遣らずの雨

「この──総帥の女風情がッ」
断末魔の代わりに吐き捨てられた言葉が、不意に胸を突いた。
 背後から伸びた見えない手に、だしぬけに殴られたような気分だった。アキラは揺れる洋灯の火に照らされた相手の顔を、その晩初めてまじまじと見つめたが、男は既にこときれていた。
 ひたすらに呆気にとられながら、止めていた呼吸を静かに再開する。慎重に、男の胸に沈めたサーベルを引き抜いた。ワインに添え置かれていた硝子テーブル上のクロスで、汚れた刃を丁寧に拭う。小さな炎のもとでは充分に見えても、実際は脂が残っているはずだ。帰ったらもう一度手入れしなければならないが、とりあえずは鞘に収めた。それから、まるで元来の屋敷住みの猫のように、音もなく物影を渡って屋外に出る。夜陰に紛れるころには男の言葉は小さく凝って、角の削れた石になって胸の底に転がった。
 その小石は翌日になってもどこかに消えてしまわず、事あるごとにころりころりと顔を出した。特別痛みがあるわけではない。ただ、完全に無視することも出来ぬままに、気がつけばその形を確かめるようにして、昨晩の男の言葉の響きを反芻していた。
「雨は嫌いか」
そう問われたのは、黒い城での勤めを早めに切り上げて、屋敷へ向かう道すがらである。はっとして、先をゆく姿に焦点を合わせたときには、既にシキは前を向きなおしていた。肩越しに僅かに振り向いた、雨のために珍しく軍帽を被る白い横顔の、口元が微笑にしなるのが、辛うじて見えた。
 言葉の意味を咀嚼するのに少し時間を要する。息を吸い込むと、濡れた土や木々の匂いが鼻孔を満たした。
 降り注ぐ雨はひたすらに冷たく、空は夕闇の気配を纏って暗い。道を挟む常緑樹からなる屋敷林も、今は限界まで黒を含んだ緑だ。石畳の道は濡れて、濃い灰色をしていた。その端には風でとばされてきた赤や黄の葉が時折張り付いて、そこばかりはひどく鮮やかだった。前をゆく主の印象的な足音が、地面を隙間なく覆う水の膜に角を取られて普段よりやや柔らかである。
 雨。
 嫌いではない。むしろ、好ましく思っていた。昔から。
 雨に降り込められていると、世界と自分の間にあるつながりが切れるようで、気が楽になった。そのまま何もせず、どこにも行かずにいても許されるような気がした。シキに出会う前の話だ。
 ただの錯覚だと、解っている。それに今は、以前のような厭世の気は薄れた。
 世界の中心に立つ男の後ろ姿を見つめる。軍帽から雨だれが滴り、それは肩に落ちて見えなくなる。細く冷たい雨は厚いコートに阻まれて、体を濡らすことはない。夕刻の時雨に濡れる姿は、彼が廃墟の王であったかつてを思い出させるようでもあった。
「特には。……お好きですか」
貴方は、と、問い返す。
 鼻を鳴らす気配だけが戻った。
 元々、主はたいして答を求めているようではなかった。ならばなぜ、そんな問いを寄越したか。恐らく、自分が少しばかりぼんやりとしていたのを見透かしたからだろう。雨にまつわる怠惰な錯覚を払拭した今となっても、少しばかり内に篭りがちになる性質は、なかなか変わらないのかもしれない。
 今日は一日、気が付けば昨日の驚きを反芻していた。シキの執務室の片隅で書類をめくりながら、廊下で部下の報告を処理しながら、指示を出しながら。
 それでも手落ちはなかったはずだ。つまらない男の死に際の一言に、そこまで気を取られていたわけではなかった。
 だがその一方で、簡単に忘れることもできなかった。
 苛立ちや怒りのためではない。ただただ、ぽかんと、呆気にとられている。さらにはそんな自分にも、驚いているのだった。
 子飼いであるとか、犬だとかという言葉は、今までも投げつけられたことがあった。ただしそれは罵詈とするにはあまりにも正しい。アキラにとってはただの事実に近いもので、故に感情を波だてられるには至らなかった。だが『総帥の女』という言葉には、なにかそれだけでない意味が含まれている気がする。例えば、情人や愛人といった言葉と同様の。何かへばりつくような厭な響きもあるが、同時に、浅からぬ情の交わりを匂わせているようにも感じられる。驚かされたのは、恐らくそこだった。
 昨日死んだ男が、何をどう考えあの言葉を発したか、今更察することは出来ない。大した事実は知らなかっただろうことも予想できる。だがそれでも、自分を、ひいては自分たちの関係を外側から見たときに、そんな風に判じる人間を、アキラは初めて目の当たりにした。
 視界に、夕闇にも鮮やかな赤色が入り込む。前方に外灯ほどの高さのカエデの木がたっているのだ。この木の前を過ぎると、屋敷までもう少しだった。
