密事

「褒美をやろう」
赤い目を細めて王は言った。
「では──」
従僕は青い目を伏せた。

*

「御身に最も近い座を」
 高々とそう求めたのは、イチヤという男だった。
 あたりはしんと静まり返った。皆が息を呑む気配を、アキラは頭を垂れ武道場の床を見つめながら感じていた。日々の訓練による細かな傷にまみれた松材は、しかし磨き上げられて清い。大きな窓から差し込む、障子越しの午前の日の光を反射していた。
 御前試合の場である。
 統一ニホン創設後半年余りより、二月に一度行われるのが恒例となっていた。参加するのは各部でも選び抜かれた者たちで、総勢六〇〇名あまり。総帥が観覧に現れるのは、トーナメントのブロックが八つまでに絞られてから、準決勝のひとつ前の段階からだ。
 海外での長期任務の間に始まったその慣わしに、アキラは今回はじめて参加した。そして、精鋭部隊でも選り抜きの兵が集められた、自らの統括する第零部隊の部下のひとりに敗北したのだった。ニホンに戻ってから二週間が過ぎていた。
 イチヤと戦ったのは、これが初めてではなかった。最後に剣を交えたのは半年以上前になるが、訓練試合では勝者はいつもアキラだった。しかし長期間トレーニングのできない環境で鈍らせた体は、以前と同じようには動かなかった。
 いまその腰には、折れたばかりのサーベルが下がっている。重い一撃を受けた際、その衝撃をうまく逃すことができずに破損したものだった。半身となった刃物で何とか応戦したが、発生したリーチ差を咄嗟には埋めることができず、切っ先を眼前につきつけられて白星を取られた。
 試合は一回勝負だ。戦場と同様で、やり直しは許されない。運だろうが偶然だろうが、勝利は勝利で敗北はそれ以外の何物でもなかった。そこまでと審判の鋭い声が響くと、イチヤはかすかに目を輝かせた。決勝戦だった。礼をして試合を閉じると、総帥から言葉が下賜される。曰く、勝者の望みは、と。
 それに対し、イチヤは第零部隊筆頭の座を求めたのである。それは統一ニホンが創設されてからこちら、アキラ以外が収まったことのない席だった。
「どうする、アキラ」
主は面白がるように視線を滑らせた。そこには意見を求めるというよりも、敗北したアキラをなぶる色合いがあった。答えなどはじめから明白で、それを自らの口で言わせることに意味があった。
「我が主は、力こそが全てと定められました。なればそれに準ずるのみ」
対して返された声は、朗々と武道場内に響き渡った。王は唇の端を片方だけ上げた。
「──イチヤを第零部隊筆頭に命ずる。……俺の秘書もだ。アキラは降格。イチヤの元、部隊の業務に励め」
「は」
応えが重なった。シキが宣言すれば、新しい体制はその瞬間から施行される。立ち上がり出口へと歩き出したシキの斜め後ろには、イチヤが従った。
 二人の姿が消えると、観覧を許された多くの兵士たちも席を立ち、係が片付けのために動き出して、それまでの緊張感は急速に薄れていく。試合には全員参加の第零部隊の面々も荷物をまとめ始めた。ぞろぞろと退出する兵たちの隠し切れない好奇の視線の中、アキラは落ち着いた動作で折れたサーベルの切っ先を拾い上げる。
「上官」
精鋭部隊の一人に硬い声で呼ばれて、検分していた刃物の断面から顔を上げた。
「アキラ、でいい」
男はほんの少し目を見開いた後、控えめに破顔した。ニイオという古参の兵だった。
「懐かしいお言葉です。以前にもそうおっしゃった。もう四年前になりますか。……すぐに新しいものを」
「いい、自分でやる。……よく覚えてるな」
「ええ。お名前でお呼びするまで、気付いていただけなかった」
これまでなら持たせたままにしていた荷物に手を伸べる。もともと、自分のことは自分でやりたい質ではあった。示しがつかないという理由もあり、これまではあえて我を通すこともしなかったが。
「それは……、悪かった」
「いえ。あれだけ頻繁に階級が変わるのは、滅多にあることではありませんから。……御名を呼び捨てにするのは、ご容赦を」
二人は歩き出す。精鋭部隊の面々がそれに続いた。長が入れ替わるという異例の事態に、しかし彼らは少なくとも表面上、乱れることはない。第零部隊は総帥直轄、何事にも動じない最高の軍人たることは彼らの誇りだった。同時に、互いの抱くプライドに対する暗黙の了解があった。その矜持は他人に傷つけられるものではなく、自らの行動の結果によってのみ損なわれるものだ。研鑽によって癒えることこそあれ、他人の言葉で慰められることはないと誰もが知っていた。
「あなたは再び、あの高みに戻られる。違いますか」
「……ああ」
元部下の言葉に、じわりと何かが胸にしみるのを感じた。良い隊だ、と思う。それは何も、その技術力や戦闘能力のことだけではない。
「イチヤもあれは、悪い男ではないのです」
「知っている。……真面目すぎるけどな」
小さく付け足してやると、精鋭部隊の面々の鉄面皮の上に、ほんのかすかな笑みの気配が漂う。
「まったくもって。……ともあれ、歓迎いたします。しばし、雑事にお付き合いを」
「面倒をかけるが、よろしく頼む」
武道場を抜けていく第零部隊のために、混雑していた通路は自然と開かれた。彼らにはいたずらに好奇の視線を向けた兵士たちを恥じ入らせるだけの、硬質ながら清冽な空気をまとっていた。
 アキラは部隊に溶け込んでいった。
 一個小隊、おおむね四〇人ほどで構成された彼らの業務は多岐にわたる。通常であれば、実際の作戦のために外出しているのは、そのうちの四割ほどだ。残りの六割は直前の作戦の報告書の作成や、後に控える任務の情報収集、内容の検討を行っている。第零部隊にまわされるのはどれも、精緻さと応用性が両立した計画が必要なプロジェクトばかりだった。少人数での活動が主で、結果一人一人の力量が問われる。
 それぞれの能力を把握し、仕事を割り振るのが、精鋭部隊筆頭の最も重要な仕事だった。そもそもアキラの留守中に業務を肩代わりしていたのがイチヤだったこともあり、彼らの階位の逆転はスムーズに行われた。というよりもむしろ、それまでの体制に、海外任務から戻ったアキラが追加された形に近い。元筆頭は新しい上官に対して従順であり、他の兵たちも急に身近になったアキラを難なく受け入れた。彼らは正しく、軍人だった。
 アキラは部隊の他の兵たちと同様、三、四人のグループを一単位として動くことが多かった。二ヶ月の間、国内外を問わずに作戦行動にあたった。彼は喜々として働いた。ニホンを離れた五ヶ月間の間、老人から学んだ多くの心理的政治的戦略や、身につけた知識を活かすことは、快感以外の何物でもなかった。何より、鈍っていた体が目覚めていく感覚がたまらなかった。軍隊で初めてまともなトレーニングを始めたころよりも迅速に、筋力を取り戻していく。より精密な動きを命令する脳に、体が応えられるようになるまで、それ程多くの時間はかからなかった。
 練習試合でも、最初のうちこそ引き分けや危うい勝負をしたものの、すぐに勘を取り戻した。ただしイチヤと戦う機会ははなかった。業務の傍ら時間があれば武道場や修練場に顔を出し、他の兵に混じって鍛錬を重ねていたアキラと違い、イチヤは他の兵と交わることをあまり好まなかった。
 不穏な噂が流れ始めたのは、アキラとまともな勝負が出来る者がいなくなり始めたころ、御前試合から二月も過ぎた時期だった。軍の内部で変死事件が起こった。ある日を境に登営しなくなった将校が、自室で殺されているのが死後一週間ほどで発見されたのだ。また、発見と時を同じくして、外部施設の更衣室でも一人切り殺された。こちらも上級将校だった。
 刑事事件の調査は国家保安機関の、地域警察の業務となる。一応という形でイチヤまで報告が上がったのは、これらの事件に共通点があったからだ。傷口から、凶器が同一と断定された。二人のうち、自室で殺害されていた一人は、背後から忍び寄った何者かによって頚動脈を断ち切られていた。防御創がなかったため、おそらく気付く間もなかっただろうと考えられた。残りの一人は刺殺だ。その傷口は日本刀の切れ味を持つ刃物によるものでありながら、刀の残す傷跡にしては少々小さく、あるいは浅かった。どちらも金品は残されたままで、他にも特に盗まれたものはなかった。
 イチヤは部隊にも一応の注意を促した。将校が狙われているのが気になったのだ。その数日後、ある左官が殺された。日興連時代から剣術で有名な男だった。統一ニホンが創立された時点で、それまでの位階は剥奪された将校が多かったが、この男はその強さを評価され据え置かれるという異例の来歴を持っていた。
 犯人は相当の手練れと思われる。地警でも対応は不可能ではないだろうが、もたもたすれば犠牲が増える可能性が高かった。イチヤは精鋭部隊に捜査を召し上げた。
 捜査を引き継ぐこととなったのは、ちょうど海外での作戦から帰還し、報告書を作っていたアキラとニイオだった。頭数が必要になれば都度連絡の上、警察に協力を仰ぎ指揮をとれとのことだった。さすがに多くの人員を裂くほどの余裕は、第零部隊にはなかった。
 それまでの捜査によってまとめられた資料や現場の写真、証拠品が持ち込まれていると聞いて、二人は保管庫を訪れた。
 異様に暗い部屋である。物品の長期保存を年頭において作られた半地下のこの部屋は、天井近くに設えられた窓が小さい上に、すぐ外に生えた低木に光をさえぎられている。昼間でも蛍光灯の明かりが必要だった。コンクリートで固められた床と壁は無機質に白く、気温も低い。梅雨時ともなれば夕暮れ後の暗さだ。喧騒も人の気配も届かない。
 トシマの黒い城は、華美ではないものの随所にさりげなく手の込んだ装飾が施されていた。しかし、その必要がないと判断された場所は、徹底的に効率と実益だけを追求している。その見本のような部屋だった。
 アキラはサーベルを持ち上げた。現場に抜き身のまま落ちていた、被害者のものだった。切り結んだあとがあり、その刃には疵が残っている。
「やはり弱いな、これは」
目の高さで浅くない疵を眇めた。もう少し力を入れれば罅に発展しそうだった。背後から二イオが答える。
「将官以上に対してだけでも、もう少しましなものを支給したほうが良いという声は以前からありましたが」
