ピアノレッスンの話



蓋を開いたピアノは、黒い蝶に似ていた。
背後で厚みのある扉が閉まる気配がして、それきり廊下の音が遠くなる。ほとんど外気の温度に冷やされた空気が頬を撫で、かいだことのない、樹脂に似た香りが鼻孔をかすめた。人気がないのを確認して、アキラは首もとのタイをわずかに緩める。
音楽室になるはずの広い部屋には、晩秋の青い夕闇が入り込んでいる。四方を囲む壁の一つは厚い硝子壁で、そこから中庭の景色が見渡せた。ここ数日の寒さに赤や黄に色を変えた一部の木々と、常緑樹の緑が、暖かい色の照明に足元から照らし出されている。
元々は行事の際の休憩室であったこの部屋に、防音等の対策が完了したとの知らせを受けてはいたが、訪れたのは初めてだった。けして華美ではないが、柱に新たに施された彫刻や天井板の模様など、他の部屋に比べると装飾的でどことなく華奢な印象を受ける。
楽器が届いたのだと、聞いたのはつい先程の事だ。こまごまとした仕事の隙間、ちょうど退庁時間を過ぎた頃だった。アキラが興味を示したのを察した部下に、半ば強引に促されて部屋を出た。
ここしばらくは故あって特に忙しくしていた。休暇も取らずに働き詰めている上、まだ時間があるからと席から動く気配のない上司を、帰らせるにはちょうどいい口実だったのだろう。抜けられるときに抜けない限りずるずるといつまでも職場にいることになる。そのタイミングを掴むのがアキラは少し苦手だった。それを、彼の部下はよく知っていた。
部屋の中央で外からの僅かな光を反射するピアノは、まるで静かに呼吸する生き物のように見えた。すぐに出ていくつもりで、明かりを付けぬままに近づく。 羽のように天板を開いた姿は想像していたよりも大きい。撫でるように触れた黒く艶のある表面は、グローブ越しにもひんやりとしていた。弦が並ぶ内部を覗き込みながら回りこんで、鍵盤らしき場所の蓋を開く。赤いフェルト布が敷かれており、その下から白と黒の鍵盤が現れた。
人差し指で鍵盤をそっと押しこんでみる。控えめな音が響いた。もう一度、今度は先程よりも少し強く。想像に反して温かみのある音が返って、アキラは指を止めた。もっと硬質な、鋭い音がするかと思っていたのだ。今まで聞いた演奏を思い出してみても、少なくともこれよりは、はっきりとした音だったような気がする。鍵盤を押すだけのことにも、もしかしたら特別な技術が必要なのかもしれない。再び、今度はいくつかの鍵盤を左から右へと順番に押していく。
幾度かホテルのロビーやパーティーの会場の隅に用意されているのを意識したことはあったが、触れたのははじめてだ。何となく気になる楽器ではあった。シキに伴われて訪った夜会で見てからだ。夜も遅い時間だった。すでに奏者の姿はなく、落ち着いた音楽が部屋の隅や天井に隠されたスピーカーから流れていた。控え目な照明の中に佇むピアノの静かな存在感は、ある種の清冽さのようなものを纏っていた。艶のある黒、汚れ一つなく白い鍵盤、譜面台の上に深紅の楽譜。
綺麗だと、思ったのだ。
「音が狂っているな」
「ッ!」
不意に耳元で囁かれて、アキラは肩を跳ねさせた。狂った手元は、鍵盤の端近くで耳障りな音をたてる。反射的に振り返れば、一歩後ろで見慣れた白皙が唇に弧を描きながら、横顔に外からの光を受けていた。
「……閣下」
驚かせるのはやめてくださいと肩越しに非難の視線を向けるが、シキはこちらの言葉を気に留める素振りも見せずに鍵盤に手を伸ばした。白いグローブの五指が波打って2オクターブ分を駆け上がる。アキラが人差し指一本で出したものよりも張りのある、輪郭のはっきりとした音だった。
「調律はまだか」
「届いたばかりだそうです。……習ったことが?」
「幼いころ、少しの間だがな」
その割には滑らかな動きで、どこかで聞いたことのある旋律を奏でている。
「指は寝かすな。キーを打つ時と同じだ。指の腹だけを使え」
