序曲

我が君、
我が主、
唯一無二の黒と赤の王、
──シキ。

*

 不快な音に、視界を覆っていた赤く美しい闇がどろりと溶けて霧散した。やがて眼前に現れたのは、濡れた石畳の床だった。水の中で聞くようなくぐもった音は続いている。大音量の喧騒に似た頭痛の沼をかき回すのが、どうやら自分を呼ぶ声らしいと気が付いて、アキラは眉根を寄せながらのろのろと顔を上げる。
 豊かな白髪を備えた中肉の男が立っていた。将校の制服と、ストライプに星三つの襟章は、アキラよりも上位の階級を表している。年は還暦くらいか。髪を染めたらもっと若く見えるのかもしれない。前にも会ったことがある。いつだ。──いつだ? 急に焦燥に襲われて身じろぎすると、金属がこすれ合う音がして、手首が引攣れるように痛んだ。それに呼び起こされるようにして体中に感覚が戻ってくる。概ね、痛みと、篭った熱と、背骨を刺すような寒気という歓迎できない形で。そうしてようやく、体の輪郭と意識がはっきりとし、地下室らしき場所に拘束されていたことを思い出した。壁に設えられた鎖や枷、隅の蛇口や足元の排水口からは、ここがそもそも拷問を念頭に作られた部屋なのだと知れる。漂う饐えた匂いには、けれどかび臭さはないから、頻繁に使われているのだろう。アキラは両手を広げるようにして、目の荒い石の壁に縫い付けられたまま、意識を失う前と変わらぬ状況を見渡した。
 研究所からの帰りに強襲されたのは、数日前のことだ。
 Nicoleウイルスの研究は軌道に乗り、すでに安定運用に入っていた。ウイルスを投与された兵団は軍の中でも例のない成績を打ち出し続け、結果CFC打倒も時間の問題となっている。率いるシキは功績を認められ、前代未聞の昇進を重ねて周囲の注目を集めていた。向けられる視線は信仰に近い羨望を宿したものと、妬心や警戒心の含まれたものが半々といったところ。Nicoleそのものについて、ドラッグということ以外の情報をひた隠しにしている分、尚更だった。用心していたつもりが、よりによって自分がこんなふうに敵の手に落ちるとは。周囲にはかなり気を配っていたつもりでも、どうやら穴があったらしい。内通者の存在が想起されたが、それも、自らの失態と言う他ない。自分自身に対する怒りを奥歯に噛み潰し、腹の底に沈めた。
 とはいえ相手も、シキの腹心と知っていて襲ったのではないようだった。彼らがアキラに気付いたのは、丸一日に渡る拷問の後だ。優しげな微笑を浮かべた年配の男が現れたとき、アキラは頭の後ろで微かな警報を聞いた。きつい拷問の後、急に人間扱いされたら気をつけろと、低い美声に教えられたのはいつだったか。こんな時ですら首筋を撫でた細い指先を思い出しそうになり、振り切るように口を引き結んで男の顔を睨み上げた。世間話のような軽い口調で何事かを喋っていた男が、かすかに目を見開いたのはその時だった。
「お前は、……」
男は続く言葉を飲み込み、すぐに何もなかったかのような態度を取り繕った。だがそれ以降、暴力による拷問はやんだ。かわりに始まったのは、目隠しの暗闇への放置だった。
 そばに控えた交代制の見張りは、アキラに眠りを許さなかった。闇は平衡感覚と時間の感覚を奪い、それまでの拷問による傷の痛みはいや増した。奇妙な浮遊感や幾何学模様の幻覚と戦いながら、あるいは闘うために、アキラは思考を続けた。先の男の態度からは、むこうとしても予定外の事態なのだと察せられた。暗闇に放置というのも、このタイミングの拷問にしては中途半端だ。おそらく今頃、大慌てで上と相談しているのではないか。本来の計画としては、こんなところだろう──下っ端の研究員を捕らえ、適度に痛めつけ情報を引き出して、可能ならばスパイとする。そうでなければ事故に見せかけて始末する──しかし、彼らの釣り針はうっかりコバンザメを引っ掛けてしまった。深く食い込ませてしまった今となっては、軽率な行動は本体の凶暴なサメに気付かれかねない。下手を打てば漁場は壊滅的な打撃を受ける。