「夜会は十九時からか」
赤い葉に向かって長い手が伸ばされる。天鵞絨の毛皮を持つ黒い豹が、その尾を戯れに揺らすような動きだった。歩きながら千切られた一葉が、慰みに食まれた蝶のように白い手袋に弄ばれるのが見えた。
「はい」
シキは常通り、こちらの返答に振り返りもせずに歩いてゆく。
 少なくとも人目のある場所において、シキのアキラに対する態度は、他の者に対するそれとあまり大差がない。要するに、道具に等しく冷淡だった。使いよければ重用するし、そうでなければ打ち棄てる。たった今、かの人の手から落ちていった楓の葉のように、あとは見向きもされない。
 ただ確かに自分は他の者に対するそれとは違う、不相応なほどの処遇を受けてはきた。それから──体を、繋ぎもする。だがあれはシキにとっては支配の手段であり、アキラからすれば服従の証左だ。服を脱げと命令されればその残酷な笑みを浮かべる瞳の前に躊躇なく裸体を晒し、足を開けと言われればそうした。だがそれだけだ。
 シキの欲望は、実際のところ酷く薄いように感じられた。少なくとも自分に対しては。いつも進退窮まるまでに追いつめられるのはアキラだけで、シキは夕凪の後の夜風にふかれているかのような涼しげな顔をしていた。そして必死の哀願を冷えた瞳で見下ろして嘲笑する。都度、思わず自らを省みて、羞恥に灼かれてきたのだ。
 あの赤い瞳が熱を宿すのは、いつも酷く短い間のことだった。それは瞳の奥に常に明滅を繰り返す狂気の熾火よりも、さらに奥から沸き上がってくる。掘りすぎた井戸の底がうっかり原始の火に触れてしまったかのように。それまで静まりかえっていた水の底から、急に炎が駆け上ってくるように。
 その様を思い描いて、すぐに打ち消した。ぞくりと、熱の固まりが背筋を駈けたからだ。首筋にはシーツにすがりついて上ずった声を殺す時と同様の、鳥肌が立っていた。
 振り払うように、アキラは軽く頭を振り、なんにせよ、と、息を吐く。
 シキは虐げ服従させることを楽しみはしても、──支配欲はあれども、そのための手段として以外に、あの行為に意味は、たぶん見出していない。
 そう言い切ってみると、なにか引っかかるものはあった。けれどその原因を探ることができるほど、アキラは人の心を推し量るのに長けてはいなかった。
 だが、それならばと、思考は少しだけずれた場所に転がってゆく。そうして頭の隅に落ちていた疑問にぶつかり、華奢な硝子が割れるときの音をたてて停止した。
 自分を支配し尽くした今ならば。
 もう、必要のない行為なのかもしれない。
 屋敷の玄関に辿り着いた。張り出した庇の下で、軍帽を脱ぎながらシキが笑う。
「上の空だな」
「……」
ふと、赤い瞳を覗き込みたい衝動に襲われた。だがアキラはその欲望をすぐに押さえつける。代わりに足下に視線をおとして、屋敷の大きな扉に手をかけた。
 夕闇と雨音に満ちた室内は、ひんやりとしていた。
 いくら優秀なコートといえど湿気は避けようがなかったし、髪の先は濡れていた。バスルームへ拭き物を取りにゆく。着替えを用意した方がいいだろう。主は絢爛な夜会であろうが華美な祝賀会であろうが、多くの場合変わらぬ黒の軍服を纏う。それ以外のフォーマルを着用するのはごく稀だ。
 この後の算段をしながらアキラがシキの私室に入ると、部屋の主は窓際に佇んで外を眺めていた。壁の代わりにはめこまれた大きな硝子のすぐ外はテラスで、そこに葉を黄色から赤へのグラデーションに染めた広葉樹が枝を伸ばしている。一葉一葉から光る雨粒が滴るのが見えた。
「これを」
 外に向いていた赤い瞳がつと、下りた。差し出した猫の背のような肌触りの拭き物を、受け取るために動いたかと思われた手は、素通りしてアキラの頬に触れる。手袋の外されたてのひらが、意外にも温かかった。
「……閣下?」
手はそのまま首筋を通り、肩に下りた。軍服とシャツの間に入り込む。
「冷えたか」
言われて初めて気付く。
 シキの手のひらが温かいのではない。自分の体が冷たいのだ。思わず、肺の上に置かれた、自身のそれよりも一回り大きなシキの手を見下ろした。節と節の間を繋ぐ骨の形を見せながら、白い皮膚がなめらかに稜線を描き、形のいい爪へとたどり着く。
 その手が、肺の上から心臓の真上へと滑った。甲に反して手のひらは部分部分厚みがある。ただし硬くはなかった。刀を体の一部とするための接続部は、年月を重ねることで、皮膚の厚さを保ったまま逆に柔軟な状態に戻っている。
