眠れる王の黒い椅子
(再録:すやすやシキアキアンソロジーより)

 弔砲が繰り返し灰色の空を渡る。
 木々やビルの屋上に羽を休めていた鳥たちが一斉に飛びたった。やがて群からはぐれた一匹が、白い石の塔の高窓に降りて翼をたたむ。
 感情のない黒い瞳は、何処もかしこも白く冷たい壁や床と、運び込まれたばかりの柩、それを囲む軍服の人々を見下ろした。高天井の下の静謐な部屋は、故人の望んだ短い葬儀の最後に、黒塗りに銀蒔絵と螺鈿の施された柩が安置されたところだった。
 黒い人影はそれぞれの別れを済ませ部屋から出ていき、やがてたった一人が残される。

 主従に最後の別れを促すように、周囲から人の足音がすっかり遠ざかったのを感じながら、アキラは棺の中に横たわる主の顔を見つめた。
 血の気を感じさせない肌は、純白の花に囲まれてようやく、そこにも色があったことを思い出させた。雪のごとく白い頬、黒檀の如き髪、血の如く赤い──瞳は、今は長い睫毛に縁取られた瞼の裏に隠されている。
 まるで眠っているようだ。
 棺に収められた主の、白皙に視線を落としながら思う。その頬を慰撫するように、黒い鏡のごとき棺の表面を白グローブに包まれた手で撫でた。
「これで、貴方を縛るものはもう何もない。どうぞ、ご存分に──」
囁きは下ろされた瞼の上に砕けて消える。
 棺の窓を閉じる直前、形の良い唇が微かに、笑んだような。
 確かめることはしなかった。振り返ることなく、アキラは踵を返し遠ざかる。
 重い音をたてて扉は閉ざされ、部屋は柩の主の好んだ静寂に沈んだ。

 やがて高窓に翼を休めていた鳥が、何かに驚いたかのように再び飛び立つ。


1.一ヶ月前


 議事堂や会議室の連なる一角を抜けると、足下は絨毯から黒石の床に変化した。ドーム型の遥かな天井の梁を飾る、花を咲かせ結実する漆喰の蔦は、扉を一つくぐると、平らかな天井をさりげなく飾る紋様に変わる。周囲が見慣れた硬質な印象の内装に戻る瞬間、アキラはいつも、ほんの僅かな快さを感じた。
 静寂を守るためとはいえ、絨毯敷きのふわふわとした足下はおぼつかない気分にさせられる。静けさの中で開かれる閣議も昨今は、シキが列席ならば粛々と進められるものの、そうでない折は時にどうでもいいような題材が議論の元となる。先程までの会議を思い出して、筋肉の硬くなった首を回したい衝動に駆られたが、すぐに兵の目を思って弁えた。
 統一ニホン創立から五年経過した現在でも、前線よりも机上の戦のほうが肩が凝る。
 磨き上げられた黒い廊下を、自らの軍靴の音を聞きながら歩いていると、複数の慌ただしい足音が追ってきた。アキラは眉間に皺を薄く刻む。背後から掛けられた声に歩調を緩め、だが振り返ることはせずに足を動かし続けた。
「総帥のお加減は、……お悪いのですか」
一人の男がアキラの斜め後ろについて、辺りをはばかるような声を出した。朝からの会議で顔を合わせていた内務大臣だ。
「たちの悪い風邪だ」
「この時期にですか」
顧みもせずに短く答えると、すぐさまさらなる問いが重ねられる。
 ここ一月あまり、シキ総帥は人の目を遠ざけていた。御前会議だけでなく諸外国との会談や夜会なども、可能な限り代理を立てている。
 アキラは追い縋る男の顔を思い描いた。自分よりも十は年上の、眼光の鋭い男である。統一ニホン建国と同時に内務大臣という地位を与えられて、もうすぐ五年になるはずだった。実戦を離れて久しい幅広の顔には、壮年にさしかかった者のやや過剰な自信がうっすらとした脂と共に滲んでいる。その自信はアキラとの距離の取り方にも顕れた。僅か数センチ後ろ。空気を吸い込む音さえ聞こえそうだ。アキラであれば、敬意を持つ相手との距離としてはけして選ばない近さだ──少なくとも、黒い城の中では。
 とはいえ、アキラの上官は唯一シキ総帥その人だ。それと比較しても仕方ない気もする。自身に威厳だの貫禄だのといったものがないのも自覚していた。
 統一ニホンの上層部はそのほとんどがアキラよりも年上だった。十歳以上年下の人間に敬意を払えとは、軍の厳しい上下関係の元だからこそ今まで成り立ってきたものの、何年も共に仕事をするうちに感覚が麻痺して緩んできたところで、自然なことかもしれない。ただ、アキラの側には馴れ合うほど、この男と時間や国を建て保つための辛苦を共にしたというような記憶が全くなかった。
「閣下には他に重要な用件があられる。お疲れの際はそちらを優先なさっている」
「ならば研究所の職員を傍に喚ばれる回数が増えたのをどうご説明なさる」
「何が言いたい」
「お体を酷く壊されているのではないかと心配申し上げているのです」
「もしそうであれば研究員ではなく医師を呼ぶ」
「Nicoleの始祖たる閣下をただの医師に診せてどうなると」
アキラは階段の前で足を止めると、初めて男を省みた。
「しつこい。──言いたいことがあるなら率直に言え」
ひたりと見据えるが、男はひるまなかった。まるで間に厚い壁があり、それが自分を守ると信じてでもいるかのようだ。アキラはその壁の名に思い至って顎を引く。傲慢、というのだ。罹患した軍人は、実戦では総じて長生きしない。
 戦場において死に直面し続ける緊張故の、過剰な自信と万能感。それらに酔った人間が、最近、何故か内務の方にもぽつぽつと現れだした。この男のように。実戦と違い、彼ら自身が命を落とすことはない。そのかわりに、すでにある秩序を己の力で無駄に作り替えようとし、場合によっては現実に即さない法令などによって、戦地における多くの命を死に至らしめる。そしてそのことに罪悪感を抱かず、自らの行いが誤っていたと認めることもけしてなかった。まるで自らの力を示すことが最も重要であり、犠牲は些事とでも考えているかのようだ。
「大事が起こる前に、閣下ご不在の際の代行をたてる必要があるのではと」
すう、と、アキラは目を細める。笑みのためではない。予想通りの言葉を男が口にしたせいだった。
「どうか意図を取り違えないでいただきたい」
こちらの顔色を察して、男はさらに言葉を重ねる。シキの意志を代弁するのはその側近たるアキラの仕事だった。先ほどの男の弁は、そのアキラを、暗に役不足と断じたに等しい。
「──貴方はまだお若くまっすぐだ。一筋縄でない政治的なやりとりの際に、閣下の代わりに咄嗟の判断を求められるのは不安ではありませんか」
正直、確かに、と思わないでもなかった。まったく、痛いところを突いてくれるものだ。だがアキラの男を見据える瞳は微塵も揺らがない。冷え切った青いコランダムは、澄んだその外見に反して内心を透過しない。
 総帥代行、そういったものが実際に必要だとして、それを判断し決定するのはあくまでもシキ総帥だ。こんな場所で、自分たちが相談するような事柄ではない。
「上奏しておこう」
口だけをはっきりと動かして、返したのはそのひとこと。弁えろと告げたのに等しかった。男のこめかみから目元にむけて痙攣が走るのを、アキラは見逃さなかった。それを後目に、階段に片足を掛け、肩越しに振り返る。
「話は済んだな」
睥睨するようにして形ばかりの問いを投げた。上階には、総帥の召喚がなければ開くことの許されない扉がある。唯一の例外、その秘書を除いては。
 男は一瞬目を合わせた後、視線を伏せて敬礼する。それが怒りを隠すためだとは、ひとの心の機微に疎いアキラにも分かった。
 背中に棘を感じながら一歩一歩、段を上ってゆく。踊り場で切り返して、ようやく粘つく視線から解放された。かわりに静寂が急に水位を上げる。
 鼻からほんの小さなため息を逃がしながら、階段を上りきった。左右に分かれた廊下で、右に曲がろうとした足を、ふと止める。
 進行方向と逆の、その廊下のつきあたりには、罪を断じるための部屋がある。罪人の誰も彼もがそこに連れて行かれるのではない。国にとって重大な災禍をなしたと判じられた者が、罪を命で購わせられる、そういう場所だった。この国が創立されたばかりの頃は、旧日興連上層部の人間の多くがそこに引きずられていった。ここ数年は反乱軍の上層部、それに荷担しようとした諸外国政府官僚などが主だ。
 そして数は少ないながら、統一ニホンに属しながらも、総帥の意向を理解できなかった一部の連中もまた、あの黒々とした鉄扉の中に吸い込まれていったのだ。廊下を引きずられて行くのに最も煩く喚き立てるのが、この手の輩だった。自分の何が断罪されるのか、それすら理解できず、あるいは分かっていても納得しないせいだった。
 あの耳障りな声を聞く日々が、また始まるのかもしれない。
 そんな予感に、不快感を奥歯に噛み潰す。今更あんなくだらない叫びで、シキの耳を汚すのか。
 アキラは表情を変えぬまま、廊下の先を見据える。そうして体の一部と化したサーベルの柄を撫で、ゆっくりとした瞬きをひとつ、した。