 彼らが苦しい結論を出したのは、見張りの交代頻度から考えておおよそ一日程度経ってからだった。目隠しが外され、裸電球の光が不快な眩しさでアキラの眼底を殴打した。白髪の男は、穏やかな微笑とともにこう持ちかけた。
「有体に言って、アキラ君、我々にとって君の上官の存在は非常に都合が悪い。今回は彼に軍から退いてもらうために、こうして君を確保したわけだ。君のように若く優秀な人材は殺してしまうには惜しい。シキを倒すための情報を提供してくれたなら、なんとか逃がしてやることは可能だが、どうかね」
ここではじめて名を呼ばれ、まるですべて計画通りであるかのような口ぶりを聞いた時、アキラは自分の予想がおおかた間違っていないことを確信した。
 こちらの罪悪感を幾分でも紛らわすためだろう、あえて退けるだの倒すだのという言葉を使い明言を避けたものの、彼らがシキを殺す気でいることは疑いようがなかった。
 アキラとて、身体的にも精神的にも多少は追い詰められていた。だから真実を告げるだけでいいのは、正直ありがたかった。
 ただ、教えてやればいい。不可能だと。自分が口を割ることがではない。シキを倒すことがだ。シキの周囲に散らばる細かな瑕疵を集めたところで、常人に彼を倒すことなどできるはずもなかった。
 情報提供の誘いと質問は根気強く繰り返された。だが差し出すことのできる答えも一つだけだった。やがて諦めた男が部下に指示したのは、薬物の使用だった。
 経緯をあらかた思い出して、アキラは再び目の前の男を見据えた。
「意識ははっきりしたかい」
男は微笑みを浮かべていた。そこには濃縮還元のわざとらしい憐憫が混ぜ込んであった。
「君の上官に対する過度の忠誠心は、よくわかったよ」
手にした空の注射器には、おそらく気付けのための薬物が入っていたのだろう。最低最悪の目覚めだった。騒々しいほどの頭痛と、からからに乾いた口内と喉。体はまるで水をかけられたかのように濡れているが、これはまさか汗だろうか。めまいと寒気、吐き気は高波のように襲ってくる。
「偉いものだ、クーデターや足の引っ張り合いがはびこる今時、君のような真摯な気持ちを持った若者は少ない。あのシキという男が、それに値する人物だったかどうかは別として、私はそれを評価したいと思う」
元来舌の回る質なのだろうが、それにしても随分もったいぶった口上だった。アキラは思わず黙れと言いかけた口を引き結んだ。
「だから私はこれから、君にとってはとてもショックなことを伝えなければならない」
「無駄口は、いい」
痛みと極度の疲労のために、久方ぶりに発した声はかすれ、ひしゃげていた。焦りは、正直あった。薬物を使われてからの記憶は混濁している。自分は何を喋り、何をしたのか。どのくらいの時間が経っているのか。平静を保とうとしても、疲労と痛みと不安に重くなった心が波だつのは止められなかった。初めて聞いた先を促すような言葉に、男は満足げに目を細めた。
「……シキは死んだよ。我々の言葉に耳を貸そうとしなかったので、仕方なかった」
口調だけはさも残念そうなまま続けられたそのとき、一瞬、はじけた思考に脳裏が真っ白に染まった。
 目を見開いたアキラを見て、男は嗜虐の喜びに濁った笑みを浮かべた。
 けれどそんなことは、アキラにとってはもはやどうでも良かった。真白に染まった思考は、次の瞬間あの鮮やかな赤に染まった。自らを支配し、やがて世界をも支配することが約束された、鮮烈な色。