やってみろと促されて、アキラは再び鍵盤に指をのせた。ドは二連の黒鍵の左隣の白鍵。親指からはじめて、ミを弾いたら、中指の下にくぐらせた親指でファ。シまで順に指を使って、再びくぐらせた親指でド。指が絡まりそうだった。
だが二度三度と繰り返すうちに、ゆっくりであればリズムを崩さずに弾けるようになる。ほんの僅かながら達成感のようなものを感じて、アキラは小さく息を吐いて指を引いた。と、入れ替わるように背後から伸びた、シキの腕の付け根が肩に触れる。嗅ぎ慣れた匂いが鼻先を掠めた気がした。おそらくは自分しか知らないであろう、仄かな体臭。
無意識に息を深く吸い込んでから、アキラは自分の行動を誤魔化すように顔を背けた。ざわついた心持ちを押さえつけながら床に言葉を探して、頭の隅にひっかかっていた問いを見つける。
「何故急に楽隊など?」
軍内部に、式典やイベント事用に音楽を専とする部隊を配属する運びとなったのは、他でもないシキの意向による。総帥その人による命令は、審議を省略して早急に準備を進めさせた。
答えないまま、音を確かめるように鍵盤を弄ぶ白いグローブの手の甲に、アキラは小さな呟きを落とす。
「……この国の創設式は、音楽一つなかった」
ニホンが名実ともにシキのものになったことを宣言したのは、既に二年も前の事だ。
軍靴と、銃と軍服のパーツ触れ合う音。それだけが重なりあった重い静寂。仰々しく空虚な口上も、空砲すらなかった。そういった虚飾や権威付けが不要だったのだ。ただシキが壇上に立ち、その口を開くだけでよかった。その場にいた全てが新しい支配者の姿に目を奪われ、言葉に意識を支配された。多くが頭を垂れ恭順した。残りは惹きつけられたことが屈辱ででもあるかのように反旗を翻し牙をむいた。そうせざるをえない、生半可な態度を許さない引力を、シキ自身が持っていた。
無駄のなさは、シキの築く帝国を象徴するように思えた。誇らしかったし、それが当前のように感じていた。だから今更楽隊を用意するなどと言われても、拒否感とまではいかないが、違和感が先に立つ。
「国を象徴するような式典に関しては、今後も形式を変える気はない」
「では何故」
こちらの胸の内を鼻で笑うようにして発された低い宣言に、鍵盤に視線を向けたまま問いを重ねる。形の良い長い指が奏でる旋律は、いつの間にかアキラの知らない曲に変わっていた。
「ピアノひとつではしゃいでおいて、不服とは言わんだろうな」
「はしゃいでなど、」
咄嗟にそう否定してから、先を続けようとした口を噤む。なにか嫌な予感がして、わずかに視線を泳がせた。彼の主がこういう物言いをする時、多くの場合その先には罠が仕掛けられている。最近は気配で察知することができるようになってきたが、それでも一瞬の感情の揺れを突くようにしたやり口に、罠に足を噛まれてから気付くことのほうがずっと多い。
「……ここのところ碌に顔も見せずに走り回っていたのが、こんなところまで見物に来るくらいだ。相当なものだと思ったが」
やはり少しばかり、気付くのが遅かったようだと内心で舌打ちをした。言葉の端に見え隠れする刺に、アキラは表情を消して唇を引き結ぶ。天敵の気配を察知した野生の生き物のように、動きを止めて背後のシキの気配を伺った。だが意外にも、次に放たれた苦笑交じりの声音からは刺が抜け落ちている。
「……情緒を解さん堅物ばかりになってはつまらんだろう」
体の左右から腕が伸びて、気付いた時にはピアノとの間に閉じ込められていた。フェイントだ。退路が絶たれたことに焦りを覚えても、時既に遅かった。
「この国のナンバー2からして、仕事以外目に入らんようだからな」
「……俺にご不満がおありなら、」
耳に囁く唇の動きを感じて、跳ねた肩を誤魔化すように口を開くが。
「駆け引きひとつ付き合う気がないらしい」
意地の悪い返答に、言葉尻を絡めとられた。
ぐい、と腕が引かれて身体が反転する。肩を押された。背中が開いたままの鍵盤の蓋にあたる。腰に提げたサーベルがピアノの足にぶつかって嫌な音をたてた。
「冗談が通じんのも考えものだ」