2.現在


「ジンマチが攻撃を受けているとのことです」
紛糾する議論の声をいっとき止めたのは、会議に割り込んだ緊急連絡だった。
 議事堂に隣接した会議室で、深緋の絨毯を踏みならすようにして唾を飛ばしていた男と、磨き上げられたオーク材のテーブルを手のひらで叩いて立ち上がり、憤りと苛立ちに充ちた表情でそれに対峙していた男は、仲良く目を見開いて伝令の顔を見つめた。
 その場に集合していた軍部最上層部の十数名強と、内閣の十数名をあわせた二十名余りも、それぞれ表情は違えどみな部屋の入口に注目する。
「状況は」
息を呑むような張りつめた沈黙を真っ先に破ったのは、それまで黙して議論の行く末を眺めていたアキラの声だった。
「芳しくありません。ジンマチでは現在戦闘不能者が多数おり、その隙を突かれた形となっております」
ざわめきが広がった。
「戦闘不能者だと?」
「どういうことだ」
棘のある議論にそれなりに参加していた外務・財務両大臣が、重ねるように問いを投げる。
「先日から地方基地で流行している感冒のせいであります」
立ち上がっていた二人の男のうち一人が、憤懣を腹に押し込めて元の椅子に荒く腰を下ろした。恵まれた体躯をさらに鍛え上げた男の体を、質のいい椅子は軋み一つ上げることなく受け止める。
 アキラは自らの腰掛けた椅子の、肘掛けの描く曲線を視線でなぞった。家具の善し悪しには明るくなかったが、それでも長時間座れば疲労の違いでそれに気付かされる。
 この部屋の椅子は一つを除いて揃えで設えられていた。赤みの強いウォールナットの無垢材に、蔦を模した紋様を縫いとった、黒を基調とした布張り。ここだけでなく、城の中の主要な部屋はほとんどが、張地の模様は多少違えど同様だ。統一ニホン創立の折、出来たばかりの城をシキとともに回った際に、そう説明を受けたのを覚えている。そうでなければ椅子の素材など、意識もしなかっただろう。
 その椅子の群の中に、稀に全く異なる意匠の椅子が置かれている。
 アキラは右斜め隣の空席を見やった。最も上座に置かれたのは、けして華美ではないが、一見して特別と判じられる、重々しい貌を持った背の高い椅子だ。その硬さ故に加工の難しい黒檀を切り出し、さらに微細な細工彫りを施してある。座面は布ではなく、黒光りするオイル革。ここや議事堂を含め主要な数室のみに用意された、シキのための玉座だった。
 この一時間あまり、上層部が顔をつきあわせて何を大騒ぎしていたかといえば、シキ総帥亡き今後、そこに誰が座るのかということだった。
 議会の投票で決すべきと熱弁を奮ったのは、先日廊下でアキラを呼び止め、総帥代行をと迫った内務大臣だった。それに反論し、ナンバー2であるアキラを推したのは、陸軍の法務中将に就く男だ。列席者の三分の一ほどがその議論に加わり、残りのほとんどがアキラ同様に無表情で黙り込んでいた。珍しい状況だった。普段の会議であれば、それぞれがそれぞれに貸せられた立場ごとに、その責務を果たすべく必要に応じて発言する。だが今回ばかりは、様相を異にしているようだった。状況を見守ると言うよりはどこか鼻白んだような雰囲気を纏い、声を荒らげる大臣らにあからさまな冷えた視線を注ぎながら席に就いている者も多かった。
「座ったらどうだ」
一人立ち上がったままの内務大臣に、鋭い一瞥とともに着席を促したのは、アキラの斜向かいの男だった。陸軍兵技中将だ。内務大臣が座るのを見届けると、鉄面皮をアキラに向けた。他の多くの者も同様だ。
 判断を委ねられて、この部屋に入って初めて、アキラはまともに口を開く。
「……このタイミングでジンマチの戦いを長引かせるのは得策でない。閣下不在でも統一ニホン軍は鉄壁であると示す必要がある。いったん閉会し、ジンマチが落ち着いてからの再開を提案する」
テーブルから、賛同の声が次々とあがる。だが件の内務大臣と、その左二席の男は黙したままだ。アキラは見据えるようにして彼らに声を掛けた。
「異存があるか」
「その間の最高責任者は」
「アキラ様に決まっているだろう」
空軍大将が僅かに声を荒らげる。そこにさらに異議なしの声が重なった。
 明らかに承伏しかねる三つの顔を残して、その場は閉会となる。
 部屋を出ると、アキラはそのまま軍上層部の数名と、会議室の扉に控えていた精鋭部隊の古参とともに作戦司令室へ直行した。
 司令室は遮光カーテンが引かれ、壁の一面を覆うように設えられた液晶が明かりの代わりだった。状況はすでにまとめられており、そのいくつかが周辺マップ等とともに表示されている。椅子は取り払われていた。悠長に座って議論するつもりの者など、ここには居なかった。
 先ほどの会議とは打って変わって、短いが端的で無駄のない報告と意見が飛び交った。その結論に基づいてすぐさま各所に指示や、必要とされる新たな情報の提示が求められ、室内を慌ただしく人が出入りする。
 小一時間ほどでいったん状況が落ち着くと、詰めていた軍上層部の数名も、少しの間であれば部屋を離れる余裕が出来た。入れ替わり退出する彼らを横目に、液晶に映し出されたジンマチ基地付近のマップを見上げるアキラの横に立ったのは、先程の会議でも顔を合わせた陸軍兵技中将だった。内務大臣に着席を促し、アキラに判断を求めた男だ。年は三十後半、統一ニホン創立直後から、何かと顔を合わせる機会も多かった。アキラにとっては、仕事以外で言葉を交わした回数こそ少ないが、共に働いてきた実感の持てる相手だった。
「このたびの閣下の件、誠に、──」
先をぼかすようにして、彼はアキラにしか聞こえないような音量で言葉を落とした。
 アキラはちらりとその横顔を見やった。それまでの自分と同様に、彼は液晶を見上げている。より多くの情報を吸い上げようとする顔だった。自らの職分に対する真摯さがある。
「……退屈からは解放されたはずだ」
アキラの言葉を聞いて、彼もまた液晶に向けていた目を下ろす。二人は一瞬視線を交わした。彼はほんの小さく頷くと、つまらない会議でしたねと呟いた。その頃には互いに、顔を正面に戻していた。
「最近は大体そうだ」
「現場のほうがお好きですか」
「ああ」
「自分もです。しかし、ならば何故あんな茶番をお許しに?」
「どれだけの者が気付いているか、確かめたかった」
「なるほど」
「たった五年だ」
アキラのつぶやきは、ほとんど愚痴に等しかった。五年前、統一ニホンが創立した頃は皆、張り詰めた緊張感を快く享受しながら、同じ方向を向いていた。脱落者がなかったわけではないが、それにしてもこんな緩み方はしていなかった。それが、このざまだ。
 中将は苦笑する。
「自分も、この不自然さに気づかぬ者が出るとは思いもしませんでした」
「不自然?」
「閣下がお隠れになられたのに、上官が此岸に残っていらっしゃる」
「不自然か」
「失礼ながら」
「気をつける。……次があれば」
アキラがそう返すと隣の男は小さく噴き出して、しばらくのあいだ肩を揺らしていた。



 

