雨中佇む

小犬のワルツ

 甘い香りは、僅かな青みまでが花のそれに似ていた。数人が乗り込んだ軍用ヘリの中で、彼は顔を上向けてすん、と鼻から息を吸い込む。途端頭がくらくらとした。最初は足元が揺れているからだと思っていたが、慣れない酒を飲まされたときのような、高揚感を伴う心地のいい目眩は、コンクリートの地面に降りても変わらなかった。香りは飛び去るヘリコプターの起こす強い風に薄まったり濃くなったりしながら、彼の鼻孔の底にずっと漂っていた。
 何の匂いだろうかと、ぼんやりと周囲を見渡す。数人の背中のむこうに、先ほど負傷したばかりの上官の後ろ姿が目に入った。まるでそこだけルーペで拡大されているかのように。周囲はかすんで歪んでおり、中心だけがはっきりと、迫りくるようですらあった。
──あの人の、……。
ふらりとついていきかけたのを、誰かに肩をつかまれる。見上げた一瞬、そこに立っていた同僚の顔になにか厳しい表情が浮かんでいたような気がした。だがそれはすぐに笑顔にとって変わられる。
──よくやった。多少のミスは気にするな。今日はゆっくり休め。
目の端で、上官が扉の向こうに消えていくのを捉える。
──ええ、ありがとうございます、……。
それではと会話を切り上げて、香りのあとを追いたかった。だが傍らの男はいつまでも彼の肩を離さない。二人には階級がなかった。総帥直轄の精鋭部隊に召し上げられた段階で、一切の階級というものから開放されている。だが相手は部隊設立当初からの古参兵で、隊長の補佐さえ勤める男だった。一方彼はつい最近精鋭部隊に入ったばかりの新参だ。年齢も、男よりもずっと若い。無碍にするわけには行かなかった。
──帰る前に、一杯飲んでいくか。
そんなつまらない誘いをもごもごと断り続けている間に、あの甘い香りも完全に霧散してしまった。胸の奥から明らかな苛立ちがこみ上げる。まるでそれを読みとったかのように、あっさりと肩を離された。背後から背中を叩かれ、とりあえずはミーティングだ、と呟かれた。
 会議室で、彼は上の空だった。例の香りを纏った上官はいなかった。医療部で怪我の手当を受けているという。 
 部屋を出るときも当然ながら同僚たちと一緒だった。宿舎が同じなら帰路も共に歩いてゆくことになる。周囲の励ますような声が、幾たびも彼に向けられた。作戦中にミスをしでかしたからだ。だが、彼はずっと上の空で、まるで別のことを考えていた。それを周囲は気落ちと勘違いし、ますます明るい声を出してその背を、肩を叩いた。
 宿舎の個室でようやく一人になることができた。黙々と着替えをしてベッドに潜り込む。少しは、うとうととはしたように思う。だが気分は高揚し、何度も意識が覚醒した。数え切れないほど寝返りを打ってから、結局、諦めて普段着に腕を通し、部屋を出た。足には特に行く宛を持たせなかった。それでも鼻は、雨の気配を纏う空気中から、あの芳しい香りを嗅ぎ取っていた。そう、遠くはない。
 辿りついたのは統一ニホンの中心、黒々とそびえる威容から「黒い城」と呼ばれる、彼の職場の裏手。
 その屋敷は、深緑の林に守られて静まりかえっていた。

猟犬のピアッフェ

 アキラはそっと扉を開き、足音を忍ばせて屋敷の玄関をくぐった。
 地方の反乱軍に対する、夜通しの作戦の後だった。空は明るくなり、鳥もあちらこちらで鳴き交わしているが、未だ日は昇っていない。
 エントランスに立つと、奥の厨房から料理人たちが朝食の用意をするひそやかな物音が聞こえた。それなりに広い屋敷だが、住み込みの使用人等は置いていない。使用人頭としての執事が仕事をするのは、日中だけである。ゆえに、早朝や夜中に帰るときはいつも、出迎えを断っていた。
 客がある場合は屋敷林前の門で誰何される。シキがここに住まうようになってからかつて、訪うような個人的交流を持った者はいなかったので、それで事足りていた。精々が精鋭部隊の部下が、通信や電話ではすまない連絡を運んでくるときくらいだ。割合親しいといえる客人相手でも、ホテル等を手配させる。黒い城の書斎といい、この屋敷といい、シキはプライベートな場所に、アキラ以外の者が入るのを好まなかった。それは縄張り意識が強い野生の獣を思わせもしたが、実際のところ他人の存在が鬱陶しいだけなのだろう。その一方で、門を通らない客──総帥を襲おうとする不届き者はひきもきらず、彼らをもてなすのは、シキの楽しみの一つではあった。
 アキラはそのままそっと階段を上り、自室で着替えを用意すると、再び同じ二階の隅にあるゲストルームに忍び込んだ。バスルームを使うためだ。前述の理由で、一度も客人を迎えたことのない部屋である。
 普段であれば、シキの私室備え付けの風呂を使う。だが帰りがあまりにも遅くなったときは、主を物音で煩わせないためにもこちらを利用した。ただし今日は、ほかにも理由がある。
 身を清める為に頭からシャワーをかぶると、足下を赤く色づいた水が流れていった。左側頭、深い傷ではなかったが、頭の怪我は出血の量が多い。とっくに止まっていたが、髪についた分が溶けて流れ落ちていった。頭を洗おうと腕を上げると、左肩も痛む。軍の医療部に看せたところ小さな罅が見つかった。そんなものは、ほとんどただの打撲のようなものだ。鏡に映すと赤く腫れていたが、衣服を着てしまえば解るまいと思われた。
 簡単な身支度をし、部屋を出る。湿ったままの髪が冷たかった。足早に、だが気配を消して、アキラは廊下を進んだ。すぐに自分の部屋の扉が見えて、そっと息をつく。
 だが、そこにたどり着く前に、奥の部屋の扉が開いた。
「どこで遊んできた」
ぎくりとして、だがそれを表情にはおくびにも出さずに、アキラは立ち止まる。シキだ。
「朝食の時間だ。休むのは後にしろ」
そんな時間か。もう少し急げば良かったと、後悔しても時既に遅かった。
 シキが近づいてくる。食事をとるために一階に降りる気だろう。階段は、アキラの背後にある。
「荷物をおいてすぐに参ります」
視線を床に落として、道をあけるようにこころもち、廊下の端に寄った。少しだけ、心臓の音が大きくなる。ふ、と口の端をあげるようにして笑って、シキの視線が外される。すれ違う。緊張の波が最高潮に高まる。数秒ののち、アキラが気づかれぬように息をつこうとした瞬間だった。
 とん、と左肩を軽く叩かれた。
「言い訳を考えておくがいい」
「──……はい」
ばれた。
 やはり、だめか。
 胸のうちで、アキラは大きな溜息をついた。
 怪我の原因は、言ってしまえば自分自身にあった。
 つい二週間ほど前、精鋭部隊の欠員が補充された。欠員それ自体が珍しかったが、それ以上に驚くべきは、新人がアキラよりもさらに2歳ほど若いことだった。
 自分よりも経験の乏しい部下がつくのは初めての経験だった。これまでは周囲の方が年上で、実戦経験もずっと豊富だった。階級は一応アキラの方が上であり、部隊長に収まってはいたものの、精鋭部隊設立当初は周囲に助けられる形でなければやってこられなかっただろう。
 周囲に対して感謝と遠慮こそあれ、不満はなかった。だがアキラが、初めてもった年下の部下を可愛がってしまうのも、ある意味で自然なことであったろう。
 自分よりも経験が浅く、年若い隊員の存在は、新鮮だった。面倒見がいい方ではなかったが、気にはかけた。技術や才能はあるが実戦経験の乏しい新人に、気づけばなにかと世話を焼いていた。彼も、そういったアキラの気遣いを素直に受け入れ、教えを吸収していった。
 そして昨日が、彼が精鋭部隊に入って初めての実戦だった。それに、同伴した結果が、このざまである。
 新人はこの部隊に配属される前にも、いくらか実戦経験はあった。そこでの非常に高い評価を得て、精鋭部隊への栄転が決まったのである。
 だが今回彼にかかっていたプレッシャーは、これまでの比ではなかった。シキ総帥直轄、高嶺の花の率いる精鋭部隊は軍の中でも花形である。その中でに歴代最も若くして入隊し、しかも高嶺の花本人に目をかけられた。失敗は許されない──その想いに、若い心は少しだけ、呑まれてしまった。
 焦ってミスをした。危険なポイントで、敵に見つかってしまった。
 アキラの怪我は、その際の攻撃から彼を庇ってのものだった。幸い、作戦そのものにはそういった小さな予定不備を織り込み済みであったので、難なくカバーできた。だから結果的には、それほど問題はない。
 帰りのヘリを待つ間、夜目にも青ざめた顔で平身低頭する部下の肩を叩き、座席に座らせた際にも、アキラはそう説明した。実際精鋭部隊の作戦とはそういうものだった。精密さは必要だったが、ある程度失敗してもいいように幅を持たせておく。正確にこなさねばならない部分は、そもそも新人には任せない。
 作戦そのものは、成功だった。
 アキラの怪我の原因は、ひたすらに、年若い部下にかかるプレッシャーを理解してやれなかったアキラ本人にある。
「身を挺して上官の盾になるべきが、逆に庇われて怪我を負わせる無能か」
釈明を終えたアキラに、彼の主が放った言葉はそれだった。
 薄い磁器でできたティーカップを、ソーサーに置く小さな音の後だった。伏したアキラの眼差しは、白鳥の首のような華奢な持ち手掛かる、シキの骨の形の伺える細い指先を捉えていた。
「若くして精鋭部隊に推されてきただけあって、見込みはあります。それに、上官に庇われたことなら、俺にも」
テーブルからは既に朝食の皿が下げられて、食後の紅茶だけが残されている。庭に円形に張り出したテラスには、木漏れ日と鳥の声が降っていた。一見、うららかな朝の風景だ。だが。
「あったか、そんなことが」
「ございました」
「おぼえていないな」
「俺が准尉として貴方の側に上がったばかりの頃です。ナガオカの戦場でした」
このテーブルの上も、戦場だった。アキラは一歩も引くまいと、シキに言葉を返す。
 まさかこんなことで、例の部下に処分が下ることなどはないだろう。だが、アキラ自身に罰として休暇が出る可能性はあった。仕事を休みたくなかった。それに、このタイミングでそんなことになれば、あの部下はきっと気に病むだろう──。
「その新人とやらに、随分ご執心だな」
一瞬の思考を読まれたようで、どきりとする。
「子犬でも飼ったつもりか」
アキラはあえて視線をあげると、赤い瞳と正面から目を合わせた。牽制のつもりだった。どれだけの効果があるのか、知れたものではないが。数秒後、再び恭しくまぶたを伏せる。
「ご冗談を」
「躾には気をつけろ。無駄知恵を付けさせん事を勧めておく」
シキが僅かに椅子を引く。足を組む動作は、それだけでも舞踏のステップを思わせる優雅さがある。肘掛けに頬杖をつくのもしかり。だがその間、赤い瞳はアキラを捕らえてはなさなかった。
 まるで椅子の上に標本よろしく釘付けにされた気分で、アキラはその視線を俯きがちな顔で受ける。
「罰から逃れるために、悪戯の痕跡を必死で隠そうとするようになる」
誰のことを言っているかは明らかだ。しんしんと、背筋が冷えていく。だがそういったやりとりに、アキラは慣れ始めてもいた。主の取り扱い方とでも言うべきものが、少しずつではあるが身につき始めている。
 とはいえ、このやっかいな主は操れるような代物ではない。ために、どちらかといえば、その心得は自然災害への対応に近かった。すなわち下手に動かずに、じっと嵐の去るのを待つのみ、だ。
「こちらの手でも噛んでみせれば暇も潰れるというものを」
常であれば、この程度でシキは従僕を許した。毎度これでは面白味がないと考え、新たな一手を打ってくる事も確かに、予想できないことではなかった。だがアキラは、それはもっと先のことだと思っていた。しかしその予想は、少しばかり甘かったらしい。
「どうした。久しぶりによく喋ると思えば、今度はだんまりか。お前はそうやって、黙ればいいと思っているようだがな──よかろう」
シキが飲み干したティーカップをテーブルに戻して、立ち上がるとテラスの出口に向かう。その途中に座っていたアキラも、僅かに緊張を解いて主に続こうと腰を浮かす。命令はそこに放たれた。
「座れ。お前は今日一日、人形だ」
人形というよりも、犬に命令するときの声音だった。
「……っな」
「喋るな」
唇に、指先で触れられる。無駄吠えする犬の鼻先に触れるように。
「動くな。目を閉じろ」
目だけを動かして、シキを見上げればそう放たれた。赤い瞳は愉悦に暗く輝いて、新しい遊びを思いついたときの──小さな生き物を戯れに弄ぶときの、獣と同じ色をしていた。
 アキラは静かに、抑えた溜息とともに体から力を抜いた。眉根に皺を寄せながら瞑目する。こうなってしまえば打つ手はもうなかった。浮かせた腰を、椅子に戻す。
「命令を破ってみろ。お前の子犬を噛み砕いて、よそに捨ててやるぞ」
笑みの気配をたっぷりと含んだその声は、目の上から前髪をよける指先の感覚とともに与えられた。
 目を閉じてしばらくは、鳥の声ばかりが耳に届いた。シキの気配ははなから感じられない。傍にいるのか、それともどこかに去ってしまったのかすら、解らなかった。やがて傍を誰かが通る密やかな気配がして、テーブルの上から、陶器のぶつかり合うかすかな音が聞こえた。ティーセットが下げられるのだろう。それきり、再び静寂が戻った。
 当初の緊張が少しずつ薄れていく。それに従って、体の重さが意識された。出撃前に二時間ほどの仮眠をとったとはいえ、夜通しの作戦だった。怪我を負った直後の神経の興奮もとうに去っている。疲れが、どっと押し寄せた。その上テラスは、春を前にした柔らかな日差しと陽気にあふれていた。鳥の声は優しかった。
 いつの間にかうとうととしていたアキラの意識を呼び覚ましたのは、誰かが屋敷に訪れた気配だった。使用人を取り仕切る壮年の男の声が、遠くからぼそぼそと聞こえた。響きは不明瞭で、なんと言っているかは解らない。
 客人は帰ったのか、それとも迎えられたのか。しばらくの間は、それ以上何の音もしなかった。
 春の天気は変わりやすい。朝の間テラスの硝子越しに降り注いでいた陽光は、いつの間にか消えていたようだ。やがてなにかを細かく叩くような音がして、それはすぐに囁き声に似た雨音に変わった。
 人の気配がしたのは、その時である。厚い絨毯をそっと踏みしめるような足音が近づいてきた。一瞬止まったかと思うと、次の一歩は陶器のタイルを踏む音に変わる。テラスに入ってきたのだ。
 女の足音ではない。面の大きい、木製の靴底がたてる足音。アキラの脳内に、使用人の履く革靴、そして軍靴がイメージされた。追って、ほんの小さな風が届く。なにか覚えのある、けれど正確には思い出せない香り。それほど強くはない、男物のオーデコロンだ。
 瞼の裏が暗くなる。相手が目の前に立ったせいで、顔の上に影が落ちたのだと察せられる。
 誰だ。誰何したい気持ちを、押し殺す。目を開けては、まして声を出してはならない。主の命令は絶対だ。
 次の瞬間、アキラはびくりと肩を震わせた。頬になにかが触れていた。手袋越しの手のひらだとは追って気付いた。それは片手で、頬の形に添うごとく、包み込むように触れてきた。
 一瞬、またこの方は趣味の悪い遊びを、という思いが浮かび上がる。ほんの小さな息を、吐く。どうせシキに違いないという、高をくくるような気持ちがアキラの中にはあった。あごを指先で掬い上げられ、わずかに顔が上向く。見定めるような視線を感じて、落ち着かなさに眉根に皺を寄せるのを止められない。
 手が離れていく。しゅ、と小さな布ずれの音がして、数秒後には手袋を外された右手が戻ってくる。また、覚えのない香りが漂った。
 今度は先ほどよりも大胆な触れかたをしてきた。まるで古物商が商品に触れるような、なにかを確かめ見聞するような触れようだった。上瞼を、睫の付け根を、鼻筋を、唇を、顎のとがりを、感触を楽しむようになぶられる。やがて裸の指は耳の上を通って、髪の中に入り込んだ。頭皮に触れられるのは、想像以上に感覚がざわめく。まるで衣服の下に急に触れられたような、落ち着かなさと──わずかな、熱を生む。厭な感触だった。何故これをそこまで厭わしく思うのか、アキラはその手がワイシャツのボタンを外しはじめたときに気付いた。
 シキの気配に、感じられない。
 この屋敷の中で、こんなばかげた事をやるのはあの主以外にあり得なかった。それを根拠にきっとシキだと決めつけてきた。無防備な自分を放置するなら、きっとどこかで見張っているだろう、自分と他の誰かが接触する事態は妨ぐだろうという、ある種の信頼もあった。これまで何度も悪い遊びにつきあわされた経験が、アキラにそう信じ込ませていた。
 だが、今目の前にいる相手は匂いも、足音も違った。触れかたも、なにか、違う。
 目の前にいるのは本当に、シキだろうか。
「……っ」
 疑問がわき上がった瞬間、開かれたシャツの中にするりと両の手のひらにすべり込まれ、息をのむ。片手だけが裸で、片手は手袋に包まれたままだった。せめて手袋を外したのが左手だったなら、と思う。刀を握る者の特徴は、右手よりも左手に出るからだ。所々厚くなった皮膚の感触を、アキラは体で覚えている。
「……、ぅ……、」
緊張に、感覚が鋭敏になっているのが解った。シャツの前をさらに開くように肩に触れられ、そうかと思えばもう片手は胸に、そこから撫で下ろして脇腹に触れてくる。
 不躾に体に触れられる感触に、鳥肌が立つ。雨の湿気を含んだような、しっとりとしてほの温かい、二つの手。
 さんざんに快楽を覚え込まされた体は、こんなときですら僅かながらにも熱を覚える。それが煩わしくて、きつく奥歯を噛んだときだった。
「んッ、……ッ!」
胸の突起を、親指で強めに撫でられた。びくん、と体が跳ねた。あ、と思ったときには、それまでしつこいほどに体に触れていいた手のひらが、どちらもするりと離れていた。
 嫌な、間があった。アキラは荒くなりはじめた息を殺しながら、必死で相手の気配を探る。嘲笑うような笑みを浮かべた主の顔が思い浮かび、それから、顔のぼやけた知らない男が、伺うようにこちらを見下ろしているのが想像された。
「……ッ」
暫時の後、指が舞い戻る。今度は明らかに、性的な目的に満ちていた。
「……ッん……、く、……っ」
片側の胸の突起を、親指で揉み込むようにこねられる。最初はじわじわと染み出すだけの快楽は、時間をかけられるほどにその感覚を明瞭にする。粒を押し込むようになじられ続けると、やがて熱が下腹に滴り落ちる細い流れになる。背中を、後頭部を、強く背もたれに押しつけて快楽を逃がす。それでも、噛みしめた歯の間から熱を持った息が漏れた。
 もう片手が、宥めるように脇腹を撫でている。久しく忘れていた、他人に体を自由にされる屈辱を、アキラは思いだしはじめていた。
「……く、……ッうぁっ」
刺激に小さく尖った場所をつねり上げられて、引き結んでいた唇がとうとう内側から割れた。色づいた息が溢れる。途端に、また手のひらが離れた。胸にじんとした感覚だけが残って、速まった鼓動に合わせて疼く。
 今すぐ目を開けて相手の顔を確かめたかった。相手がシキでなければ、この屈辱をはらさなければならない。だがもし相手がシキであれば、──先ほど言い放たれた言葉が蘇る。言いつけを破ってみろ、お前の子犬を──。年若い部下の面影が脳裏をよぎる。息を吸って、吐いて、下ろした瞼を閉じ続けるために力をこめる。
