歌劇

 黒い回廊は硬質な静けさで満ちている。清い床と、磨き上げられ黒く光る扉、そこにあることを疑いたくなるほど透明な窓硝子。整えられた世界をひとつひとつ確かめるように、携帯電話を片手に長い廊下をまっすぐに進む。時折すれ違う兵士たちは、その姿を見留めるなり端に寄り、敬礼の姿勢でアキラを見送った。
 窓の外は昼の景色だ。夏を超えて疲れを見せ始めた木々が、少しばかり色の褪せた葉を朝よりも垂れるようにしている。赤や黄色に色づくのももうすぐだった。
「……会議は四時半終了予定だ。迎えの車は、余裕を見て四時に。会食の内容は? ああ。……いや、前日が確か、ワイン自慢だったな。そうだな、もし可能なら和食で。相手はお年だし、最近閣下も食傷気味だ。量は少なくていい。そのかわり、……ああ。たのむ。では」
階段の前で通話を切る。電源を落とし、胸ポケットへしまってから、喉元のタイの位置を確かめて上階へとむかった。一段一段登るたびに、沈黙が水位を上げていくのを感じる。階下より純度の高い静謐に包まれながら進むと、廊下の行き止まりには他とは異なる重厚な雰囲気をまとう扉が佇んでいる。
「失礼します」
許可の声を聞いて装飾の施されたノブを回した。室内に人の姿はなく、代わりに奥の扉が開かれたままになっている。主をのぞけば自分だけが開くことを許された、書斎への入り口だった。
 手前の部屋を通り抜けながら、認可を求めた書類がすでに整えられ、目通しの終わった資料とともに執務机の上に載っているのを確認する。久しぶりに特別な外出のない今日、書類仕事はあっという間に済んだようだった。打ち合わせの予定が何件かあったが、それもすべて午前中で終わっている。
 窓際でかすかに夏の匂いの残る風を受けながら、シキはエッグチェアでくつろいでいた。その膝の上に厚い本のページを開き、読むと言うよりは眺める体で頬杖をついている。外国の言葉で書かれたそれは英語ですらなく、アキラには全く理解できなかった。
 用意するのはコーヒーと紅茶どちらがいいだろうかと、様子をうかがう。特に希望を告げられないかぎりは、そのどちらかを季節や気候に合わせて用意していた。気分を察して適宜豆や茶葉の種類まで選ぶことができればいいのだが、至らぬのが現状だ。とは言え、主の口からそこまで求められたことはない。ただの自己満足だ。秘書と精鋭部隊の長としての仕事の合間、それらの知識を学ぶのはいい息抜きだった。
「国外に逃げ出した鼠のリストが上がって参りました」
「数は」
「八名です」
「だいぶ減ったな」
「ええ。引き続き対応いたします。……何をご覧に?」
シキは視線を上げぬまま、微かな笑みを浮かべた。指先でページを軽く叩く。
「十六日から十九日の予定はどうなっている」
「十六、十七は昼に議会。十七夜に某国S氏との、十八夜にT重工との食事会、十九は昼から某国との会談が」
「議会は、例の法令の調整か」
「実質それが中心になるかと。人権派もどきが、この日に向けて随分な意気込みを見せているという話です。ほかには、タカサキの反乱軍の話などですね。軍備に関する議題もありますが、こちらは審議させるつもりはありません」
「十六から十八の朝まで予定を空けろ。Sとは話をつけてある。議会は十九日の昼に移動だ。煩い輩にはそれまでに、権利は自らの力で手に入れるべきものになったと教えてやれ。口先だけで都合よく手元に転がり込むものでも、よもや生まれたときから備わっているものでもないとな」
未だにそんなめでたい思考の者が残っているとは、と、王は鼻で笑う。低い声が呟くように命じるのは苛烈な理論だ。けれどそれがアキラは心地よかった。議会など、本当は議論の場ではないのだ。シキという王の思想、その方向性を、浸透させ政治に反映させるための御前会議に過ぎない。ニホンはすでに民主主義を切り捨てた。それを未だに理解できていないとは、滑稽としか言いようがない。議席を埋めるのはほとんどが軍人であったが、わずかながら元からの議員たちも残っていた。しかしそれも、これで舞台を去ることになる。
「かしこまりました」
「お前も予定を空けておけ。……まともな私服は持っているか?」
「……は? いえ、ええ、一応」
ふと思いだしたような藪から棒の質問に、面食らって回答が送れた。その様子に、シキは怪訝そうに眉をひそめる。
「……まさかトシマから持ってきたあれではあるまいな」
「……似たようなものかと」