3.三週間前

 細工彫りの施された黒檀の扉をアキラは見上げた。木目が見えないほどに黒々とした最上級の木材は磨き上げられ、その艶のある表面はしかし、まるで光を吸収しているようにも見える。
「入れ」
アキラが口を開く前に、誰何すらなく許可の声が投げられた。
 入ってすぐの執務室に人の姿はない。かわりに、書斎に続く扉が開いたままになっていた。奥の部屋に足を踏み入れて最初に目に入るのは、蜜を垂らしたような光沢を湛える深い色の桜材のテーブルと、その上に重ねられた書物だ。手触りの良いオイル革に、黄昏の凝ったような昏い金文字が印じられた本が数冊。暇に膿んだときに初めて開かれる、そういった類の書だと、以前聞かされたのをアキラは覚えていた。退屈と飽食と不安の時代に描き出された、退廃の文学。
「何か面白いことがあったらしいな」
こちらに背を向けたカウチソファの向こうから、シキは振り返ることなく笑みを含んだ声だけを寄越した。議事堂から抱えてきた些細な苛立ちを見透かされて、アキラは眉根を寄せる。
「俺の代行でもたてるよう迫られたか」
「そろそろ、会議にご尊顔を。馬鹿げたことは二度と口にできないはずだ」
光の角度によって紋様の浮かび上がる、昏い赤色の天鵞絨を張った長椅子を回り込みながら、紙屑でも投げ捨てるようにアキラは呟く。テーブルの上、おざなりに積み重ねられた本と、昨夜アキラが負けたときのままに駒の配されたチェス盤の間に、つい今朝方研究班から提出された書類が角をばらけさせていた。
「例のワクチンが完成したそうですね」
その内容を思い出しながら、手前に香気と湯気が立ち上る紅茶のカップを置く。
「Nicoleを食らうウイルス、か。つまらんな」
シキは片手に開いた書物のページを繰りながら、言葉に反して愉しげに鼻を鳴らした。
 各国に潜り込ませている諜報部より、**国にて対Nicoleウイルス兵器が開発されている、という情報がもたらされたのはふた月前のことだ。その時点で某国を叩くべきというアキラの訴えはシキその人によって退けられ、この件は秘密裏に処理されることとなった。はたして対Nicoleウイルスは完成した。諜報部がそのサンプルを手に入れ、統一ニホンの研究所に持ち込んだのはほんの一月前だった。
 解析の結果は、Nicoleを内包する細胞にのみ感染し、高熱や悪寒、頭痛などを中心とした重篤な症状を引き起こすウイルスだった。急激に症状が進めば非Nicoleウイルスを摂取したとき同様のショック状態に陥る可能性がある。
 ただし構造的には非常に脆かった。また、たとえばインフルエンザのウイルスが健康で抵抗力がある者には感染しづらいように、Nicoleウイルスへの適合力が非常に高い者は罹患しない。
 すぐにワクチンが作成されることとなったが、それに当たっては、より新鮮で純粋なNicoleウイルス、つまりシキの血を必要とした。そのため、幾度かシキを煩わせることになってしまっていた。
「──お手数をお掛けしました」
「構わん。元々俺が言い出したことだ」
シキは事も無げにそう言うと、傍らに用意された紅茶に手を伸ばした。
 その指先、ごく薄い磁器に触れる唇、嚥下する白い喉の動きを、アキラは見つめる。ちり、と、不安と違和感が、胸の奥に灯るのを感じた。
 その存在感に反して、時折シキが、この世の者でないような錯覚に襲われることは以前からあった。人形めくとでも言えばいいのか。確かに余りにも整いすぎた白皙は、まるで作り物のようでもある。けれど、おそらく今アキラが感じているのは、それだけが原因ではなかった。
 覇気と呼ばれるもの。シキ特有の、他者を貫き切り捨てる容赦の無い鋭さのようなもの。
 それらが、ほんの少しずつではあるものの、姿を隠そうとしているような。
「閣下」
呼びかけは、思いの外切羽詰まったような気配を帯びた。シキが初めて視線を上げる。硝子玉という言葉が脳裏をよぎって、アキラは体の奥が冷えるのを感じた。赤い瞳を正面から受け止めながら、見下ろすのに耐えかねて膝をつく。続ける言葉を探して、再び唇を開くまでに少しの時間がかかった。
「──ご気分が優れませんか」
シキは赤い瞳を細める。そこには余興を愉しむような、そういった類の笑みの気配があった。
「どうだろうな」
「ここのところ、外部に顔を出されないのもそのせいで?」
応えはなかった。
 代わりに、ひとりごとに似た呟きが落とされる。それはアキラが意を解すまえに足元に転がった。
「……たまにはお前の慌てふためくさまを見てやろうと思ったが」
言葉の意味を理解できずに、ただ見返したアキラの前で、硝子めいていた赤い瞳の奥でじわりと何かが蠢いた。その正体を見極める前に、シキは瞬きをひとつする。長い睫毛の向こうで、それは隠れるように姿を消した。
 言葉よりも雄弁に語る何者かを、二人は互いにその瞳の奥に飼っている。それはさながら言葉を持たない獣同士のやりとりにも似ていた。このときもアキラはその僅かな信号のようなもので、シキが何事か、恐らくはアキラにとってあまり都合の良くない類の企みを、後ろ手に隠していることに気が付いた。
「もうすぐ休暇をとる。一週間ほどか」
カップをソーサーに戻す小さな音と共に嘯く主を、アキラは顔をほんの少し強ばらせて見上げた。慌てふためくさま、とは何だ。まさか、連絡もなしに姿を消すつもりででもあったのか。しばらくの間赤い瞳を見つめたが、シキにはそれ以上の説明する気は勿論、気の変わる気配もない。
 やがてアキラは視線を足下に落とすと、小さなため息をついた。
「……どうぞご存分に。こちらのことはお任せください」
シキはただ唇に満足げな笑みを刷いて、再び書物に視線を戻す。その表紙を、アキラは眺めた。デカダンスと呼ばれたそれらの文化がやがて、戦火によって踏みにじられたことを、今のアキラは知っている。



 

