。とりあえずは保留だ。それよりも、今どう動くべきかを考えなければならなかった。
 自分は死んだことになっている。だが何者かによって、こうして生かされ、先ほどの会話を恐らくは故意に聞かされた。罠である可能性は低いだろう。罠にかけるくらいならば殺しておいたほうが早い。むしろ、助けられたと考えるほうが自然だった。暫くの間死んだことにしたまま動いたほうが、クシマ親子の裏をかく意味でも賢明だ。
 シキに連絡を取らなければならない。死体を持ち帰ったということは、すでにそれがアキラのものではないと気付いているだろう。ニコルの研究所がある。専門ではないにしても、検死くらいならばお手のもののはずだ。
 不意にざわりと、首の後ろに鳥肌が立つのを感じた。
 検死。
 ともすればそれを受けるのは、自分だったかもしれなかった。焼け落ちた屋敷から持ち帰られたのは、自分の死体だったかもしれなかった。むしろこうして誰かに助けられなければ、そうなっていたはずだった。
 背後に忍び寄っていた死の気配の、残り香のようなものをアキラは嗅いだ。
 目的がない頃ならば、ただ日々を消費することが生きることだった頃ならば、死はそれほど恐ろしくはなかった。
 今でも、守るべきもののためにならば命を捧げることにはためらいはない。けれど何の役にもたたずに、あっけなく終わっていたかもしれないと思えば、背筋が凍えるような感覚に襲われた。
 知らず引き結んだ唇から歯の軋む音が漏れる。シキを残してゆくわけには、いかないのだ。
 再びあたりを見渡した。そもそも、ここはどこなのか。日興連本部のような気はするものの、確証はなかった。この通路も、明らかに諜報のために用意された場所だ。腕時計に視線を落とす。ここでならば、文字盤もうっすらとではあるが見ることが出来た。夜の八時だった。
 そろりと、歩き出す。数メートルほど先に、金属質のものが光を反射しているのが見えた。横滑りの戸口の引き手だった。

2

 硝子窓が空気の振動にびりびりと音を立てた。
 日興連本部隣接の演習場では現在、超小型戦車を中心とした新型火器の演習が行われている。シキは退屈を滲ませながら横目にそれを眺めた。十数人に囲まれた目の前のテーブルでは、次の作戦のための会議の最中だった。
 戦線は現在、日本海側はヤマガタ、太平洋側はセンダイに至っている。小型戦車が投入されるのは、市街地戦にて建造物やインフラをなるべく傷つけない状態で残すためと、細い道にも入り込む小回りを確保するためだった。とはいえそんなことを気にしているのはむしろ日興連側だけで、押され気味のCFCはなりふり構わない戦い方を見せ始めている。前線の兵士を危険にさらす作戦だった。
 実際立案の際に、各所からそのような懸念や異議を唱える声が上がった。だがそれを半ば無理矢理押さえ込んだのは、いわゆる保守派の勢力だった。
──わけのわからん麻薬に頼るよりは、よほど良い。
──先進国ニホンの技術を集結した機器を投入してスマートに。
 それが彼らの合言葉だ。
 シキを中心に据えた一派の頭を押さえつけようとする意図は明確だった。実力主義であり、現場を知り尽くした作戦を展開するシキ派に対し、彼らはモラルや人道という言葉を多用する。人道に則り、道徳的で、かつ祖国の美しい風景や街の景観をなるべく損なわない戦い方。そういった理想論を掲げられた今回の作戦は、半ば無理矢理案を通され、もうすぐ実行されようとしている。
 やがて会議は閉会となり、上級将校たちが席を立ち始めた。開け放たれた戸口から、部下の一人が滑りこんでくるのを、シキは椅子で足を組んだまま迎えた。
「……検査の結果が出ました」
「すぐ戻る。先に行け」
シキが口の端を上げたのに、兵は頷くと敬礼の後踵を返す。特に急ぐでもなく立ち上がるったところに、保守派の少将の一人が粘着くような笑みを浮かべて擦り寄ってきた。
「屋敷が火災にあったとか。災難だったな」
「──」
一瞥したきり上官への敬意を表すでもないシキを、気にすらしない上機嫌だった。顎の下に溜めこんだ脂肪が首にそのままつながり、口を開くたびに揺れている。
「目にかけていた部下も亡くしたのだろう。ご愁傷様だ、私にも息子がいるからね、心中察する。いや、今はアイヅで職務に励んでいるが。もうすぐ大尉だ、できた倅でね。君のその死んだ部下とやらも中尉だったか。本当に残念なことだ。まあどこの馬の骨ともわからんのでは、そうそう昇進も見込めなかっただろうが」
まるで昨日食べた豪華な夕食を自慢するような響きには、死者を悼むような雰囲気は微塵もなかった。
 赤い瞳がわずかに細められたのに、少将の脇を固めていたふたりの兵に緊張が走る。彼らは鉄面皮のまま、腰に下げた拳銃のうえに手を動かしていた。だがすぐに、相手が微笑んだだけだと気付き、所在なげに手の位置を戻す。何も感じずにだらしのない表情を晒しているのは、少将一人だ。
「──クシマ少将」
「なんだね」
単に名前を確かめただけだった。それ以上の言葉を発することなく、シキは踵を返す。礼を欠いたその所作を、しかし咎める声はない。代わりに背に投げられたのは上辺だけの追悼の言葉だった。
 左右に扉の並ぶ廊下を歩みながら、シキはふと、先ほどとは違う種類の笑みを浮かべた。もしこの場にアキラがいたのなら、また機嫌を悪くしただろう。自分をだしに主を侮辱されることを最も厭うのだ。偽物の死体を残して、依然として行方をくらませているあの犬は。
 鼻先をかすめた覚えのある香りに、シキは足を止める。人影のない廊下の隅に、見覚えのある銀色のペンが一本落ちているのが見えた。資料室らしき部屋の扉の前だ。拾い上げ、胸ポケットに落とすと、静かにドアノブを回した。
 一辺10メートル程度の壁に囲まれた室内は、昼でありながら薄暗い。北向きの窓から入り込むのはブラインド越しの光だ。スチール棚には、旧世紀の異物のような分厚い紙媒体のファイルが、端を変色させながら並んでいた。古い紙と埃の濃い匂いは、この部屋が久しく空気の入れ替えすら行われていないことを示している。だがそこに混じる僅かな甘い香りと気配には、ペンなどで気を引かれなくとも気付いただろう。
