沈黙は雪のように降る

 白いグローブの指の間をペンが滑り落ちた。シンプルな銀のボールペンは万年筆の老舗が作ったもので、どこか刃物に似た輝きを宿している。何かの時にシキから与えられた物だった。アキラは小さくため息を付いた。
 落ちた先は開かれたポケットサイズの手帳だ。今日の日付の下に並んだ単語の半分ほどは既に頭にチェックマークが付けられており、それらがすでに処理を済ませたタスクであることを示している。
 スケジュールや重要案件はは可能な限り自分の頭で覚えるよう躾けられていた。だからメモはほとんどが、忘れてしまっても構わないような、瑣末な事柄だ。普段は後回しにしておいて、比較的時間があるときに済ませておきたいような案件。わざわざ書き出したのは昨日だった。かつてなく仕事が捗り、翌日の余裕を見越したためだった。
 それらを眺めながら、取り落としたペンを再び手に取る。チェックマークをつけながら、もう一度手帳に書かれた単語を頭から視線でなぞっていると、紙面に影が落ちた。顔を上げると、数枚の書類を手にした部下がデスクの向こうに立っている。
「ご確認ください。詳細な資料は先程サーバの所定の位置に上げましたので、そちらも」
「ああ」
差し出された紙面をさらりと視線で撫でながら受け取った。総帥まで上げる必要のないものだと判断して、端末の指定のフォルダを開く。いつもならその時点で下がっているはずの部下が動こうとしないのに、アキラは視線を上げた。自分より年上の部下の、軍人らしい筋肉のついた首の上に乗った顔には、うっすらと笑みが滲んでいる。アキラと目が合うと静かに口を開いた。
「どうなさいました」
「──、何が」
「眉間に皺が。気にかかることでも?」
「──」
精鋭部隊のフロアには常に独特の緊張感はある。とはいえ、今の時期は繁忙期を過ぎて落ち着いたものだった。それぞれやり取りする声には角がなく、走り回る足音もない。問いかけた声は、数歩先のデスクにつく他の精鋭部隊の兵たちの意識を引かない程度に音量が落とされていた。男はなにかと行き届いた古参の兵で、その辺りを計算する気遣いのようなものを持ち合わせていた。アキラが部下を伴って外に出なければならないときや、最近では滅多にないことだが自ら精鋭部隊の作戦に参加する場合は、彼と組む事が大半だ。
 アキラは指の間のボールペンの先をトン、と軽く紙面の上においた。けれどそれきり何を書くことも出来ずに、結局溜息とともに言葉を吐き出した。
「なにか忘れている気がする」
「重要なことですか」
「わからない」
何度か、手帳の日付を遡り、記憶の中のスケジュールを振り返ってもみた。だが結局それが何だったのか、どういった種類のものだったのかすら、まったく思い出せないのだった。ただずっと、心もとなく落ち着かない気分を味わっている。
「いつからです?」
「5日前」
「……それは、」
言葉を飲み込んだ部下の言わんとするところに、アキラは曖昧に頷きのようなものを返しながら銀色に光るペンに視線を落とした。
 5日前といえば、総帥が遠方への視察や、抱き込んだ他国の式典への招請に応じるために、合計1週間を超える旅程で城を出た日だった。2日前にほんのいっときここに立ち寄ったと聞いたが、その時アキラは他の用事のために城を開けていた。結局まる5日間、顔を合わせることもできずじまいになっている。
自分が出掛けの主の言葉を聞き逃して、そのせいでなにか引っかかりを覚えているのだろうかと、自問するが思い出せない限りそれもせんないことだった。
「……まったく思い出せる気がしないのでは?」
「ああ」
唇を引き結んだアキラの前で、彼は少しだけ何か考える様子を見せてから、僅かに傾げていた首を元に戻す。
「恐れながら、」
アキラは強張ったままの顔で彼を見上げた。視線を合わせると、彼は不躾さを感じさせない程度に砕けた態度で言う。
「お気になさらなくてもよろしい事かと」
数日中に自然と解決すると思いますよと請け負われて、アキラは怪訝な顔で再び眉根を寄せた。