多くの者が、実戦では銃を使った。将校はみな腰にサーベルを下げているが、制服の一部としてや、儀礼用以上の意味合いはほとんどない。実際の戦闘で刃物を使うのは、隠密行動の多い一部の精鋭部隊と、そしてこの国の王たるシキくらいのものだった。
「仕方ないか」
「音がネックになるのは、我々と諜報の第六部隊くらいですしね」
アキラは手にしていたサーベルを手術台に似たテーブルの上に戻した。
 壁際には一面に棚と引き出しがしつらえられ、押収品や証拠品が収められている。奥に行けばスチールの書架もあり、頻繁に参照する必要のなくなった資料や写真、そのデータを収めた記録媒体がならんでいた。
 とはいえ、未だ空白が目立つ。今回のようなあからさまな事件で死ぬ人間の数よりも、クーデターや粛清で命を落とす人間のほうが断然多かった。また、たとえ殺人事件であっても、しっかりした捜査がなされるのは被害者が高等軍人だった場合などに限られる。
 物品保護のために厚いビニールをしいたテーブルの上から、品を棚に戻していたアキラがふと、動きを止めた。引き出しに手をかけたままの姿勢で、数秒の間耳を澄ますようにする。
「どうしました」
ニイオが不審げに口を開いたとき、遠くから特徴的な足音が聞こえた。アキラは動きを再開した。ニイオも必要な情報を持ち運び可能な小型端末に移動して、PCのウィンドウを閉じはじめる。サーベル以外のすべての物品を片付け終え、二人が扉に向かって敬礼の姿勢をとった数秒のち、部屋に静かに外気が入り込んだ。
「シリアルキラーだそうだな」
現れたのはこの国の主たるシキ総帥と、その後ろにつき従うイチヤだった。
「は」
敬礼の姿勢のまま答えたのはアキラだ。視線は正面に固定で、総帥の顔を直視することはない。
「久しいな、アキラ」
「はい」
シキも名指しで声をかけたことを除けば、他の一般兵にするのと同じ態度だった。機械や物への接し様と変わらない。テーブルに一振りのみ残されていたサーベルを取り上げる。先ほどアキラがしたのと同じように、刀身を眺め、傷を認めて検分した。
「……これか」
呟きと、密閉された部屋に小さいが鋭い風が起こったのは同時だった。目に止まらぬ速さで動いたサーベルの切っ先が、アキラの首に突きつけられる。
「俺を見ろ」
冷えた刃物の感触に持ち上げられるようにして、アキラは視線を上げた。焼き尽くすような、凍りつかせるような赤がそこにある。
「すぐに音を上げて戻るかと思えば、案外粘るな。今からでも、泣いて請えば寝室の鍵ぐらいなら開けておいてやっても良い」
「俺に男娼のように侍ることをお望みですか」
変わらぬ表情のまま、自らの王を見つめ返した。くつくつと、喉の奥でシキは笑う。血の匂いが漂ったような、気がした。
「悪くない。部下に破れ俺の傍らから転げ落ちるような腑抜けには、それが似合いだ」
「いかようにも。俺は、我が君、貴方の所有物です」
ニイオが目の端に、ぎょっとした表情を浮かべるイチヤを目視したのはその時だった。その視線の先を眼球だけでたどれば、たったいま、軍隊然とした、硬質な声を発したアキラの姿がある。
 常通りの無表情。だがその目元には、かすかに、だが確かな熱が乗っていた。モノクロームの世界に、一点の色を発見したような、人を惹きつける鮮やかさがあった。それは思わず見入った後に、奥に潜むものに捕まらぬよう、慌てて目を逸らしたくなるような眼差しだった。
 それを正面から覗き込むようにして、しばらくの間シキは佇んでいた。だがやがて飽いたように、視線と刃の切っ先をはずした。言葉もなく踵を返したのを、イチヤが一息分遅れて追いかける。音を立てて扉が閉まり、部屋を満たしていた緊張感が急に水位を下げた。
「……大丈夫ですか」
それでもしばらくの間呆然として黙り込んだ後、ニイオが口を開く。
 答えはなかった。怪訝に思ってアキラを見やると、片手で口を覆うようにしてうつむいていた。やがて視線に気付いて、アキラは顔を上げる。
「……、なんだ」
「……どうかしましたか」
「いや、……別に」
そう言って、ついと視線を逸らす。あの総帥相手に視線を戦わせた青年が、その姿を失った途端、なにか急に子供っぽく感じられた。しかし次の瞬間には、再び軍人の顔に戻る。
「……行こう。そろそろ兎が穴から飛び出した頃だ」
その声音は冷えていながら、これまでにない熱がこもっていた。

*

 黒い廊下の窓から見える空は、梅雨の雲に覆われている。木々は水を含んで真夏の黒い緑に色を変え終えていた。
 先頭を行く背の高い黒いシルエットを、間に数人の兵を挟んでアキラは追う。軍内部の視察に向かおうとしていた。
 シキは定期的に群狼の様子を見て回った。コンディションを確認し、場合によっては自ら指示を出して中隊レベルにまで至る配置変更をし、新しい装備を整え訓練を追加した。彼は認可の判を押し、会談に出かけ、自らの権力を示すために命令を下すだけのトップではなかった。軍隊という生き物の能力を正確に測り、世界を手に入れるための力と体制を着実に整えていこうとしていた。