 部屋の奥でかたりと物音がした。棚でできた路地をいくつか横切れば、窓際に立ち尽くす見慣れた姿が目に入る。まるで不機嫌そうな、眉根を寄せたその表情が、実際には叱られるのを待つ子供のそれと大差ないのだとはすでによく知っていた。
「シ、……!」
開きかけたアキラの口に、グローブの手の甲を当てて留める。青い目を見開いた従僕の耳元に、唇をかすめるようにして小さく呟いた。
「黙れ」
小さく、びくりと肩を揺らしたのを笑いながら、口をふさいだまま軍服を探る。ポケット、ボタンの裏、襟の下。初めのうち強ばっていた体も、意図を理解したあとはおとなしく力を抜いた。盗聴器とGPS発信機能を兼ねた小型の機器が見つかったのはワイシャツの襟の裏だった。貼り付いていたのを取り外し、眼前に掲げてやる。眉間の皺を深くしたアキラを笑うと、ブラインドの隙間から差し込んだ指で窓をわずかに開く。桟の外側に置いたままにして閉じた。
「葬式を手配するところだったぞ」
意地悪く笑えば、アキラはわずかに俯いた。
「抜かりました」
「そのようだな。二日間どこにいた」
引かれた顎を掬い、顔を上げさせる。晒された渋面の上で、時に強すぎるほどの力を持つ眼差しが揺らいだ。僅かに下がった視線は、だがすぐに芯の強さを取り戻して赤い瞳の元へと戻る。それでいいと、頬をひと撫でして手を放した。
「何があった」
アキラの報告は淡々としており、それが逆に押し殺した内心を伝えるようだった。自らの不甲斐なさに対する怒りの扱い方を、ようやく覚えたばかりの瞳からは、時折隠し切れない憤りが滲んだ。それはかつてトシマで、何度叩きのめしても歯向かってきた頃のあの強い瞳を思い出させる。感情の表現が得手ではない割に、いつもその眼差しばかりが雄弁だ。
 ほくそ笑みながら、行方がわからなかった二日の間に集めた情報をつなぎあわせる。先ほど纏わり付いてきた少将の顔を思い出した。同時に、その脇を固めていた兵を。ほんの少し漏らした殺気への敏感な反応は、あの俗物の傍にあるには少々有能すぎるように思われはした。
「お前の死体」
語り終えたアキラが、怪訝そうにシキを伺った。だがすぐに、それが火災現場から回収された遺体のことだと思い至り、唇を引き結ぶ。
「なにか面白いものが出るかもしれんな」
窓の外に追いやった小さな機械を見ながら笑う。
「……」
「迎えをよこす。それまでおとなしくしていろ」
軽く背を預けていた棚から体を起こした。踵を返そうとする気配に、アキラは躊躇いがちな声をあげる。
「シキ、」
動きを止めて視線だけを返せば、言葉を探すようにわずかに開かれた唇が、けれど結局言うべき言葉を見つけられずに閉じられた。
「随分としおらしいな」
「お咎めを、受ける覚悟は」
「当然だ」
顎を強く掴んだ。痛みに眉間の皺を深くするのを気に留めずに、左右の頬を見聞する。
「目立った怪我はないようだがな」
「……、?」
「意識を失っていたのだろう」
軍服の上から臍に埋め込まれたピアスの形をなぞってやる。これが外されていないということは、恐らく滅多なことはないだろうと思われた。だがそれと、二日間姿をくらましていたことは無関係だ。その間幾度、目に映る全ての景色を焦土に変えてやりたい衝動に襲われたかしれない。
「……ッ、」
「覚悟しておけ。体を弄られた跡でもあれば、いつもの躾や仕置程度で済むと思うな」
見開かれた青い瞳には、怯えと反抗、微かな熱が乗った。だがそれらは瞬き一つのあとに、どこか奇妙な穏やかさのある眼差しへと変化する。
 罰を与えられることへの安堵。それはいつの間にか、アキラの中に根付いていた。その裏側にあるのは見限られることへの恐怖だ。
 シキは知らず嘲ける笑みを浮かべる。
 棄てることが出来ようものならとうにそうしていただろう。たとえばあの、雨のトシマの路地裏で。
「……はい」
確かな声で返った応えに瞳を細めると、今度こそシキは踵を返した。

3

 アキラのもとに迎えが現れたのは、夕方になってからだった。出入りの業者の制服に身を包み帽子を目深にかぶってしまえば、確かに人通りの少ない時間をわざわざ選ぶよりは、退庁者の多いこの時間のほうが人に紛れてしまえた。
 焼けた屋敷の代わりに連れて行かれたのは、アキラの知らない郊外の一軒家だった。周囲は自然の風合いを残した石造りの塀に囲まれ、その内側にさらに林といっていいほどに木々が生い茂っている。隣家までは徒歩で五分ほど離れているようだ。同伴していた迎えの兵は、玄関でいくつかの言付けと鍵を手渡したのち帰っていった。
 外見は随分と古びた日本家屋だが、明かりをつけてみればしっかりと人の手が入っていることが察せられた。廊下からそのまま部屋に繋がる板敷の床は、年月を感じさせる濃い蜜の色をして、とろりと光を反射する。
 革張りの椅子に囲まれた、年代ものの飴色のシンプルなテーブルの上に、書類とノートパソコンがおかれていた。その先には開かれた障子戸があり、籐椅子の置かれた幅広の縁側があり、すでに宵闇の落ちた庭に向かうガラス戸があった。
 部屋はそのままキッチンに繋がっていた。こちらは屋敷全体の雰囲気を損なわないようにではあるが改装されている。キッチンからも廊下に出ることができ、その先にはやはり改装ずみと思わしきバスルームが見えた。
 床に転がされていただけあって、体が埃っぽい。とりあえず二日ぶりのシャワーを浴びて、それから言伝て通り、冷蔵庫に用意されていた軽食をとった。パソコンの置かれたリビングに戻り、なにも食べていなかったわりに空腹感のない腹に、おざなりに食べ物を詰め込んでいると、横の書類の文面が目につく。
 細かな字で印されたそれは、屋敷に残された焼死体の検死結果の報告書だ。わざわざプリントアウトしてあるのは、おそらく自分に見せるためだろう。食事中にこういったものを眺めることにはすでに慣れていた。