咎めるような口調に、答える声が小さくなった。そっと表情をうかがうと、苦笑とも嘲笑ともつかないものを浮かべている。
「……。わかった」
「申し訳ありません、何かございましたら、自分で」
「いい。お前には任せられん」
「しかし」
予想外の展開にあわてて食い下がるアキラの前で、不意に聞きなれない鈴のような音がした。連続して鳴り続けていても耳触りに感じさせない澄んだ音だ。長机の上に置かれたアンティーク調の電話機だった。それが単なる装飾品ではないことを、アキラはこのときはじめて知った。
「アキラ」
シキは本を閉じた。ハードカバーの表紙には、銃を肩にかけた猟師の絵が、金のインクで描かれている。
「コーヒーだ」
低く命じられ、行けと手のひらを振られた。どこか納得のいかない思いのまま踵を返したアキラの背後で、シキは鳴り続ける電話に手を伸ばした。

*

「命題だ。美しいということは、強さであるか」
背後から耳元に唇を寄せるようにして囁かれた低い問いは、階下から沸きあがった弦楽器の音の帯にもかき消されることなくアキラまで届いた。
 正面の舞台を見下ろす。明かりの落とされたホール内は、それまでの赤と白金から、黄昏の鬱金の世界に変化して、うわずった気持ちを少し落ち着かせた。視線を左右にずらせば、沢山のボックス席が規則的に並んだ、そそり立つ壁面が目に入る。それは弧を描いて、二人のいる正面の席へと連なっていた。
 急に予定を空けさせられ、連れてこられたのはあろうことか国外、大型のオペラハウスだった。普段であれば移動手段から現地の宿泊施設の手配まで、秘書であるアキラが整えるものだったが、知らぬ間に全てが済まされていた。それどころか行き先を知らされたのも空港に向かう車の中だ。この大事な時期にニホンを離れることに顔を曇らせると、トップがいなければろくに動かないような組織を作った覚えはない、と冷笑を返された。
 軍服でもハイネックでもないシキの姿にはひどくざわついた気分にさせられた。チェーンの付いたラペルピンが、黒の品の良いジャケットの胸元で光を弾いている。スーツよりも砕けた、少々よそ行きの普段着程度のものではあったが、それでも着ているのがシキというだけで、数段上質に見えた。
 一方アキラは、普段使いを念頭に作られたラフなテーラードジャケットに、下はチノだった。あまり肩肘張らずに済みそうな服装にほっとしたものの、手にとってみると、どれも以前のアキラなら自分で買うことなど考えもしないような値段だと察せられた。肌触りや、体への馴染み方が違う。シルエットもいいため、実際に身につけると意外な品の良さが漂った。着心地は言うまでもないのだが、ただ、軍服やスーツ以外を着ることが久しぶりな上に、シキの隣に立つと正体不明の落ち着かなさに襲われて、逃げ出したくなった。
 軍の訓練で泥と汗にまみれている方が性に合っていると、知れず溜息をつきながら飛行機で数時間。空港から直接連れて行かれた場所に、アキラは息を呑んだ。夕暮れの中、ライトアップされた白灰の建造物は、外見からは考えられないようなきらびやかさを内包していた。華やかな装飾が施された壁と柱、絵画に彩られた天井。トシマの黒い城とは真逆の雰囲気だ。自分の人生とかけ離れすぎていて目眩を覚えた。詳しい説明もないままで、主の意図も全く読めない。
 気圧されたままシキの後を追ってたどり着いたのが、現在のボックス席だった。廊下で見た多くの部屋は通路からカーテンで隔てられるだけだったが、この部屋はそのカーテンの奥に一つ扉があった。また、他の個室は多いところでは四、五人の人影が見えるというのに、ここはそもそも用意されているソファーが二つしかない。どうやら特別な一室らしいとは、そのさりげなくも贅を凝らされた意匠を見た時に気がついた。
 小さいが瀟洒な丸テーブルには、後々そっと酒が用意された。窓際だけでなく、内側にもさりげなくカーテンが張られている。現在のアキラのように最前列にでも座らぬ限り、人影の有無がかろうじて判別できる程度だろう。一方シキはそうした周囲からは様子の伺えない少し奥まった場所、アキラの斜め後ろで頬杖を付いている。
「……強いものが、美しいと思います」
おそらくは一流の芸術と呼ばれるはずのものを目前にしながら、アキラはなんとか答えを口にした。これを美しいと、多くの人は思うのだろう。しかしアキラには楽しむための素養もなければ、第一、言葉がわからなかった。