 ニホンは小国である。3rd Divisionによって人口はさらに減っている。物量作戦は当然選ぶべくもなかった。世界を手に入れるための道を切り開くのは、兵士一人一人を磨き上げ研ぎあげた軍隊による、急所への鋭い一撃に他ならない。とはいえ、国という大きな体をもった獲物は、その身のうちに要所をいくつも持ち合わせている。それらを残らず攻撃するには、やはりある程度の頭数は必要であり、現在の軍の人数はぎりぎりのラインだった。Nicoleウイルスの力があり、有能な指揮官が統率を取るからこそもっているようなものだ。
 視察は、シキ本人と精鋭部隊筆頭を含む数人の兵によって、少人数で行われた。多くの場合、前日か当日の朝に決行が伝えられた。それは同伴する精鋭部隊員に対しても変わらなかった。今回はアキラとニイオ、そしてもう一人しばしば任務を共にする兵士の三人が選ばれた。
 昼を前に、執務室の扉の前で整列して待つ彼らの元に、まず現れたのはイチヤだった。彼はアキラの前に立つと、苦い口を開いた。
「また殺されたそうだな」
捜査に当たる連続殺人の件だった。地警から引き継いでから一週間が過ぎたが、未だ犯人は捕まらず、それどころか新たな犠牲者が複数名出ていた。一人は空港の手洗いの個室で切り殺され、一人は自室で殺害されているのを死後二日で発見されている。
「は」
「捜査の状況はどうなっている。精鋭部隊の顔に泥を塗るつもりか」
「申し訳ありません」
直立不動の姿勢で返答するアキラの胸に、イチヤは自らのサーベルの柄を押し付けた。
「そのザマだから、……」
それ以上の言葉を、辛うじてイチヤは呑み込んだ。静寂に満ちた総帥の執務室前の廊下で口にするには、あまりにも下卑ていた。ブレーキは何とか間に合ったものの、低い声で付け足されようとしたのが皮肉であることはその場に居合わせた者には容易に想像できた。誰一人表情を変えてはいなかったが、空気は確かに緊張した。
 それを破ったのは、音もなく開く扉による空気の動きだった。す、とアキラの胸から硬い金属の感触が離れていく。遅れて現れたシキに一連のやり取りは見えたはずもなかったが、発された声音には明らかに状況を楽しむ色があった。
「行くぞ」
そう低く言い捨て、先頭をきって歩き出す。シキは護衛をつけない。たとえ不届き者に切りかかられたとしても喜んでその相手をした。それは退屈しのぎ以外の何物でもなかったが、殺気は多少その心を慰めるようだった。精鋭部隊が随伴するのは、単に共に状況を見て回り把握するためだ。
 イチヤは最も近い場所から総帥の後姿を見つめていた。もうすぐ、次の御前試合だった。プライベートの時間のほとんどを鍛錬に打ち込んでいる。他の兵に混じって訓練をしなかったのは、自らの技量やその程を人に盗まれまいとする警戒心からだった。次も自分が勝たねばという気概と、必ずという自信があった。だが彼はここ数日、落ち着かぬ気分を味わっている。ミスのない完璧な仕事ぶりと、表情のない顔に変化はなかったが。
 イチヤが正体不明の不安を感じ始めたのは、先日総帥とアキラの半地下室でのやり取りを見て以来だった。半地下から戻った後しばらくの間続いた、王の不機嫌は正直彼の手に余った。不興の理由は未だ図りかねている。しかし原因がアキラなのは確実で、けして気の長くないはずの王が、それを放置しておくのが不可解だった。シキの性格は冷酷で苛烈だったが、常に端然としていた。アキラが不在の間も含めて半年以上、シキの側に仕えてきたが、あのように揺らいだのを見たのは後にも先にもあの時だけだ。
 ニホンを統一した日、力こそすべてと宣言した王の姿は、いまでもイチヤの目に焼きついている。自らの軍隊を見はるかしながら発された、それこそ海の果てまで響き渡るようなあの低い声。それを、有象無象の群れの中の一人としてではなく、精鋭部隊の一員として聞くことができた高揚。シキという存在に、その思想に、彼は傾倒していた。だからこその戸惑いでもあった。
 今日の視察は最近やり取りの多い国家保安機関の、地警本部と治安維持軍本部だった。
 先に軍服組の演習を見て回ったのち、地警本部へと向かう。今日の視察で回るのは、デスクワークや会議の様子など、屋内が中心だった。
 黒い城は階をひとつ下がるごとに活気を増す。外部とのやり取りが多く人の出入りも激しいため、一階に据えられた地警本部のフロアは、騒がしさこそないものの多くの人が働くあわただしさに満ちていた。それも、総帥の足音を聞くと気圧されたように音量を下げる。まるで沈黙を連れて歩いているようだった。
「そういえば」
ゆったりと足音を響かせながら、シキが口を開く。
「零隊に上げたあの事件。どうなっている」
「は。まだ……」
イチヤは言葉尻を濁したが、王はさして気を留めたふうでもなかった。
 やがて玄関ホールに通りかかった。高い天井近くに据え付けられた窓からは、雨の日特有の漂白されたような光が降っている。鏡のごとく磨かれた御影石の黒いタイルが、その光を室内に拡散していた。ホール内は重い色を基調としており、広い空間にも落ち着きを与えている。シキは立ち止まった。先日の半地下の保管庫へ下りる階段付近だった。