 不特定の誰かの死に関する記述は、ただの事実として頭に流れ込んでくる。だが数ページ目をめくった所で、アキラは手を止めた。顔見知りの若い男の写真だ。細い目と、頬の垂れた顔、首の上に乗った二重の顎。軍人にしてはいささか丸い体は、筋肉ではなくたるんだ肉によるものだ。クシマ中尉だった。
 書類の右上にあるのは一年ほど前の日付だ。生年月日や血液型の他、既往症や血液検査の結果のあと、指紋、歯型やそのX線写真のデータ照合先が記されている。日興連では、軍入隊時には血液検査までしか行われない。ただし何かあった場合に迅速な本人確認が必要な上級将校についてのみ、詳細なデータがとられ記載されている。
 次のページは再び検死結果だった。生前の体型の一致、歯や骨からとられたデータ、DNA鑑定の一致。指紋については判定できずの言葉があった。遺体の状況のせいだろう。身じろぎの弾みに、靴先がテーブルの脚にぶつかった。揺れるテーブルの上で、開かれたノートパソコンがスリープモードから起動する。
「──!」
現れた画面に、アキラは思わずびくりと肩を震わせる。前線に出ることの多かったかつてであればまだしも、シキの傍に引き上げられ、士官学校も卒業してからはそうそう目にする機会のないものだった。件の焼死体の画像だ。炭化した黒い人型は背中を丸め、手足を腹に縮こまらせるようにして、ビニールの敷かれた長方形のステンレスの台の上に横たわっていた。瞬間的に速まった呼吸と鼓動を自覚したときだった。
「読んだか」
不意に、背後から耳慣れた低い美声が掛けられた。気配に全く気付かなかった。湿った髪の間に入り込んだ指が、耳の後ろを撫でるように滑り落ちて首筋へと至る。ざわりと、広がった鳥肌は呼び起こされた熱のせいだけではなかった。
「、……」
振り返らずとも、シキがどんな顔をしているかがわかる。笑みに三日月の弧を描く唇、細められた瞳は鳩の胸を裂いた血の色。長い睫毛の影が落ちる陶器の人形のような頬は、青みがかって見えるほどだろう。酷く美しいその微笑は、怒りによって引き起こされるものだ。
 開きかけた口を、何も言わないままに閉じる。どんな言葉も謝罪も既に意味を成さないことを知っていた。
 喉の尖りをまるで優しい動きで指先が辿る。撫であげた指に、背後から頬を掴まれた。顔を斜めに傾けられ、顕になった首筋に軽く歯を立てられる。
「……っ」
びくりと肩が揺れた。耳の下から嘲笑の気配を感じた。
「死に損なった気分はどうだ」
「……、ぐ……っ!」
問いかけておきながら答を拒むように、手のひらがゆっくりと気道を、頸動脈を締め付ける。視界が端から赤い砂嵐におおわれていく。それが羽毛に似た白に変わる前に、体が持ち上げられる浮遊感を感じた。背中に衝撃を受けたのと、陶器の割れて砕けるけたたましい音が耳を打ったのは同時だった。テーブルの上に投げ出されていた。軽食の食器とノートパソコンは床に落とされて、書類は背中の下でつぶれる。
 咳き込み、酸素を貪りながらそこに佇む主を見上げた。
「かは……ッ、は、……」
「脱げ」
「……!」
絶対の響きを持った命令が鼓膜を打つ。ほんの数秒にも満たない間、アキラは動きを止めた。戸惑いやためらいは、しかしすぐに従順と少しの諦念のうちに埋没する。
 痛む喉を押さえていた手指を引き剥がす。ワイシャツのボタンをはずす震える指の、爪の先には血がついていた。無意識のうちにシキの手の甲を掻きむしったらしかった。
 上にはおっていた軍服のジャケットごと腕をぬく。春先の空気は夜ともなれば十分に冷たかった。肌をさらした上半身には鳥肌がたつ。だがすぐにベルトに手をかけた。少しでも自分に考える時間を与えてしまえば、動けなくなることを知っていた。
 膝から滑り落ちた下衣が、すでに脱ぎ捨てた軍服のズボンの上で、かそけき衣擦れの音をたてた。両腕を脇に下ろして裸体を晒すと、アキラは視線を自分の足元に落としたまま動きを止めた。ピアスだけが唯一、鈍い銀色に光を反射している。顔には嫌悪も羞恥も怒りも一欠片も浮かんではいないかわりに、血の気も失せていた。
 シキは先程までアキラが座っていた革張りの椅子の上に座り、脚を組んでその姿を眺めた。無機物を吟味するのに似た視線は、それでいて皮膚の内側の肉や神経に直に触れるようだった。
「後ろを向け」
言われるがままに背をむける。開かれたままの障子戸の向こう、硝子戸に、青ざめた自分の姿が反射していた。
 冷えた指が、腰骨の背骨に程近い場所に触れる。びくりと体が揺れた。
「これは何だ」
問われても、答えようがなかった。シャワーを浴びた際に、自分でも体に異常がないかひと通りは確認した。だが首を捻って見える場所までだ。指に力を込められれば、出来て間もない打撲の、鈍い痛みが周囲に響く。
「答えろ、アキラ」
「……わかりません」
「痣になっているな。いつどこで負った」
「わかりません」
「何をされた」
答えられるわけがないことを、知った上での質問だった。
「わかりま、せん」
応えは少しずつ呟きに近づいていった。
「そうか」
冷笑に吐かれた息を、今まで指先の感触があった場所に感じた。
「……い、……ッ!!」
それまでとは違う種類の痛みが走る。強く歯を立てられたのだとは遅れて気付いた。
「……! ……、ッ……!」
白い並びの良い歯列が皮膚を突き破り、肉に潜り込んだのを感じた。無様に悲鳴をあげぬよう食いしばった口の端から、それでもくぐもった声が漏れる。
 やがて歯を引き抜かれる感触に、アキラは体を震わせた。出来たばかりの傷口をなぞる舌は熱い。溢れた血を丹念に掬い取るような動きに、わずかに逃げた腰を引き戻すように抱き込まれる。
 体を支えるためにテーブルに手をついた頃には、痛みは同じ質量の熱に変わっていた。傷口を吸い上げられれば、堪えなければならないのは悲鳴ではなく篭った息だ。
 兆した中心も、そこから滲む透明な雫も、噛み締められた唇の端から漏れる鼻にかかった声も、シキは何一つ指摘しなかった。明白の事実を口にする必要がないということなのか、それとも肉を持っているというだけのただの物として扱われているのか、アキラには判別がつかなかった。わかるのはシキの怒りと、その原因が他でもない自分自身にあるということだけだ。