4.現在

 ジンマチの騒動は収束にそれほど時間を要さなかった。
 中央からの応援が割合早く現地に到着したこともあるが、なにより深刻な事態に発展する前に、精鋭部隊のうちでもより抜き数名が現地入りし、中央との連絡を密にとりながら作戦行動にあたったのが理由だ。そしてその中には、短時間とはいえ精鋭部隊長たるアキラの姿もあった。
 中央に戻ったアキラを迎えたのは、件の内務大臣の腹心とその部下だった。滑走路から廊下に入ってすぐの場所に待ち受けていた彼らは、ビジネスジェットを降りたばかりのアキラを議事堂に誘った。
 はたして、議事堂の議席は半分以上が空席だった。現在のニホンにおいて、ここに座る権利を持つのは議員ではない。七割が軍部、残りの三割が内務や財務等の内政を司る省庁の上層部である。
 便宜上議事堂と呼ばれているが、行われるのは議論ではなく、総帥の意向を反映した諸処の決定事項の告知である。議席に着く者はそれぞれの持ち場でその周知を行うが、普段は異なる職務を持っている。故に、急な召集に応えるのは中々難しい。
 それでも総帥の名における命令であれば、数時間もあれば当然皆ここに集合し、どうしても不可能な場合は代理をたてた。しかし、今回はどうやら、内務大臣の名での召集であったらしい。議席を見回したアキラの目に映るのは、ほとんどが軍部以外の人間だった。軍人の顔もぽつぽつとはあるため声を掛けなかったわけではないのだろうが、その殆どが元来の己の仕事にかかっているか、かかっているふりをして欠席しているものと思われた。
 部下と思われる数名を引き連れた内務大臣が、高い位置に据えられた玉座の真下に立っていた。これまでなにか熱弁を振るっていたらしい彼は、議長席から扉を開いたアキラを睨む。
「このタイミングで中央を空けるなど、一体何を考えておられる」
「残りの者だけでも適切な対応ができると判断した。たった数時間自分が不在にしただけで、なにか問題が発生するとでも」
「そういうことを申し上げているのではありません。責任感の問題だ」
内務大臣の放言に、アキラに付き従っていた精鋭部隊の二人が不敬だぞと色めき立つ。それを片手で制して、アキラは半円のすり鉢状の議事堂を中央に向かって下る。
「責任感とは」
アキラ同様、男も階段を下りた。ふたりは議事堂の最も低い場所、答弁や論説のために用意された机をはさんで相対する。
「現在、最高責任者は貴方ということになっている。その貴方が、総帥が亡くなられたばかりの今、たかが地方基地の問題に軽率に出掛けていくのは、ご自身の立場を理解していらっしゃるとは到底思えない」
「……」
アキラが目を、細める。
表情の乏しい彼にしては、ひどく珍しい感情の発露だった。薄氷のごとき笑みであった。それは何故か、その場に臨席した人間に、この国でもっとも恐れられ、畏れられていた男を思い出させた。
赤い瞳で世界を睥睨した、亡王を。
「わざわざそれを言うためにこれを招集したのか」
言い終わる頃には、冷笑は氷が溶けるように姿を消した。ぎょっとした内務大臣の前で、アキラの顔には再び無表情が舞いもどる。
「……、まさか。他に議題があったのですよ。ですが、そう、多くの有権者の目があるここでも申し上げておきましょう」
内務大臣は硬直した表情を数秒でとりつくろった。落ち着き払った態度を表面上取り戻す。
「総帥に代わる人選は、投票で行うべきです。適材適所という言葉がある。現場主義は大いに結構、貴方には高い能力が備わっているでしょう、ですが、それは統一ニホン国元首という地位とは相容れない。ご自分でもそうは思いませんか」
ざわりと、議事堂にざわめきのさざ波が広がった。
 そこに男への批判の声は含まれておらず、議席に半ば背を向けた彼は、予想外の反発の少なさに内心ほくそ笑む。
「確かに、自分は総帥には不向きだ」
さらには、アキラの口からもそんな言葉がこぼれ出た。先程不敬だぞと男を制そうとした彼の部下も、今回は何も言わない。いつのまにか姿勢を正し、ただ黙して正面を見つめている。
「だが、この国では強さこそすべてと、定められている」
またその理論を持ち出すかと、男は内心鼻で笑った。
 軍部に主導権を与える既存のルールを、男は今後少しずつ覆すつもりでいる。総帥を失ってこの国の上層部は足並みを乱した。想像していたよりも多くの者が、状況をただ静観している。先日の会議でも、その後の根回しの際のやりとりでも、ほとんどの者はただ黙した。要するに日和見しているのだ──彼はそう判断していた。
 現代国家で力がすべてなどとのたまうなど、だいたいが馬鹿げている。
 男が最後にサーベルの手入れをしたのはもう数年も前だ。統一ニホンが創設した後一年ほどは体を鍛えもしたものの、面倒になっていつの間にかやめてしまった。必要もなかった。万一危険にさらされるようなことがあっても、誰かに自分を守らせればいいのだ。なんなら銃もある。
「正直そのお考えも、総帥亡き今後は見直してゆくべきでしょう」
男の言と、議事堂に集められた者たちが一斉に立ち上がったのは、ほぼ同時だった。皆一様に背筋を伸ばし正面を見据える。軍で一番最初に教えられるそれは、上官の前で命令を待つ姿勢だ。
 これほど多くの賛同者がいるのかと男は錯覚する。だがつり上げ掛けた唇は、中途半端な位置で止まり、ひきつった。
 悪寒が背筋を駆ける。議事堂は不気味に静まりかえっていた。
 何故今まで気付かなかったのか不思議だった。いつの間にか何者かが、彼の後方に立っている。その存在感は抑えられて尚ひとを圧倒する。
 まるで頭のすぐ後ろで、大きな獣の顎がいっぱいに開かれているような、不吉な気配。それは少しずつ、近付いてきていた。
 そうしてようやく、男は自分の犯した過ちに気付く。最初から、何もかも、違えていたのだ。
「……謀ったな」
震える唇から、なんとか言葉らしきものを絞り出す。目の前の青年は──外つ国では時に悪魔の犬と呼ばれる彼は、ただ青灰色の瞳で瞬きを一つして、サーベルの柄に手をかけた。引き出されたのは研ぎ上げられ、手入れの尽くされた美しい刃紋だ。それがこの国で唯一許された、総帥と揃いの刃を持った剣であることを、知らぬ者はいなかった。
「……抜け。生きたいのなら──貴様の法を貫きたいのならば、俺に勝てばいいだけのこと」
それがこの国のルールと、何の表情も乗せぬ青い瞳が言う。
 男は笑った。神経質な、ひきつるような笑い声だった。腰に提げたサーベルの柄を引く。だがその先に刃はなかった。体に肉が付くにつれ、実刀は重く感じられた。故に研ぎに出すふりをして刃を取り去らせた。ここ二年余り身につけていたのは形だけの、いわゆる儀礼刀だ。
 男は柄を絨毯の床に投げ出してその場にへたりこんだ。頭だけは、一秒遅れて床に転がった。その眼球の前を、闇を湛えた漆黒の靴先と、血を滴らせた刀の切っ先が音もなく通り過ぎる。軍靴はアキラの敬礼の前を過ぎ、段を上り、そして、この数日空席となっていた椅子の前で方向を変えた。
 半円状の議事堂の中心、高い位置に据えられた、精緻な細工が彫り込まれ銀で飾られ、艶のある黒革の張られた玉座。そこに、数日前棺に収められたはずのシキ総帥は、刃を一振りして血糊を払うと腰を下ろした。
「お帰りなさいませ」
鞘に戻された刀を両手に引き取って、アキラは囁く。



 