──大丈夫だ、きっと。
シキに違いない、そう自分に言い聞かせる。 
 あのシキが、こんな状態の自分を管理の届かないところには置くはずがない。そう、胸のうちで繰り返す。
 ゆるめに閉めていたベルトの金具に手をかけられる気配に、アキラは体を堅くした。前が開かれる。
 下着の内側に、裸の手が入り込んできた。触れられた場所は、半ば芯を持っている。常であればとうに、それは硬くたぎっていただろう。だが今日は疑心が、高ぶりを妨げている。
 その堰を壊そうとするかのように、入り込んだ手のひらは下生えをかき分け、ほぐすようにアキラ自身の周囲を撫でた。パンツを下着ごと引きずりおろしながら、下腹を、太腿を撫で、付け根に指を這わせた。アキラは膝の少し上、内側に、ぬるりと濡れた感触を感じた。それが舌であるとは、筋肉の狭間の溝をなぞるように、嘗め上げられてから気付いた。舌は鼠蹊部をついばんで、薄い茂みのすそに口づけてから離れた。
 快楽と嫌悪の、両方を感じた。嫌悪がやや勝った。何度もこれはシキだと自分に繰り返す。だが、時間が経過するほどに、シキだと信じて疑わなかった相手から、その面影ははがれていった。匂いも、触れ方も、行為の進め方も、すべてがまるで違っていた。
 腰骨を舐められる感触に耐えていたアキラの脳裏にふと、それまでと違う思考が差し込まれる。──たとえ今目の前にいる誰かがシキでなかったとしても、シキはきっと、どこかでこれを見ている。だとしたらこれは、シキに容認された行為には違いない──。その思いつきに、血の気が引くのを感じた。指先が酷く冷たくなった。
 唇に、相手の指が触れる。割って入り込もうとしたそれは、きつく噛みしめられた歯に阻まれて止まった。
──嫌だ。
すさまじい拒否感に、アキラは歯を食いしばる。頭の中、混乱を理性で押さえつけた。だがその下で、疑念が葛藤となって嵐のように吹き荒れる。
 必死で、目の前の男に対する疑惑を否定する。傷一つ負うことを咎める主が、まさかそんなことを容認はすまい。おそらく。きっと。それを打ち消すように、頭の隅からこんな声もした。だが、あの人は自分を弄ぶためならば、大概のことはやってのけるだろう。あの美しい笑みを浮かべて──
 呼吸が、浅く速くなる。ぐるぐると、思いつきと否定とそれに対する反論が、繰り返し頭の中を巡った。
 そのすべての疑問と論争に終止符を打ったのは、自らがシキへと捧げる、そしてアキラ自身部下から捧げられてきた忠誠だった。
 どんな形であれ、これはシキの命令には違いなかった。従わないという選択肢はもとよりないのだ。上官のために命を投げ出す部下たちのことを思えば、自分の体一つ誰かに明け渡すくらいのことは、容易いことかもしれなかった。どうせ、なくすもののない男の体だ。
 顎の力を緩める。舌の上に指先を迎えたとき、アキラは自分がなにかを捨てたのがわかった。
 口の中を、指がゆっくりとかき回した。引き抜かれた指がやがてどこに向かうのか、口を出し入れするこの行為が、何の真似事なのか、知っていた。考えないようにした。
「……ッ!」
 腰を掴まれる。数センチ、椅子の上を引き下ろされる感覚は、数十メートルもの崖を落ちる錯覚を伴った。
 片足からパンツが引き抜かれ、束縛をなくした足が開かれる。椅子の肘掛けにそれぞれに膝裏をかけられて、白日のもと秘部を露わにされた。
「……っ」 
羞恥に全身の鳥肌が立ち、それでいて顔からは屈辱のために血の気が失せた。
 かつてであれば、裸を晒すくらいの事などたいして辛いとは思わなかった。好悪でいえば勿論嫌だったが、それでもただの、男の裸だ。トシマでシキに拾われた日、シャワールームで服を脱がされ、身体検査のように体を探られたときも、屈辱こそあれ羞恥はほとんどなかった。
 人前に裸体をさらすのがこんなにも辛くなったのは、内に隠された肉の淫らさを、シキに嫌と言うほど思い知らされてからだ。
 半ば芯を持ったアキラの雄は、自らの腹の上に頭を垂れている。緩く開いたその先端からは、僅かばかりの透明な先走りが糸を引いているに違いなかった。
「……ッ! ……!」
不意に、鈴口を、指先でぐにぐにと解される。まるでその小さな孔に親指を挿入しようと試しているかのようだった。つたないものであれ、刺激されれば幹は硬く反り返る。その曲線を辿って、つ、と爪の先が降りていく。それはまるで視線そのものだった。双玉の間を通り、会陰をなで下ろし、窄んだ場所に辿りつく。
「……っ、……」 
びく、と膝が揺れる。アキラは唇を噛み、閉じた瞼に強く力を込めた。短く爪の切りそろえられた指先が、襞を確かめるようにその周囲を小さく円を描くようにして撫でている。その場所がどんな様相であるかは、アキラも自分でよく知っていた。鏡越しに幾度も見せつけられたからだ。シキの指や、あるいはそれ以外のものを当てられて、期待に口をひくつかせるのを。
 ただ今は、ひたすらに硬く閉じきっていた。そのころにはもう、目の前にいる男がシキだとは、アキラには信じられなくなっていた。
 指が離れる。再び鈴口をなじり、抉られる。指先に先走りを塗り込めているのだ。抑えようもなく、身体が跳ねる。
「……ぅ、……っ」
やがて濡れた指先が、再び窄まりにあてがわれた。つぷりと、指先が沈められる。太股の内側の筋肉が、緊張に張りつめる。
「……ぐッ、……っ!」
浅い場所を襞をゆるめるようにほぐされて、膝が跳ねた。腰に力が入って、背が反る。顔がゆがむのを止められなかった。体内に、異物を捻じ込まれることへの拒絶。緊張に固くなった体に、湿りはすぐに足りなくなった。
 未練げに、指は半ばまで埋められた場所でしばらくの間うごめいていた。だが結局、身体のあまりの頑なさに諦めたように引き抜かれる。
 すぐに背中と膝の下に手を入れられた。体が浮き上がる。抱き上げられたのだ。相手の肩に、鼻がつく。アキラは馴染んだ匂いを探して、息を吸い込んだ。見つけられなかった。落胆と、望みが絶たれるときの、背中から闇に飲まれるような感覚に襲われる。鼻先にあるのは、覚えているようで思い出せない、コロンの香りだけだ。
 テラスを出たのだろう。雨音が遠ざかる。明るい場所から、連れ去られる。
 使用人たちの気配はいっさいなかった。人払いされているのかもしれない。 