「資料を見せろ」
「アキラ」
「は」
イチヤに命じられて、アキラは階段を下りた。ファイルを手に戻ると、シキとの間を遮るようにイチヤが立っている。意図するところを理解して、アキラは資料を差し出した。それはイチヤというクッションを経たのち、皮肉げに唇の端を上げたシキに手渡された。
 全体をぱらぱらとめくった後、写真資料のあたりで指を止める。傷口のグロテスクな画像を、感情を伴わない目で眺めたのち、他の文書資料にもさらりと目を通した。口頭による説明は求めなかった。
「……フン」
やがてかすかに笑うと、それをアキラに返してよこした。
「悪くない切り口だ」
「は」
あたりの雰囲気が変わったのは、そのときだった。どこかから怒号のような声が響く。殺気、とイチヤが気付いたときには、小部屋から飛び出した男が得物を片手にシキとの距離を詰めていた。普段ならこの時点で刀を抜ききっている王が、今回に限って動かないことに気付いてはっとする。サーベルを構える余裕はなかった。イチヤはとっさに目前に迫る男とシキの間に飛び出した。切られる──だが主の身代わりなら本望──腹などとうに据わっている。スローモーションになった景色は、しかし、細い背中にさえぎられた。
 金属と金属がぶつかり合う、鋭い音が響きわたった。半分だけ鞘から抜いたサーベルの根元で刺客の刃を受けたのは、アキラだった。
「──その身も主のものと心得よ。有象無象の雑魚に傷つけられることなど」
もってのほか。低く呟かれた言葉は、間違いなくイチヤに向けられたものだ。アキラが力で押し切り、敵の刃をはねながらサーベルを抜ききる。イチヤは息を呑んだ。白銀に輝く切っ先はサーベルのそれではない。地は黒々とした柾目、くっきりと分かつ刃紋は打ち寄せる乱れ波。見た者の目を静かに凍りつかせる──日本刀の輝きだった。
 たたらを踏んで数歩下がった敵を追って、アキラが前傾で床を蹴った。と思ったときには、すでに左肩から右腹へと袈裟懸けに切り下ろしていた。とん、と軽い足取りで後ろに下がる。それまで足を置いていた黒い床を、ほとばしった血が汚した。一瞬遅れて、男が血泡を吐きながら倒れた時には、アキラは何事もなかったかのようにイチヤの背後に控えていた。この至近距離で刃をふるったにもかかわらず、返り血ひとつ受けてはいなかった。
 しばらくの間、しんと静まり返ったホールは凍りついた。最初に口を開いたのは、ほかならぬシキだ。その口は深い弧を描き、瞳は満足げな光をたたえていた。
「アキラ」
「は」
「一戦、付き合ってやろう」
「──僥倖」
刀を片手に歩み出した主を、アキラが追う。広い玄関ホールの中心で主従は数秒の間対峙し、そして、──先に切りかかっていったのはアキラのほうだった。
 半身だけ抜いた刃で受け流される。予想済みだとばかりにすぐに刃を返す。軽く、反りの少ない刀身は小回りが利く。軌道を変えて下から切り上げれば、鋭い音と共にシキが垂直に立てた刃がサーベルを受けた。二つの刃は、大きさや太さこそ違えどよく似た容貌をしていた。そしていまやその主同士も、どこか似通った喜悦を浮かべている。とはいえ余裕はシキにあり、その表情も、瞳の輝きを除けば穏やかさすら感じさせるものだった。一方アキラはといえば、何もかもすべて捨て去ったかのような獰猛さと、それを制御する冷えた理性の同居する瞳でもって、シキに相対していた。
 刀の切り結ぶ音が響く。イチヤは刃を合わせる二人まで十分な距離があるにもかかわらず、その気迫に後ずさった。靴が何かを踏んだのにびくりとして確認すれば、それは先ほどまでアキラが手にしていたファイルだった。
 写真のページが開かれている。彼は不意に例の連続殺人の報告を思い出した。凶器は、日本刀に似た切り口の、しかし日本刀にはありえない細さの刃──そばに倒れる死体を見やる。切られた軍服の奥に潜むのが、おそらくこの写真と同じ傷口であろうことを急速に理解した。
「イチヤ」
切り結ぶ音の下をくぐるように、ニイオの声が届く。
「……少し、気張りすぎだ」
その元同僚の言葉に、彼は、ぐっと息を詰めた。そして、数秒の後、深い深いため息をついた。
「言っておくが、気付かなかった貴君が悪い」
「煩い。敬語を使え。誰だこのシナリオを考えたのは」
「……アキラ様です。化けましたよ、あの方は」
「海外逃亡組と、その協力者の排除か。もう諦めたのかと思っていた」
イチヤは肩を落とした。どっと疲れが出た。床からファイルを取り上げる。
「敵にそうと気付かれんよう、任務ではなく事件の体を装って始末していったということか」
「は。奴らは基本的には横のつながりがありません。よって、潰す順番さえ間違えなければ、彼らの上が状況に気づく前に始末できる」
「……現場から何も取られていなかったのは」
「協力者であるとわかる証拠品のみ回収しました。連中は周囲にはそれと知られないように活動しているので、何も取られていないように見えたと思いますが」
「さらにそれを使って海外逃亡組の居場所を突き止めたわけか。妙にタイミングよく、貴様らにばかりに海外任務があたると、思いはした」