 いまや大勢の男女が朗々と歌い始めており、それは肉声でありながら広大なホールを洪水のように満たした。澄んだ響きは迫力を持ちながらも思いの外耳に優しく、人間の体からこれだけの声が出るものなのかと驚嘆させられる。
 しかし、わからないのだ。なんとなく、すごい。それが、アキラの感想だ。美しいものといえば、第一に思い出すのは戦場と夜を駆ける主の白刃。月下で薄く光をまとうようなその姿のことだった。
 ぎこちない答えを、シキは笑う。
「たとえばだ。この個室は、ある老人のものだ。一晩程度ならばたいした額ではないが、この先五〇年にわたって、ただあの舞台のためだけに借り上げられている。無駄だと思うか」
 フロントでチケットを求められなかったのはそのせいかと納得した。疑問符だらけの脳内で、ほんの小さなものであれ謎がひとつ解けたことに少しだけ安堵する。
「……そういう者もいるのだと、思います」
「そうだ。そういう人種もいる。……芸術とは大いなる無駄だ。美には本来意味は付随しない。だが」
そこで一旦シキは言葉を切った。
「ここに入るとき、周囲の顔を見たか」
頷いた。落ち着かず、周囲を見回してばかりいたのだ。流石にあからさまにぽかんと口を開けて、というわけではなかったが。上品な老夫婦はどこか誇らしそうな微笑を浮かべ、つれだった壮年の女性たちは興奮した様子で語り合い、若い観光客らしき人々は潤んだ目と上気した頬で、嬉々としてこの建物に吸い込まれていた。
「これらは、たしかに人の心を動かす。なぜだと思う」
シキは時折このように、アキラと問答の機会を持つ。思想を確かめるというよりは、むしろ思考の訓練のためだと思われた。普段から物を考えるということを求められているのだ。それは簡単なことではなかったが、期待にかなったときに主が見せる満足の笑みを思えば、厭う事など何一つなかった。ただ今回ばかりは、自信がない。国家や軍事にかかわる質問ならば、最近ではいくらかましな答えを返せることも増えたのだが。
「圧倒されるから、でしょうか」
かすかな笑みの気配。何とか及第点だったらしいと察して息をつく。
「この精巧に作り上げられた空間の中では、現実と虚構が混ざり合い、その境界を曖昧にする。確かな己を持った強者はいい。だが、弱者は容易に引きずられる。嘘を真実と思い込まされ翻弄される」
オーケストラの奏でる華やかな音楽を裂くように、突然発砲音が響いた。とっさにシキの盾になるよう上半身を動かす。それが演出の一環であると気づいて、羞恥を感じるよりも胸をなでおろした。
「……覚えておけ。いつかこういうものが、敵に回ることもあるかもしれん。そして場合によっては、こういうものこそ最も警戒しなければならないものだ。単純な暴力よりもな」
呟かれた言葉に頷いた。さり気なく、時にシーツの上で囁かれたそれにすら、これまで幾度も救われてきたのだ。今ははっきりとその意味が分からずとも、いつかは。
 このオペラとて、見たという経験が何かの役に立つかもしれない。客層、服装、雰囲気は、記憶の片隅にしまっておいても損はないだろうと思われた。少々退屈し始めた舞台上から目を離し、客席を見渡してみる。
 ふと、何か引っかかった気がして、アキラは滑らせていた視線をもどした。違和感は、数メートルほど離れた個室席からだ。暗がりのためはっきりとはわからないが、どこかで見たことのあるシルエットのような気がした。不意にステージから白い光が溢れる。照らし出されたのは、先日の海外に逃げ出した元日興連上層部の男の姿だった。
「閣下」
それまでその場になじむことができずにいたアキラの気配が、瞬時に地に身を添わせて得物の様子を伺う猟犬のそれになる。
「……鼠が。始末しても?」
懐に忍ばせたナイフのようなひそやかさと確かな鋭さ。隠された殺気に気付けるのはシキだけだったろう。しかし、主が下したのは待ての命だった。
「かまうな」
「……は」
鼻先を抑えられ、アキラは戸惑いながらも宜った。主の言動には必ず意味がある。ときに気まぐれを起こすこともあるが、獲物をみすみす逃すような甘さはないと知っていた。引き続き周囲の様子を探る。なにか別のいやな気配を感じてもいた。殺意や害意ではないが、胸焼けするような感覚がする。その源はすぐに知れた。思わずわずかに身をこわばらせる。シキが鼻を鳴らした。
「……あの顔を覚えておけ」
