猟犬

 紙の小袋入りの粉薬と、遮光瓶やパウチから取り出した錠剤は、飾り縁のナプキンの上で小さな山を作った。水差しとコップを添えた銀盆を、仰向けた左腕に載せる。窓際のカウチにどっかりと腰を下ろした男の元へと運ぶと、テーブルには幾つもの手紙が広げられていた。異国の言葉で書かれた文面にさり気なく目を滑らせながら、開いたスペースに薬皿をおき、コップに水を注ぐ。服薬の用意をした後、瀟洒な飾り枠の窓をほんの少しだけ開いた。金糸模様のカーテンを揺らして入り込んだぬるい風が、食後の油っぽい匂いをかきまわした。
「ああ、面倒だ面倒だ」
その背後で、男は樽のような腹に邪魔されながらふんぞり返った体を起こした。手にしていた便箋をマホガニーのローテーブルの上に放り投げる。スーツの胸で議員バッジが光を反射した。
「最近筋肉どもが騒がしい。恩を売っておかねばならんのはわかっているが、汗臭い軍部の脳筋どもの相手など心の底から面倒だ」
油臭いため息を吐きながら、窓際から戻り傍らに控えた青年を見上げる。凛と立つ姿は樗の若木を思わせるすがしさで、男の疲れを癒すようだった。彼が自分の使用人だと思うと、自然と目尻が下がる。
「アキ、薬を」
太い指で粉薬を指して、議員は水を含んだ口を天井に向けて開けた。口内に慎重に落とされた薬を嚥下し、ナプキンで口の端を拭う。それから『アキ』の腕を撫でた。
「お前に飲ませてもらうと、薬の苦味も感じない」
青年はほんのかすかに口の端を上げ、議員はそれを微笑みと錯覚した。いつもそうだった。表情の乏しい顔から、男は思い込みで感情を汲み取る。それは結果的に、演技や愛想笑いの下手な『アキ』を助けていた。
「今日は夜に客人がある。楽しみだな。稀に見る美形だそうだ。本当に、楽しみだ……」
音を立てて唾を飲み込みながら、胸ポケットから万年筆を取り出す。散らばった便箋の裏に単語をいくつか並べた。夜、客、食事、給仕。返された目礼に男は満足気に笑って、腕を撫でていた手のひらを青年の腰に回す。
「国の上層部ともなれば、連日メディアに登場するものだがな。軍事力で支配されたかの国では、その必要がないらしい。噂ばかりで写真の一枚も手に入らんとは。……お前に流れる血と同じ東洋の国だよ。滑らかな肌と涼しげな目元……今回はもしかしたら、ただ眺める以外にも色々と楽しめるかもしれないな。ああ、やきもちを焼くんじゃないよ」
応えを期待しない独り言に近いつぶやき。男が見上げると、青年はかすかに首をかしげていた。それは耳の不自由な彼が、相手の意図が読めない時に見せる仕草だった。安堵とともに背や腰を撫で回す手の動きを再開させる。
「その耳と口は天からの贈り物だな。おかげで私は、何も気にせずこうして愚痴が言える。お前もあの老人の息さえかかっていなければすぐにでも……いや、それも、そのうち手を打つか」
暫くの間手のひらに体温を楽しんだ。このために、会食がない日やスケジュールに多少空きがある日は、無理をしてでも自分の屋敷で昼食を取るようにしているのだ。やがて机の上を指で叩く音に目を開くと、置き時計を示す白いグローブの指が見えた。
「ああ、時間か。面倒だが、致し方あるまい」
腕を離すと、青年は机の上を片付け始める。手紙をひとつひとつ便箋に納め鞄にしまうと、歩き出した男の後ろに従った。広い庭を抜け、門扉の前で待っていた秘書のひとりに荷物を手渡す。
「そういえば、老人が来るのは今日だったか。せいぜい楽しめばいい」
青年の肩をねっとりと撫でると、男は護衛とともに高級車の後部座席に乗り込んだ。
 エンジン音が角を曲がって聞こえなくなるまで、『アキ』は腰を折って待った。静かな風が、鼻先から排気ガスの匂いをさらっていく。やがて上半身を起こした時、そこにはアキラの強張った顔があった。
 心持ち急ぎ足で館へと戻る。与えられた自室に入るなり、男に触れられたあたりの服を払った。軽く鳥肌が立っている。やがて手のひらが臍のピアスの感触を捕らえて、アキラは動きを止めた。片手を腹部に当てたまま、奥歯をかんで瞑目する。数秒そうしてうつむいたあと目を開けた。背筋はすでに伸びていた。
 約束の時間がもうすぐだ。外出用の薄いコートを手にかけたところで、ノックもなくドアが開き、使用人仲間が耳の不自由な『アキ』のために、大げさな身振りで来客を告げた。