「まあ、そう単純にはいきませんでしたが。……てっきり総帥から話が行っていると」
「……」
「……」
「総帥は、……あのお二方は、どういう、」
イチヤがその先を言いよどむのを見て、ニイオはわずかに目を見開いて元同僚を見返した。そうしてから、何かを理解したように小さな息を漏らす。
「……そうか、貴君、統一直前にこちらに来たのだったか」
「ああ」
「それは……、教えてやらなくて悪いことをした」
ニイオの言葉からは再び敬語が抜け落ちた。イチヤは最早気にしなかった。
「──……つまり?」
「ご覧のとおりだ」
二人は喜々として戦う主従に視線を向けた。見物人が集まり始めている。この国のトップ同士が、城の玄関で壮絶な立ち回りを見せているともなれば、それも当然だった。総帥相手にこれだけの時間もたせる者も今までなかった。多くははじめの一刀に倒れ、そうでなくても数秒、長くて数十秒が良いところだ。真剣での戦いは、相当に力が拮抗していない限りそのようなものではあった。しかし今、彼らはひどく愉しげに刃を交え続けている。勿論、シキは全力を出しきってはいなかったが、王に遊び続けたいと思わせるだけの技を持つという、その事実だけでもアキラの実力は知れた。
 響く音は澄んで音楽的ですらあった。黒石のタイルの床を蹴る軍靴の硬い音に、重なる刃の鋭い響き。空気が裂かれて悲鳴を上げた。彼らにはお互いしか見えてはいない。ただ何もかも忘れて技の高みを目指す者と、それを快いとし愉しむ者の姿があった。おそらくここがどこかも意識の外だろう。そこにいた誰もが、この国の未来の縮図を見た。それは、鮮烈さをもって彼らの目と心を奪った。
 床には点々とアキラの汗が落ちる。間合いを測る摺り足がそれを踏みにじった。サーベルの刃は少しずつ慎重さを見せ始めている。それは疲労の表れではなく、この数分のうちに懐に飛び込むようにして得たシキの太刀筋を、冷静に分析した上で勝機を狙うためだった。
 アキラは踏み込んだ。距離を一気に詰める。切り下ろすに見せかけて軌道を変え鋭く突く。刀の先で利き手とは逆の右にはじかれた剣先を足と一緒に戻して下げ、切り上げる。止められる。力勝負に持ち込まれれば不利だった。いったん引く、ように見せかけて再び剣先を返して迫る。刀の根元で受けたシキが、今度は逃がさないとばかりに強く押してきた。アキラの鼻先で二つの刀が光を反射した。負けるものかとねめつける。奥歯を噛締め、意識に介入してくるような赤い瞳と戦いながら、不意にかすかな懐かしさに襲われた。と、同時に、愉しげに笑っていた赤い目が、わずかに細められた。
 次の瞬間、シキの口元から笑みが消えた。その後数秒間は、何が起こったのか捕らえられた者のほうが少なかった。神速の刃が、アキラの頚動脈の上、ひたりと沿っていた。押し合っていた刀の力を右に誘導してはねたあと、アキラが構えなおすよりも早くシキは刀を返して戻し、そのまま首を狙ったのだった。
 誰もが息を呑んだ。刃の上に、アキラの額から流れた汗が伝って、床に落ちた。
「……いい加減戻れ。もう充分、遊んだだろう」
「……はい」
満足げに弾んだ息を吐いて、顔をほころばせた従僕を鼻で笑って、シキは刀を納めた。

*

 月の光の射す床に降りれば、裸足に吸い付くような冷たさがあった。かろうじてベッドの傍に落ちていた軍服のボトムを手繰り寄せ身に付けると、転がった室内履きに足を入れる。わずかにふらつく足でアキラは窓辺に寄った。半月だった。
 音を立てないように窓を開ける。思いのほか冷たい風が頬を撫で、襟元をあけたシャツの中に入り込んだ。
「アキラ」
振り返れば彼の主が寝台の上、着崩したシャツの上に軍服を羽織った姿で半身を起こし、天鵞絨張りのベッドヘッドに頬杖をついている。赤い瞳が暗がりで光を宿していた。
 シキの私室だった。磨き上げ艶を出した黒檀の床に、調度品のほとんどは仄かな赤が泳ぐ紫檀だ。上質ではあるがいっそそっけないほどに硬質な部屋の中で、欅漆塗りの手許箪笥や蒔絵の文箱の美しさが際立っていた。華美ではないが、贅が尽くされ、和洋が絶妙に混ざり合っている。
「見せてみろ」
「は」
ソファーに横たえたままにしていた二振りのうち、先日こしらえた日本刀仕込みのサーベルを手にとった。比較的小ぶりで細いという特徴は残しているため、正確には刀ではない。小回りが効き、取り回しも早かった。それでも、シキのスピードには追いつかなかったわけではあるが。
 捧ぐように差し出されたのを受け取ると、シキは音もなく引き抜いた。傍らに鞘を置き、目の高さまで刀身を上げて月の光のなかにかざすようにする。自らの刀に対してするのと同じ仕草だった。アキラは息を止めてその姿を見つめた。
「後継が生きていたか」
「……ええ。少し探しましたが、タカツキの近くで」
シキの刀を打った刀工は、3rd Division以降行方不明になっている。アキラはシキが刀を預ける砥ぎ師を頼る形で情報を辿り、何とか流れをくむ刀匠を見つけ出した。依頼するに至るまでに、任務の傍らということもあり、一月近くかかってしまった。
