鼠の花

 花のような蜜のような、香りが漂っていた。
 ひそやかに鼻孔を通りぬけ、胸の奥に溜るひどく甘いそれが、彼の周囲に漂うものだと気付いたのはいつだったか。
 それは脳髄を犯した。まともな思考回路は崩れ落ちて、その下からは飢えた犬のあばらのような欲望の回路が現れた。
 手に入れなければ自分という存在が成り立たないような気すら、した。

*

 ざわり、と空気が揺れた。
 静寂をかき乱す不穏な気配に、シキは長机から顔を上げた。数センチだけ開けた窓からは夏前の風が入り込み、書類の端と遊んでいる。室内は夕闇に溶けだしはじめていた。
 仮の執務室にひとりきりだ。アキラはCFCの研究施設に関する報告を受けにゆくと言って部屋を出ていた。常ならばたとえ忙しくとも、明かりを灯すために一度戻るのが習慣だったが、手元の暗さが気になりだしたのに、いささか帰りが遅いようだと扉に目をやる。文箱に万年筆を造作なく転がして席を立った時、慌ただしい足音が扉の前で止まり、ノックに変わった。
 日興連を廃してからひと月。新しい体制は日々着実に浸透している。シキに従いクーデターのために働いた者たちは、張り詰めた緊張感を心地よく享受していた。現在は日興連の建物をそのまま利用して、トシマに建設中の黒い城の完成を待っている。小さな事件は毎日のように沸きあがったが、すべては想定の範囲内だった。こんなふうにトップの元へ部下が駆けてくるような事態は、これまで起こった試しがない。
「何事だ」
自ら扉を開くと、狼狽を隠せない様子で敬礼する兵士の姿があった。その背後、夕暮れの橙に染まった廊下のむこうに、小さな人だかりを見止めて目を細める。流されたばかりの血の匂いが漂ってきた。
 遅れて口を開いた部下を尻目に歩きだす。アキラ様が、という声をすれ違いざまに受けた。人だかりは総帥の姿を認めると、命令されるより前に道を開いた。その先には、壁に寄りかかるように立つアキラの姿があった。
 軍服の上衣は乱れて前が開かれ、下から覗いたシャツは半分以上が赤く染まっている。だらりと下がった左手の指先からは血が滴っていた。そんな状態にもかかわらず誰も近付けないでいるのは、右手に構える抜き身のナイフのせいだ。
「どうした。──アキラ」
名を呼ぶとはっと顔を上げた。青い瞳にシキを映す。つかの間安堵の表情を浮かべ──そして次の瞬間、それは硝子に罅が入るように殺意へと塗り替わった。窓から夕日の断末魔の光が差し込む。景色が倦んだ赤に染まった。片手に下げた刀を抜く。アキラが床を蹴った。切り込んできたナイフを軽々と受ける。弾く。切り結んだのは一度きりで、二度目は短剣が床に転がった。息がかかるほどに近づいたアキラの額には大粒の汗が浮かび、足元は頼りなくふらついている。青い瞳が揺れた。その右腕を掴んで支えたのと、急に意識を失った体が床に向かって崩れていこうとしたのは同時だった。
 周囲はしんと静まり返った。
 動くのはシキだけだった。アキラの体を探ると、傷は左腕だけと知れた。腹部を染めているのは返り血のようだ。血痕をたどれば廊下の端の開いたままの扉にぶつかる。精鋭部隊が資料や報告書作成などの、デスク業務を行う部屋だ。死の気配がした。
「……謀反」
どこからがしぼり出すような呟きが上がる。それはざわつきとなって波紋のように広がった。しかし気に留めるそぶりもなく、彼らの王は意識を失った体を抱き上げる。人ごみの中から、アキラの部隊の一人が戸惑いながらも歩み出た。
「手当を──」
狼狽した顔で、やはり見たことのある顔が反論する。
「なにを。……総帥に。処罰を──」
「いらん」
そのどちらも退けて、踵を返しながら命令を下した。
「始末を。廊下が先だ。三◯分後に戻る。それまでに正確な状況をまとめておけ」
「しかし」
追いすがったのは、処罰という言葉を口にした兵士だった。その手がアキラの肩に伸ばされる。
「触れるな」
シキが発した低い声には、有無を言わさぬ気迫があった。その場にいた全員が身をこわばらせる。一瞬の静寂に続いたのは、遠ざかる王の足音だった。
 夕闇を跳ね返す蛍光灯の無機質な光の中で、廊下は不安げな沈黙に包まれた。