 玄関では丁重に客人が迎えられていた。清潔な身なりの老人が一人、この館の執事と談笑している。アキラを見とめると眉尻を下げ、まるで初孫を愛でるような顔で笑った。
「それじゃあ、借りていくよ」
「お気をつけて。何かございましたらご連絡を」
「さ、アキ、行こう。君、議員によろしく伝えてくれ。戻ったらこの子だけ下ろして、私はそのまま帰るから」
老人の杖を受け取りながら、代わりにもう片手をゆるく曲げて差し出した。自らの腕の上に乾いて骨ばった手が添えられたのを確認して、そっと歩き出す。
 上品な深い海老茶のセダンに乗り込むと、老人は穏やかな口調で、身の回りの出来事を話し始めた。窓の外は夏を間近に控え、街路樹が美しい緑を茂らせている。やがて運転席から、いつものボタンのみです、との報告を聞くと、世間話はぴたりと止んだ。老人が頷くなり、心持ち急くようにアキラは口を開いた。
「あの方は」
「ご健勝だよ。引き続き国内の調整に忙しいようだが、心配するな」
老人の口調は色合いを変えていた。その目には力強く明晰な光が宿っている。先ほど館の玄関で見せていたような、暖かくやわらかな印象は鳴りを潜め、代わりに現れたのは厳しい冬をいくつも越えた、常緑樹に似た顔だった。
「別に、」
心配などしていない。あの方は一人でも、──自身の思考に少しだけ胸が突かれた気がして、続く言葉を飲みこむ。
「君は疲れているな。"アキ"の仕事はそれほど辛いか」
「虫唾が走る」
間髪入れずにそう答えると、老人は大きな笑い声を上げた。
「苦労するがいいよ、若者」
「耳が腐り落ちそうです」
「まあ、それももうすぐ終わりだ。ニホンからの客人があるのは、とうとう今日じゃないか」
アキラは黙って首肯した。
 ニホンを離れたのは五ヶ月前、この地は冬の只中だった。新体制のための数多の雑務が片付かない状況にも関わらず、シキの手配でこの国に送り込まれたのだ。
 最初の一ヶ月間は、老人のもとで人前に出る作法の基礎と、この国の言葉を叩きこまれた。歩き方、目線の置き方、動き方。スラング、訛り、しぐさ。老人は厳しかったが、苦ではなかった。身につけた自らの技術が、いつかシキと、その帝国の糧となる。そう思えば積極的に向き合うことができた。実際に体を動かす技術に関しては特に、アキラの習得は早かった。言葉の方は、多くの国で公用語として使用される言語であり、シキの指示で軍にいた頃から学びはじめていた。喋る方はなかなか上手くならなかったが、リスニングは割合すぐに上達した。性格を表している、と、老人は笑った。
 苦労は、この国の実権を握る議員に求められ、身の回りの世話をする使用人として働き始めた時から始まった。
 初めてあの男を見たのは、シキとともに訪れたこの国で、オペラ鑑賞の最中だった。言葉も面白味もわかりはしないのに、貸しきったボックス席の一番前に座らされた。落ち着かずに館内を見渡すと、一階席を挟んだ対岸のボックス席に、先日国内の掃除の際に逃してしまった鼠、元日興連上層部の一人を発見した。周囲から姿が見えぬよう、奥まった場所でくつろぐ主に報告すると、まるで初めから知っていたかのように放っておけと命じられた。戸惑いながら舞台に目を戻した時、嫌な気配を感じたのだ。それはあの鼠の真上の席の、林檎に似た丸い腹を持った中年男のものだった。無遠慮な視線にまさか自分達の素性が知られたかと、緊張するアキラをシキは笑って、あの顔を覚えておけとだけ言った。数カ月後にその屋敷に送り込まれるとは、この時は思いつきもしなかった。
 お前を外に出す、とシキに言い渡されたときは、体が硬直した。何事もなかったかのように書類仕事を続ける主に、思わず理由を問うた。
 シキは唇の端を上げると、磨き上げられたローズウッドの机の上に頬杖をついた。彼の従僕がイエスの応えよりも先に質問を返すのは、滅多にあることではなかった。
「お前は今後も俺の傍に置く。作法等、色々と覚えておいて損はない」
軍の中で、一応の教育は受けた。理学的な知識を身につけ、最低限とはいえ戦場で必要になるような医学の素養もある。だが、例えば、沢山のスプーンやナイフが並ぶようなテーブルについたのは、軍人として高い階級を手にした時が初めてだった。ルールがあるらしいということは知っていたから、シキを真似ることで何とか乗り切ってきたが、これからはそれでは支障が出るのだと悟った。自分の失態が、政治的な取引の場において主の不利益となるかもしれない。それはあってはならないことだった。