軍服の上着の下に手のひらが入り込む感触。張り詰めた筋肉の形を確かめるように腹を撫でられて、息を呑む。
「……ッ貴方の冗談はたちが悪い」
硝子一枚で隔てられた中庭に目を走らせた。いつ人が来てもおかしくない場所でこういった行為に及ぶのは、趣味がいいとは言いがたいだろうと暗に抗議はしてみるが。
「文句があるなら本気で抗ってみせろ」
シキは一向に省みることなく、アキラのタイを造作なく解いていく。
制止しようとして掴んだ手は器用にアキラのそれから逃げ出して、ワイシャツの喉元にかかった。ボタンがはずされて、冷えた空気が胸元に入り込む。
「閣下……!」
開かれた喉元にあてられた唇の感触に、懇願と拒否の交じり合った声を上げた。
冗談が通じないのを責められたあとでは、強く出られないのをわかっていて付け込まれている。そう気付いていても、全力では抵抗できなかった。言葉端の細かな機微に疎いのは重々自覚していた。会話で人を楽しませることなど出来ようもなかったし、それについて退屈だと言われれば返す言葉もない。その上無粋の一言を告げられてしまえば、傍に控えているのも辛くなるだろう。その想像が、シキの体を押し返そうとする腕から力を奪った。
「……ッん、……!」
顔を背ければ耳の下、頸動脈に柔らかく歯がたてられる。ぞくりとした感触に鳥肌が立った。耳に僅かに息がかかったのに目眩がして、一瞬体から力が抜ける。
「……ッあ!」
それを見計らったかのように二の腕を掴まれ揺さぶられた。体重をかけるようにしてピアノに押し付けられる。体勢を崩す。手をついた鍵盤が不協和音を鳴らした。シキはそれを気にもとめずに追ってくる。
「……ッ」
口の端を甘く噛まれた。上唇を舌になぞられて肩を揺らす。顔を背ける。だがすぐに顎を掴まれ、息を奪われた。
「……、う……っく、ふ......!」
口内を蹂躙する舌が熱い。奥への侵入を拒むと、その舌先を軽く噛まれた。逃げようとすれば弱い場所を撫でるようにして追ってくる。粘膜同士がやわらかくこすれあう。熱を交わす濡れた音が口の端から漏れた。あっという間に視界が濡れて、体に力が入らなくなる。
「……ッうあ!」
それでも抵抗しようとシキの腕を掴んだのと、シャツの前が完全に開かれて、臍のピアスに爪がたてられたのは同時だった。
「獲物を追うのに夢中で、飼い主の元にも戻らん」
産まれた熱は腰の奥でくすぶり続けていた火種を炎に変える。
「駄目な犬だ」
耳元に滴り落とされる、語尾のかすれた低い声。それは毒薬と変わらなかった。ぞくん、と熱が背骨を砕き溶かしながら駆け上がる。体が勝手にピアノの上にくたりと倒れた。いつものように体だけが、一足先にシキの前に降伏する。アキラは悔しげに眉根を寄せて、やがてきつく目を閉じた。
熱い舌が喉の尖りを這った。喉元に吸い付いた唇が、じわじわと気道を圧迫した。苦しい。ワイシャツの上から腰骨の形を優しくなぞられて、足から力が抜けそうになる。肌が快楽を期待して熱を持ち始めた。その間にも少しずつ呼吸が苦しくなって、──恍惚とする。脳が甘いものに蝕まれていく。シキの肩にかけた指が、拒否ではなく縋るそれに変わる。
「──……ッ!」
開放は唐突だった。
急に楽になった喉から音をたてて空気を吸い込む。寝かせた譜面台の上に仰向けに倒れこんだまま、咳き込みながらシキの胸元を見つめた。着信を告げる電子音が響いている。目を細めて体を起こしたシキは、鳴り続ける電話をボタンひとつで沈黙させると、それをピアノの上に置いた。
「……ッ閣下、っ」
動きを再開したシキの手にベルトを緩められて、息をのんで制止の声を上げる。
「後でいい」
アキラは見開いた目でこの国の王を見上げた。シキが電話を携帯していることはとても珍しかったし、それが着信を知らせることはさらに稀だった。まずはアキラに連絡が入るはずで、最初から総帥あてにかかってくるのは相当な緊急の場合だけだ。それがわかっているはずだのに、シキには全く気に留める様子がない。