 乾いて固まっていた血に、頬の皮膚が引きつる。声を上げて笑ったのなどいつ以来だったろうか。こみ上げるおかしさを、留めることができなかった。振動が響いて節々が悲鳴を上げても、顔をしかめながら笑い続けた。
「……く、くく、はは、はっ」
「……何がおかしいんだね?」
急に真顔に戻った男に問われる。その顔にはどんな感情も存在せず、それは逆に、男の動揺を告げていた。
「ありえない。……あの方が死期を悟ったなら、必ず俺を、殺しに来る。……ッは、必ず、だ」
離れることは許さないと、シキ自身が言ったのだ。あの雨の日、廃墟のトシマで、熱に灼かれ、アキラが生まれ直した日。ならばその言葉は絶対だった。たとえそれが戦場だろうと、黄泉路であろうと、大差はない。シキがそうと決めたなら、それは必ず実現される。あの方は、
「死んでも、……俺を、手放さない」
甘い痛みに脳を灼かれながら、アキラはどこか恍惚と、噛み締めるように呟いた。
 妄言だと思ったのだろう。男はいくらかの安堵を口の端に載せた。
「君がそう信じたいというならば、止めはせんがね。今は現実を見ることだ。君自身の命がかかっているからね」
胸ポケットから、拳銃もナイフも似合わない太い指で煙草を取り出す。控えていた兵士が恭しく火をつけた。一口吸って吐く、その短いようで長い時間、上下関係を確認するようにこちらを待たせてから、再び口を開く。
「我々は引き続き情報の提供を希望する。ことによれば、君を取り立ててやることも可能だ。今回の事件に関して、こちらの正当性を証言してもらえればね。──我々が欲している情報は、Nicoleの効力を消す方法、あるいは、弱点。これに関しては、当然だろうがひどく巧妙に隠されているようだね。現在研究施設も調査中だが、可能な限り迅速に情報を手に入れたい。君なら当然知っているだろう」
「もう遅い」
今となっては、教えてやれるのはそれだけだった。そして最早、シキを殺す不可能性を説いて、彼らの寿命をいくらか伸ばしてやることすら、できはしないのだった。
 かすかな振動とともに、天井から吊り下がった裸電球が小さく揺れた。目の前の男はそれに気を向けることすらしなかった。それは焦りの現れに違いない。もし上階の様子に注意を向ける余裕があれば、あるいは、シキの恐ろしさを知っていたなら、その未来も多少は変わっていたかもしれなかった。
 アキラは笑みを濃くした。
「何がおかしいのだ、……」
男がまるで外敵に気づいた兎のように耳をそばだてたのは、その時だった。狭い地下室に、ひどく特徴的な足音が響き、煙草の煙と入れ変わるように充満していった。一歩一歩石の階段を降りる、ゆったりとした正確なリズム。まるで音楽的なその音。これまでアキラの言葉を妄言と一蹴していた男にも、その不吉さを感じ取る感性はあったらしい。それはまさに死神の足音だった。
 鉄扉が音を立てて開かれた。そしてその時にはすでに、男の首は胴体と別れを告げていた。続いて控えの兵士の命を道端の草を薙ぐように奪いながら、鎖に囚われたアキラを視線で犯し、シキは唇をしならせた。
「いい格好だな」
「……」
「滾ったか?」
「貴方の躾に、比べれば、こんなもの」
「……ふ、」
次の瞬間には、鉄の枷に戒められていた両の腕が自由になっていた。膝が折れ、倒れた体を両手で支えようとして、痛みに息を呑む。
 体中が悲鳴をあげていた。痛みは熱く、それ以外の場所はひどく寒い。床に手をついたまま動けないでいると、目前でシキが身を屈めた。白手袋に包まれた手がアキラの顎を掴み、傷を検分するかのように覗きこむ。
「御手が、汚れます」
「自分の物を傷付けられるのは、存外に腹立たしいものだな」
身動きのたびに響き渡る苦痛を、奥歯を噛み締めて耐えた。