 リビングを抜ける気配とともに、わずかに低い温度が頬を撫でる。エントランスだ、と思ったときには階段を上りはじめている。軽々と運ばれ、どこかの部屋に入る気配がした。それがいつもの、シキの私室であればアキラも安心できた。期待もあった。だが連れ込まれたのは、どうやら違う部屋らしかった。ベッドにおろされた。シキの部屋に比べると入り口から近すぎる。それにシーツの感触も、部屋の匂いも違った。洗われたばかりのリネンの香りに、わずかに上付けされているのはハーブ系のアロマだ。朝にアキラがシャワーに使った、ゲストルームではないかと思われた。
 扉が閉まる音がして、室内は静まりかえった。閉じこめられた、という思いが脳裏をよぎる。チェストを開かれ、テーブルに堅いものが置かれる音がした。
 枕元でコップに酒が注がれるときの、硝子瓶の喉の鳴るのが聞こえた。ゲストルームのベッドの枕元に、何種類かの酒が常備されていたのを思い出す。寝酒用の強い洋酒だ。
 額にかかっていた髪をよけられる。優しげな仕草だった。
「……っ」
直後、再び脚を開かされる。膝を高く持ち上げられ、顔に付きそうなほど体を折り曲げられた。膝裏が何かに支えられた。相手の肩だろう。と、奥まった場所に、何かがあてがわれた。一瞬最悪の想像をして、体中にざっと鳥肌が立つ。だが予想に反してその感触は冷たかった。最悪には、違いなかった。小さな酒瓶の口だとは、度数の高いアルコールに粘膜を灼かれてから気付いた。
「────!!!」
びくびくびく、と、体が妙な痙攣をしたのが解った。ほとんど痛みに近い灼熱感に身を捩ろうとするが、がっちりと押さえ込まれた体はほとんど動かなかった。指の爪でシーツを引っかく。ぴんと張られた布は、しかし縋り付かせてはくれなかった。何も掴めないままに握り締めた手のひらに、短く切りそろえてあるはずの爪が食い込む。
 目を開けず、声も出さずに済んだのが、自分でも不思議で仕方なかった。
 ほとんど間をおかずに体が内側から熱くなる。直腸で吸収するアルコールは、静脈に注射されるのと変わらない即効性を持っていた。
 目を閉じていながら、暗闇に落ち込んでいくような目眩を感じた。強ばっていた体の節々に、あっという間に力が入らなくなる。頭が、背中が、なにか生温かい雲にでも包まれたような感覚に陥った。尻の狭間を酒がこぼれ落ち、持ち上げられた腰の裏を通って、背中からシーツに吸い込まれるのを、ぼんやりと感じた。
 ぐったりとしたのを見計らったかのように、指が再び内側を探り出した。探る、という言葉がこれほど適当な行為もなかった。指先は実際に、探していた。アキラの感じる場所をだ。入り口付近の腺の裏側は、すぐに探り当てられた。びくん、と体が反り返り、熱が前に集まって屹立する。それを見つけるや、相手は執拗にその場所を抉った。アキラはひたすらに、歯を噛みしめてその目の裏がチカつくような快楽に耐えた。
 耐えることに、決めた。だからもう、今すぐ誰何したいという思いは消えていた。ただ、シキに払い下げられたという思いは、去来した。
 あの人は、自分が他の人間に好きにされようが気にしないのだ。その思いの方が、むしろ誰ともしれない相手に犯されようとしているという現実よりも、重い衝撃となってアキラを打ちのめしていた。
 体の中は充分すぎるほどにかき回され、解された。らしかった。いつの間にか、複数の指をくわえ込まされていた。ぬるりとした感触がある。おそらく、潤滑剤を垂らされたのだろう。引き抜かれる瞬間、羞恥をあおる濡れた音がした。もう、よくわからなかった。強いて意識しないようにして、やりすごそうとした。
 だが、あてがわれたものが今度こそ雄そのものであると、気付いた瞬間緩んでいた身体が本能的に強ばる。そこに、ねじ込まれた。熱い。焼けた鉄の棒のように感じられた。だがそれは、半ばまで進み入ったところで動かなくなった。
 男のものを、通すのには慣れた身体だったろう。初めて犯されたときにすら、ここまで頑なに身体を堅くはしなかったに違いない。あのころは男が男に犯されるということが、よくわかっていなかった。だから為されるがままに翻弄され、体は開かれ受け入れさせられた。だが今は違った。
 事が済むまで解放されないと解っていてなお、アキラの体と心は侵入を拒否し続けた。体の奥から、ぎしぎしと何かがきしむ音が聞こえた。男のものを半ばまで捻じ込まれた場所からかもしれなかった。あるいはきつく噛みすぎた歯のたてた音かもしれなかった。胸はまた別の音をたてていた。罅入って割れた硝子が、その断面をこすり合わせるときの音だ。
 やがて頭上から、溜息と苦笑が同時に降ってきた。もういい、と、瞼に指が触れる気配がした。
「俺の命令であれば他の男にも脚を開くのか、お前は」
 まごうことなき、シキの声だった。
 目を開く。長い時間無理矢理閉ざしたままでいた視界は、濡れてゆがんでいた。思った以上に自分が酔っているのが解った。視界いっぱいにシキを収める。
 体の隅々まで毒のように行き渡っていた絶望が、はげ落ちていく。一瞬、身体が空っぽになったような、感触がした。入れ替わりにわき上がったのは、すさまじい安堵だった。ゆがんだ視界がうっとうしく、顔をしかめるようにして強く瞬きをした。すると目の縁からぼろぼろぼろ、と立て続けに涙が落ちていった。
 これではまるで泣いているようではないか。わずかに残ったアキラの冷静な部分が、そう言った。だがそれを拭ったり隠したりといった行為を考えるまもなく、アキラの腕は持ち上がり、シキの胸を打っていた。
 言葉もなく、アキラはシキの胸を、肩を、一度ずつ打った。たいして力は入らなかった。負傷した肩が痛んだ。
 怒りのためではなかった。抵抗や、懇願ですらなかった。こんなのは、嫌だ。自分が今されたことは、とても嫌なことだった。そういう、至極単純な、訴えに近かったかもしれない。
「……っ」
一瞬遅れて、慌てて手のひらで顔を拭った。その指の隙間からこちらを見下ろすシキの、僅かながら驚いたような、ひどく珍しい顔が見えた。
 だがその表情は、すぐに意地悪い微笑に変化する。
「う……ッぐ!」
半ばまでしか埋まっていなかったものを、最奥まで一気に押し込まれた。
「……、入ったな」
「……っ、ぁ……っ」
快楽は未だ薄い。かわりに、肉を分けられる感触が強い。ありえざる質量に内蔵を押し上げられ、気管をふさがれているわけでもないのに息の詰まるような感覚。