 もちろん、単なる作法見習いだけにとどまる話ではなかった。この国の新しい王は既に、その領土を広げるための次の一手を打とうとしていた。
「国土に攻め込まれないための抑止力が必要だ。俺が攻め入っている間に、この国が粉微塵に吹き飛ばされてしまったのでは元も子もないからな」
それは、現代兵器の必要性を示していた。多くは3rd Divisionで失われ、また、狭い国土の中で争っていたニホンにおいては、近距離兵器のほうが優先的に開発されてきた。対他国、遠距離の敵との戦闘を見越した兵器は、非常に乏しいと言わざるを得ない。もしニホンがまとまった地下資源でも持っていたなら、とっくに侵略されていただろう。
 いちから一揃い買い直すのでは、金が掛かりすぎる上に他国に警戒・牽制されかねない。ならばとシキが示した計画は、すでにそれらを保持した国の乗っ取りだった。
「お前には現地での指揮をまかす。先日見た顔は覚えているな?」
主の命令を忘れるはずがなかった。頷けば、シキは満足気に唇をしならせた。それだけで、異国の地での長期にわたる任務に臨む姿勢が整った。シキの期待に答えること。それが、何より優先すべき望みだった。たとえその結果、何ヶ月も離れることになろうとも。
 長机の向こうで命令を待つアキラを、シキは近く呼び寄せ、現地での情報収集と、今後送り込むNicoleウイルスによって強化した兵たちの緊急・臨時の司令塔という役割を与えた。アキラはそこではじめて、観劇の一幕がそもそもあの議員の密かな趣味を利用した罠だったのだと知らされた。男が調べることを見越して、席は予め抱き込んだ老富豪の名前でリザーブしてあった。アキラを餌とし、老人のネームバリューを糸とした釣り針に、果たして、男はまんまと食いついた。
 老人とその車椅子を押すアキラがパーティーに出席すると、議員はほどなく現れた。そつない挨拶の後、妙な汗を額に浮かべながらアキラを視線で舐め回す。
「ところで、そちらはお孫さんで?」
「いやいや、私に孫はおりませんよ。この子は、遠い親戚から身の回りの手伝いとして引き取ったのです。作法も何も知らないので、見習中なのですが」
好々爺の体で、老人は答えた。孫ではないと手を横に振りながらも、まるで初孫を喜ぶような笑顔だった。観劇が趣味とは聞いていたが、本人の演技も玄人はだしだ。アキラは舌を巻いた。政治の世界を、その苦労を透かし見るような気がした。老人に比べれば目の前の議員などほんの小物にすぎない。勿論自分も。人知れず唇を引き結ぶアキラの前で、会話は続いていた。
「ご覧のとおり見目はいいんだが、実は耳と口が不自由で。言葉どころか、声も満足に出すことができません。数年前身寄りをなくしてから、その所為でたらい回しにされていたのですよ。ただ、私も先が長くないし、後ろ盾のしっかりしたところで、面倒を見てくれるところはないものかと。一線を退いた身ながらこんな場所に這い出してきたのは、そのためでもあるんですよ」
慈しむ目でアキラを見やりながら、老人は車椅子の上でため息をついた。
 男はその話に飛びついた。平静を装い、アキラに同情する声音で老人の善行を褒めちぎったあと、よろしければとあくまでも控えめに申し出た。だが、その額の汗は粒になり今にも流れ落ちそうだったし、顔は赤らんでいた。
 耳も言葉も不自由となれば、何かと密談の多い議員の身の回りの世話をする者としては願ってもなかった。老人との縁も魅力的だ。そしてなにより、オペラホールのボックス席から、観劇用のグラスを使って顔を確かめ、予約名を探り出し、こうして現れたほどなのだ。
 短い付きあいとはいえ共に暮らし、孫のように考えていた『アキ』だ。一週間から二週間に一度は共に過ごす時間が欲しい、と老人は願い出た。これは、アキラと定期的に直接会って連絡を取るためでもあったし、財界の大物が目をかける青年として、その身に滅多なことがないようにとの配慮でもあった。議員は快諾した。
 とはいえ全く警戒しないのでもなかった。アキラが使用人として屋敷に入るなり、お抱えの医師にその耳と声帯を調べさせた。診断書が老人の言葉と一致すると、満足して傍近くアキラを召し上げた。
 また、老人とアキラが出かける際には、必ず衣服のどこかに小型の盗聴器が仕掛けられていた。場所はそのたびに変化したが、数回に一回は、老人がアキラに贈ったコートの胡桃ボタンだった。取り外して偽の情報を吹き込んだ物との交換が容易なこの部位の時、車内は作戦室となった。シキとの連絡をとるのは老人の仕事で、知らされた大まかな命令から主の意図を汲み取り、老人に判断がつかない時の助言や状況にそぐわない場合の代替案など、柔軟な対応をするのがアキラの仕事だった。老人はそれをさらに実働班に伝えた。
 今日も三週間分の報告を終えたアキラに、老人はダミーの音声が吹きこまれたボタンと、小さな包みを差し出した。白い紙に包まれたプレゼントは、大きさの割に重みがあった。帰ったら開けなさい、と言って、老人は懐中時計を開いた。
「さて、今日は時間が余ったな。こうして週に一度、君とお喋りするのももうすぐ最後と思うと名残惜しい」
今夜、議員の屋敷にはニホンからの客が来訪する。それは、計画が詰めに入っていることを表していた。この国の軍部に潜り込んだ兵たちは破格の成績を収めている。議員やその密談から漏れ聞く愚痴やうわさ話は、シキがクーデターを起こす直前の日興連を思い出させた。ポーンは揃った。その一部はすでにナイトに成った。次はルークのためのマスを空けてやらなければ。もうすぐキングを呼び込む準備が整う。シキと、Nicoleウィルスによる支配は、もはやそう遠い未来の話ではない。
「あの、──伺いたい、ことが」
アキラは、これまで問うきっかけが見つけられないままになっていた疑問を、胸の奥から取り出した。老人は鷹揚に視線を返す。
「なんだね」
「我々に与する理由を。貴方にとっては自国を犠牲にするようなものじゃないのか」
その問いに、老人は暗い目をしてうっそりと笑い、しばらくの間黙りこんだ。シキは老人の内側にひそんだ欲望を、言葉にされる前に汲み取った。だからふたりの間には、言葉や概念によってその形が固められる前の、原型のままの欲望による利害の一致があった。こうして言葉で説明することを求められたのは初めてだったのだ。
「……私はこの国が嫌いだ。大戦でね、この国の政治家は下手を打った。私も結果的にその手助けをしてしまった。たくさんの友人と、妻が死んだ。兄弟はシベリアで行方不明だ。子供は妻の後を追うように病気で逝った。最も大切な物を失って、枯れた世界で何年かを死んだように生きた。自分と自分を取り囲むものを嫌悪しながらね」
やがて老人は語り始めた。その手のひらでは、長いあいだ人の手に触れられることによって作り上げられた、鈍いけれど深い輝きをたたえた時計が時を刻んでいる。
「虚ろな穴に沈んでいた私の前に現れて、君の王はまるで悪魔のように笑った。お前の求めるところを与えてやろうと言って、眼の前に広げられたのは知識や財力や政治力、およそ私が持つすべての力を行使して戦う、私のための戦場だった」
枯れた世界を一度灼きつくす。なんと魅力的な、誘いだったか。本物の悪魔のようだった。老人は笑みを滲ませながら、静かに目を閉じた。
「──世界はシキを中心に変革されるだろう。ありえないことだ、だが私は確信した。世界などという、馬鹿げてだいそれたものを、あんな小国のたった一人の男が手に入れるのだ」
老人は再び瞼を上げると、眩しそうに細めた目でアキラを見た。慈しむような、いたわるような、眼差しだった。今はもうどこにもいない幼馴染や、縁が切れたままの情報屋の男が、時折こんな顔をしたことを思い出して、アキラは痛みが一瞬の風のように胸をかすめていったのを感じた。
「私には見ることはかなわんかもしれんが。代わりに君が誰よりも近くでそれを見てくれるだろう? ……少し嫉妬するがね」
ぱちん、と音を立てて、年月の刻み込まれた乾いた手のひらの中で、懐中時計の蓋が閉まった。
 そんなことはないと、言えればよかった。だがそれを口にできないのが、アキラだった。これまで幾つもの命を手に掛けたが、それでも、目の前の老人の命は、軽々しく言及することのできない重みを持っていた。何より共に暮らした一ヶ月間、老人はアキラや使用人の手を借りずには、生活することもできなかった。ニホンを手に入れるのに四年。世界を手に入れるには、少なくともその二倍や三倍の年月では済みそうもない。
「──すみません」
返す言葉を探して、結局見つからずにそれだけ言った。