「すべて貴方の、采配でしょうに、……ッ、次からは、せめて事前に、ご連絡を」
さすがに恨みがましい声音を隠し切れない。シキは悪びれもせずに笑みを濃くした。
「いつ気付いた?」
「先程、貴方が死んだと、聞かされた時に。……う、」
肋骨のあたりから、鋭く太い針のような痛みが体中に響き渡って息をつめる。それを、目の前の主は意地の悪い微笑みとともにつぶさに観察している。
「このあたりか。……折れているな」
こんな時すら官能を呼び起こす指先が、血に汚れたワイシャツ越しにアキラの胸を撫でた。思わず体を強張らせると、赤い目を細めて確かめるように力をこめる。
「……いッ、や、め……あ、ああッ!」
あえぐ。空気を求める魚のように。生理的な涙が視界をかすませた。
「……っく、は、ッあ、」
「そんなにいい声を出すな。……随分ひどくやられたな。すぐにお前と気付くと踏んだが、連中想像以上に愚鈍だったらしい」
息をするので精一杯のアキラを、冷笑とともに軽々と抱き上げて呟く。アキラはもはや抵抗する気力もなく体重を預けた。よく見知った低い体温に触れると、それだけでいくらか楽になる。
「いい加減目障りだったが、叩き潰すには名分が必要でな」
そのために、わざと自らの腹心を捕らえさせたのだ。内通者を見逃していたのかと、アキラは自分の甘さに臍を噛んだが、シキ自身が情報を流していたのならばどうしようもなかった。
「…何日、」
俺はあそこにいましたか。消えた言葉の先を、所有者は正確に拾い上げる。
「四日ほどだ」
「……薬を盛られて、幻覚を見ました。赤い、貴方の瞳にずっと、おぼれているような」
「俺はここにいる」
合わせられた視線。ぞくり、と、熱が背骨を走りぬけ、腹の底にたまる。臍のピアスがじくりと熱を持って痛んだ。
 階段を登り赤く染まった廊下を抜けて、館をあとにする。月も星もない夜の闇に沈んだ庭は、生き物の気配が絶えて静まり返っていた。漂う血臭は火薬の匂いを含んでおらず、シキが単身でこれを成したのだと告げている。だがその匂いも、腕の中を覗きこむようにして言葉を落としたシキの纏う香りに霧散した。
「よくやった、アキラ。褒美をやろう」
耳を通して脳を犯すような、低く語尾のかすれた声。
「何がいい。お前は欲深い割に、物に対する執着が薄いからな。……そう、」
赤い目に覗きこまれれば思考すらままならない。息すら忘れ窒息するのではないかと思う。この数日間のどんな暴力よりも鮮烈で、薬物の快楽よりも恍惚とする。
「……痛みをやろう。その傷をすべて、なぞり、開き、刻み付け直してやる」
言葉に導かれるままに想像して、耐えられず熱い息を漏らす。抱かれた胸に額を押し付けた。全身の痛みが、ひどく甘いものに変わる。早く、早く早く。与えてほしい。この身が砕け散るほど。何もかもわからなくなるほど。そう、なんてつまらない数日間だったろう。まるでふやけた灰色のスポンジの中にいるようだった。シキが現れるまでは。いつものあの赤で染め上げるまでは。
 満足気な笑みの気配が、本当は未だに少しだけ腹立たしい。出会った頃、抗いたくて仕方がなかった頃の悪癖が、胸の底にほんのかすかに生きている。けれど最早、魂、命、何もかもを差し出すことだけが、喜びだった。シキから与えられるものだけが、自分を生かしていた。
 門扉の前にはすでに黒塗りの車が待っている。それはまるで棺に似て、悪魔とその犬にはふさわしい乗り物と言えた。
「この国を、手に入れにゆくぞ」
「はい、──我が君」
二人のために開かれたドアは静かに閉じて、不穏な静寂を孕んだ闇の中へと滑りだしていった。

end.

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