 双丘が割られる。羞恥と続く痛みを想像して呼吸が早く浅くなる。ひたりと当てられた指先は、予想通り乾いたまま捩じ込まれた。ひきつる痛みに体が強張る。けれど逃げることはできなかった。これは仕置きで、自分が甘んじて受ける義務を負うものだ。指が増やされる。握りしめたテーブルについた手のひらが汗ばんだ。脱ぎ捨てたワイシャツを足の爪先が勝手に握る。噛み締めた歯がきしんだ。
 痛みは芯を凍えさせる寒気に似ている。体が震え、合わなくなった歯の根が小さく音を立てた。けれど、アキラにとって恐ろしいのはそんなものではなかった。肉体に与えられる苦痛は罰ではない。ただ耐えればいいだけのそれは、既に仕置たりえない。
 気を失えるのならばその方がよかった。それなら、悲鳴をあげ許しを乞うような、醜態をさらさずにすむ。理性や意思、自分を自分たらしめているはずのものを壊される痛みはそこにはない。自尊心や矜持、自らを律する意思のようなものを剥ぎ取られることも。
 指がさら一本増やされた。痛みに痺れはじめていた場所にびり、と、それまでより鋭い感触がして、そのあと指の動きが僅かに滑らかになる。
「……ッ!」
それが、来るのがわかった。その予感だけで小さく体が震えた。逃げ出したかった。そんなことはできなかった。
「……ッ、……!!」
飲み込んだシキの指を痛みのせだけではなく食いしめた。背が反り、膝が笑い出す。ひゅ、と音をたてて喉が息を吸った。見計らったかのように、シキは内側に爪を立てた。瞬間、痛みは痛みのまま、快楽に転換した。
「……ッあ゛……ッ!」
理性がうねる波に呑まれる。体内をかき回す指を誘うように腰が揺れるのを、止めることが出来なかった。ただもたらされるものを貪る以外の事ができなくなる。内側をうねらせ、鳴くだけのなにかになる。
 そうして気付いたときには、余韻に荒い息を吐き細かく体を震わせながら、割れた食器の散乱した床に崩れ落ちかけた体を腕一本で支えられていた。足の間を流れ落ちる自らが放った白濁と、足元に落としたワイシャツに転々と散る血痕が見えた。
 掴まれた腕が引きあげられ、肩がみしりと軋む。再びテーブルの上へと投げ出された。
「足を開け」
「……っ」
冷えた視線のもとに体を、奥まった場所をさらすのは苦痛以外の何物でもなかった。だが今のアキラには、従う以外なかった。それが言葉による謝罪の代わりであり、忠誠を示すための行為だった。
 その場所に次にあてがわれたにのは、シキ自身だった。
「……っく、うあ……!」
一息に貫かれる。痛みと快楽に、一瞬意識が飛ぶ。同時に慣れた質量とふわりと香ったシキの匂いに、呼び起こされた酩酊感が脳を揺らした。
「……ッん、……く、……!」
再び達しそうになったのをこらえる。握りしめた拳が、テーブルの上の書類を巻き込んで皺を作った。
 なんとか波をやりすごして、アキラは硬く閉じていた目をうっすらと開いた。見下ろす赤い瞳は変わらず冷えたままだった。羞恥に背骨が凍るような感覚。自分の体が心底厭わしく、惨めだった。ほとんど泣きたいほどだった。昔なら、口先だけでも抗えた。シキも揶揄を口にした。今となってはそれもない。自分の卑しさが、逃れようのない純然たる事実として、ただ目の前に突きつけられる。
 冷えた手のひらが腰をつかんだ。容赦のない抽迭は、アキラの努力を粉砕して半ば無理矢理とも言える強引さで限界に追いやった。あっという間に再び達して腹に白濁をまいたのを、シキは表情ひとつ変えずに見下ろした。
 やがて先程よりはゆっくりとした動きで、それでも穿つのをやめずに口を開く。
「お前の代わりに死んだ男」
「……っは、い」
「今もアイヅで職務中ということになっている。実際に死体が準備されたのは、お前が拐われる前日だ。どういうことか解るか」
「……ん、……っ」
答えるために口を開きかけて、慌てて引き結ぶ。そうして嬌声ではなく言葉を発する機を伺ったが、シキは動きを止めなかった。懇願するような視線を無言で打ち捨てられ、アキラは諦念のにじんだ瞳を閉ざした。
「丸三日の間、……ッは、死を隠し通す、……組織だった計画の、うえで、……く、ん……!」
「あれの取り巻きの事を知っているか」
「……っいいえ、……」
「だろうな。こういったことでもなければ調べようともしなかったはずだ」
シキは冷笑を浮かべたまま、ここ数日の調査の結果を淡々と語った。クシマ中尉の取り巻きは、本来はその父親である少将直轄の中隊の部下たちだった。さらに記録をたどれば、その中隊は元々は別の、数年前に病死した少将の部下だったことが知れた。中隊の統率権は空いたポストとセットでクシマに与えられていた。
 不審なのは、少将直轄の部隊にしては彼らの階級が低いことだった。他にも多々不自然な点があった。たとえばわざわざその中隊の中からはずす形で、息子の中尉の取り巻きを用立てている。
 シキは病死した少将を調べさせた。元々はこの男のもとで組織された部隊だった。わかったのは彼が、大戦前に親日派の外国の特殊部隊に関わり、そのノウハウを日本に持ち帰った業績をもつということだった。
 さらに中隊のトップ数名は、やはり大戦中に、エリートだけで形成される機密部隊に在籍した経歴を持っていた。
「病死した少将が秘密裏に整備した特殊部隊。それが中隊の正体だろう。クシマは何らかの形でそれを知り、少将のポストと共に手に入れた。以来便利に使い回しているようだな」
主に保身のためが多いようだが、とシキは嘲笑と共に付け足した。クシマの手に渡ってから、部隊はかつての三分の二に人数が減っている。人員の育成や補充といったことに回す頭がクシマにはない。それは同時に、部隊を有効活用する能力がないことも示していた。
「……っなら、俺が目を醒ました、……場所、ッは、」
「奴らの仕事場だろうな」
「……ッふ、あ……!」
不意に弱い場所を突かれて、背を反らせる。視界がちかちかと明滅して、小さく震えた唇が無意識にシキの名を呼んだ。そうしてしまってから、これが夜毎のベッドの上で繰り返されるのとは意味を違えた行為であることを思い出す。自分の場違いな甘えた行為に血の気が引いた。