*

 仮住まいとする元上級官僚用の仮眠室にアキラを運び込んだのち、シキは命じた時間より少しばかり早く執務室に兵たちを呼び寄せた。報告は既にまとまっていた。死者は1名、見回りの兵士だった。目撃者がないため詳細は不明だが、凶器はアキラのナイフでまず間違いない。抵抗した形跡はなく、死因は腹部から斜め上へと向かう刺し傷だった。
 第三者が事に気付いたのは、アキラが血を浴びた姿で部屋からまろび出た時だった。何事かと駆け寄った部下に即座に刃を向けたが、その足元はおぼつかず、呼吸も荒かった。近寄るなと一言命じ、凶器を右手に持ち替えるやいなや、自らの利き腕を切りつけた。あまりのことに周囲が凍り付いている間に、シキが現れた。
 目を伏せたまま相槌もなく報告を受けていたシキは、頬杖を外すと椅子から立ち上がった。
「どちらへ?」
戸惑うような雰囲気が兵たちの間を漂っていた。人の恐れと憧憬を同時に受ける精鋭部隊の中でも、第零部隊には選り抜きの人材が揃っている。指揮する者がいなくとも、自分たちで判断して動くことのできる優秀な兵士たちのはずだった。だが今回ばかりは次の行動を選べないでいる。名実共にこの国のナンバー2である、自分たちの上官が、よりによって総帥その人に牙を向いた。それが単純に謀反を試みて失敗したということなら、次はアキラの協力者を探すべきで、同様の事件が再び起こらないよう手を打つべきだった。しかし、彼らの誰一人として、それをすぐに実行に移そうとはしなかった。──王は鼻を鳴らした。
「あれが本当に謀反を起こしたと思う者はいるか」
唇をゆがめて問いかけた。答える者はない。つまりはそういうことだった。
「その頭をすげ替える必要がなくて何よりだ。……まずは二人でいい。調査に当たれ」
視線を向けたのは前列にいた二人。先ほどの騒ぎの際、人ごみから歩み出、あるいはシキに追いすがった者たちだった。片方に死亡した兵士の調査、もう片方には現場の再検証を、他の者にはすぐ動ける状態での待機を命じた。
 調査にあたることとなった二人はすぐに行動に移った。居室に戻ろうと歩き出したシキに続いて廊下に出る。先を行く王がふいに立ち止まった。そこはアキラが意識を失った場所だった。まるで染みでも見つたかのように、拭き清められたばかりの床を凝視する。
「たとえそのつもりが無くとも、罪は罪だ。相応の罰が必要、か」
ひとりごちる低い声は宵闇に吸い込まれる。窓ガラスに映った顔がひどく楽しげに笑っているのを、二人の兵は見た。ガラスの鏡越しに目を合わせられ、あわてて目を伏せて姿勢を正す。たとえ鏡像でも、その視線は王のそれだった。
「……甘い匂いがするな」
ひとりが確かに、と頷くと、目を細めて総帥は歩み去った。