「なぜ謝る? まあ、また暇を見つけて遊びに来なさい。できれば君一人でね」
悪戯な視線をくるりと動かし、乾いた暖かな手でアキラの膝を叩く。
「私が嫉妬するのは、シキ、君の魔王にだよ」
芝居がかった口上で、オペラ好きの老人は言った。

*

 ニホンからの客人は、議員の個人的な友人という形で迎えられた。それは非公式なものであり、記録には残らぬよう配慮された。秘書の手帳にすら、ダミーの旧友の名前が記されたのみだった。
 これは完全な密談だった。そもそもにおいて、密談こそが議員の主な活動内容でもあった。彼は二世議員であり、亡父から受け継いだ人脈という資産を運用することで、自らの地位を保っていた。観劇の際、逃げ出した元日興連上層部の男とほど近い席に座っていたのもそのためだ。ニホンとの取引を打診されていた彼は、つてを頼って保身を図ろうとした鼠を大喜びで始末した。未だ情勢不安とはいえ、ひとつの国家とのパイプは恐ろしく魅力的だ。彼自身で築いたものの中では、最大の利益を生む関係になるはずだった。そうして、ようやく具体的な契約を取りまとめ終え、今日自らの屋敷に招くところまでこぎつけたのだった。
 間接照明のほの明るい光のなかで、片手に給仕用の白布をさげたアキラは、テーブルから数歩下がった位置に控えていた。館の主の斜め後ろからは、客人の顔がよく見えた。温度の感じられない陶器の頬は、複雑な文様の入った磨り硝子のランプの光を受けて、かすかに発光するようだった。作法のためだけではなく、引き寄せられそうになる己への自戒のために目を伏せた。食事は滞り無く進み、やがてデザートの皿も下げられた。現在は部屋を移して、より少人数での酒の席に移行している。
「ところでそちらの国は、かように見目麗しい方が多いのかね?」
どっしりとしたソファの上に腰を下ろした議員は、アルコールによっていよいよ舌が回り出している。ただしその口は益体のないことばかりを紡ぎだし、うっかり重要な内容を零すことがないという点で、彼の保身を助けていた。
 席に着くのは議員とその秘書が一人、そしてニホンから二人の計四人。アキラは直前になって知った客人の名前に、議員から受け取った鞄を危うく取り落としそうになった。
 『わざわざNo.2がお出ましだ。アキラ氏、──そういえばお前と名前が似ているな』。聞こえないふりをするのに、相当の努力を要した。外交官が来るのではないのか。なぜわざわざ自分の名を騙って来訪するのか。──そのような嫌がらせに近い行為を平然とやってのけるのは、自分が知るかぎりでは。
 議員の肩から引き取ったコートの影で、知らずピアスの形を確かめていた。
「──と、申されますと?」
問い返したのは、ニホンからの客人の一人、アキラも頻繁に言葉を交わした精鋭部隊の部下だった。言葉少なの上官の代わりに、先程からよく会話に参加している。議員からの視線を受けながらも、滅多に口を開かない偽の『アキラ』は今も、無言のままワイングラスをテーブルに戻した。濡れた唇は皮肉げに弧を描いて、かすかに光を反射している。アキラは空になりかけたそのグラスに、新たなワインを注いだ。手の震えが、白布越しにすら伝わらないか心配だった。再び数歩下がるとき、刃の鋭さでもって掠めていった視線に、気が狂いそうだった。
「これも同じ東洋の生まれなのですよ。なかなか気に入っておりましてね。ニホンとは桃源郷のような場所ですな」
議員がお気に入りの使用人を指して言うのに、客人はやはり無言のまま僅かに笑みを濃くして、注がれた酒を口に含んだ。
「そろそろワインにも飽きたのではないかな。アキ、あれを」
ワインの瓶とグラス交互に爪を当てる仕草に、『アキ』は頷いた。予め用意していたウイスキーとロックグラス、氷のセットを運びこむ。喉を焼く強い酒を美味そうに飲み干して、議員は酒臭い息を吐いた。いつになく杯が進んでいるのは、はじめは緊張を紛らわすためであり、今は興に乗ってハメを外しかけているからだった。生活習慣からくる心臓への負担のために、毎食大量の薬を服用し、過度のアルコールは医師に止められているのだが。とはいえ、酒が入る前ではまともな会話が成り立ったかどうかわからない。美貌の軍人の威圧感を前にして、へどもどと言葉もうまく出ないようであったから。
「そろそろ本題に参りましょうか」