 シキが不意に動きを止める。思わず強く目を閉じて唇を噛んだ。
 だが次にアキラにもたらされたのは冷笑でも嘲ける言葉でもなかった。汗の浮いた額に張り付いた髪を避け、頬を撫でる体温の低い指の感触。それまでどこか機械的だった態度が変化したのに、下げていた視線を戸惑いがちに上げた。今回のような件の仕置きがこの程度で終るとは到底思えない。
 アキラとは対照的に、シキはタイすら緩んではいなかった。見上げた赤い瞳は苛烈さは鳴りを潜め、かといって氷のように冷たいわけでもなかった。しんと静まり返った湖面のように凪いで、奥まで見通せるほどであるのに、けれどそこにある感情の正体がアキラにはわからなかった。
「アキラ」
「……、はい」
「……」
頬に触れていた指が顔の形をたどるようにして、目の、顎の、唇の輪郭をなぞった。まるで拙く何かを確かめるような動きは、官能を呼び起こす動きとは明らかに異なっていた。
「……閣下?」
躊躇いがちに呼べば、シキはほんの僅かではあるものの驚いたようにアキラを見返した。やがて唇を歪めるようにして笑うと、誰にともなくくだらんな、と呟いた。
「……ッうぁ!」
「クシマ中尉の帰還予定がいつか知っているか」
再び性急に責め立てられながら、アキラはなんとか理性にすがりつく。それを面白がるような素振りを、すでに隠そうともせずにシキは口の端を上げた。美しい三日月を描く唇は、愉悦を沈めた赤い瞳と相まってひどく悪魔的だった。
「っ、う……知りま、せ……ッあ、あ!」
「明後日だ。とすれば、奴らは今夜中に何か仕掛けてくるだろう」
「……ッ!!」
仰け反ったアキラのとがった喉元に軽く歯をたてながら、王は命じる。
「歓迎してやるがいい」

4

 屋敷を囲む林を、嵐の前兆に似てとぐろを巻くように行き先を変える風が渡っていった。インカムから配置完了の知らせを受けたのはそのすぐ後だった。
 男は身を添わせた木の肌から背を離す。目の前の日本家屋は深まった夜の中にひっそりと佇んでいた。時刻は午前三時近く、屋敷の明かりが消えてからすでに数時間が経過している。
 最後に電気の消えた2階をちらりと見上げてから歩き出した。下生えをかき分ける音や枯れ木を踏む音は、風が都合よくかき消してくれるはずだ。屋敷の庭を小走りに抜けて壁に体を寄せた。顔のすぐ横の位置にある硝子窓の、鍵の部分に消音と飛散防止のための粘着剤付きのシートを貼り付けようとして、一瞬動きを止める。鍵はすでに開いていた。窓枠に手をかけると、それは音もなく開いた。
 たいした防犯装置が設置されていないことは事前に調査済みだった。それどころか鍵が多少特殊なことを除けば、身辺警護の兵がいないことも含めて、戦前平和に頭まで浸っていた頃の民家と変わらなかった。少なくとも、このご時勢に軍でそれなりの地位を獲得した者が住むような屋敷ではない。だがそれはそのまま、持ち主の性格や自信を表しているようにも感じられた。
 腕の力だけで体を引き上げ、音もなく暗い室内に降り立った。人の気配はない。恐らく2階だろう。そこで、自分を待ち受けている。
 こちらの動向や思惑は、既にあらかた気付かれているのだと思われた。侵入に最も適した場所の窓が開けられていたのは故意に違いなかった。無駄に室内を荒らすなというメッセージのようなものを感じた。顔の半分を覆っていたネックウォーマーを引き下ろす。
 静かに部屋を出て廊下に歩み出た。2階への階段は突き当りから伸びている。
 数人の仲間とともにこの屋敷に派遣されたのは、上司のクシマ少将の指示によった。この屋敷の持ち主、シキ中佐の暗殺のためだ。
 シキの元々の住まいは日興連本部からほど近い場所にあった。戦時である現在、住居は規定の範囲内と定められている。だが今回その屋敷が焼失したため、次の住まいが用意できるまでの短い間とはいえ、一時的に日興連本部から多少距離のあるこの屋敷に住まうことを許可されていた。
 クシマとしては、人目の少ない場所にいる間に亡き者としてしまおうという腹づもりだ。先立って排除した腹心を除けば、シキは身辺に兵を置かなかった。焼けた屋敷からその腹心の死体が発見されてから数日経つ現在も、必要以上には部下を寄せ付けようとしない。ぞろぞろと護衛代わりに部下を引き連れて歩くクシマ親子とは正反対だ。
 音もなく階段を登りきる。目の前の襖が揺れて小さく音を立てていた。風が吹き込んでいるらしかった。室内には人の気配がある。短く息を吐いて襖を開いた。
 20畳ほどの畳の部屋だった。突き当りに大窓があり、その手前の板張りの間に置かれた椅子の上に足を組む人影が浮かび上がっている。僅かな外の灯りを反射した赤い瞳は、まるで自ら光を放つように見えた。
「待ちくたびれたぞ」
その声は、呟きに似た音量にもかかわらず明瞭なまま耳に届いた。
 窓から風が吹き込む。雲の切れ目から月が覗いた。猛獣の爪に似て細い月の、温度のない微かな光が暗い室内に差し込む。
 息を呑んだ。
 もう一人、部屋の中心に座しているのが目に入ったからだった。灰色の髪に白いワイシャツはけして暗闇に紛れる出で立ちではないにもかかわらず、それまで存在に気付かなかったのは気配を完全に絶っていたせいか。衣擦れの音とともに立ち上がった、その右手にはサーベルがある。日興連で将校に与えられる儀礼刀だ。ただし、鞘の内に収められた刃が実用に足るものに差し替えられていることは、拉致の際に確認済みだった。
「──夜分このような形でお邪魔いたしましたこと、お詫び申し上げます。曹長のニイオであります。配属は」
「いい。隠れ蓑の名を聞いても何の意味もない」
言葉を切らせたのは窓際からの風に乗った声だ。間に佇むアキラは、言葉を発する気配もない。
「それもご存知なのですね」
窓際の人影は、微笑んだまま瞳を半ばまで伏せた。その視線の先には、テーブルに乗ったグラスがある。
「このたびは折り入ってお話したい件があり、──」
サーベルが鞘から引きぬかれる鋭利な音が響いた。アキラの手にした刃物の生々しい光の反射に息を呑む。焦りがじわりと、汗になって背中に滲んだ。切り捨てられるようなことがあろうとも、せめて話くらいは聞いてもらえるだろうと思っていたのだ。