「……ッ」
 内蔵が押しのけられて、腹の中いっぱいにシキのものが詰まっている。声が出ない。体勢も苦しかった。体は折り曲げられたまま、膝は上から体重をかけるようにして押さえ込まれ、肩につきそうなほどだった。
 だがアキラはもう拒否のそぶりを見せなかった。しばらくの間、目の前に君臨しているのがシキであるという事実を飲み込むためだけに、目を大きく開いていた。途切れがちな荒い息を吐きながら、ただシキを見つめていた。
 たった一人薄着で荒野に取り残された子供になったような寄る辺なさがあった。いつまでも嫌悪と恐怖の感触が背中に張り付いていた。悪い夢から醒めた直後のようだった。
 縋るものが欲しくて、シキの肩に手を伸ばした。だが腕はやたらに重く感じられ、長い間そこに掴まり続けていることが出来なかった。ずるずると滑って、肘の裏側に掛けるようにして抱えあげられた自らの膝の上で一度止まる。しかしそこにも留まりきれずに、結局ゆるく握ったのはほとんどベッドの上、シキの手首にほど近い場所だった。
 それを合図に、シキが動き出した。
「……っ、く、ん、……ッ」
熱の杭で、最奥を何度か軽く小突かれる。ゆさ、と揺さぶられるたびに、酔いのために感覚と体がぶれるような感触を味わう。
「……っぁ、……、……うぁ……っ」
少しずつ、息苦しさと異物感が薄れていく。やがてぶる、と身体の奥から、快楽の震えがわき起こって、一瞬思考が白くかすんだ。意識がそのままどこかに落ちていきそうになるのを、必死で留める。
「意外と貞淑なものだと感心したが」
相手がシキと解ったとたん、体がゆるむのは感じた。だがそれを、これほどあからさまに示されると、こんなときは我が事ながら腹が立つ。それをシキは、この上なく愉しそうに見下ろしている。
「あっというまにこれか」
そういうふうにしたのは貴方だろう──、と、答えようとした。だが開いた口が漏らしたのは鼻にかかったような吐息に他ならなかった。
 ようやくもたらされた快楽に、アキラの意識は容易に傾いて、滑り落ちていく。視界はとうに熱に潤んでいた。ゆっくりと揺らされると、だんだんと頭が快楽に酩酊して溶けていく。
「……ッあ!」  ぱん、と音を立てて、太股を叩かれる。たいして痛みはなかったが、衝撃に対する驚きが、アキラを踏み込みかけていた忘我から引き戻した。
「……ッ」
ぎりぎりまで、熱の杭を引き抜かれる。せり出した場所を引っ掛けるようにして浅い場所を出し入れされると、腺を直接抉られるような快楽がある。だが同時に、一息に貫かれるときの衝撃と痛み、それから強すぎる快楽に対する怯えに、身体は堅くなった。それでいて、腰は勝手に強請って揺れる。意志の力で止めることはできなかった。こんなときシキはいつも、嘲笑に似た笑みを浮かべてアキラを見下ろす。
「……ッあっ、あ……!」
酔って、感覚はやや鈍くなっていた。だがシキに触れられた部分だけは、妙にはっきりとした輪郭を持って、自分の身体でありながら浮き上がってくるように感じられる。それに、内側が、いつもよりも熱かった。ぐずぐずと熟れて、溶けて炉になっているように感じられた。
「……っく、……ッん、……ふ……」
欲しい、と思った。中に、奥に。普段であれば、とうに名前を呼んで、腕を伸ばして、強請っていた。だが今日は、それができなかった。持ち上げようにも腕がひどく重い。シキの行為に対する生理的な反応以外、自由に体が動かなかった。思考も鈍い。酒のせいだ。その上意識の底に、所詮自分はこの男の所有物で、弄ばれる人形のようなものでしかないという思いが、悲しみと、それから何かに対する怒りとともに重たく充満して、アキラから意志を奪った。
「まるで人形でも抱いているようだな」
「……ぁああ……ッ」
シキの、つまらなそうな、それでいて愉悦の沈んだ声がした。そう思った瞬間、熟れきって求いでいた場所に、シキのものが一気に侵入してくる。期待に締まる場所を、容赦なく堅い肉が押し広げ、抉り、潰し、貫いていく。腰の骨が砕かれるような快楽。頭の後ろで、白いものがいくつも破裂した。無理な体勢のために背中をしならせることもできずに、ただ足首だけがびくんびくんと宙を掻く。
「……あ、ぁあ! ……んッ、く……っ」
留めようもなく達してしまう。内側を再び満たした鋼のごとく硬い肉を断続的に喰い締めながら、その快楽に脳が溶けようとしたときだった。
「あ、ぐっ……っ!」
肩を、強く掴まれる。ずっと小さな痛みを伝え続けていた場所だった。昨日の作戦で負傷した箇所だ。
 飛びそうになったのを、またもや引きずり戻される。ちかちかと視界が明滅したあと、現実にチャンネルが合う。つい先ほども、太股を叩かれて同じように留められたのを思い出した。
 目の前に、屹立した自身が見えた。胸が、自らの雄が吐き出したもの──とろとろと吐き出し続けているもので、白く濡れている。シキに抱かれているときは、最近はいつもそうだった。はっきりと射精することはない。雄の肉の先端からは、抉られるのに合わせて精がだらしなく溢れ続ける。割り開かれた足の向こうには、シキの姿がある。一糸乱れぬ姿の、自らの王が、征服者の顔で笑んでいる。
 あっという間に意識を飛ばしかけるのは、酔いのせいだろうか。
「身体に力が入らんらしいな。もっとも」
熱く濡れたものをぞるる、と引きずり出されると、自らの肉がそれに縋りつくのがわかる。再び押し込まれれば、喜んできゅうきゅうと締め付ける。自身の先端からは快楽の証左のように白い精液が漏れた。少しでも気を抜けば、震える唇が呆けたように開いたままになる。
「ここの浅ましさだけは変わらんが」
目を覆い感覚を殺したくなる。
 その羞恥を味わうように、硬い肉の先端で体内をかき回され、こねられる。
「……っく、……ッ、んん……! ……、」
快楽に絶えず鼻にかかったような声とも息ともつかないものを吐き出しながら、潤んだ視界でシキを見上げる。やがて少しずつ、シキの動きが早く大きくなりはじめた。僅かながら息を乱しているのもわかった。いつの間にか赤い瞳に、獰猛な光が現れている。その深みから極めて原始的な、欲望そのものを溶かし込んだような何かがわき上がってくる。それを見て取った瞬間、奥まった場所がびくびくびくと痙攣した。これから与えられるものを期待した動きだった。シキが焦点をアキラに合わせ、目を細める。
「あ、ぁう……ッぁああ……ッ!」
突然激しく突き上げられはじめる。最奥を殴打されるような感触に、身体がベッドに浮き沈みする。突き抜けるような強すぎる快楽に、背骨を砕かれ頭まで貫かれて、ぐずぐずに溶けてゆく。動かせる足先だけが、視界で踊るように跳ねているのが、見えた。
「……っ」
「ふ、うぁ……ッ!」 シキが熱の杭の先端を、アキラの最奥に強く押しつける。未開の場所が開かれる痛みが、爪先を縮こまらせる。と、足の間で、シキが征服者の笑みを浮かべた口から、小さな熱のこもった息を吐いた。身体を小さくわななかせるのがわかった。
「……あ、あぁ……っ」
がくがくと震える身体の奥が、歓喜に蠕動する。閉じることを忘れ、だらしなく開いたままになった唇の端から、唾液がこぼれていく。羞恥を感じる間もなく、アキラは欲望に呑まれる。欲しい、欲しい、欲しい、──。
 射精の直前、逃がすまいとするかのように、喉元に噛みつかれる。息が止まるほど食い込む歯列。その端から、押し殺したような息が漏れるのを感じる。まるで大型の肉食の獣の所作だった。
「……ッぁああ……ッ!! ……ッ、……っ!!」
身体の奥に白濁を、征服の証を注ぎこまれる。濡らされる。脳髄まで甘いしびれが達して、食いしめられた喉からひしゃげた声が迸った。受け入れた場所がまるでそれを味わうように蠕動して、自分の雄の性が、シキの前に完全に屈服させられていることを知る。けれどそれが、もう不快ではなかった。
 身体をいつまでも震わせ続け、時折思い出したかのようにびくんと大きく腰を痙攣させながら、アキラは三たび目の忘我に足を踏み入れた。そして今度は引き戻されることはなかった。

 大窓にほど近く置かれたベッドは、雨の日にはまるで銀幕のように雨だれを映す。
 だんだんと暗くなっていく室内で、アキラは絶え間なく雨の降るシーツの上に投げ出した自らの腕と、時折空を、眺めていた。
 目覚めてから、数十分が経っている。眠る前、行為の後の記憶はおぼろげで、切れかけの電球のように、断片的にしか残っていない。シャワールームに連れて行かれたこと。腕の中から逃げ出そうとしたこと。シキの笑みを含んで甘い、なだめるような低い声。軽い溜息。最後はここ、シキの私室に連れてこられ、ベッドに寝かしつけられた。
 そういえばシキの纏っていた香りは、ゲストルームの鏡の前に置かれたオードトワレだった。それは暴れたアキラの手にあたり床に落ち、薄い硝子の容器は厭な音を立たてて砕けた。暖められた浴室の湯気に、その香りはむせ返るほど強く立ち上り交じり合った。なんとなく覚えているような気がしたのは、以前、こんなものを置くのかと鼻を近づけたことがあったからだ。
 体が酷くだるい。二日酔いもあるが、たぶん熱も出ている。少しでも骨をやると、いつもこうだった。割合すぐに、発熱する。こんな時、Nicole体質がうらやましくなる。
 指を動かす。手首のあたりから肘にかけての筋が浮き出て、沈む。筋肉がその傍で僅かに隆起して、張りつめたりゆるんだりする。筋張って骨の形のはっきりとわかる、男の身体だった。アキラはしばらくの間、そうして自分の腕を眺めていた。
 シキを、軽くとはいえ殴ってしまった。
 止められなかった。感情の制御がきかなかった。酔っていたせいもある。だが想いの奔流は、今回でなくてもいつかは、こんなふうに堰を切ったような気もした。
 アキラからコントロールを奪ったのは、不思議なことに怒りではなかった。内側を満たしていたのは、悲しみに近かった。シキは自分を自由にする。その権利を持っていた。だからたとえばこういう、シキの命令であれば他の誰かと肌を合わせるようなことも、あり得るかもしれないし、耐えなければならない。シキとアキラの関係は、そういうものだ。そういうものでしかないと、アキラも弁えていた。それでいいと思ってきた。
 だが本心は違った。それを思い知らされた。ほかでもない、自分自身によって。
 目をそらし続けてきたものを、突きつけられたような思いがした。
 それはシキへの忠誠の、裏切りではないか。放置すれば時間をかけて肥え太り、あらぬところに根を伸ばすに違いないという予感もある。
 摘まねばならない萌芽だ。
 そしてそのためにアキラが採れる方法は、そう、多くはない。
 暗くなっていた部屋に、ぽつぽつと明かりがついた。主が帰ってきたのだ。明かりは一瞬のち、明度を下げ、あるいは消えて、間接照明の柔らかなものだけが残った。とはいえベッドの周囲は相変わらず暗いままだ。広いフロアはスペースごとに別系統の電源を使用している。人感センサーで点るのは、一番広いリビングに当たる部分だけだった。
 聞けば主とわかる足音が近づいてくる。起きあがろうかと考えて、やめた。機嫌を損ねてもかまわなかった。みっともない姿に、幻滅すればいいと思った。
 ベッドの傍に現れたシキは、一瞬眉を上げた。叱責や嘲笑、あるいは皮肉。そういったものに身構えていたアキラに、与えられたものはしかしどれとも違っていた。
 ベッドに横座りすると、シキは手を伸ばした。指先に、目にかかっていた前髪をさらりと避けられた。手の甲が額に触れる。次いで、首の後ろからシャツの中に入り込んだ指先が、背中に触れる。
「下がらんな」
熱のことだった。
「酒のせいで炎症が悪化したんだろう」
さらりと、言う。原因が自分であっても、全く悪びれない。アキラも不思議と今は、腹が立たないのだった。
 離れてゆこうとした手を、掴む。肩が痛んだ。
 シキは僅かに眉を上げた。青灰色の瞳が、予想外に思いつめた光を宿しているのを、興味深く見下ろす。自分から動いておきながら、どこか惑うような間をおいて、アキラはようやく口を開く。
「……あんなふうに弄ばれるのは、もううんざりだ」
だからもう、と続けて、その先を言いよどむ。
 幾度も幾度も、体を、心を、無理やりに開かれいじられ、無遠慮に眺め回されかき回されたてきた。それらは確かに苦痛だった。シキの冷たい瞳の前に裸体を晒すのも、本心を無理やり曝け出させられるのも。アキラは幾度も、羞恥に血を吐くようにして忠誠を誓ってきた。何もかも差し出してきた。もはや、隅々まで支配されているのだ──今なら。今ならまだ、欲を出さずに、ただ差し出すだけで、いられるのだ。
 シキへの服従を覆すことなく。
 だから、──だから。
 貴方はもう、支配のためにあの行為に及ぶ必要はない。あんな冷たい瞳で、興味もなさそうに男の体に触れる必要はない──だがそれを、繰り返されるだからという言葉の先に、続けることができない。シキの手をつかんだ指が、震えた。