「刃紋が似ているな」
「……お気に触りますか」
主の気配を察して一歩下がる。軽く振られた刀が空気を裂く音は、シキの刀のそれより少しばかり高く軽いものだったが、鋭さは変わらなかった。
「いや。いい」
再び刀身を眺める、その視線をアキラも追う。銀というよりいっそ黒い地に、くっきりとした白銀が波打って、月光のみが照らす室内でも鋭く光を反射した。
「俺のよりも少し粘るな」
「はい。細い上に、突きの頻度も高いので、多少」
シキは微かに笑った。
「お前がこの話題を出した翌日だったか。試合でサーベルが折れたのは」
「は。……しかし、あれは、単純に俺が至らなかったせいです」
「俺の傍を離れるためにわざとやったのかと思ったぞ」
「まさか、」
なじる口調にアキラはどきりとして思わず声を乱す。直後、意地悪く細められた瞳に気付いて、ため息をついた。
「……お戯れを」
「フン。随分素直だったじゃないか。筆頭の座は降りても、秘書の役割だけは渡さんと駄々をのひとつも捏ねて見せれば、多少は可愛げもあったものを」
「イチヤは貴方に最も近い座を求めました」
「思うところはなかったかと聞いている」
「それは……」
アキラは口をつぐんだ。本音を言えば、自らの忠誠心に瑕疵あることを認めることにつながる。あの日主の言葉は絶対と、床を見ながら告げたのは、自らに言い聞かせ迷いを取り払うためでもあった。
「俺は貴方の、所有物なれば」
返した声は多少の硬さを残している。
「……言い訳の様に使ってくれる」
シキは低く呟くと、視線からアキラを逃がした。刃を鞘に収めると、従僕の手に戻す。
「頑固なお前に寄り添う刀だ。悪くない」
「……は」
「ただし、同じ物を許すのはお前のみだ。他の者には、違う刃紋のものをくれてやれ。これより心持ち硬くてもいい」
「では」
「ああ。よかろう」
「ありがとうございます」
アキラは三ヶ月前、第零部隊にだけでもまともな剣をと願った。海外での長期任務を首尾よく成し遂げたことへの労いとはいえ、ベッドの上で何が欲しいと睦言のように呟かれたのに対する答えとしては、多少不適当とは言えた。だがその時、欲しいもののすべては傍らにあったのだ。
 まずは試作として自らの剣を練った。それが主の目に適ったことを、大きな仕事をひとつ完璧に終わらせたような気分で受け止める。戻されたサーベルの鞘を無意識に撫でる指を、しかし続けられた言葉に思わず止めた。
「……ああ、イチヤには、同じものをくれてやっても良いぞ」
あれも相当頭が固い、と重ねようとして、シキは口をつぐんだ。不意に変わったアキラの気配に気付いたからだ。そしてあえて訊いてやる。
「どうかしたか」
「……いえ、何も。そう、狩りもようやく終わりました」
「随分根に持っていたな」
「けじめです」
喉を灼くような白い炎を、アキラはなんとか飲み下した。ソファーに横たえたままの主の刀とともに、枕元の刀掛けにサーベルを据える。
「そろそろ日本刀も一振り拵えればいい」
シキの肩から軍服の上衣を引き取りながら応える。
「まだ、腕が適っていないように思います」
ブラシをかけてから、皺にならぬよう折り目にそって畳み、箪笥の引き出しに横たえた。牡丹の彫金取っ手を静かに押して閉じる。それから、床の惨状に対峙した。自分の余裕のなさを恥じながら、脱ぎ散らかされたブーツを壁際に寄せ、蛇のように床でとぐろを巻くタイを拾い、弾け飛んだ小物を集める。洗い物をバスルーム前の籠に入れた。細々と働く従僕を眺めながら、シキは苦笑する。
「Nicoleの力なしで、そこまで達しておいて、か。まあいい。好きにしろ。──アキラ」
「はい」
「戻れ」
尚も部屋を整えようとするアキラに命じた。このままではいつまでも働いていそうだった。
 アキラは顔を上げ、自らを見つめる赤い眼差しと視線を合わせた。そこにかすかに燃えるものを見て、自らの青い瞳も同じものを宿していることを知りながら、請う。
「閣下、どうか今日は、もう」
明日も早い。このままでは、起きられなくなるどころか眠れなくなりそうだ。主の寝台に入るのは久方ぶりで、歯止めが利かなかった。だが、アキラが戻りかねているのは、それだけが理由ではない。何十時間も体を酷使しまともに眠れぬことなど、前線では何度も経験した。現在は実際に戦場に立つことは少なくなったが、それでも常にそのような環境に対応できるよう体は整えている。辞退の理由にはならないことを、アキラも気付いてはいた。案の定、王は嘲るように鼻を鳴らす。
「所有物故いかようにも、とはイチヤの手前の虚言だったか」
「それは、……」
再びその名前を出され、言いよどむ。唇を引き結んだ。
 イチヤに対してわだかまりはない。たしかに、何かの折につけ自らの王と彼が連れ立って歩くところを目にすれば、胸の内を白い炎が焼いた。しかしそれは、イチヤに向けるべきものではない。多少真面目すぎるきらいがあり、それゆえ気に触る言動はあっても、能力と忠誠心には信頼が置けた。