*

 扉が開く音でアキラは目を覚ました。ぼんやりと周囲を眺める。右手を動かそうとすると金属質の音がして、どこかに引っかかり動かなかった。目をやれば、ひどく懐かしいものがそこにある。かつてトシマの廃アパートでつながれた鎖が、彼とベッドヘッドを繋いていた。左手もなにか重い気がして確かめると、洗ったばかりの匂いのするワイシャツの下に包帯の感触。そこで、ようやく記憶の回路がつながった。
「目が覚めたか」
「……閣下」
隣室から現れた長身を見留めた途端、頭にわずかな頭痛を伴う電流のようなものが走って、アキラは眉根を寄せる。その頬に、ベッドの端に腰掛けたシキが触れた。目にかかった髪をよけ、額に軽く手のひらを当てる。
「熱はそれほどないな。薬が効いたか」
「申し訳、ありません」
「それは何に対しての言葉だ」
「貴方に刃を」
「俺を見て『安心して』切りかかってきたくせにか」
アキラの謝罪を叩き落としたのは口元だけの笑みだ。自らの弱さを眼前につきつけらるようで、アキラは唇を噛んだ。
 廊下で部下たちに囲まれていた時、アキラはそのナイフを誰かに突き立てたい衝動に駆られていた。周囲に集まった誰とも認識できない兵士たちを、殺したくて仕方なかった。誰でも良かった。何かに脳を支配されたかのように勝手に動く感情と、それに引きずられる体。暴れるような殺意を無理矢理に支配下におこうともがいていると、聞きなれた低い美声が耳に入った。その姿を目にした瞬間の安堵感は言葉に尽くせない。にごった水の中で水面から差し入れられた手を見たような、体が浮き上がるような感覚。たとえ自分で自分を制御できなくなったとしても、と、そう思った時には、手綱は理性の手を離れていた。
「申し訳……」
「それは正しい判断だった。問題はこちらだ」
そう言って、シキはアキラの左腕を掴んだ。
「……っ」
「なんだこれは。自分でやったそうだな。部下を守ろうとしたか。ご立派なことだ」
「つ、……う……!」
包帯越しにぎりと爪を立てられる。痛み止めの効力は、シキの腕の力までには及ばなかった。
「……馬鹿が」
ふ、と力が弱まった。アキラは食いしばっていた歯をゆるめ、詰めていた息を吐き出そうと口を開いた。そこを形の良い唇にさらわれる。甘噛みし、上顎をこすって歯列を辿る舌先は、ひどく扇情的だ。両手は勝手にシキを求めた。そのたびに傷が痛み、手錠が金属質な音を立てる。背筋が痺れたようになり、息の合間に鼻にかかった声が漏れた。
「……は、」
開放されたときには、脳髄が溶けかかっていた。吐く息は熱のためだけでなく震えて、ベッドの上に落ちて霧散した。それを見据えるシキの瞳は冷え切っている。アキラは簡単に落ちていこうとする己の心身の弱さにうつむいた。これは仕置きなのだ。欲するものを鼻先から取り上げられる罰であり、快楽に弱い己を自覚させられるという戒めだった。そのようにアキラを作りかえたのは、ほかならぬシキではあったが。
「……執務室を出てから何があった」
大体予想はつくがな、と、王はかすかに鼻を鳴らした。
 夕刻前、アキラは部隊の業務室に足を運んだ。CFCの生体兵器関連の研究施設について、報告を受けるためだった。Nicoleウイルスに関わる情報が残っているだけに、対応には細心の注意を払った。
 有益な情報は、シキの創設した研究所に殆ど持ち込み終えている。しかし、クーデターと同時並行の作業だったこともあり、どうしても多少のデータの流出が避けられなかった。その処理のために、アキラは自分の部隊でも特に信頼のおける兵を当たらせていた。
 その部下が今日ようやく現地から帰還した。大まかな処理は無事に完了したとの報告と、細かな連絡事項を受け取り、ねぎらいの言葉をかけた。その後、別の兵に命じてあった資料を元にいくつかの指示を出して、書類仕事を片付けにかかった。
 何か甘い香りが鼻を掠めた気がして、顔を上げたのは数十分も経ったころだったろうか。部隊の兵士たちは出払っており、代わりに見張りの兵が室内に入ってこようとするところだった。その手には百合に似た白い花があり、芳香はそこから漂っているかに思えた。いい香りでしょう、と差し出されたそれを不審に思って、何事と問うために息を吸った──そこで、アキラのまともな思考は途切れた。目の前の風景がゆがみ、頭の血管が急に音を立て始めた。体を支えようと机についていたはずの手は、いつの間にか床を引っかいていた。