「お待ちください、我々は」
「弱者との会話に時間をつぶす暇はない。力を示してみせろ。話はそれからだ」
冷笑とともに言い放ち、シキは瞳だけを動かすようにしてこちらに視線を投げる。ここがどんな言葉も意味を成さない場であることを肌で感じた。僅かなためらいを、しかしすぐに振り払う。未だ一介の軍人でありながら、まるでこの世界の王の顔をして笑う赤い瞳の王が敷いたルールの前に、準じる以外の選択肢はないのだ。そしてその強さこそを全とする思想こそが、ニイオがこの場所に立つに至ったそもそものきっかけでもあった。
 左腰に手をやる。最初に触れた拳銃を無視し、その少し後ろに下がったナイフを革鞘から引きぬく。シキは唇を歪めるようにして笑った。
「アキラ」
「は」
「楽しめ」
その声が合図だった。軍人にしては細身の体が飛び込んでくる。速い。横薙ぎの刃を受け、下に流す。自分の獲物がナイフだったのは幸いかもしれなかった。リーチは短いが、室内であればこちらの方が取り回しがいい。
 それに、と、ニイオは一歩下がりながら正面から降ろされた刃を受け、力で押し返す。アキラの作る間合いは、サーベルにしては必要以上に狭い気がした。元々はナイフやなにか素手の格闘をやっていたことを伺わせるが、もしかしたら単純に、自分が気迫に負けているだけかもしれなかった。
 アキラがその瞳に浮かべているのは、これまで見たことのない表情だった。演習や会議、道端で顔を合わせる時、彼はどちらかと言えば感情の温度を感じさせない、乾いた視線を周囲に向けていた。それは例えば、クシマ中尉の揶揄や当て擦りの言葉にすら変わらなかった。例外はたったのニたび。一度目は彼がシキへの中傷に腹を立て、当時少尉だったクシマを試合で叩きのめした時だ。最近では道端の石でも眺めるような一瞥をくれるだけになっていた。
 二度目はつい先日だ。自分がアキラを殺害し、シキ中佐の屋敷ごと焼き払うよう指示を受けた数日後。普段通りにクシマ中尉の皮肉を受け流した彼に話しかけた日。
 腹はたちませんかと、そう問いかけると、アキラは僅かに目を見開いたあと、ひたりと視線を据えてきた。こちらをまっすぐに見つめる眼差しは思いの外強い力を持っていた。
 プライドの置き方が、違うのだと思った。
 シキ中佐の噂は以前から聞こえてきていた。その擁する部隊が潔癖なまでの実力主義によってなっていることも。クシマ少将やその周囲の者達はそれを苦々しく思っていた。あの男の部隊は下賤だと、嘲笑の的にしていた。
──階級も何も滅茶苦茶だ。誰もかれもまず前線に送り込むのだ。武勲を立てれば召し上げ、そうでなければ元々が将校であろうと前線配置のままだ。これまでの体勢や秩序など何一つ鑑みん。そんなものに誰がついていく。大体において、側近からしてどこから湧いたともしれん。あの男の部隊はゴロツキの集まりだ。
 だが、演習等で実際にその部隊の様子を眺めれば、他のどの部隊よりも統率された冷静な働きが一目瞭然だった。そして彼らの力は不確定要素の多い実戦においてさらに発揮された。シキの率いる部隊は恐ろしいほどに強靭だった。
 ニイオが実質取りまとめる中隊内から、なにかとシキを称えるような声が聞こえ始めたのはいつごろだったか。シキの身辺を探れとの命が頻繁にくだされるようになったのと、前後していたように思われる。まつわる噂が信憑性を持ち、それが誇張でもなんでもなくただの事実だと知れた頃には、ちらちらとシキのもとに下ることを願うような、物騒な気配が漂い始めていた。
 かつて精鋭を集めた特殊部隊として、CFC内部に潜り込むような重要な任務すら完遂した自分達が、現在では単なる私兵、腐敗した軍部の覇権争いに利用されるだけの駒となり果てている現実。その事に誰もが膿みはじめていた。上官や任務を選ばず、軍人たろうとする矜持は、少しずつ傷つけられ今や曇り硝子のように濁っている。以前であれば隠れ蓑の、実力に見合わない低い階級ですら、誇りであったはずだのに。
 軍内の腐敗を目にしてきた彼らにとって、シキの目指すところはやや極端すぎるきらいはあるものの、だからこそ理想と重なっていた。
 その気になって調べれば、謀反のようにしてシキについた部隊もなくはないようだった。それどころか数は多くないものの、シキよりも階級が上の将校の中にもその信奉者と思しき者達がいる。
 その暗殺のために、先んじてその腹心を殺害する。クシマがとうとうその命を下したとき、ニイオらもまた意を決した。
 上官の命令に背いて救ったアキラ中尉は今、まるで獲物を追い立てる猟犬の獰猛さで襲い掛かってくる。いっそ爽快なほどだった。シキの掲げる理想と、普段のアキラのあたかも争いを避けるかのような様子とのギャップは、一部の兵士には時に不安を抱かせる。ニイオですら一度は真意を問いかけずにいられなかったほどだった。
 だが今対峙する彼は、どこか手負いの獣じみてすらいた。そういえばわずかに摺り足を引きずるようにしているのは気のせいか。拉致の後もくれぐれも丁重に扱い、怪我などさせないようにと気遣ったつもりではあったが。
 力比べにとなればこちらのほうが有利、と、サーベルの刃を押し返す。勢いのまま内側に飛び込む。つき出した一撃は身を翻すようにしてかわされる。素早く腕を引き戻しながらもう一歩踏み込んだ追撃、横凪ぎの一閃は下からはねあげるような刃の動きに払われた。サーベルが勢いをそのままに頭上に掲げられたのを見て、二歩足らずの距離を下がる。追う動きで踏み込まれたと同時に、こちらからも再び懐に飛び込んだ。想定外の行動に青い瞳が僅かに見開かれる。と同時に、割れ物の砕ける音が響いた。降り下ろされたサーベルの刃が天井から吊るされた電球を包む、細かな透かし彫りの施された瀟洒な笠に食い込んだ音だった。
 肋骨の下から斜めに突き上げようとするナイフの動きに対するアキラの反応は、僅かに遅れた。上体を捻るようにして避けたものの、ナイフの切っ先は皮膚の下に僅かに潜り込んで、数センチを裂く。