議員はソファの上で溶けていた体を心持ち起こして言った。この場においては、主導権はホストでもある彼にあった。特にアルコールが入ってからは終始機嫌よく、その権利と義務を行使している。客人たちは大人しくそれに従っているかに見えた。
「具体的な交換材料については、先にご連絡したとおりだが。こちらとしては相当の危険を犯すことになる。国家間の問題だからね。実はもう一つだけ、お願いがある」
「──何がお望みで?」
偽アキラはやはり口を開かないままで、やや退屈そうに半ば閉じられた目は、すでに半分以上空になったロックグラスの中で揺れる氷に向けられている。長い睫毛の影が白い頬に落ちて、蝋燭の光に合わせてゆらゆらと揺れていた。もてなされる客の態度ではなかったが、議員は気に留めることもないようだった。
「私と、この方だけにしてもらえますかな」
そう言って、うっとりと偽物の『アキラ』を見つめる。部下が意向を伺うように視線を向けると、上官は口の端を上げてウイスキーを舐めた。否と口にしない限りは可であった。
 部屋を出ていく秘書や部下、影に控えていたSPの背中を横目に、『アキ』は議員に向かってかすかに首を傾けた。と、そのとき、残った客人が催促するようにグラスを心もち持ち上げる。議員は満足気に洋酒の瓶と客人の手元を指さしてみせた。
「お前はいい。お客様におかわりを」
アキラが客人のグラスに新しい酒を用意している間、場は沈黙に包まれた。議員は満ちたりた顔でソファーの上から溶け出してこぼれ落ちんばかりであり、客人はといえば、今やあからさまにアキラの動きを目で追い、楽しんでいた。
「お気に召しましたかな」
「いい酒だな」
意味を取り違えた返答。故意であることは明白だった。だが議員はそうとは察することなく、すぐに気を取り直して続けた。
「この日のためにわが国のとっておきを用意しましたからな。東洋人は若く見えるというが、それでも貴方より年上の酒でしょう」
これは本当だった。もろくなり始めたコルクを壊さぬよう、アキラは開封にかなりの気を遣わなければならなかった。議員のこの会合に対する熱の入れようが伝わるようだ。
「さて、見返りの件ですが」
ウイスキーの薀蓄をひとしきり語った後、議員はようやく切り出した。
「相応のものいただかないと」
酔うといつもそうするように、彼はアキラの腕を執拗に撫ではじめていた。やがてその手は手首、白グローブに包まれた手の甲へと下がっていき、指先でとどまった。アキラの指の間に自らのそれを差し込み、握っては放し、薄い布越しの爪の形を確かめる。いつもの癖だった。
「私はあなたと時折、こんなふうに、個人的に酒を、酌み交わしたい。二人きりでね」
若い使用人の指を弄びながら、議員は慎重に、単語で切るようにして口にした。否の言葉を予想していて、その先に畳み掛けるための言葉を用意するようだった。
「よかろう」
「……!」
だが客人は即答した。議員は思わぬ僥倖に動きを止め瞠目する。その視線の先で、眠っていた肉食の獣が今や目を覚まそうとしていた。やがて露わにされた、地底深くで滾る炎を凝固させた瞳で、その場のすべてを凍てつかせるかに支配した。
「好きにしろ──アキラ」
不思議な会話を聞いた気がして、なにより背筋を凍りつかせるような赤い瞳をそれ以上見つめていることができずに、議員は傍らの従僕の顔を省みた。するとぽかと開けていた口の中に何かがねじ込まれる。それは歯に当たって金属質の音を響かせ、冷たく上顎をこすった。アキラが老人から受け取ったプレゼント、デリンジャーは、その大口にはすこしだけ小さかった。議員の手の中にはすでに『アキ』の指はなく、手袋だけが残っていた。
「まだ撃つなよ。さすがに証拠を消しきれん。これまでのお前の苦労が水の泡だ」
統一ニホン国元首はそう言って、手のひらの中の酒を舐めた。落ち着き払ったその態度を横目に、酔ってゆるくなっていた議員の思考もだんだんと現実に追いつき始める。言葉の意味を何度か反芻した。それでようやく、自分が小銃を咥えているのだと気がついた。目の前の見慣れた顔を見上げる。だがそこにあるのはいつもの『アキ』の瞳ではなく、悪魔の犬のそれだった。穏やかな湖の色と思っていた眼差しが、今や永久凍土の厚い氷の色をして自分を見下している。心拍数が上がるのを感じながら、なぜ、とうめいた。それは言葉にはならなかったが、シキは正確にその意を汲み取った。