「閣下、電話に……! お叱りは帰ってから、……ッ、いくらでも……!」
「日が変わってからこそ泥のように屋敷に忍びこんで、明るくなる前に出て行くのは誰だ。ここの所むこうでお前の顔を見た記憶が無いぞ」
「っそれは、」
言い訳のしようがなかった。けれど仕事に忙殺される日々は終わったのだ。何事もなければ、今日は久しぶりに同じ車で帰宅できる。だから尚の事、先程の電話は気がかりだった。
「──明日っ、……、……」
下衣の下に潜り込んだ手に腰を掴まれた焦りに、咄嗟に口を開く。だが続ける言葉が出てこない。言い淀んでいる場合ではないとわかっていながら、躊躇って視線を床にさ迷わせる。
「──明日?」
動きを止めて重ねられた問いかけに、思わず唇を噛んだ。できれば黙っていたかった。けれど口を割らない限り、シキは電話を取らないだろう。それどころか、この後かかってくるはずのアキラへの電話も、無視させるに違いなかった。
「……休みを取りました、だから」
「その様子でか。信用できんな。お前のことだ、電話の内容によれば休暇など返上する気だろう」
鼻を鳴らしながら鎖骨に歯を立ててくるシキに、なお言い募る。
「……ッ、ここのところは休暇のために、立て込んでいただけです。明日はできれば、俺も一日休みたい」
「……珍しい事を言う。何かあるのか」
問われて、再びぐ、と詰まった。アキラは伏せた目を落ち着きなく足元に泳がせる。
普段恐ろしいほどに内心を見透かしてくる赤い瞳は、こういう時に限って笑みに細められたまま、先を続けられるのを待っていた。
シキの腕を掴む手を、より強く握りしめる。視線を目の前の白皙に無理矢理に戻そうとして、結局かなわなかった。腑抜けている。自分でもそう思った。
結局アキラが紡いだ言葉は消え入りそうに小さく、酷くたどたどしかった。
「……貴方の休暇に、合わせた」
「──」
沈黙が部屋を満たした。シキの顔を見ることが出来ず、どんな表情をしているのか確認もままならなかった。同じ日に休みをとったところで何だというのだと、ここ数日のうちで何度も繰り返した問いが、再びアキラの脳裏に強く浮かんだ。そもそも国のトップふたりが同時に休暇を取ることが、簡単に許される環境ではない。普段からなにかと仕事の多いアキラにいたっては、丸一日の休日そのものがそもそも少なかった。
だからたまにはと無理に時間を作ってみようとしたのだが、だからといって共に何かしようなどとは考えていなかった。会話が増えるわけでもないだろう。むしろ仕事が絡んでいたほうが多くの言葉を交わすに違いない。アキラは多弁な方ではなかったし、シキも沈黙を厭わなかった。時には手合わせ等に時間を割くこともあったが、多くの場合、それぞれ別のことをして、時には部屋すら違えて、過ごしているだけだった。それだけだ。そう知りながら何故、同じ日に休みを取ろうとしているのか、アキラ自身にもわからないままだった。
暫くの間、何も言わずにアキラを見おろしていたシキが、やがて口元を緩ませる。
「……今のように愛らしく強請れば、休みなどいくらでもくれてやったものを」
そんなことが出来るはずがないと、その言葉は喉の奥で丸まったまま舌の上まで出て来ることはなかった。顔が熱い。むっつりと黙りこんでいると、やがてシキは口の端から軽いため息を漏らした。低い美声には呆れが交じる。
「仕事を人に任せることも覚えろと、前にも言ったはずだ。そうすれば、少しは手も空くだろう」
「……貴方に関わることは、なるべく俺が」
「強情だな」
部下にも時折、物言いたげな視線を投げられる。信頼していないわけではないのだ。ただ、自分の手元に置きたい仕事が多すぎるだけで。
「いつかそれで失敗するぞ」
むしろ楽しみだとでも言うように鷹揚に、手の甲で軽く従僕の頬を撫でると、シキは体を起こした。行っていいと、無言で示されたのにほっとして、アキラはピアノとシキの間から抜け出す。気が変わる前にと、背を向けたまま手早く乱れた服装を整えた。
「屋敷にもひとつ置くか」
「──、何を」