 今日の昼、何度目かの御前試合が行われた。アキラは圧勝の末再び第零部隊筆頭の地位を取り戻した。その際も、イチヤは粛々としたものだった。それどころか、自らの態度を詫びすらしたのだ。許すも許さないもなかった。力がすべてと定めた主の下、彼らは共にあるべき態度をとっただけのことだった。唯一アキラが返したのは、次は自分に勝つことなどではなく、シキを目標にしろという言葉だった。
 だが、今アキラをかたくなにする理由と、イチヤの件が遠からぬ関係にあるのも確かなことだった。
「言いたいことがあるのだろう」
「……」
「アキラ」
いなすような主の声に、アキラは伏せていた瞳を上げた。
「……俺は」
シキが先を促すように視線を合わせる。
「二ヶ月前、負けると知りながら、試合に挑みました」
勝利がないからと戦わないのは、敗北よりもっとひどいものだと思った。せめて戦って負けることが、アキラのプライドだった。シキも止めることはしなかった。だからそれに甘えた。懸念はあった。多少の迷いも。しかし後悔はしなかった。
 それは結局のところ、シキに最も近い場所を自ら明け渡して、我を通すことを選んだということだった。シキの傍らに立つイチヤを見るたび、湧き上がった痛みは嫉妬のせいだけではない。
「……罰を」
腰の後で組んだ手のひらを握り締める。短く切ったはずの爪が、皮膚に食い込んだ。
 数秒、シキは刃の視線でアキラを見据えた。月明かりの差し込む床に立つアキラの姿は、青白く燃え上がるようにも見えた。合わせた瞳が揺らがぬのを確認して、寝台を降りる。足音もなく、アキラの前に立った。
「それは、謝罪は出来んという意味だな」
「はい」
「今後も機会あれば同じことを繰り返し、そのたび罰を強請るつもりか」
「……はい」
「……」
シキは唇で弧を描く。しかしそれは、正しい意味で笑みではないことを従僕は知っていた。彼は怒りのためにも笑うのだ。
「甘いことを言う。全てを手に入れる方法をとってみせろ。でなければ」
遠くで鋭い鳥の一声がした。それは一度きりではあったが、残響を伴って夜の空気を裂いていく。
「目移りすることも、あるかもしれん」
アキラはかすかに肩を揺らした。主の視線は床に落ちた月影に向けられている。
「……貴方の傍らに立つのが、俺以外であって良いはずがない」
呟く。それはアキラにとって、ひとつの真実だった。離れることは許さないと、告げられたあの場所から。他では替えが利かないと、あの日赤い目が確かに言った。だから自分が高みに上らねばならないのだ。王の立つ場所まで、この足で。
「随分な自信だな」
シキはすれ違うようにアキラの背後へと歩き出す。
「自信ではありません。事実です」
「ほう? 根拠はどこだ」
「──」
背後でシキの気配が消える。振り返ることはできなかった。その数秒後、アキラの視界は背後から伸ばされた指にふさがれる。闇が訪れた。
「この手から自らすり抜けて落ちたのは、誰だ」
「すり抜けてなど」
貴方はけして俺を手離さないのに、と、言葉もなく重ねたのを、王は正確に読み取ったようだった。
「──傲慢なことだな」
呟いた声には笑みの気配が滲む。けれどその目はけして笑ってなどいなかった。一筋の凍えて濡れたひかりが、主の瞳に宿るのをアキラが見ることはなかった。だが、もし目にしていたならばそれが、半地下の保管庫で見せたのと種類を同じくした眼差しと気付いたはずだった。あの時覚えた戸惑いは、未だに小さな不安とともに、胸のうちに小さな棘になって残っている。
「お前を、滅茶苦茶にしてやりたくなることがある。何もかも暴き立てて、奪い尽くし何ひとつ残らんように」
呟きはその飢えを映して乾いていた。
「そうなされば、よろしい」
アキラには不思議だった。自らの内にシキのものでない場所などあるはずもなかった。そう思う反面、なぜか少しだけ心臓が痛んだ。
「……いいだろう」
耳に直接流し込まれる声は、甘い毒を孕んでいる。
「お前が過ちを犯すたびに、相応しい罰を与えよう。だが覚えておけ。お前の選択は、半分は、正しい。戦うことを選ぶからこそ、俺は」
──言葉はそこで途切れた。
 数秒遅れて、目を塞いでいた指と体温が離れる。さびしい風が、開くことをためらうまぶたを撫でた。最も暗い場所は瞼の裏側にあると、言ったのは誰だったか。そこは、自分自身以外の誰も入ることのできない場所ではあった。だが。アキラは目を開く。
「シキ」
すぐ前までそこにあった存在を、確かめるように呼んだ。応えはない。それでも重ねた。
「──抱いて、ください」
沈黙が返った。窓から忍び込む、葉擦れの音をしばらく聞いた。アキラは待った。やがて背後から伸びた腕が体を包んだ。
「……我儘ばかりを言う。どちらが主かわからんな」
「……貴方が、甘やかすからです」
「そうか。躾直しが必要か」
「きつく、して下さいますか」
少しずつ強くなり、いまや骨が軋むほどの力に抱かれながら、アキラは安堵の息をついた。そうして、瞼の裏を染める闇が、シキの纏うそれと正しく同じ色をしていることを、どうしたら伝えられるだろうかと考えていた。

end.

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