「この国をいただく。貴様のポストはあの老人がうまく利用してくれるだろう」
もごもごとうめき声を上げる男の充血した目を愉悦を滲ませながら眺めたあと、更に続ける。
「あれを、一人で歩けもしない老人と侮ったな」
その言葉には、アキラも驚きを隠せなかった。時に車椅子を押し、杖の代わりに腕を貸した相手なのだ。ではあれは全て、演技だったというのか。
「年の功とは恐ろしいな。おそらくお前と互角ぐらいだろう。……手合わせの十回に一回は、危うい勝負にもちこまれる」
絶句するアキラを鼻で笑い、肘掛けで頬杖をつくと、ひとりごとのように呟いた。
「あれがお前に教えたかったことは、むしろこちらかもしれん。お前は、素直すぎる」
唇を引き結んだアキラの小銃の先で、議員がぐ、とうめいた。それはこれまでのような言葉を発しようとあがくものではなく、純粋な苦痛によるくぐもった悲鳴だった。くわえ込んだ拳銃の存在を忘れたかのように、胸をかきむしり始める。目はこぼれんばかりに見開かれ、額には脂汗が浮かび始めた。心臓の発作だった。アキラは拳銃を引きぬき、代わりに給仕のために下げていた白布をその口に突っ込んだ。これだけ深酒をし、さらに、薬は三日前から偽薬にすり替えられていた。引き起こされるべくして引き起こされた発作だった。
「貴様は本当に役に立った。前払いの報酬は──『アキ』はお気に召したようだな」
ソファーから絨毯に崩れ落ちた男に、シキは足を組んで酒を楽しみながら言葉を下賜した。視線だけを動かしてアキラを射る。
「最後に声でも聞かせてやるがいい」
「何を言えば?」
耳が聞こえず口も聞けないはずの青年は、静かに口を開いた。しかし床で苦痛に見開かれた目には、すでにアキラの声を楽しむような余裕はなかった。
「愛でも囁いてやったらどうだ」
「生憎そのようなものは持ちあわせておりません」
「ならば、」
唯一の王は、悪魔のように美しい微笑みで告げた。
「別れの言葉を」

 目をむいて脂汗を流す男が痙攣を起こし始めると、シキは追い払われていた使用人たちを呼び戻した。男はまもなく意識を失い、すぐにかかりつけの医師が喚ばれた。騒然とするなか、医師はすぐに到着し、男の処置にあたった──ふりをした。アキラが屋敷に上がった際に、議員の指示でその耳と声帯を診断した時にはすでに、この医師もシキに抱き込まれていた。もともと金によって議員に買われ、法に触れるような処置にもたびたびあたってきた男だった。金で買われたものは金で裏切った。
 あまりのタイミングに、ニホンからの使者たちはしばし止め置かれた。だが翌日の朝方近く、信頼出来る医師から持病の発作による死亡診断書が出るにあたって、丁重に送り出された。議員がもともと大量の薬を服用していたことは周知の事実であった。医師に止められていた酒を過ごす習慣があることも知らない者はなかったし、何よりこの日、心配した執事が止めるのも聞かずに、酒を飲み続けるところを皆が見ていた。密談は公にされぬまま、ニホンからの客人たちは人知れず帰国した。
 一方、主の死にショックを受けて、何に対しても反応を返さなくなった『アキ』は、再び老人のもとに返された。伏していた青年のもとには、使用人仲間が見舞いに訪れた。だが二度目の訪問の際、彼らは『アキ』が西の、暖かい海のある街の別荘へと移動したことを知らされた。東洋の血を引く青年は静かに彼らの記憶の底へと沈んでいった。やがて世界を支配しようとする赤い瞳の悪魔の背後、影のように付き従う姿がはじめてメディアに報道されるまで。

*

 飛行機を降りると、ニホンは早朝の青く澄んだ光の中だった。
 着替えのために借りた空港のホテルの一室で、アキラはベッドの上に広げた軍服を見下ろしていた。その漆黒はすべての光を吸収して、気高く沈黙している。鏡に映った体はニホンを離れた頃よりもひと回り小さくなっていた。元々軍人としては細身だったが、今回の作戦のためにさらに筋肉を落としたからだ。それでも、久方ぶりに袖を通した制服は、まるで皮膚のように馴染んだ。本当の自分に戻ったのだという気がした。今日からでも、体を鍛えなおさなければと考えながらタイを結ぶ。腰に吊ったサーベルの重みに安心感と、心地良い緊張感を覚えた。息をひとつ、吸って、吐く。自然背筋が伸びた。