 何かにのしかかられているのがわかった。灰色の影はやがて目を持ち、生臭い息とよだれを吐きながら三日月のような口で笑った。ひどい嫌悪感に襲われた。意識と視界をかすませていた霧が、急速に殺意の形に凝ったのはその時だ。自分を押し倒し、上衣に手をかけていた男に、背側のベルトに隠していたナイフを突きたてた。ぐったりとした体の下を抜けて廊下へ出たところで、部隊の兵士とかち合った。
 そこまで説明すると、アキラは視線を上げた。まっすぐに覗き込む赤い瞳の前、揺らぎそうになる視線を必死でとどめる。
「ENEDの遺産、か。記憶を消すくらいだ、洗脳や暗示のたぐいはまっさきに研究されていただろう。──Nicoleの研究所には、週に一度は通っているな」
シキは形の良い唇をゆがませると、視線の束縛をはずした。
「……? まさか、」
「鼠が入り込むとすれば、他に考えようが無いだろう。香りそのものが効果を持っているわけではおそらくない。トリガーとして働いているだけだ。お前のその殺意には、方向性がある」
がしゃ、と、手錠が音を立てる。アキラは目を見開いて、シキを見つめた。意地悪く笑った主は、わざと遠回りをするように微妙に核心への言及を避けた。
「手引きは、おそらくCFCでウイルス関連の処理に当たらせていたお前の部下だ。お前より少し背の高い、黒髪に青い目の男だろう?」
言い当てたシキの前に呆然とする。
「……そんな。古参の、よく気の利く、……」
「お前の血から甘い香りがすると、言っていたぞ」
「……!」
 アキラは今度こそ言葉をなくした。忘れようとしても忘れられない台詞だった。記憶の情景の中で、雨と狂気に濡れた声がつかの間よみがえる。
「事件の後、お前の血の匂いの充満する廊下で、俺に意見したのは二人。そのうちの一人だ。興奮していたのだろう」
たしかに、総帥たるシキに意見するなど、普段からは考えられなかった。だとしても、と、信じたくない思いでアキラはベッドの足元をねめつける。軍の階級という制度の下とはいえ、自分よりも年上でありながら屈託ない敬意を払ってくれたのを覚えている。元々シキという例外を除いては、他人に対して強い感情を抱くことは無かったが、それでも信頼できる相手として、心を許すところではあったのだ。
 だから重要機密に当たるCFCの処理にも当たらせた。彼もそれに応えてくれていたと、そう思っていた。だが。
 ああそうだ、と、アキラは背中に閉じていた過去への扉が開くのを感じた。ケイスケのときも、そうだった。甘えていたのだ。自分からは何もせず、与えられているのに気付かず、その間に、壊れていった。絆も、幼馴染の弱いが優しい心も。
「アキラ」
呼ばれて、我に返る。握り締めた指先が白くなっていた。目を上げる。そこにあるのは凪いだ瞳だった。
「……あ、」
しかしそれも次の瞬間には、ひどく冷酷な笑みに変わった。
「俺の目の前でぼんやりと考え事か。ずいぶんと余裕だな」
言うと、アキラの肩をつかんでベッドに押し付けた。鼻先が触れそうな距離で、見下ろす赤い目は肉食獣のそれだ。前髪がアキラの額をくすぐる。
「先ほどの廊下、久方ぶりのお前のあの目は、悪くなかった。またねじ伏せてやりたくなる」
「なに、を」
「隠すな。お前の殺意がより強く向かう先は、俺のはずだ。暗示は、まだ多少は残っているのだろう?」
お前が大人しく鎖につながれているなど、そうでもなければ考えられん、と、アキラを組み敷きながら主は笑う。せめて気付かれぬよう隠すつもりであったのが、まったくの無駄だったのだとアキラは気付いた。心臓の上に乗せられた指先が腹部へと滑り、シャツ越しにピアスを爪弾いた。鼻にかかった小さな声をもらして、瞼を閉じ、開く。そこに、自分を支配する赤がある。その色は、暗い場所へ落ちていこうとするのを抱き寄せるに見せかけて、別の奈落へと引きずり落とすのだ。ああ、だが。しかし、だから。様々な感情が一瞬にして胸の内を吹きすさぶ。植えつけられた殺意も、信頼も絶望も忠誠も、なぜか涙が出そうになる、痛みに似たこの名を知らぬ感情も。全部、自分のもので、同時にシキに捧ぐべきものだ。
「良い目だ」
耳元に腹をすかせておけ、とささやかれた。慣れた重みが離れてゆく。
「……どちらへ」
立ち上がった王の背中に問いかける。肩越しに振り返った瞳は、すでに色を変えていた。
「俺の物を勝手にいじった対価は、命が妥当だ」
それは静かに怒る狼の眼光だった。そしてその怒りは、やがて容易に敵の手に落ちた己にも向けられることを、アキラは知っていた。

*

 部屋の扉が再び開いたのは深夜を過ぎた時分だった。傷のせいもあり、再びうとうとと眠りかけていたアキラは、急な物音に周囲の様子を伺った。明かりの消えた部屋の暗闇の中、なお黒いシキの影を認め、次いで部屋の隅に投げ出された重い音に目を凝らす。壁際で崩れたそれは、荒い息を吐いていた。
「シキ……?」
すぐ近くから低い冷笑の気配が応えた。そしてそれに続くように、壁際から聞き覚えのある掠れた声があがる。
「……アキラ様……」
自分をそう呼ぶのは、何年も前からともに戦ってきた兵だけだった。あまりにも頻繁に階級が上がるために、役職名では呼ぶ方も呼ばれる方も落ち着かず、いつしかそれが定着したのだ。
 マッチを擦る音がして、灯りがともされた。サイドテーブルのランプが放つその光は弱々しいものではあったが、顔を確かめるには十分だった。
「おまえ、は」
そこには先ほどシキが犯人の一味と看破した、アキラの部下が倒れていた。片頬が腫れ上がり、襟元のシャツは頭から流れた血で赤く染まっていた。所々破れた軍服は黒色で目立たぬものの、おそらくこちらも血に濡れているのだろう。後ろ手に縛られ、足は片方があらぬ角度で折れ曲がっていた。もう片方も妙な方向に投げ出されたままのところを見ると、どうやら動かないらしい。
「会いたかったのだろう?」
低く嗤うシキの声がした。アキラはその声音にびくりとして主の姿を凝視した。男を見つめる凍てつく視線の下に、明らかな怒気。そして、怒りを呼び覚まされたことへの愉悦。王は正しく狂っていて、それは時折こんな風に顔を出す。残光を伴って動く赤い目に射られて、アキラはこれから何が起こるのか、何をされるのか、急速に理解した。
「──おやめ、ください」
顎を掴まれたアキラの口から漏れたのは、心もとない抗いの言葉だった。無駄なのは、知っていた。こうなってしまったシキに、慈悲など期待しようもない。案の定、より愉しげに口の端を釣り上げて、王は従僕の頬を撫で、寝台に乗り上げた。アキラの右手で鎖が音を立てる。未だ消えきらぬ偽物の殺意が、項をちりちりと焦がしていた。耳の後ろでは警鐘が鳴っている。首筋は鳥肌を立て、ピアスは──熱を持ち始めていた。
「……ッ」
シキの手のひらが頬を滑り落ち、髪に潜り込む。逸らすことができないままの目は未だ許しを請い、同時に初めから許されないことを知る絶望をたたえ、それでもすがるようにシキを見つめた。
「どうか……っ」
「それは羞恥か? プライドか、元部下に対する面子か」
それとも結局堕ちるあさましい自分への言い訳か、と低く耳元に落とされた。脳に直接流し込まれた声は、麻薬のように拡散する。脊髄を流れ落ちてそのまま下腹にたまり、わずかだが自身が反応した。お許しを、と呟いた声は震えて、消える寸前に吐息になった。王は喉の奥で低く笑い、ベッドをきしませながらアキラの背中に回って手錠の鍵を外す。息を呑んだアキラの首筋に、背後から噛み付いた。
「うあ、ッ」
驚きにあげた声は、しかし確かに色づいていた。シキは耳の後ろまで舌を這わせると、震えるうなじに軽く歯を立てる。
「顔をあげろ、アキラ。高嶺の花と呼ばわれるお前が、ただれる様を見せてやれ」
熱い息が漏れるのを厭って、アキラは唇を噛んだ。体をよじって逃げようとすると、両腕を背後でまとめられ動きを封じられる。顎に食い込んだ主の指に導かれた視線の先は、床から自分を見上げる部下の見開かれた瞳だった。体が硬直する。
「いや、だ……!」
唇をわななかせ、アキラは最後の慈悲を乞うてシキの名を呼んだ。しかし与えられたのは開放ではなく、歯列に割り込むグローブをつけたままの指先だった。
「外せ」
耳を甘く噛みながら下された王の命令に、アキラの脳がはぐらぐらと揺れた。吐き出す息は嗚咽に似て震える。数回そんな呼吸を繰り返した後、自分の歯がその指先を軽く噛むのを、どこか遠くで感じた。するりと、血痕があるわけでもないのに血臭がするグローブを残して、シキの指が抜けていく。目をきつく閉じる。もはや逃げ込む先は瞼の裏の暗闇しか残されていなかった。
「いい子だ」
ボタンを外していく指が肌に触れるたびに、顎が上がり肩が震えた。首筋から腕へ移ってゆくシキの唇に押されて、シャツが肩から落ちる。鋭敏になった感覚に全てを委ね、いっそ思考をシャットダウンさせようとした。しかしそれを、王は許さなかった。
「い、──!」
不意に左腕に痛みが走る。包帯の上から噛み付いた牙は、そのまま白い布を外していった。空気にさらされた傷口は未だ血を滲ませている。痛み止めはすでに切れて、じくじくと熱を持っていた。けして浅くは無い傷のその露出した肉に、シキは舌を這わせる。思わず悲鳴に近い声を上げた。流れ落ちた一筋の赤がシーツを汚す。
「呆けるな。認識しろ。今お前がどこにいて、誰に見られ、……誰に暴かれているのかを」
その声に、命令に、すべての痛みが痛みのままに反転した。流れた赤を、手首から傷口に向かって這う舌が掬いとっていく。最後に再び傷口に口付けられた時にはすでに、痛みは快楽を呼び起こすものに変わっていた。
「あ、あ、ぁ……!」
ぶるり、と体が震えた。噛みしめていたグローブが、歯列から零れ落ちる。左腕の傷が、痛み、熱く、甘かった。そう感じるのが恐ろしかった。けれど、体は確かにそれを快楽と認識して、アキラの理性を裏切り傷つける。
 腕をひきあげられ膝立ちになった。下衣を下げられると天井を向いた雄が顕になる。素手で太ももの内側を撫で上げられれば、こみ上げていたものが滴ってシーツに染みを作った。
 そのものには触れられてもいないのに、覚えこまされた体は条件反射でその先を期待して啼いた。胸の尖りを引っかかれ、ピアスを弾かれれば、そのたびのけぞって声をもらす。
「……! んッ、……く、あ、ぁ……!」
腰が、勝手に揺れ始める。それを自覚しても、すでに止めることはできなくなっていた。滾りを求めて収縮を繰り返す奥まった場所は、強請らねば与えられないことを知っていた。所有者はアキラが自ら屈するのを待っている。促されるまでもなく、快楽の前に身を投げ出すのを。飢えた狼の前に、食われるために腹を差し出すのを。

 上官の痴態を、男は言葉をなくして見つめていた。
 部屋には花のような蜜のような、甘い香りが漂っていた。それは時に痛みに失いそうになる意識を止めた。拷問に似ていた。
 人形のようと言うよりは、どこか不器用さの感じられる無表情な横顔を知っていた。前を見据える澄んだ瞳は、その清廉さを引き立てることこそあれ、着こなした軍服の醸しだす雰囲気を乱すことはなかった。ただその目尻に乗るかすかな色だけが、時折周囲の者を落ち着かなくさせた。見てはいけない物を見てしまったような、気分にさせられるのだ。
 軍隊に花など、不釣り合いもいいところだった。脆弱にも感じられる響きを、本人もけして喜んではいないだろう。けれどいつしかアキラは高嶺の花と呼ばれた。試合で彼に勝てる者はいなかった。打ち負かされ、転がされた床から、静かにそこに立つ姿を仰げば、誰もがその馬鹿げた別称を笑わなかった。
 その花を、手に入れたいと思ったのだ。アキラを囲うのはこの国の王ではあったが、恐ろしさを忘れるほどの飢餓だった。王を弑すれば、彼は誰のものでもなくなる。手に入れるということがどういうことをさすのか、男にははっきりと認識できないでいた。自分の思考回路がすこしずつ狂い始めていることには気付いていた。けれど止めることも出来なかった。アキラに対する感覚は、情欲よりはもっと切実で、どちらかといえば食欲に近い。任務のために向かった旧CFCで待ち受けていた、日興連上層部の生き残りの甘言に乗ってしまったのは、喉の渇きに耐えられず水に手を伸ばすのに似ていた。
 今男の目の前で、アキラはその容貌を変えていた。目の端からこぼれ落ちるのは涙ではなく、色そのものだった。同性ですら誰もが思わず目を惹きつけられ、それから目の毒に気付いて慌てて視線逸らさずにはいられない、彼特有の。うつむいた前髪の下に揺れる瞳は、虚ろに光と熱をたたえていた。
「……くだ、さい、……早く、」
耳を疑うような声。悲痛なほどに飢えて、正体を無くしそうなほどなのに、彼は正気だった。正気を手放すことは許されていなかった。哀れだった。だがそれがそそるのも事実だった。
 笑みの気配は、その背後の支配者のものだ。何事かを耳元に囁く。はっとして顔を上げたアキラが、かすかに青ざめて床の男を数秒の間凝視した。その瞳にあったのは羞恥だったろうか。絶望に似ていた気もしたし、そうでない気もした。それを読み取る前に、彼は顎を捕んだ指に視線を引き戻され、そのまま快楽に突き上げられ、引きずり落とされていった。
 上ずった啼き声は男の耳に長い尾を引く。アキラの青い瞳は喰らわれる喜びと偽りの殺意に濡れていた。支配を快楽として受け入れ、同時にそんな自分を蔑み、だがその痛みにより深い忘我の淵へと誘い込まれていくさまは、まるでただれるように花弁を開いた花だった。ようやく許された狂気の中で、持ちうるすべてを使って与えられるものと奪われるものを同時に貪る、人の境界を越えた獣だった。
 求めていたものが目の前で喰らい尽くされていくのを、男はなすすべも無く見つめた。なぜか官能は呼び起こされず、ただ、ひたひたと黒い虚無が部屋の隅の闇から押し寄せてくるのを感じていた。アキラの引きずり落とされたのは、その主が彼のためだけに練り上げたひどく濃い闇で、自分の手など届かないことだけが、わかった。やがて意識も虚ろに飲まれていった。
 どのくらいの時間が経ったのか。気づけば白刃が鼻先につきつけられていた。切れ切れの意識が現実に収縮して、男は朝方の青い光に染まった床に横たわる自分の体を認識した。
「面白い芸を仕込んでくれたようだな」
もはや視線以外を動かす気力もなく、這いつくばったまま眼球だけを動かして刀の曲線をたどった。この国の支配者が、口の端を釣り上げて見下ろしている。整えられた着衣には、けれど濃厚なあの甘い香りが移っており、未だに彼の鼻腔をくすぐった。
「……お前を、殺せば解ける」
シキは鼻を鳴らす。
「あんな中途な暗示で、か。あの程度の殺意では、ねじ伏せるのにも面白味がない」
禍々しい美声は床に転がって彼の頬を打った。だが、もはや何も感じなかった。
「どうする。力を蓄え、いつか俺の脅威になる気はあるか。もしそうなら、生かしておいてやってもいい」
「……狂ってる。呪われろ、血まみれの王」
男は虚ろに笑った。すでに指先髪の先まで、絶望に侵されていた。嫉妬する気にすらならず、口をつくのは力ない怨嗟だけだった。
「──話にならんな」
最後に聞いたのは、鼻白んだような声と、刃が風を切るかすかな音だった。

 シキが血溜まりから踵を返すと、いっとき意識を失っていたアキラが目を開いていた。窓の外の青が、燃料がきれかけたランプの色に入れ替わろうとしている。
「俺が、」
無理をさせたせいか、熱が上がっているのは見て取れた。シーツは広い範囲が、開き直した傷口からあふれた赤に染まっている。ベッドに戻り額に張り付いた髪をはらってやると、アキラはその手を掴んだ。潤んだ虚ろな瞳からは多少の混乱がうかがえた。
「俺が、始末するべきでした」
「手柄を奪って悪かったな」
「違う、シキ、」
「黙れ」
痛みをこらえるような顔をするのが気にくわないと口をふさぐ。
 アキラは主の胸に抗うように爪を立てた。殺意のようなものはまだ残っているのに、それが嫌悪とは結びつかないのが不思議だった。鎖から放たれた無傷の右手は、放っておけば勝手にシキの首にたどり着く。力を込めそうになるのをこらえるアキラを笑うように、口内を這う舌がその意識を掬った。頚動脈を正確に押さえる指を、シキはひどく優しい手つきではずしてゆく。
「その程度の害意ならば可愛いものだ。が、お前の頭に俺以外の手が入ったままなのは許せんからな」
いつの間にか、シキの手にはアキラのナイフがあった。
「し、き……? っ何を、やめろ」
「敬語を忘れているぞ」
笑いながら主は、アキラの手にナイフを握らせた。そしてその上から手のひらで包み込むようにして、自らの腹に突き立てた。

*

 結局、今回の騒ぎは、元CFCの研究所に逃げ込んだ日興連上層部の残党が企てた事件だったと、アキラは後になってからあらましを知らされた。
 背信を働いた部下の男は、アキラが自ら利き腕を傷つけた時点で、暗示が完璧ではないと悟ったらしかった。ただし流されたばかりのアキラの血の匂いを嗅いだことで、正常な判断ができなくなった彼は、その晩のうちに協力者と連絡を取ろうとした。その時にはすでに、シキの指示で部隊の従順な兵士たちが男を見張っていた。
 シキは精鋭部隊の半数を、元CFC陣営とNicoleウイルスの研究所へと送り込み、自らは精鋭部隊の裏切り者の元へとむかった。男はNicoleウイルスへの適合力が高く、それゆえに、能力もずば抜けて高かった。それは多くの者のようなシキに対する絶対視を阻んだ。
 追い詰めた男の、命乞いをするのでも逃げるのでもない反応は、シキにとっては珍しく、そして懐かしかった。男の目が青色だったのも、その気まぐれに一役買った。何かが少しだけ、自らの側近と似ているような気がしたのだ。結果的には完全に期待を裏切られたわけではあるが、すぐに切って捨てなかったのはそのせいだった。
 たとえば昔、トシマの雨の路地でアキラを拾った時、暴行を加えたのが事切れていた仲間の死体だったのなら、アキラは最後まで抗っただろうことを、シキは知っていた。だが裏切りを働いた男はあっという間に諦念と虚無に逃げ込んだ。興醒めだった。
「閣下」
 窓際で膝に書類を乗せ眺めていたシキに、アキラはコーヒーを差し出した。利き腕の傷を軍服の下に隠して、これまで通りの業務に戻っている。
 暗示や洗脳のたぐいならは、擬似的とはいえ一度その目的を成してしまえば解除されるはずという、シキの思いつきの荒療治は、果たして功を奏したようだった。アキラの中にあのちりちりとした殺意は最早ない。心は以前どおり平らかに、ただその傍にあることを求めた。
 そのためにシキが負った傷は、大事な臓器を可能な限り避けたとはいえ、常人であれば全治二ヶ月とのことだった。Nicole体質はたった一週間で室内を歩き回らせていたが、アキラとしては気が気ではなく、なにかと身の回りの世話を焼くのだった。
 シキはカップを受け取りながら、読み終わった資料を差し出した。資料は元CFC陣営へと発った部下の報告をまとめたものだ。当然ながら、裏切り者はアキラの部隊の一人だけではなく、元日興連側の上層部、粛清を免れた者たちや、粛清対象の部下だった者たちが絡んでいた。クーデターでその力を知らしめた結果、もはやNicoleを排除しようという考えの者はほとんどおらず、むしろ有効活用する方向で、王の首だけを挿げ替えたいと考える者が現れ始めた。それが、今回の騒ぎの原因だ。ナルニコルであるアキラを、ただの暗殺の駒として使おうとしたのもそのせいだった。
「何か、望みがあるのだろう」
カップに口をつけながら、シキは睫の影が落ちた頬を緩ませる。いつ切り出そうかと主の様子を伺う側近の様子が、面白くて仕方が無かった。
「言ってみろ。ことによれば叶えてやらんでもない」
そう言って足を組みかえる。
「……貴方の傷が癒えたら、少しだけ、お傍を離れる時間をお許しください」
「何のためだ」
「今回の失態の後始末を」
アキラは主の斜め後ろで姿勢を正した。唇を引き結ぶ。100の訓練を積んだ後の実戦は、学ぶことの多さで1000の訓練に匹敵する。土煙に陰る戦場に立つことは少なくなったが、戦いの場はどこでもよかった。なにも今回の屈辱を晴らしたいというだけではなく、己の未熟さが身にしみたからこその申し出だった。
「鼠狩り、か。お前の気性の荒さは変わらんな」
皮肉げに付け加える。
「また俺にも逆らってみせろ。この間は、なかなか愉快だった」
「……閣下」
苦虫を噛み潰したような顔をするアキラを、主は鼻で笑う。そこには絶対の自信があった。
 アキラも、シキに殺意を向けたことそのものについては、それほどに気を病むのでもなかった。自分などが逆らったところでけして倒れはしないことを知っている。それは救いでもあった。
「アキラ」
近くへ呼び寄せられる。椅子から見上げられるのが落ち着かず、片膝をついた。
「また先日のように下手に気を許すな。同じ失敗を繰り返す間抜けはいらん」
「……は」
改めて身の縮むような思いをしながら、アキラは応えた。自分の手のひらに伝わった、シキの肉を裂く感触は一生忘れないだろう。忘れてはならないのだとも、思った。自責であり、自戒であり、屈辱の記憶でもあった。
 信用していた部下が一人、裏切りの後死んだ。それはたしかにアキラの内側を傷つけた。しかしそれ以上に、主に自ら傷を負わせねばならない事態に陥ったことのほうが、より重大な問題だ。
「今回のお前への罰は、のちのち言い渡す。楽しみにしていろ」
本当であれば厳罰どころか処刑されかねない大失態でありながら、未だアキラに対する罰は下されていない。それを今のところ誰も追及しない。事件のあらましを知る部隊の兵隊たちも、戻ってきたアキラを弾劾しようとはしなかった。その理由は彼が総帥のお気に入りだからというだけではない。アキラはたしかに強く、それはこの国では絶対でもあった。
 戦いにおける強さだけでは足りないのだと、アキラ自身は今回の件で思い知らされたのではあったが。
「……褒美になりかねん物ではなく、面倒な仕事をくれてやる」
ふと思いついたように付け加えられる。意を解して、アキラは微かに口をへの字に曲げた。
「なんだ」
「いえ、」
「本当のことだろう」
首筋をさらりと撫でられる。指先ひとつで、たしかにそれだけで、翻弄されるのだからどうしようもない、とは思う。しかし、とわずかに潤んだ瞳で軽く睨むと、王は喉の奥で仕方の無い奴だと笑った。
「……許す。俺を待つ必要はない。その傷が癒え次第行くがいい。存分に気を晴らして来い」
従僕は静かに頭を垂れた。

end.

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