*

 室内に異常がないのを確認し終えると、アキラは執務室の明りを消した。薄闇に沈んだ室内は、地平の代わりに見えるビル群の果てに、わずかな橙を残した空をたたえる窓だけが光源になる。
 ここ数日繰り返しているこの作業の、この瞬間が、苦手だった。明りを消した途端に押し寄せる、冬の夜と昼の隙間が連れる薄闇は、胸の内側をざわつかせる。
 暖房を切った室内は冷えきっていた。小さな身震いとともに踵を返す。その背を、澄んだ鈴の音に似た音が撫でたのは部屋を出る直前だった。振り返る。紫檀の長机の上に置かれた、まるで飾り物じみた電話機が呼んでいた。
 僅かな躊躇のあと、アキラは数歩の距離を戻ると受話器に手を伸ばした。シキが許した限られた相手からしか掛かってくることのない、滅多に鳴ることのない電話だった。
 ここに連絡を取るような人物であれば、今主が城をあけていることは当然知っているはずだ。だとすればと、予感のようなものに引き寄せられて受話器を持ち上げる。耳にひたりと触れた温度は、よく知る指の冷たさと似ていた。
『──アキラか』
 心臓が一拍だけ、意識せざるをえない大きさで鳴って、呼応するようにピアスが熱を持った。それからじわりと、肺に何かが滲んでいくような感覚。少しだけ息が詰まる。
 鼓膜を震わせたのはアキラのよく知る声で、それでいてどこか違っていた。距離のせいなのか、それとも電話が低い声を拾いにくいのか。
「はい」
何かよくわからない感情に喉を塞がれながら、辛うじて応えを返した。
『どうしている』
「──どう、とは」
『羽を伸ばしているか』
まるで他人のような声だ。シキのそれも、自らのものも。暗い部屋の空の椅子が目に入る。その主はこの電話線の先、距離にして数千kmのむこうにいた。
「……お戯れを」
続かない会話のうえには、白い沈黙が降った。けれど不快ではない。
 受話器の向こうに、アキラは耳を澄ました。ざわめきは聞こえない。恐らくホテルの一室なのだろう。数時間の時差があるはずだから、部屋にはまだ午前の光が入り込んでいるかもしれない。かちりと、陶器の触れ合う音がした。紅茶用の薄いカップが、ソーサーに戻されたときの。
 息遣いのひとつ、物音のひとつ。そういった他愛のないものが、シキがそこにいることを語った。同時に、ここにはいないことを。見えないやすりに肺の上を撫でられて、思わず口を開く。
「閣下」
『どうした』
返ったのは笑みを含んだ声だ。距離を超えてざらついた音声は、だが確かに、聞き慣れた、滴り落ちるような低い艶のある声でアキラには届いた。ふたりだけの時に聞く、自分だけに向けられる声音だった。
「……っ」
ざわりと、一瞬にして鳥肌がたつ。受話器を握る指先が熱を持った。唇をちいさく震わせて、けれどアキラには続ける言葉を見つけることが出来なかった。再び落ちた沈黙の見えない手に塞がれるようにして、目を閉じる。やがて再び鼓膜を震わせたのは、受話器からのさざなみに似た微かな笑みの気配だった。
『……切るぞ』
「あの、」
どこかあやすような声に、追いすがった響きは揺らいでいる。
先程から結局何を言うでもないアキラの言葉の先を、それでも待つ雰囲気に何とか続く言葉を探しだす。なんでも良かった。遠い場所への、細い糸のようなつながりを、いっときでも長く保てるのならば。
「もし何かあれば、こちらからご連絡差し上げますので」
どうかお気遣いなくと、省略した言葉は正しく伝わらないだろうとは、知っていた。言葉の裏側だけが、伝わってしまうのだろう。いつものように。たとえ顔が見えなくとも。
『アキラ』
「はい」
『明後日には戻る』
「──はい」
ふつりと音もなく、電話は切れた。つながりが途絶えたあとの無機質な沈黙は、深海の暗闇を連想させた。
 しんと静まり返る執務室は、すでに夜の闇に包まれている。まるで急に色が抜けたように見えた。 ここのところ首筋につきまとっていた正体の分からない、なにか忘れているような、足りないような感覚が、酷く重くなって押し寄せる。
 これまでは、留守にするのはアキラのほうで、目の前にはやり遂げなければならない任務があり、それこそが自らの勤めと心得ていた。こんなふうに不在を任され、しかも仕事に余裕がある時期だったのははじめてのことだったのだと、その時ようやく思い至った。
 静かに受話器を置く。その細い瀟洒な柄を受けて、電話機がたてたちりんという鈴のような音が、空虚な部屋の中に響いた。
 明後日には、と、小さく息を吐く。
 再びただの飾り物に戻った電話機が、暗闇の中で密やかに光を反射した。背中から覆いかぶさってくる、まるで体の一部を失ったかのような心許なさが何と呼ばれるものか、アキラはすでに気付いている。

end.

Vote: