薄く透明なかげろうの羽に似た眠りを妨げたのは、何であったか。
 身体は甘い汗を吸ってしなやかなシーツと掛布の間にある。まるで浮いているように感じられるのは、体温と同じに温まった空気のせいだ。心地良い微睡みの湖をゆっくりと浮き上がる。髪を梳く指先は緩やかな水流を思わせた。溶けた氷がぶつかり合う澄んだ音に引き上げられ、水面から顔を出すようにアキラは瞼を開いた。
 部屋に灯りはない。それなのに明るく感じられるのは、窓から差し込む半月よりも少し太った月の光のせいだ。窓の形に四角い月光はベッドまで届き、傍らに半身を起こすシキの横顔を照らし出している。
 その片手はアキラの髪の上にあった。前髪をさらう指を、なかば閉じた瞼の薄い皮膚に感じる。もう片手は、琥珀色をした──月の下ではうすずみ色に見える──蒸溜酒の入ったロックグラスと、膝の上に置いた大判の本のページの間を、音もなく行き来していた。
 目覚めたことを知らせるように、僅かに身を寄せる。手のひらが、髪を一房すくったあと頬を撫でた。
 目を閉じれば簡単に、眠りの淵へと戻ることもできた。夢と現の間に聴こえるのはページをめくるかそけき音だ。ふと興味をひかれて、アキラは意識を引き上げた。いくら月が明るいといっても、細かな文字が見えるような光量ではない。一体何を読んでいるのかと、気になったのだ。
 頭を巡らせて持ち上げる。そうしてシキの膝の上に載せられたものを目にして、小さな衝撃に心地よい眠りがわずかに遠のいたのを感じた。
 おどろきは去る時に少しの可笑しさの尾をひく。小さく息を漏らすように笑ったアキラを、シキは視線だけで省みた。
「お前が笑うのを久しぶりに聞いた」
静かな声に咎める響きはない。むしろ普段より柔らかいほどだった。
「貴方に絵本という組み合わせが、意外だったので」
「どこぞの贈り物だ。昨日届いた」
「エイプリルフール、」
「そういうことだろうな。……希少本だ」
アキラにも見えるよう、ほとんど水平に寝かせていた本が起こされる。光を反射しているのは金や銀の箔押し部分だった。ページには厚みがあり、表面に凹凸が伺える。特殊加工と塗料がふんだんに使われた画面の繊細さは、わかりやすい絵柄が好まれる子供向けとは一線を画していた。作風や雰囲気からは異国のにおいがする。だがそれを証明する、文字らしきものはどこにも見当たらなかった。
「絵だけですか」
「好きに解釈しろということらしい」
グラスを手にしたままの指が、器用にページを捲った。あらわれたのは虹色をしたとかげと、猫と、月が描かれたページだった。
 これならば、強い光がなくとも読むことができる。画面を眺めていれば、確かにそれなりに楽しくはあった。だが、とアキラは眉根を寄せる。文字のない絵本は思いの外難解だ。
「お前はどう読む」
問われて、手を伸ばす。ページを数ページ戻り、あるいは進みしたものの、間をつなげる物語を、アキラには見つけることが出来なかった。
「……俺には、皆目」
最後のページを開いたままにして指を引いた。空になりつつあるグラスに口をつけて、シキは口の端を上げる。
「西洋の伝承が元になっている」
言いながら静かに本を閉じた。表紙には美しく飾られた満月が描かれている。その周囲を魚が飛び、木の上で猫が毛を逆立て、地に伏せて犬が眠っていた。その中心で、月に尾を引っ掛けた虹色のとかげがうっそりと笑っている。タイトルは、やはりない。
「月の光が気を狂わすという話を、聞いたことはないか」
問われ、アキラは記憶を探る。どこかで耳にした気もするし、初めて聞いた気もする。だがそれで、少しは納得がいった。ページとページの間を繋ぐのは、理路整然とした物語ではないのだ。
「陽の光の下で読みなおしてみろ。なにか違っているかもしれん」
空になったグラスを、シキは黙ったまま揺らした。
「まさか。──次は何を?」
氷が澄んだ音を立てる。と、急にアキラの視界は暗闇に閉ざされた。引き上げられた掛け布の下に閉じ込められたのだと、数秒遅れて気づいた。
「いい。月が明るい。お前の気が触れては事だ」
そこに隠れていろと続く声に、口を引き結びながら再び顔を出した。迎えたのはからかう色を宿した赤い瞳だ。
「お気遣い痛み入ります。ですが、ご自分の心配をなさればいい、……」
口にしてから、その言葉が少しだけ喉に違和感を残していったのを自覚する。シキが内包する狂気を、いまさらどうこう言うのもおかしな話だった。
 そういえば。かつて廃墟のトシマにあった頃から、シキは月下に白刃を閃かせていた。初めてまともに言葉をかわした日も、こんなふうに月光だけが部屋を照らした。その背に月はよく似合った。
 だが、と、思い直す。
 シキを狂わせたのは月の光などではない。そんな美しくも脆弱なものではない。
 記憶の中でゆらりと煙のように、幽霊のように立ち上るのはいつか見た紫の目をした男だ。最後に崩れ落ちた瞬間にすら、怨嗟に薄い笑みを浮かべた、今となってはこの国を支えるウイルスの始祖。あの血を取り込んでから、確かにシキは変わった。血の色をした瞳の奥に灯る狂気の熾火が、時に業火のごとくなるのをアキラは知っている。だがそこにあるのは、あの男のような虚無でも怨嗟でもない。むしろ真逆の、酷く純粋で真っ直ぐなもの。それ故に、人として持つべきものすら灼け落ちたような。
 まるでアキラの瞳の奥に、かつての宿敵の姿をみとめたかのように、赤い瞳が細められた。
「狂気、か」
どこか嘲笑を含んだ呟きは、正しく過去に向けられたものだった。
 アキラは身を起こす。口を開きかけ、そして何も言わぬまま閉じてから、ゆっくりと押し倒すようにして主の身体の上に乗り上げた。月光のもとに裸身を照らされる。だが既に何一つ隠すものも恥じるものもない。全て捧げたのだ。あえて残されたもの以外、すべて。
「……貴方の狂気は、新しい秩序だ」
遠い雨の日、シキがNicoleウイルスを取り込んだ日を思い出す。あの日赤い瞳の奥に宿った狂気に、一番はじめに魅入られたのはアキラ自身だった。
 あれから何年か経った今、アキラは自分が数えきれないほどの命を犠牲にすることを知っている。そしてそれはただ、シキをシキたらしめるためだけに成されることを。その確定的な未来はたしかに今も、アキラを内側から傷つけた。けれどその痛みすら、ほんの僅かに甘いのだ。
 心臓にシキの名を縫いつけた日から血の中に棲むそれを狂気と呼ぶのなら、既にいのちと不可分だった。
 正面から赤い瞳を見つめれば、伸ばされた手が頬を撫でた。その手を柔らかく引き剥がし、甲に口付ける。喉の奥で笑う音とともに引き寄せられた。倒れこんだ先の馴染んだ肌は、心地良い温度で深い溜息を漏らさせる。
「シキ」
 滅多に見せることのない笑みさえ浮かべて、その名を囁く。
 低い美声の代わりに、髪の中に潜り込んだ指が応えた。
 夜飛ぶ鳥の密やかな羽ばたきに似た音をたてて、場所を奪われた絵本がベッドから落ちる。床に開かれたページでは、犬とも狼ともつかない生き物が、白い月に向かって遠吠えをあげていた。

end