5.現在

 飾り格子で縁取られた大窓からは、西に傾こうとする十六夜の月が見えた。雲に淡くかすんだ光は、細かな粒子となって屋敷を囲む林に淡く降り注ぐ。
 虫の音と共に部屋に流れ込む夜風は冷えていた。アキラは僅かに顎を上げ、庭から流れくる木犀の香りを捉える。今年の夏もあっという間だったと、仕事にまみれた季節をちらりと振り返った。きっと来年もそうだろう。その次も。シキが世界を手に入れた後と、今なら、どちらが忙しいだろう。少しだけ想像してみるが、あまり変わらないような気がした。
「……ジンマチの方は既にこれまで通り機能しています。ワクチンも今週中にはすべての兵に投与が終わるかと」
視線を手元の書類に戻して、ほんの僅かの間止めていた報告を続ける。
 目の前には黒革の張られた大きなソファがあり、そこでシキが刀の手入れをしていた。視線の高さに上げた剥き出しの刃を眇める姿は、馴染みの光景だ。
 黒い城の裏手にある屋敷の、シキの私室。城とは敷地が隣り合っているとはいえ、広大な屋敷林のために行き来は専ら車を使う。木々に囲まれた屋敷は、世俗の気配の一切が遮断されていた。部屋の窓を開いても、聞こえるのは虫の声や葉擦れの音くらいだ。
「ジンマチのワクチン接種を他基地よりも遅らせたのは」
それまでアキラの報告を聞くともなく聞いていたシキが、刀から視線をはずさぬままに問う。
「敵の動きを一点に集中させたかったので」
短く答えた。シキへの説明はそれで充分だった。元より想像がついていて、それを確認するために訊いているにすぎない。
 ジンマチ基地での一件は、アキラを中心とした精鋭部隊が半ば仕組んだようなものだった。
 **国が例のウイルスを仕掛けるタイミングを測っているのは明らかだった。ニホンに元々存在する反乱組織を利用することも予想済みだった。内戦の体を装えば国際世論の批判への盾となるし、また万が一作戦が失敗したとしても、おおっぴらな反撃に遭うこともない。
 シキの死という絶好の機会を、彼らが逃すとは思えなかった。そのタイミングさえわかっていれば、あとはどこに仕掛けてくるかということになる。ならばと、ワクチンの製造が追いつかないのを逆に利用して、ジンマチ基地に綻びを故意に残し、敵の攻撃を誘導した。
 彼の国は、ジンマチ基地が囮であるとは想像だにしなかったようだ。
「お前も現地に入ったそうだな」
「応援の兵にワクチンが確実に効いているか不安だったので。万が一のことがあっても、非Nicoleの俺なら例のウイルスは感染しない。来月に予定していた現地の視察も兼ねられましたし、手間が省けました。──そちらのご首尾も聞き及んでおります。これで諸国も、小細工は通用しないことが身に染みたでしょう」
シキの死の知らせは同時に、シキに対する警戒の目も和らげた。一国の主、特に統一ニホンのような、領土を広げつつある軍事国家の王が他国にわたるには諸処の面倒があるが、正体を偽装すればそれも不要になる。シキはごく少数の兵を連れ易々と**国へ渡った。そして政府の上級官僚の多くを、たった数日のうちに切り捨てたらしい。後は軍部に潜り込ませたNicoleキャリアーの兵士たちの仕事だ。こうなってしまえば、**国が事実上ニホンの属国になるのも遠くない。一つの国を、刃の元にあっという間に、文字通りずたずたにしたのだ。
 **国の開発していた物を知る者なら、その上層部の暗殺は当然のように統一ニホンを疑うだろう。だがニホンには、トップを失い、内乱の対処に追われ、他国に手を回すほどの余裕はなかったというアリバイがある。まさか一国の元首含む数人がそれをやってのけたなどという、馬鹿げた考えを誰が支持するだろう。
 アキラは書類から顔を上げると、シキの横顔にそっと視線を向ける。
「久々に羽を伸ばされて、いかがでした」
シキは答えない。だが刀を見つめる瞳の色が、主の機嫌が悪くはないことを告げていた。それどころか、ここのところ見せたことのない上機嫌だ。この数ヶ月ずっと、まるで風のない冬の夜のように凪いでいた赤い瞳が、今は内側に炎を宿した紅玉のようだった。鳩の胸を裂いて白い雪の上にその血を滴らせたなら、きっとこんな色だろう。
 この刀の手入れとて、ある程度手ごたえのある相手とやり合ったときだけに見せる習慣だ。アキラは主の視線の先を追う。黒鉄の地の上に踊る白銀の刃紋に、欠けや傷は見あたらない。歪みもおそらくないだろう。今回も数え切れないほどの人の命を切り裂いてきただろうに、ただただ清廉な佇まいである。もしかしたら鞘に入れっぱなしにしておく方が、この刀には具合が悪いかもしれない。そんな風に思う。
「研ぎに出しますか」
一応、問いかける。もしそのつもりなら手配が必要だった。黒い城でも研ぎ師を抱え込んでおり、作業場もある。兵のサーベル等の調整はそこで行うが、シキの刀だけは扱いが別だった。西国に住まう刀鍛冶の元に送ってやらなければならない。
 シキは無言のまま刀の先を下げた。そして次の瞬間造作なく、構えもせずにそれを跳ね上げる。アキラがそうと気付いたときには、眼前に刃の切っ先があった。だがそれよりも、ようやくこちらに向いた赤い瞳の方が鋭くアキラの目を捕らえる。ぞろりと、熱とも恐怖ともつかないものが背骨を這い登った。
 アキラは微動だにせず、赤い瞳を見つめ返す。恐怖が、無いわけではない。ただ自分の命なら、とうに捧げていた。それがどのように扱われようと構わない。
 シキは口の端から息をもらすようにして笑った。上向いていた刃が返されたかと思うと、棟でアキラの軍帽の庇を持ち上げるようにしてはねる。鞘に戻した刀を手に立ち上がった。すれ違ったあとすぐに、刀置きに刀が据えられる重い音がした。
「議事堂でお前に絡んでいた、あれはなんだ」
アキラがジンマチに足を運んだことを責めた、内務大臣のことだった。自身で首をはねておいて、酷い言い草だ。シキの歩みの進行上におり、見苦しかった、おそらくそれだけのためにあの男は命を奪われたのだ。
「何か勘違いをしていたようです」
「ほう」
訊いておきながら、たいして興味もなさそうにシキは返した。だがそれでいい、とアキラは思う。これ以上シキを煩わせる必要はない。不純物は主がそうと気付く前に取り除いてしまいたかった。まだ少し残っているが、それも追々対処しなければ。
 わずかに顎を引いたところに、背後から腕が伸びた。ふわりとシキの匂いが、する。肺の奥に熱を灯すような。じわりと染みて、指の先まで広がるような。気を取られている間に、手の内から書類が奪われ、邪魔だとばかりに床に撒かれた。
「……閣下」
咎める声の語気は、しかし弱い。それには構う素振りも見せずに、シキの白いグローブに包まれた指が、アキラの軍服のボタンにかかる。
「今回の件、どれだけの者が気付いた」
 一回り大きな体に抱き込まれるような格好で、衣服を乱されていく。声が背中を通して体の奥に響いて、生まれた熱が篭る。
「……、上層部はさすがに、ほとんどの者が察していたようです。八割……九割といったところでしょうか」
会議でも、議会でも、察した者ほど口をつぐんだ。騒いでいたのは何も気付かなかった間抜けだけだ。
 軍服の上着を途中まで剥がされて、ワイシャツ一枚になった肩で部屋の冷気を感じる。ネクタイを解いたシキの指が、次いでシャツの襟元に触れた。一つ、二つと、ボタンがはずされていく。
「少ないな」
身の縮む思いがする。五年という月日は、兵たちを篩にかけた。いつのまにか、サーベルから刃を取り去るような者さえ出てしまった。彼らはアキラの監督下にはなかったが、それでも、なにか責任を感じてしまう。
「……ッあ!」
逸れかけた思考を引き戻すように、首筋に食らいつかれた。捕らえた獲物の息の根を止めようとする肉食の獣。そういったものを連想させる荒々しさだった。
 面倒だとばかりに、シャツが左右に開かれる。たいして力を入れたようでもないのに、残りのボタンの半分ほどが床に落ちていった。まるで皮膚を裂かれているようだ。胸を開かれて、心臓を取り出されるような生々しい感触。
「……ッ」
手袋越しの指先が、ワイシャツの中に入り込んでくる。さらりとした布一枚を隔てた冷たい手。それで胸の突起を押し込むようにされて、わき上がった僅かな甘さに熱を持った息が漏れた。掌はそのまま少し下がって、心臓の上に置かれる。速い鼓動を露わに見つめられているようで気恥ずかしかった。
「どうした」
「……っ」
獲物がもう逃げられないのを見取ったか、シキが首筋から牙を抜く。血の滲んでいるであろうそこを、舌と形の良い唇で丹念に舐め上げられた。その濡れた感触にぞくぞくと、悪寒のような熱のような感覚が背筋を駆け、散り散りになって腰に溜まっていく。もっと、触って欲しかった。無意識に首を傾けて、傷口を差し出してしまう。シキは応えるように、熱い舌で噛み痕を抉る。痛い。熱い。溶けそうに、悦い。
「……貴方のあんな眼に、晒されて、……っ我慢できるはずが、ない」 
「──あんな眼?」
肩口に半ば顔を埋めたままシキが低く微かに笑う。耳に息がかかり、それだけで目眩がして、内側がぐずぐずになる。強い酒や麻薬と変わらなかった。
「……ッ」
 手早くベルトがはずされていく。外と内の両方が、シキによってあっという間に綻びていく。
「獲物を狩るときの……、眼です」
戦場に在るときの眼、そのままの笑みを浮かべて、シキは帰還した。命のやりとりのあとの、そのある種の興奮状態を宿した赤い瞳を見たのは久方ぶりだった。これまでも時折、一国の元首でありながら前線に出ることはあったが、あれほどまで機嫌のいい顔は本当に久しい。
「……ッ!」
臍のピアスを擦り弄ぶ指先に、びくりと喉を反らすと、後頭部がシキの肩に半ば乗る。そのまま、アキラは首を巡らすようにして髪をシキに擦りつけ、額をシキの襟元に押しつけた。その強請るような仕草に、主は低く喉を鳴らすようにして嗤う。
「狩られるのが好みか」
「……、……っんッ、……ッ」
するりと下衣の中に入り込んだてのひらに、既に硬く上を向いたそれを、自覚を促すように撫でられた。体が震えるのは、背後から抱き込むようにされていれば隠しようもない。
 羞恥に脳が灼けそうになって、ゆるく頭を振る。 
「違い、ます」
「ほう?」
どこがだ、と嘲笑うような声音。
 シキはアキラの下衣から手を引き抜いた。証左とばかりに眼前まで持ち上げられた手のひらを、包む白手袋が濡れている。咄嗟に背けた顔を、指先が追ってくる。唇に触れるか触れないかの位置で静止するのは、グローブを外せという意味だ。
 数秒の間。そののち、アキラは口を開く。含んだシキの指先を軽く噛むと、するりと中の手が引かれて、歯の間には白手袋だけが残った。
「変わらんな、お前は」
シキは言う。
 咄嗟に、それは違う、と思う。アキラとて変わる。
 統一ニホンが成立してからのこの五年、そしてそれまでの、──廃墟であったトシマを出てからの四年間を、ふと想起する。
 出会ってから、九年。短くない年月だ。
 九年前の自分を思えば、その未熟さに赤面ものではある。けれど、今の自分とかつての自分、どちらに人としての正しさがあるかと言えば、考えるまでもない。
 簡単に、人を殺せるようになった。シキのためにならない人間を、今の自分は「処分」することすら考える。そしてそれを顔色一つ変えずにやってのけるだろう。
 正しくなくても。間違っていると知っていても。
 自分は選んだのだ。あの日、雨の降りしきる廃墟の街で。
 狂気を取り込んだ赤い瞳の、その獰猛さに反して低く、沈み込むような声で告げられた命令が──離れることは許さない、という言葉が、不意によみがえる。
 このたった一人の男のために、世界中の人間が滅んでも構わないと思ったのだ。
「余計なことを考えているな」
「……!」