 頭上から降る割れた電球の破片を避けるためにとびのいて、今度はニイオが目を見張った。硝子の雨の降る中を、アキラが追ってきていた。
 刃が空気を切り裂く音は、耳の下で止まった。それが自分の首が刃を受け止めたからなのだとニイオは疑わなかった。眼前の燃える青に目が奪われていた。畳の上に硝子片が落ちるいっそ美しい音を、どこか遠くに感じた。
「話を聞こう」
半ば飛んでいたニイオの意識を引き戻したのは、窓際からの低い声だった。視線を動かせば細められた赤い瞳とぶつかった。首もとにあった冷たい感触が離れていく。アキラがサーベルを鞘に戻し、二人の間から体を引いた。それでどうやら自分が、彼らのテストに合格したのだと察する。
「……我々を」
口上は色々と用意してきたはずだった。だが今となっては必要以上の説明を口にする気が削がれていた。無用だと、そう悟った。
「我々をあなたの元に加えて頂きたい」
「拒否すれば、そこに待機してる部隊が貴様ごとここを撃ち抜く算段か」
シキが窓から庭を見下ろしながら呟き、鬱蒼と繁る木々の下に潜む気配を見えない手で撫でて笑う。
「貴様の死体が残れば怪しまれるのはクシマか。敵対する派閥にこの作戦や不正の証拠でも送りつけ、ここからアキラの死体さえ運び出しておけば、一連の事件に都合よく辻褄を合わせてくれるだろうな。クシマは失脚、貴様らは他の勢力のもとに移動か、悪くても解体されて再配置といったところか」
自分達の階級は低い。それはもともとの上官が、彼らを守るために配慮したせいでもあった。本来ただ命令のままに動くだけの駒である末端は、責任を問われにくい。ただしあくまでも見せかけだけで、彼らは上官の私費から作戦のための費用や、本来の能力に見あった手当てを支払われていたのではあったが。引き継いだクシマがそこまで気付いていて、彼らの階級を据え置いたのかどうかは不明だ。
「もしもの場合は、せめて自分を切り捨てることで溜飲をお下げいただければと」
シキは鼻を鳴らすと視線を室内に戻した。
「自らの能力の価値が、そう簡単に打ち捨てられる程度のものではないと、そう踏んで貴様らはここに立っている。違うか」
短い沈黙のあと、ニイオは口許を緩める。
 自分達は本来、正面から敵とぶつかることは殆どない。腕は磨いているものの、基本的には敵に気付かれる前に仕事を終える。情報を操作し、敵のなかに紛れ込み、物陰に潜む。可能な限り何の痕跡も残さずに消える。
 敵がそうと気付くのは、取り返しがつかなくなったあとだ。
「たった今中尉に首を取られたばかりではありますが。──なにかと便利に使っていただけるかと」
 こちらを見据えていた赤い瞳が、それまで脇に控え成り行きを静観していたその腹心へと滑った。
「アキラ」
「は」
「お前が指揮しろ」
「……!」
息を呑む気配があった。
「……彼らは並の兵隊とは異なると。今の自分が、彼らをうまく統率できるとは」
随分と謙虚なことを言うものだと、その様子をうかがう。どうやら本気で言っているらしいとはすぐに知れた。外部の人間と、本人の自己認識の間に、少しばかり齟齬があるらしい。
 確かに彼は若かった。だがその実力あるいは期待値について、文句を言うものは部隊内には殆どいないだろう。
 彼の主は苦笑を伴った声でたしなめる。
「お前に必要なものは、退屈な演習や会議の中には既にないぞ」
「……」
アキラはそれ以上言い返すことをしなかった。ただ無言のままに主従が視線を交わすのを、ニイオは見た。そうしてそれぞれに言わんとするところを、朧気ながら理解する。
「恐れながら、中尉」
差し出がましいと、思わなくもなかった。だが自分達とて必死なのだ。アキラが怪訝そうな、シキが面白がるような視線を寄越すのを感じながら続ける。
「もし中尉が我々を率いてくださるのであれば、我々はこの命をお預けするだけでなく、培ってきた技術をお渡しできます」
青い瞳はほんの僅かに瞠目してこちらを見つめると、伏せられた。ざわりと風が林を渡っていく漣に似た葉擦れの音が部屋に満ちる。やがて再び視線を上げたとき、それは以前見たときと同じ強い眼差しに変わっていた。彼は主と向き合うと、頷いた。
 シキは目を細めると、最初の命を下した。
「下の連中に伝えてやるがいい。──クシマ少将は好きに処分しろ」

5:現在、トシマ

 なめらかに白い石畳は、軍靴で歩めば硬質な音を響かせた。
 視界の三割は左右から伸びる南国産の大振りな葉で占められている。視線を頭上に向ければ、背の高い木々の枝のむこうに暗い空を湛えた硝子天井が見えた。
 硝子で囲まれた空中庭園は、都内のホテルのものだった。軽食を並べられたテーブル等、人の集まる場所こそ明るく照らされているものの、それ以外の場所はあえて照明が落とされている。窓の外、眼下に星の海のように広がる夜景を引き立てるためだった。
「こちらでしたか」
 喧騒が少しばかり遠い、人気の絶えた場所で主の姿を見つけて、アキラは軽く息を吐いた。水音にあたりを伺えば、少し離れた場所、植物の葉の間に噴水が見える。そのライトアップの光も、ここには淡く届くだけだ。黒を纏うシキの姿は闇に溶け込み、まるで暗がりに潜んで狩りをする夜の生き物に似ている。
「貴方はどこかと、何度も訊かれました」
「顔さえ出せばいい類のパーティーだ。放っておけ」
シキは革張りのロッキングチェアの上で肘をついたまま、口許だけで笑った。視線は目の前の夜景にある。
 商社主催のパーティーは、今は和やかな歓談の時間となっている。主の姿を見失ったのは、元々はシキと会話していたはずの男に水を向けられ、内心あたふたと対応している間のことだった。
「見合いの日取りは決まったか」
「……」
無言で渋面を作ったのを見てシキは笑う。先程までアキラが捕まっていた男は、何かと娘やら姪やらの話題を持ち出した。あからさまな意図を感じとり、しつこく追いすがるのからたった今ようやく逃げ出してきたのだ。具体的な言葉が口にされないぶん、その気はないとはっきりと断ることも出来ずに、危うく会う約束を取り付けられるところだった。