 ワイシャツ越しであるというのに、皮膚すら通り越して体の内側を直接触れられているように感じて、アキラは細かに体を震わせた。内側がざわめきたつような落ち着かなさに、ほんの数センチ、踵を退かせる。そうしてしまってから、その行為が主の気分を害しはしなかっただろうかと、なにか言い訳をしたいような気分で上目にシキを見上げた。
 予想に反して、赤い瞳は興がるような色を宿してこちらを見下ろしている。あ、と思ったときには腕を引かれていた。
「……ッ」
体はほとんど反転するように引き動かされ、だがその勢いに反した意外な柔らかさをもって、硝子に背中を押しつけられた。退路は断たれている。ほかでもないシキの腕によって。
 否、いつであれ、逃げ道などという物は用意されていないのだ。あるとすればそれは罠だ。
 おとなしく体から力を抜いた。逆らう気はないと、告げるに等しかった。軍服の前釦がはずされる。先と同じように、シキの掌は心臓の位置に置かれた。そこから体の形を確かめるように下りてゆく。無防備な脇腹を通り、腰にたどり着いた。
「……っく……、」
親指でなぞるように腰骨を撫であげられ、アキラはこらえきれずに熱のこもった息を口の端から漏らす。
 いくつかの思考が、脳裏をよぎった。この後の予定、会うはずだった人の顔と肩書き、放置したままの濡れたコート、靴。昨日の男の言葉。それに引き出された疑問。これは、いつまで続く行為なのか。主が不要と気付けば、なくなるものなのか。
「随分と大人しいな」
ワイシャツ越しに、ピアスに指をかけられる。
「あ、……ッ!」
「アキラ」
呼ばわる声の強制力に、きつく閉じかけた目を開く。近付きすぎた頭一つ分も高い相手を見上げると、首をほとんど真上に向けるような格好になる。赤い瞳に覗き込まれた。薄い笑みがそこにはある。
「何を考えている」
低い囁き。艶のある声の語尾は掠れて、酷く甘い余韻を残す。だがその甘さは、強いアルコールのそれだ。あるいは、毒の。
 目眩を、殺すために瞬きをする。一瞬の暗闇の中で思う。
 知りたいのなら、暴けばいい、そうしてもう、暴く余地もないことを知ればいい。
 それでたとえこの行為が、こういった関係が終わりを告げたとしても、満足だった。すべて捧げていることを、主が承知していてくれるなら、それはそれで誇らしかった。
 だが。
 アキラはしっかりと目を開いた。ひたりと、赤い瞳を見つめたまま、自らの黒いタイの結び目に指を入れる。緩め、床に捨て、次はシャツの白い貝から切り出した釦を外す。
 シキの手を素肌に導いた。心臓の上へ。シキに触れられるたび、その声に名を呼ばれるたび、視線を向けられるたびに、泣き出す場所へ。
 食らいつくせばいい。たとえその後でつまらぬ味だった、取るに足らぬ雑魚だったと、打ち捨てられても、きっとあとに残るのは幸福な残骸だ。
 シキは一瞬表情を消したあと、黙ったまま、ほんの微かな、微かな笑みを浮かべた。やがて沈黙を連れた形の良い唇を、青灰の瞳の上におとした。その柔らかさに反して、シキの五指はアキラの肌、肋骨に、爪を立てていた。その先にある物に、触れようとするかのように。
「……っ」
それは、すばらしく甘い痛みだった。体をふるわせ歪めた瞳を、舌が舐めてゆく。まるで歯をたてて噛み砕きたがっているような、獰猛さがあった。どうしてそうしないのか、もどかしかった。
「……シキ」
何の目的も持たず、伝えたいことがあるわけでもなく、ただ溢れそうになる何かを体の内から逃そうとすれば、その唯一の響きになる。
「シキ」
いつからだったろう。焦がされるようにして、名前を呼ぶようになったのは。
 背にした硝子はいつまでも冷たいままで、ただ今は自分を抱きこむようにした体だけが熱を持っている。肩に頬を押しつけながら、強く目を閉じた。
──いつかその日がくるなら。
 雨がやまなければいい。数年ごしに、アキラは祈った。そんなことは実現するはずがないと知っているからこそ、祈る弱さをほんの束の間、自分に許した。来たるべき日、シキが自分を、完全なる支配の元においたと認める日。それはたぶん歓喜に満ちているだろう。誇らしく、何もかも差し出し明け渡しているだろう。そう想像できるのに、僅かに胸の、一番深い場所が痛みに怯えて震えていた。
──互いの一番柔らかい場所で触れ合ったことを、素肌の温度を、どちらのものか解らないくらい近い心臓の音を、
──どうすればこぼさずに、抱いてゆけるだろう。

end.

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