 意を決して、しかしのろのろと顔を上げる。言うべきことを言うために口を開く。だがそこで、赤い瞳にぶつかってしまう。僅かに細められた瞳。その奥に潜むものを、知っている。
「──……あんなのはもう、嫌だ」
口は、用意していたのとはまるで別の言葉を紡いだ。それは繰言でしかなかった。全身から、力が抜けていくのを感じる。いつも、体は心を裏切る。いつも、いつも。赤い瞳に見入られて、引き出されるのは本音だけだ。ほんの少しの嘘も、霧散する。
「……、そうか」
シキは薄く笑むと、自らの手を掴んでいた従僕の手のひらを逆にとらえて、引き寄せた。
 その胸に迎えられながら、貴方はどうして、という言葉が口をつきかける。それでいて何を問いたいのか、わからなかった。アキラは顔をゆがめる。
「……この匂いも、嫌いだ」
三度目。シキの胸に叩きつけた拳が、そのまま、縋るようにワイシャツを掴んだ。
「そうか」
鼓動が聞こえた。体温があった。
 この距離を手放すことが、どうしてもできない。

狼のギャロップ

 黒い城の裏手、林に包まれた屋敷は、この国の頂点、シキ総帥の住処である。この国の中でもっとも無防備で、それでいてそこに住まう者故に、難攻不落の優美な砦だった。
 彼はしばらくの間、その屋敷林入り口唯一配された門番の姿を眺めていた。と、彼らが敬礼して、内側から誰かが現れる。一瞬、この国の主かとどきりとする。この時間であればとうに登城しているはずだった。だが現れたのは意外なことに彼の同僚、ヘリポートでしばらくの間彼の肩を掴んでいた男だ。こちらの視線を感じたかのように周囲に視線を巡らした。とっさに、木の陰に隠れる。結局男はこちらに気づかず、彼が潜んだ木陰とは逆の方向へと歩き出した。
──何の用だったのだろう。主のいない屋敷に。こんなタイミングで。
 そんな疑問と同時に、あの噂は本当だろうか、という思いがわく。シキ総帥は唯一の秘書を同じ屋敷に住まわせているという。秘書は総帥直轄の精鋭部隊の長も兼ねている。つまり、彼の上官だった。甘い香りは、厚い林を前にふつりととぎれていた。
 彼はふらふらと歩き出す。上の空で、門番に腰のサーベルを見せた。精鋭部隊の者にのみ与えられる、名工に工夫させたという品だ。敬礼を返す門番の前を通り過ぎながら、彼はそれを与えられたときのことを思い出した。高嶺の花手ずから下賜された。あのときの胸の高鳴り、誇らしさ、喜び。
 屋敷のエントランスが見えだした頃、雨が降り出した。甘い匂いが、不意に濃くなる。ふらりと、石畳から足を踏み外した。
 塗れた土の上で、靴は汚れた。やがて目の前に、硝子の壁に囲まれたテラスが現れる。灯された明かりで内側から輝く小さな部屋は、美しくカットされたグラスを逆さにしたようにも見えた。纏う雨の水滴は宝石のごとく。甘い香りは、ひときわ薫り高く、そこから漂っていた。
 硝子の箱の中で、上官が椅子に身をゆだねて目を閉じていた。落ちた前髪に隠されぎみの涼やかな目元に、尖った顎。職場ではきっちりしめられたワイシャツの襟元が開かれて、軍人にしては細い首から鎖骨までが露だ。しかしそこになよやかな印象はない。むしろ猟犬のすらりとした姿を思い起こさせるような精悍さがある。
 眠っているのだろうか。
 誘われるようにして硝子に近づく。だがその時、室内から黒い長身の人影が現れて、彼は足を止めた。止めざるを得なかった。血のごとく赤い瞳は彼をその場に貫き、縫い止めた。この国の主、シキ総帥だった。
 声を掛けられたことはない。視線を合わせたのなど、これが初めてだった。身体が痺れたように動かない。遅れて、それが恐怖故だと気付いた。森の中で、武器を持たない状態で大型の肉食の獣に遭ったような、身のすくむ感覚。相手にとって自分など完全にただの餌でしかないと、一瞬で理解に到る。
 だが赤い瞳は、ふいと反らされた。濡れた硝子の向こうでシキ総帥は歩みを進め、彼の上官の前に立つ。総帥の白い手袋越しの手が、上官の頬に触れた。ひくりと、肩が揺れるのが見えた。僅かに、かの人の眉間に皺が寄る。だがその渋面は一時のち、溶けた。景色が色づいた──と、思った。違った。色は僅かに、今は閉じられた上官の切れ長の目尻に、灯っただけだった。薄い唇が開かれる。その間から漏れたのは、きっと小さな小さな、息だろう。それは、致し方なしと自らの柔らかな部分を受け渡すときに吐かれる、きわめて親密な溜息に違いなかった。
 僅かに、甘い香りが濃くなった気がして、彼は後ろに一歩、足を引いた。それに気付いたかのように、総帥がちらりと振り返る。そして彼を認めて、笑んだ。
──行け。
 そう、言われた気がした。逃がしてやる、今は、と、笑われたようでもあった。彼はきびすを返した。後はないのがはっきりと、わかった。
 全力で駆けた。雨は顔に横殴りに叩きつけ、コートの隙間からしたたり落ちて体中を濡らすようだった。泥が跳ねて靴が、スラックスが汚れるのも気にせずに、一心不乱に足を動かした。
 呆気にとられた門番の前を走り抜けたころ、胸を圧迫する恐怖の隙間から、ひどく苦く、だが僅かに甘やかなものが染み出してくる。なにか覚えのある感情のような気もした。
 道の先で、見知った顔が難しい顔で佇んでいる。例の同僚だった。傘をさした男は一瞬のち、苦く破顔した。そして彼に酷い面だぞ、と、大きな声を投げかけた。
 そのとき彼は恐ろしい、それでいて甘美な、悪夢のようなものが背中から去っていくのを感じて、ようやく足を緩めた。まるで事の成り行きと次第をあらかじめ知っていたかのような顔の同僚に、酒が飲めないなら海でも見に行くか、と問いかけられる。
 彼は躊躇いがちに、ほとんど項垂れるようにして、うなずいた。憑き物でも落とそうとするかのように、ばんばんと力強く背中を叩かれる。そして不意に声を抑えるようにして、あのまるで猟犬のようなお方が、花と称された理由を教えてやろう、と呟かれた。甘い香りがするといって、時々おかしくなる奴がいたからだ。
 お前がこちら側に戻ってこられて良かった、と男は力の抜けた笑みを見せ、自分でさしているのとは別に、手にしていたもう一本の傘を差し出した。

end.

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