 背後から人の近づく気配がする。上等な革靴のたてるどこか湿ったような音が、先ほどまで言葉を交わしていた男のものだとはすぐに察した。随分と、しつこい。
「式には呼べ」
眉間の皺を深くしたのを、嘲笑うように重ねられた言葉に奥歯を噛んだ。シキまでの数歩の距離を詰めれば、軍靴の足音は苛立ちをうつして高く響く。正面で腰を落とし、地面に膝をついた。頬杖をついたままのシキが面白がるようにこちらを見下ろすのを睨み上げる。組まれた足の、斜めに浮いている踵を掴んで引き寄せた。
 軍靴の甲に口付けるのに躊躇いはなかった。
 数メートル背後で、足音が不自然なリズムを刻んだあとに止まる。踵を返す気配が続いたのは、軍帽がさらわれ、髪の間に指を感じてから数秒後だった。
「……呼べば祝うのか、貴方は」
「……ふ、」
顔を上げながら問えば、シキは遠ざかる靴音に向けていた視線を戻す。柔らかく髪を撫でていた指先に顎を捕らえられた。
「お前が誓いをたてた神まで殺し尽くすだろうな」
低い声を甘く感じるのは、そこに透けて見える執着のせいだと知っている。眼窩を貫く視線は苛立ちを溶かした。ぞろりと背筋を這いのぼる熱を、口の端から小さな息にして密かに逃す。
「逆の立場ならどうする。所有物らしく傍に控えて見守るか」
アキラは数秒の間、何も言わずに赤い瞳を見返す。そうしてから目を伏せた。答えられない問いだ。真実を口にしたとき顕になるのは忠誠の瑕疵だった。
 無言のまま立ち上がる。
「……飲み物を」
持ってきましょうと、踵を返しながら言いかけたのを腕を引く強い力が遮った。体勢を崩してシキの膝の上に乗り上げる。後頭部を押さえた手のひらに、半ば強引に頭を肩口に導かれた。
「……閣下」
軍帽が地面に落ちる乾いた音と、くつくつと喉の奥で笑う声がする。
 驚愕は一瞬で去った。息を吸い込めばシキの匂いがして、ほんのちいさな目眩とともに肺が満たされる感覚に包まれる。
 あたりに最早人気はなく、喧騒も遠かった。しばらくこのままでいてもいいだろうかと、大人しく肩の上に鼻筋をのせたままにする。
「あれから随分と大人しい」
無意識にシキの背に回そうとしていた手がびくりと止まった。その言葉が指しているのが、不穏分子をあえて身の内に引き入れるシキに、問いを投げた夜のことだとはすぐに気付いた。既に一月近くも前だ。いい加減飽いてきたぞと、からかう声で告げられる。アキラは僅かに顔が歪むのを感じた。
 いつか牙を剥くであろう彼らを、シキは餌と言った。シキに歯向かう者を屠るのがアキラの仕事である以上、彼らは自分の餌なのだろう。そうして力を、経験を蓄え、やがてはシキその人と対等に渡り合う力を手に入れる。
 ゆるい風が吹いた。硝子に囲まれた温室のような庭にも、どこかに窓があるのかもしれなかった。作り物の楽園の風穴。
 目を閉じる。軽く乗せただけだった鼻筋を肩に押し付けた。
 支配しきってくれればいいものをと、胸中呟く。
 シキの言動、命令、その一つ一つに何の反感も疑問も抱かずに従っていられるようなら、きっと楽だったろうに。
 だがシキはそうしなかった。そんなふうにはアキラを作らなかった。
 育て、束縛し、支配して、だがアキラを閉じ込める檻の鍵は、ついぞ掛けられたことがなかった。はじめから。廃墟であったトシマの路地で拾われた、あの最初の日々ですら。
 それはなんのためであったのか。逃げ出すことのできない己を、自ら囚われる弱さを、自覚させるためなのだとずっと信じてきた。実際そうして、アキラはまるで自分自身に裏切られるようにして、見えない鎖にがんじがらめにされてきたのだ。
 だが。
「……次の御前試合、」
呟きは、触れた場所から振動になって響いていく。
「勝ち抜いたら、欲しいものが」
「珍しいな。何だ」
声にするのにわずかな躊躇。押し切った声は思いの外強い響きを伴った。
「刀を」
シキはほんの一瞬動きを止め、それから満足気な笑みの滲んだ低い応えをよこす。
「──それでいい」
鎖を噛み千切ってみせろと、耳元に滴り落とされた声が蘇った。
 振り返ってみればこれまで何度も、唆されていたのだ。自分がそうと受け取らなかっただけで。
 逃げろ、歯向かえ、逆らえ、──戦え。
 それは命令ではなかった。あるいは命令に逆らえという命令だった。だから理解できなかった。
 だがはじめて明確に意を解したとき、困惑の中からじわりと滲んだのは愉悦だった。替えのきかないものとしてシキに選ばれることは認められることと同義だった。たとえそれが裏切りを勧めているのだとしても。それがシキ以外のすべて、これまで積み上げてきたものを捨てる結果を導くことに気付いても。胸の内側を切り刻まれるような痛みのなかには、確かに歓喜があった。
 肩口に顔を埋めたまま、目を開く。
「──いつだったか貴方は、俺に自分自身を取り返してみせろと言った。それが貴方の望みなら、俺は必ずそれをやりとげる。宿敵たれと言うならそうしましょう。ですが」
街の明かりを背に、アキラは体を起こす。夜景のなかにはトシマの光も含まれていた。シキによって興されて、今やこの国の中枢となった廃墟の街。細められた赤い瞳をまっすぐに見下ろす。
「その上で俺はすべてをもう一度、貴方に捧げてみせる」
睦言にも似た言葉を、静かに言いきった。
 赤い瞳の奥でなにかがゆらりと揺らめいた。それは炎の揺らぎに似て燃え広がる。同じものが自らの眼窩にもあることを知っている。目眩がした。一瞬の。
「楽しみだ」
主が短く呟く。低い声は深い愉悦をはらんでいた。
 その甘さに誘われるようにして、アキラは手を伸ばした。頬に触れる。その所有物にも従僕にも相応しくない一つ一つの行為が、自分を縛る細い糸を断ち切っていくのを感じながら。
 それでも呟く。呼ぶ。唯一無二の、ただひとりを、自らの主と。
「シキ、──俺の王」
口付けはやがて鉄の味を滲ませて、遠くで軋みながら扉が開く音を聞いた気がした。

end.

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