肩を、それから腕を後ろ手に掴まれる。そのまま目の前のコーヒーテーブルに、胸をつける格好で上半身を押し倒された。テーブルの華奢な脚が、不安定にぐらぐらと揺れる。
 両手を腰の後ろで戒められたまま、軍服の下にある内股を撫で上げられる。ぬるりとした感触に、自らの先走りがそんな場所まで滴っていたことを思い知らされる。
「……っふ、……ッ」
 濡れた指はそのまま奥まった場所に入り込んできた。そこを広げられる感触に、鳥肌が立つ。
「……ん、……」
身体はとっくに飼い慣らされて、けれどその先を知っているからこそ、僅かな抵抗感が沸き上がる。それは快楽におぼれ、痴態を演じることに対する拒否感だった。
「ッ、く……、……!」
けれどシキの指は容赦なくアキラの体を開いていく。間接や折り曲げられた指の腹が、入り口近くのその場所をこすりながら抜き差しされるたびに、思考が散り散りになっていく。痛みがないわけではない。むしろ痛みすら、悦かった。
 びくんと体をはねさせるたびに、胸の下のテーブルががたがたとうるさく揺れる。前が硬く立ち上がって滴を垂らしているのが自分でもわかり、テーブルごとバランスを失いそうになるたび、理性がよみがえって羞恥に襲われる。
 やがてくつろげられていた軍服の下を下着ごと引き下げられ、露わになった双丘を割り開かれた。指で解されていた場所が、冷えた空気にさらされて収縮する。
「……ッ、待、……っ」
 ひたりと、窄まりにあてがわれた昂ぶりに、アキラはひくりと喉を鳴らした。まだ、充分に準備が出来ているとは言い難い。むしろ全く足りなかった。指一本とそれとでは、なにもかも違いすぎる。 
 だがその懇願の滲んだ声は容赦なく切り捨てられた。
「堪えろ」
「……い……ッ!」
一息。
 最奥まで、シキのそれで貫かれてゆく。
痛みに締め付けたその場所を、硬いもので無理矢理に拓かれるぎちぎちという音が、熱と質量を伴って体の奥へ奥へと突き進んでいく。
「……ッァああぁ……ッ!」
遅れて喉をせり上がった引き絞るような悲鳴は、しかし、アキラの意に反して僅かな甘さを宿していた。
 衝撃に、それから腰から沸き上がった痛みと、それを内包する強烈な快楽に、膝が笑う。
「……ッ、く、あ……!」
「……っ」
気を抜くとあられもない声を漏らしてしまいそうで無意識に強く唇を噛む。
 耳に、わずかに乱れたシキの息がかかる。それまでよりも濃く、シキの香りが漂った。慣らすように、味わうように、ゆっくりと押し引きして奥をかき混ぜているその昂ぶりを、無意識に喰いしめてしまう。
「う……っく、ん……ッ」
 灼ける。灼けて、溶ける。体の芯が、背骨が、腰から下が、溶けてなくなる。
 支えとしては小さすぎるコーヒーテーブルごと体が崩れかけたのを、後ろ手に腕を引かれてとどめられた。
「堪えろと、言っただろう」
ほんの僅か荒い息の交じる、艶のあるのに語尾の掠れた囁きを耳元に落とされたかと思えば、耳を食いちぎられそうな強さで歯をたてられた。再び奥深く穿たれて、最奥をさらに開くように、なじられる。
「……!」
体の奥からごり、という音とともに重い衝撃に似た快楽が弾けて、腰の骨を殴られたようになる。声すら出なかった。足など立とうはずもない。
「……ッく、ぅあッ、は、……ッ」
がくがくと膝が笑う。あっという間に、訳が分からなくなる。
 アキラを支えていた腕が放された。最初に膝が、次いで痺れた腕が、そして肩が床につく。テーブルが倒れる酷い音が耳を打ったが、今はそれどころではなかった。
 磨き上げられて蜜のような艶を宿す床材を、吐いた息が曇らせる。
 背後から腰を掴まれた。思わず、逃げるような動きをしてしまう。強すぎる快楽は本能的に恐ろしかった。あるいは痛みよりも。
「逃がさん。大人しく喰われるがいい」
それを笑うシキに、強い力で引き寄せられる。そうなってしまえば、アキラに出来るのは啼くことぐらいしかない。
 そのまま高みに半ば無理矢理追い上げられた。崖から突き落とされるのに似ていた。足が地面を離れた後は為すすべがない。嵐にも似ていた。翻弄されて息すらまともに出来ない。
 暫時の後、後を引く快楽の余韻に引き絞るように腰を揺らしている自分を発見する。青い匂いと、床に散る白濁にきつく目を閉じた。
「……ッあ!」
急に内側にあったものを引き抜かれる。体を仰向けに反転させられ、膝を抱え上げられたと思えば、再び衰えぬシキのそれで穿たれる。そうして床にアキラの体を縫いつけてから、シキは自らの上衣に手をかけた。額にわずかな汗が浮かんでいる。
「……、」
手を伸ばす。震えるおぼつかない指で、アキラはシキの脱衣を手伝った。タイが外され、ワイシャツが脱ぎ捨てられる。シキが身動ぎするたびに、つながった部分がうずいた。それでも続けたのは、素肌が欲しかったからだ。
 露わになったのは引き締まった体と、それを覆う古い傷痕だった。目にするたびに、見とれずにおれない恵まれた体躯。しかし今回ばかりは、小さく息をのんだ。体の奥が一瞬冷える。酩酊する意識が、まるで零下に冷やした強い酒を一気に喉に流し込んだときのように、瞬間的にカッと白く灼けた。
 シキの左腕、その外側。古い傷痕に沿うように、一筋の新しい刀傷が赤く、走っていた。
「……どうした」
アキラの脳裏に、一筋とはいえシキに傷を付けるほどの腕を持った何者かの姿が像を結ぶ。主の上機嫌の理由に納得がいって──直後、殺してやりたいと思った。
 だがそれは叶わない。アキラが手を下すまでもなく、その誰かは既に死んでいる。他でもないシキの、あの美しい刃によって──殺してやりたい。
 気付けばシキのその傷痕に、歯をたてていた。
「……縄張りを荒らされた犬のような顔だな」
シキは僅かに眉根を寄せ、しかし顔から笑みを絶やすことはなかった。むしろ愉しげに、アキラの耳元にそう囁きすらした。だがやがて飽いたとばかりに、繋げたままのアキラの腰を抉る。
 飼い主の手を噛む犬には、仕置きと躾が必要だ。