主の命令がなければ即刻忘れたい類の表情だった。アキラは少しだけ自分の視力を恨んだ。あの鼠の真上の席だ。まるで樽のような体型のでっぷりと太った男が、瞳孔の開いた丸い目でこちらを凝視していた。
「……こちらの身上に感付いたんでしょうか」
「いいや」
ひどく無遠慮で、同時に無防備なその視線は、やがてオペラグラス越しに変化した。見えるということは見られるということでもある。しかし男は、そんなことはまったく思い付きもしないようだった。アキラを人間ではなく、なにか珍しい調度品のひとつを見るように眺め回している。
「この国の大臣だ。元親日興連。あの鼠の新しいねぐらだ」
「ご存知だったので?」
ここにあの男が現れることも、最初から。愉しげな気配だけが答えた。
「舞台を見ているふりをしろ。こちらが気付いていることを悟られるな」
やわらかな光のなかで女が歌を歌っている。その声は丸みを帯びたホール内で反響しては消える。しかし楽しむ気分にはなれそうにもなかった。
「いったい何を」
「アキラ」
「はい」
頬にすら鳥肌が立つような不快感に耐えるアキラにとって、背後から聞こえるシキの声は音楽に等しかった。舞台に猟銃を持った二人の男が現れる。照明は再び落ち、不穏な空気が漂い始めていた。
「美しさは、一種の強さだ」
先ほどの話の続きだ。しかしなぜ、このタイミングなのだろうとアキラは内心首をかしげる。ステージの端が赤くライトアップされ、黒い影が現れた。舞台が暗くなったことで、ホール内も視界が悪くなる。あのいやな気配が、諦めたかのように軽くなった。生理的な嫌悪にかすかに眉をひそめたまま、気配を伺い続けるアキラに、シキは手を伸ばした。
「――ッ!」
灰色の髪に隠れた耳を探る。主の声を逃すまいと意識を集中していた場所だった。びくりと体をふるわせたのを嘲笑うかのように形をなぞり、弄んで、放す。
「──お前にはまだまだ学ばねばならないことがある」
それはアキラ自身、最近とみに感じていることでもあった。ニホンを統一してこちら、任される仕事の責任も大きくなり、内容も多岐に渡った。主を狙う対立勢力も、日興連のころよりもあからさまに活動している。単純な戦闘能力や業務の処理能力の高さだけではなく、広い視野をもって情報を収集し、かつ効果的に活用する能力が必要だった。そしてそれは、アキラにはまだ充分に備わっているとは言いがたい。何度か驚くような場面で罠にはまり、辛酸を舐め、そのたびにシキの手を煩わせた。先日など軽くない怪我まで負わせてしまったのだ。あってはならないことだった。
「……いつか、貴方の傍に立つのにふさわしい人間に、なります」
かすかに目覚めさせられた熱を押さえつけるように、アキラは答える。しかしそれを主は許さなかった。次に触れられたのは、臍のピアスだ。
「お前はいつの間にかそんな物言いをするようになったな」
「……ッ閣下、」
「俺のためと研鑽を重ねる姿は愛らしいが、遠くを見据えるばかりで足元が危うい。全くの無意識というのも考え物だな。退屈はせんが、少々──」
穿たれた穴の中で、スタッドが動くのを感じる。引かれ、押し込められ、引きつれる皮膚の感覚は、時に痛みを伴ってアキラをあおった。
「……ぅ、……っ」
「気に触る」
がり、と引っかくようにして離れていった。アキラは息を噛み殺す。ソファに背中を押し付けて熱をやり過ごそうとした。指ひとつで、これだ。理性など泡に似ている。必死でかき集めた端から崩れて消えかける。自分の体がどうなっているかなど、いつからか考えることすら無駄だとやめた。そんな風に作り変えられてしまったのだと、受け入れるしかなかった。それとも初めからそうだったのだろうか。シキの手に自由にされるために、存在していたのだろうか。それはそれで、甘美な妄想ではあったが。
「……お願いですから、本当に、おやめください。俺のたがが外れやすいことは、貴方が一番ご存知のはずだ」
主はそれを鼻で笑う。その手の中で溶けた氷が音を立てた。シキはグラスをテーブルに戻して立ち上がる。
「人のせいにするな。……帰るぞ」
脱いでいたジャケットを手にかける。
「まだ、途中ですが」
「いい。本来の目的は果たした。早々に帰って従僕を慰めて差し上げるとしよう。物欲しそうな顔を衆目に晒されてはかなわん」
「な……ッ!」
慌ててソファを立ったところに、咄嗟に流せない台詞を聞く。返す言葉が見つからず、その顔を見つめたまま唇を震わせた。目を細めたシキに、カーテンの陰に引き寄せられる。軽く肩に触れた鼻先に、ふわりと嗅ぎ慣れた体臭。ほんの僅かな目眩を感じながら、何を、と問おうとして上げた顔を、両手で包み込まれた。唇が触れ合うまであと数ミリの位置で、覗き込んでくるのは赤い瞳だ。
 涼しい顔で主は問う。
「不服か」
耳を犯す低く甘い声。背骨が溶けて崩れるかと思った。否以外の言葉を誰が、言えるというのか。むくりと起き上がった反抗心が熱に喰われていく。それでも逃がしきれなかった悔しさが、掴んだシキのジャケットの裾に皺を作った。
「どうして、そう……、……ッ!」
貴方は。言葉のために開いた唇がすべてを言い終わる前に、舌先で一舐めだけしてシキは離れた。沸いた感情も衝動もいちいちすべて出口を奪われて、アキラは肩を震わせる。片手で口を覆いながら歩き出した背中を思わず睨んだ。その意地の悪さに拍車がかかっているのは、気のせいではない。先日不興をかって以来、ふとしたタイミングでこんなふうに苛まれ続けている。
 何かを呼ぶような男の歌声が響く舞台を後にした。階段を降りるシキの斜め後ろ、いつもの定位置に、わずかに眉根を寄せたまま、伏し目がちに続く。
「今日の演目はどうだった」
「……わかりませんでした」
答える声音には隠し切れない硬さがあった。そのあたりの不器用さは生来のもので、簡単に治るものでもない。
「狼の谷に現れる悪魔が、最後に全部持って行く話だ。幸先がいいと勧められた」
「貴方が悪魔という点においては、俺も賛成です」
思わずそう口にすると、シキは唇で弧を描いた。
「ならばお前は悪魔の犬だな」
その言葉に、アキラは少しだけ気を取り直す。幾度か、銃口や剣先を向けた相手にその名でののしられたことがある。そのたび、言いようもない快感が体を駆け抜けた。どんな形であれ、自分がシキに属するものだと言われるのは心地よかった。しかし続く言葉に気分は再び底辺まで叩き落とされる。
「高嶺の花と纏わりつかれるよりは、いくらかマシか」
「……」
沸き起こった苛立ちを、腹にためて黙り込む。こんな時の主の言葉は蛇の潜む藪だと、ここ数日で身をもって知っていた。シキの不機嫌の原因は数週間前、二コルに適応しすぎた兵が、ナルニコルたるアキラを求めて起こした騒ぎだ。アキラとしては、話題を持ち出されるだけでも気分が逆撫でされ、あるいは心臓にやすりをかけられるような痛みを覚えた。とはいえ責任は自分にある。揺らぐような感情はすべて胸の奥底に押し込めようと努めていた。しかしシキはそれを知っていてなお、事あるごとにその話題をちらつかせ、揶揄してくる。仕舞いこんだ痛みを引き出そうとするかのようだった。うっかり反発すればますます弄ばれるのだからたまらない。
「アキラ」
「何か」
「……機嫌を直せ」
しれっと言ってのけるのに、それは俺の台詞ですと、叫びそうになるのを唇を噛んで堪える。奥歯を噛み締めながら、主のために待たせていた車の扉を開く。先に乗り込んだシキが、何を思ったか手を差し伸べた。まるで淑女にするようなその仕草に、素直に応じたくない気持ちを抱いて拳を握る。
 シキは鼻を鳴らして目を細めた。それは舌なめずりする狼にも似ていたし、得物を絞め殺そうとする蛇のようでもあった。
「……お前だけは、どこまでも連れて行くぞ」
嫌がろうが泣き喚こうが、ふさわしかろうがそうでなかろうが、俺の知ったことではない。そう続け、差し出した指よりも先にその赤い瞳で絡めとる。アキラは一瞬自分のいる場所がわからなくなった。歌劇は未だ上演中だ。会場の周りは閑散としている。しかしまごうことなき往来で、まるで肌を滴り落ちるような台詞を言ってくれる。
「……貴方は……っ」
唇を噛む。そして差し出された手を掴んだ。それは珍しく素肌の感触で、アキラを一瞬はっとさせる。しかし気にせず力の限りに握り締めた。
「望むところです。泣き喚くことなどけしてないと、見ていらっしゃれば良い」
苛立ちまぎれに宣言する従僕に、シキは口の端をあげて視線を外した。
「一時間後が楽しみだな」
「……そういう意味ではありません……!」
アキラがとうとう怒りに染まった低い声を吐き出すと、王はひどく愉しげな笑みをその横顔に浮かべた。

end.

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