「ピアノだ。趣味のひとつくらいあっても咎めんぞ」
からかうように言って、シキはピアノの表面を指先で叩いた。
「別に、そこまでお気遣い頂くほどのことでは」
「気になるんだろう」
「──」
気にならないかと言われれば、たしかに否だ。だがそれは、ピアノそのものに対する興味とは違う気がした。
綺麗だと、思っただけだ。
そこにあるだけで、空気を支配する。静かな存在感と、ある種の清冽さ。艶のある黒、汚れ一つなく白い鍵盤、譜面台の上には深紅の楽譜。
たぶん、どこか似ているからだ。
「アキラ」
呼ばれて振り返る。ピアノに倚りかかり、譜面台に肘をつきながらこちらを眺めていたらしいシキが、タイを持ち上げていた。
「忘れ物だ」
「ありがとうございま、……!」
受け取ろうと伸ばした手が掴まれ、強引に引き寄せられる。
また、と、アキラは表情を固くした。だが次にシキが触れたのはシャツの襟だ。手早くタイが結ばれていく。主の趣味の悪い冗談を理解するのに要したのはほんの1、2秒。顔をしかめてそっぽを向くと、耳元に後でな、と囁かれた。羞恥を隠した渋面で見上げるが、シキは素知らぬ顔だ。
タイの位置を整えていたシキの手を柔らかな、しかし意思の篭った動きで拒絶すると、帽子を頭の上に載せながら呟く。
「……もう、行きます」
「車で待つ。すぐに降りて来い」
アキラは返事をせずに、黙ったまま踵を返して扉にむかった。一度だけ振り返ると、酷い渋面のまま物言いたげに彼の主を見つめたが、結局何も言わずに部屋を出て行く。
くつくつと笑い続けるシキの傍らで、扉の閉まる気配にかぶさるように三度目の電子音が響いた。
ピアノに軽く倚りかかりながら、スピーカーモードで通話を開始する。自らの名を名乗る温度を感じさせない声色が部屋に響いた。
『例の件、おっしゃっていた通り連絡が』
「なんと言っていた」
部屋の中を木々の影が行き来する。高い壁に囲まれた中庭まで届いた風が、木々の枝を一撫でして揺らしていった。
『前日になって急に予定を変更されても困ると。ごねてみせているようです』
「対等な取引とでも勘違いしているらしいな」
おおかた、謝罪もなく一方的に言い渡されたのが気に障ったのだろう。シキは形の良い唇で三日月を描くと、ピアノの内部に手を伸ばし、銅の巻線を撫でた。
話題に上っているのは外資企業の、本国の重役との約束だった。シキにとっては休日である明日に会談を入れていたのは、忙しく飛び回る秘書を通さずに予定繰りしたためだ。後になって当のアキラから文句のひとつも出ようものなら、存分に灸をすえてやろうと思っていた。それがどうやら休暇を合わせようとして奔走しているらしいと気付いたのは昨日のことだ。
「立場をわきまえろと言ってやれ。理解できんのなら──犬に食わせるぞ、とな」
『は。──この件は引き続き、閣下に直接ご連絡すれば?』
「これ以上ごねるようならアキラに渡せ」
通話を切り、そのまま電源も落として胸元に端末を戻した。
「喜んで喉元目掛けて飛び掛かっていくだろう」
呟きながら先程の飼い犬の顔を思い出して、笑みを深める。
随分と懐いたものだと思う。それでいて鼻っ柱の強さだけは変わらないのだから、無理にも感情を逆撫でしてやりたくなるのだ。奔走して手に入れた休日に、自分がこのまま予定を入れていたらどんな顔をしていただろうかと、それも興をそそるところではあったが。
「……ワーカホリックが折角奪取した休暇だ、存分に活用せんとな」
硬い靴音を立てて部屋を横切る。
誰もいなくなった部屋に、扉の閉まる音が響いた。
しばらくは木々の影だけが壁や床に投げかけられて揺れていたが、やがてそれも静止して、室内は影絵のようになる。
全てを見ていたピアノが一音、つめていた息を密やかに吐くように鳴ったのは、からかわれたことに気付いたアキラが、車のドアを乱暴に開けた頃だった。

end.

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