 聞き慣れない音がする、と、ぼんやりと思った。
 なにか安心のする音だ。長い時間触れあわせていたが故に、境界が曖昧になった体から聞こえる心音よりも、静寂に近い。眠る前に耳元に落とされた、語尾のかすれた低い美声の囁きよりも穏やかだ。
 明け方の薄明かりにシーツは青い影をつくる。その中でアキラはうっすらと目を開き、その安らかな音が傍らで眠るシキの寝息だと気付いた。
 少しだけ驚いて、半ば眠りの中に沈んでいた意識が浮上する。
 ベッドヘッドに引き上げるようにして上半身を起こす。その動きがたてる衣擦れの音にすら、シキは目を覚まさなかった。羽の詰まったクッションに背中をつけて、アキラは傍らの寝顔をまじまじと見下ろす。
 酷く珍しいことだった。彼の主は、深く寝入ることがほとんどない。まるで睡眠というものを必要としていないかのように、一応は目を閉じて、浅い眠りに横たわるのが普段の寝姿だった。
 瞼の下に隠された瞳は、先程まで獲物を追う獣の光を宿してアキラを屠っていた。シキの意のまま好きにされた体が、少しの動きで甘い軋みを上げる。──さらにその十数時間前は、ぎらつく目をした悪鬼の形相で、それでいてこれ以上ないほど愉しげに刀を振るっていたことだろう。
 そんなことを考えて、じわり、と胸の奥を灼かれるような感触が広がる。
 一晩たって落ち着いて考えてみれば、そもそもシキをこの国から送り出したのはアキラだった。本人にその気はなかったかもしれないが、命を賭して主を楽しませたどこの誰とも知らない相手には、少しくらい感謝するべきかもしれない。そうは思えど、やはり自分には与えられない何かを主にもたらすことの出来たその相手を、妬むなという方が無理だ。
 シキの寝顔を見下ろしながら、小さな溜息をこぼす。だがそこにはほんの僅かに微笑の気配が宿った。
 遊び疲れた子供にはほど遠い傍らのその横顔が、実際のところそれと大差ないのだと、アキラは知っている。
「楽しかったですか」
頬にかかった髪を払う。艶のある髪はしかし、アキラの指先から逃げるように滑り落ちていった。

end.

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