 フロントからの電話で迎えの到着が知らされた。大仰にするなとは予め部下に伝えておいた。いっそ運転手だけでいいと。そうして自ら開いた車の後部座席には、あろうことか総帥その人が待ち受けていた。護衛の一人もないのは通常であれば異例の事態であったろうが、それを可能とする強さを持ち合わるのがこの帝国の王だった。
 車内はシキの匂いで満ちているように感じられ、アキラはそれだけで目眩を覚えた。先日の密談を除けば、直に会うのは五ヶ月ぶりだ。何か言おうと口を開いたが、言葉を忘れていた。車から降りるときは歩き方を思い出さなければならなかった。群狼の長の歩みを、現実感を伴わないまま追った先は、黒い城の馴染んだ執務室だ。雲の上を歩くようでありながらも、アキラの体は主のために自然と動いた。先回りして細やかな装飾の彫られたドアノブを握り、扉を開く。大きな窓からは午前の清冽な光が射しこんでいた。最後に見た時と同じ並びで本が整列する書架、深い赤を孕んだ黒い木目が泳ぐ長机。金糸で枠をとった赤い絨毯を進んで、王はその玉座につく。
「報告を」
「──、第零部隊筆頭、アキラ、只今戻りました」
アキラにかろうじて言葉を思い出させたのは、身に染み付いた軍規だった。シキは満足気に唇をしならせる。
「この国の言葉を忘れたかと思ったぞ」
低く笑うと、椅子をわずかに引いて足を組んだ。
「どうだった、外つ国は。色々と楽しい経験を積んでいると、報告には聞いていたが」
アキラは、答えなかった。言葉は再び意味をなくして散り散りになってしまった。かわりに口をついたのは、心臓に縫い付けた名前だった。魂の最も近い場所に沿わせた響きだった。
「シキ」
主は目を細め、応えの代わりにゆっくりと手を差し伸べた。もつれそうになる足でその傍らへと歩み出る。跪いて犬のように玉座の主を見上げ、差し出された指先にくちづけた。そうされるのが、彼の王はふさわしかった。
「お前の命はいつも俺の傍にと、言ったな」
白のグローブ越しの指先が、アキラの唇をなぞる。
「──はい」
「共に在ったか」
「──、はい、」
たまらずに、そのブーツの足に額を寄せた。きつく瞼を閉じる。目が濡れ、漏れる息が震えた。
「シキ、──俺の王」
「まったく、お前は……」
顎を掴まれ、上向かされる。瞳をつらぬく赤い目に、アキラは心臓が焼かれるのを感じた。もはや、視線であれ声であれ、与えられるものは何もかもが快楽に直結していた。灼かれた心臓は新たな血を生み出し、それは炎のように全身を回るのだ。
「ここまで自分がどんな顔をして歩いてきたか知っているか。……まるで誘蛾灯だ。少しは懲りたかと期待したが」
「──ッ、」
指先が顎から、首筋をたどる。ぞくりと背筋をかけていく熱に、息を詰めた。指は締めたばかりのタイの結び目ににかけられる。喉が鳴った。
「自覚しろ。お前は引き寄せる。この国の従順な兵士までもだ。あの国のお前の主のような輩だけではない」
「……っ、俺の主は、貴方だけだ」
「アキラ」
「……ぁ、」
ワイシャツのボタンが半ばまで外されはだけられた。外気にさらされた肌はひどく敏感に反応した。諫めるようなシキの言葉は、その指先とは矛盾した命令だった。
「──鎧うことを覚えろ。あの老人ほどのものは求めん」
そうして自ら玉座を降り、アキラの頭をすくい上げるように包むと、視線を合わせたまま言葉を落とす。
「このままでは世界を手に入れる前に、……殺し尽くさねばならなくなる」
歯を立てられた唇から溢れる甘い痛みに、アキラは恍惚として熱い息を吐いた。
 抱かれた腕の、まるで絞め殺そうとするかのようなその力。今ここで息絶えるのならばそれでも良かった。むしろ王のその強い感情のすべてが、自分に向けられてはいないことが悔しかった。背中に食い込んだ楔のような、シキの指。床を制帽が転がっていった。
「……貴方の気に障るなら」
だから噛みあうようなくちづけの合間にささやくのだ。もはやその殺意でさえ、他の誰かに向けられるのは耐えられないと。
「全てなにもかも、滅ぼしてみせる」
閉じ込められた腕の中で、悪魔の犬はうっとりと微笑んだ。それは主のための露払いを終えた、満ち足りた笑顔でもあった。この世を美しい地獄に変えるのはシキで、そのための道を拓くのは自分以外の誰の仕事でもなかった。

end.

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