falldown

「先に戻れと、言ったはずだが」
鉄格子の向こうから、月明かりに白い頬を照らされながら王は言った。
「申し訳ありません。つい」
石造りの牢獄の内側から、従僕はなんら気に咎める様子もなく答えた。
「居心地が気に入ったとは言うまいな」
「まさか」
アキラの顔にほんのわずかな笑みが浮かび、沈む。
 シキの背にした長い廊下には、何人かの官吏が体の一部をなくして、あるいは分断されて絶命していた。灯りは絶えて、開いた窓から虫の声とともに入った風が、夏の匂いで血臭を撹拌している。
 シキがニホンを統一してから、数年が経っていた。
 アキラは敵地への潜入作戦にあたっていた。途中で身元が割れることも作戦のうちで、そうなった場合はすぐさま脱出しニホンに戻るよう言いつかっていた。だがあえてそれを破り、こうして投獄されたのには理由がある。アキラにとっては割合切実なものではあったが、恐らく誰にも理解されないだろう。彼の王以外には。
「こちらでお待ちしたほうが、早くお目にかかれると」
「……お前は」
アキラの体が急に格子に引き寄せられた。差し込まれた、鞘に入れたままのシキの刀が、手錠の鎖を引いたのだった。
「とうとう命令さえ守れなくなったか。それではただの狂犬だ」
唇が触れそうな距離で、王は言う。滴るような低い美声は青い瞳に熱を呼んだ。
「狂っているというのならば、とうに」
何に、とは言うまでもない。手首の引きつれるような痛みにわずかにしかめた眉の下の眼に、アキラは彼の王しか映そうとはしなかった。
 しばらくの間それを覗きこんだ後、シキは鼻を鳴らして刀を抜いた。刃紋がアキラの鼻先を掠りそうな距離で流れていく。切っ先は扉の鍵を破壊すると、再び鞘に収まった。金属の軋む音を立てて、鉄扉が開く。アキラはするりと牢獄から抜け出た。
「これは、外していただけないので」
さして不満そうでもなく言ったその手首では、無骨な鎖が鈍く光っている。一瞥すると鼻を鳴らし、刀の鞘で鎖を引くようにしてシキは歩き始めた。
「随分機嫌が良いようだからな。またどこぞに飛んでいかれたのではかなわん」
「俺が誘われていく場所など、決まっている」
「よく言う。──以前にもこんなことがあったな。何年前だ」
「八年ほど前かと。……ちょうど、思い出しておりました」
答えた声には、過去を懐かしむ気配が滲んだ。
 前線から戻ったあの日のことを、アキラは今も鮮明に覚えている。雨の音。人の減った兵舎。切れかけの黄ばんだ蛍光灯の明かり。連絡が遅れ、死者の人数分だけ余った夕食。真っ暗な湿った独房で深く沈んで見た、心臓の一番深い場所に突き立てられたもの。そして。
 シキの見せた、満足気な笑み。
 ピアスがじくりと熱を持った。
 廊下を歩く二人の姿は罪人とその看守に似ていた。しかし囚人の横顔は涼やかでありながら、眼差しには明らかな熱を宿していたし、その視線の先の刑吏はといえばほんの僅かではあるものの、たしかに微笑んでいた。
 二人の足音は生き物の気配の耐えた廊下に、虫の音を背景として響き渡る。そしてその上には、鎖の奏でる思いの外澄んだ音が乗った。
「そういえば」
「なんだ」
「あの時、前線で、俺が死んでいたらどうなさいました」
詰じる気持ちは誓ってなかった。ただ、ふと脳裏に浮かんだ単純な疑問符を、なんとなく拾い上げ口にした。
「その時はそれまでだ」
切り捨てるような返答が返る。夏の夜の、昼よりは幾分涼しい風が髪を揺らし、過ぎ去った。数秒の間遠のいた血臭が鼻孔に戻ったころ、シキは再び口を開いた。
「──などと言うと思ったか」
鼻を鳴らして続ける。
「お前の傍に、息のかかった者を置いていた。もしもの時は代わりに死ねとな」
「──、それは」
続けられた言葉に、アキラは不意に足元がぐらつくような感覚を味わった。
「本当のことだ。軍曹と、もう一人。イトイガワで死んだ、うるさい男だ。伍長だったか」
わずかに心臓が早まる。古い記憶を手繰り寄せた。言われてみれば確かに、伍長はいつも何かと近くで騒いでいた。ミチへの嫌がらせのためではなかったのか。
「軍曹は最初のうちこそ理解できんという顔をしていたが、途中で態度を改めたな。伍長の方は、あれはあれで、そこそこ徹底した男だった。強さのみを信奉するという点では、見込みはあったが」
「──、」
それでは伍長は、シキの命令を守り真実自分の代わりに死んだのだ。自分がいつまでもくだらない意地を張っていた間に、だ。アキラは視線を落とした。その先に、自分の手を引く鎖と、刀の鞘があった。
 それきり黙りこんで、血に濡れた長い廊下を歩く。窓の外、朝の遠い夏の夜空は紺色をして深かった。明るすぎる月に星は殆ど見えない。だが。
 知らず止めていた息を、吐く。目を閉じ、開いた。視線を正面に戻せば、主の背中が見えた。
 シキは肩越しにちらりと視線をくれると、見透かしたように鼻で笑った。
「……覚えているぞ。あの日独房で見た、お前の目を」
前方に顔を戻しながら、囁くように言葉を続ける。
「──随分と、そそられた」
その背中から読み取れるものは少ない。だが、何か嫌な予感めいたものを感じて、アキラは怪訝に眉根を寄せる。
「今にも噛み付きそうな」
「……閣下」
わずかに咎める色を滲ませて呼んだ声は、拾われることなく打ち捨てられた。シキは愉しげに続ける。
「それでいて潤んだ瞳で」
「我が君、」
「初めて認めたのだったな」
「──っシキ」
じゃら、と張り詰めた鎖が音を立てた。シキが振り返ると、急に立ち止まったアキラが、うつむいてかすかに肩を震わせている。
「どうした」
低くそう聞いてやると、頬に淡い色を乗せたまま顔を上げた。ただし唇を引き結び、視線は床を睨んだままだ。
「なんでも、ありません」
「……ふ、」
鎖の緊張を緩めた。刀の柄でアキラの顎を上げる。遅れて青い眼差しがまっすぐに飛び込んできた。年月を感じさせない、あの日と同じ生意気な視線がそこある。
「……誓ってみせろ、あの日と同じように。そうすれば、命令に反したことは不問に付そう」
言って、従僕の口の端を舌先でひと舐めする。
「──ッ、」
アキラは離れていく唇を追いかけたい衝動を、自らの唇と一緒に噛んで殺した。
 月が明るく照らす足元の、数歩先には死体が転がっている。それを感情を動かされることなく受け入れられるようになった。血の匂いはシキのそばにある限り常に付きまとうものであったし、目指すところには未だ及ばないものの多少は強くもなったと、自負している。だが、変わらないものも確かにあることを、アキラもまた感じていた。
「──俺はあの日、貴方に問いました」
自らの主をまっすぐに見据える。
「……覚えていないな」
白皙ははぐらかすように瞳を伏せ、唇で弧を描いた。
「俺がアンタに反発しなくなっても、アンタは俺を傍に置くのか、と」
「ほう。俺はなんと答えた」
すでに答えを知っているような、白々しい声音だ。気にせず続ける。
「その牙をどこに向けるかは関係ないと。ですが」
わずかに顎をあげた。赤い瞳を見据える。
「貴方は、今でも俺をねじ伏せる時が最も楽しそうだ」
「……く、」
シキは珍しく、声を上げて笑った。
「──それで? なんとする、アキラ。俺のためと大義を立てて造反でも起こすか。それもまた、面白い」
刀の柄を握った白グローブの手の甲で、従僕の頬を撫でる。裏切りを勧めながら、その声は愉悦に満ち、優しげですらあった。
「……いいえ。今日は、素直にお許しを乞おうかと」
手枷を掛けられたまま、アキラは背筋を伸ばす。
 そうして、肺の奥まで血の匂いのする空気を吸いこんだ。
 

end.

Vote: