A Matter Of Taste

 まるで鍵をあけられていくようだと思うのだ。
 自分では中を覗いたことのない、皮膚の裏側、肉や粘膜の内側に埋め込まれた箱の、固くかかった鍵を丁寧に、だが有無を言わせぬ強引さで解かれ開かれ、拓かれる。
 後に残るのは、蓋が開いたままの空の器だ。
 人肌に狎れたシーツにぐったりと沈みながら、アキラは全身に風穴が空いたような感触を味わっていた。身体は指先から髪の先まで温かな湯の中にたゆたっているような、おろしたばかりの毛足の長い毛布の中にくるまれているような充足感に包まれている。だがその裏側には、なんとも言えない空虚な感触が湿った枯れ葉のように張り付いていた。
「……空っぽになった気分です」
片頬を枕に沈み込ませたまま零した声は、ベッドに腰掛ける軍服を羽織った背中にぶつかって、落ちる。シキは肩越しに笑みを浮かべると、手にしていた皿から指先でソースを掬い、アキラの口元に寄せた。
「中身を詰めなおせ」
アキラは一瞬眉根を寄せ、だが渋々口を開く。
 形の良い指が芳しい香りをまとって口内に侵入してきた。上質な脂の溶けた肉汁は、何種類かの香辛料の他にベリーのジャムで酸味と甘みをつけられて、濃厚でありながらどこか爽やかに舌の上を流れる。
 刀を振るうために厚くなった指先の皮膚が、唇をするりと撫でてから離れていった。
「こちらで召し上がるので?」
ベッドの上には細やかに細工の施された銀盆があり、今日の夕食になるはずだった料理が並べられている。寝台に横付けしたワゴンの上には、他にもまだ皿や保温・保冷の容器、カトラリーが残っていた。
「それが届かんだろう」
アキラは嘆息して俯せていた体を返す。衣擦れの音に鎖がたてる硬い音が続いて、片手がわずかに引きつった。利き腕、左手の手首には手錠がかかり、その通常の何倍も長い鎖は、ベッドヘッドから天井まで伸びる紫檀の飾り格子へとつながっている。
 掛布を引き寄せて半身を覆いながら上体を起こした。
「外してくださったら温め直すものを」
とうに冷めてしまっているであろう料理を横目に見ながら左手首を撫で、手錠の感触を確かめる。硬く冷たく重いそれは、間違いなく本物だ。軍や警察が使っているものとほとんど同じ、鎖の長さだけが違う。掛けられたのはついさっき、整わない息を爪をたてた枕に向かって吐いている間の事だった。シキはアキラを繋ぐと自分一人悠々とした歩みでベッドを離れ、部屋の入口に用意されていた料理のワゴンを押して戻ったのだった。
 答える代わりに目を細めたシキが、アキラの顔に手を伸ばし、口の端についたソースを親指で拭う。
「行儀が悪いな」
「……どちらが」
こちらの言葉など聞く耳を持たない主にアキラは小さくため息を付いた。
 氷の詰まったワインクーラーから瓶が取り出され、栓を抜く勢いのいい音が響く。差し出されたワイングラスに満たされる酒は、仄暗い部屋のなかでは水のようにも見えた。だが鼻先に持っていけばそれが柔らかな香りの白だと知れる。先に口をつけたシキにならうと、すっきりとした優しい味わいが口内に広がった。喉が渇いていたことに気付いて、続けざまに二口目を喉に流す。アキラでも気軽に飲める軽さなら、シキには物足りない味だろうと、横顔を伺えば案の定水でも飲み干すような顔でグラスを空にしていた。
 そもそも肉のメインに白ワインとはどういうことだろう。確かに、先程のソースのフルーティーさには合わなくはないだろうが、それでもこの柔らかさは肉の味に完全に負ける。
「閣下」
「なんだ」
「これを外してください。赤ならむこうに冷やしてある」
シキの好みに合わせた酒ならいくらも用意していた。取ってくるついでに、冷えた料理を温め直すことも出来るだろう。
 だがその申し出は、またもや何も聞こえなかったかのような顔で無視される。
 代わりに眼前に突きつけられたのは、厚く焼いたクラッカーの上に、色鮮やかにパテや野菜や魚卵が乗せられた前菜のうちのひとつだった。
 動きを止め、思わずシキの顔とそれを見比べる。不意に空腹を思い出させられた。だが、アキラは顔を背ける。主の浮かべる笑みはあまりにも不穏だった。
「自分で食べます」
「利き腕がそれでは不便だろう」
「右手でもフォークは使える」
誰のせいですかと、言いたいのをぐっと堪えて、返す。ここで腹を立てては思う壺だ。わざと人の気分を逆撫でて、最終的に思うままに操る、シキのやり口に今日はすでに二度は引っかかっていた。さすがに慎重にもなる。それに実際のところ、左ほど器用ではないものの、刀や銃を両手で扱えるのと同様カトラリーもある程度は右で扱えるようにしてあった。幼いころ、食事も射撃も横並びでやらされた軍事訓練の思わぬ賜物だ。
 だが。
「アキラ」
微かに肩を揺らして、シキの瞳を見返した。
 いっそ柔らかいほどの声音。だがその根底に潜む有無を言わせぬ命令の気配に、意識が鋭敏に反応する。赤色が、獲物を見つけた時の愉悦を底に沈めて細められた。
「……口を開けろ」
何を、という疑問も、否の声も、あげることは出来なかった。この声に命令されると、余程な内容でない限り体が反射的に従ってしまう。そういうふうに、躾られていた。
 唇が勝手に上下に開く。
 舌の上に、殊更ゆっくりと塩気の効いたクラッカーが置かれた。
「食え」
咀嚼する。チーズのまろやかさに黒胡椒のスパイス、それから小さく切られた甘みの強いトマトの酸味。それらが、歯と歯が噛み合わさった瞬間に湧き上がった悔しさと当惑、羞恥と僅かな屈辱の味とともに口内に広がった。堪えて、飲みくだす。すぐに次の一口が唇に寄せられた。
 結局、抵抗したところで何らかの形でシキの思うようにされるのは間違いない。しかもそれは、逆らった分だけひどい形で実現されるのだ。少しの時間を要したものの、結局アキラは苦い諦めとともに口を開いた。
 俵型に巻かれた生ハムだった。中には細かくされた柑橘類の皮がほんの少しと、それから甘い果物のようなもの──いちじくだ、と、ぷちりと歯の間に種が潰れる感触に遅れて気付く。美味だった。一瞬、この状況を忘れるほどだった。こんな形でなければもっと、素直に楽しめただろうに。
 次の一口は少し離れた場所に差し出されていた。れんげに似た陶器の幅広のスプーンに、赤色をしたソースが沈み、その上に水牛のチーズの白、蝶鮫の卵の黒が乗っている。戸惑って、意図を問うようにシキの表情を窺った。
「どうした」
急かすような色合いを含んだ声。アキラは歯噛みしたいのをこらえて、首を突き出すようにしてそれを口にする。美味い。
 シキの指先がソースに濡れた唇を撫でるように拭って、離れた。触れられた場所から何かがじわりと染みこんできたような気がした。肌を触れ合わせた時に熱が移る時のような感覚。それが、頭の後ろに散りながら流れていく。
 次の一口は更に遠い場所で、シキの指に摘まれていた。躊躇して、自分とシキの指の距離を測る。
「空腹なのだろう」
そう低い声で囁かれた。確かにその通りだった。その上今日の料理はいつに増して美味しいのだ。いつもと何が違うのかわからないが、それでも数段美味だった。不意に、舌の裏から唾液が湧き上がる。
 それに──それに、これは命令だ。
 だから、仕方がない。
 急に頭の回転が鈍くなった気がした。
 上半身を乗り出す。シーツの上に片手をつくと、鎖のこすれあう音がした。シキの指ごと口内に含む。目の端に前菜の皿が綺麗になったのが見えた。
 これで終わりだろうか。
 でも、まだ、空腹だ。
 そう思った。
 シキが別の皿を引き寄せた時、音のない息を吐きながら、軽くとはいえ唇が勝手に開いたのを、アキラは自覚しなかった。
 差し出されたのは緑色の豆が美しい断面を見せるテリーヌだった。皿の上で一口サイズに切り分けられたそれは、黄色のソースを纏って食べてしまうのが勿体ないくらいに綺麗な色合いをしていた。鼻先に持って来られたあとで、すいと引かれる。自然アキラはそれを追うようにして、ベッドの上で前足の一歩をさらに踏み出した。手のひらから掬い上げ、咀嚼して、飲み込む。だが目の前には先ほどと場所も形も違えないシキの指があった。すぐに、指先をソースが汚しているせいだと気付く。何かを考える前に、舌を出していた。
「いい子だ」
綺麗に舐めとると、それを褒めるようにシキはアキラの上顎をこすった。びく、と体が揺れて、頭の奥に痺れがじわりと広がった。
 シキは指を引き抜くと、立ち上がってベッドから離れた。その後姿をぼんやりと見送りながら、いつの間にか回転を落としていた頭で考える。自分は一体何をしているのだろうか。
 ああそうだ、食事だ。
 食事を、──何故シキの手ずから、食べさせられているのだろう。四足になって、これではまるで、──まるで犬のようだ。
 一瞬にして、鈍くなっていた思考が高速で働き始める。
 自らの体を見下ろした。唯一身にまとったワイシャツは一番下の釦だけがかろうじて留まっており、他は全て開かれていた。その上に解かれたタイが一応とばかりにひっかかっている。あとの衣類は先だっての行為でシキに全て剥ぎ取られていた。あたりを見回すと、ベッドの先の床に軍服の下が死んだ鳥のように落ちている。拾い上げに行こうと無意識に体を動かした。瞬間、鎖の立てる鋭い音とともに左手が引きつる。今のアキラの可動範囲は、ベッドの上のせいぜい半径1メートルといったところだった。
 隣接した簡易キッチンからワインの赤と換えのグラスを手にシキが現れる。アキラはその姿を見とめると、知らず、僅かに後退りした。勝手に動こうとしたことを咎められるのを恐れたのか、まるで犬のように扱われることに対する嫌悪のせいか、それとも他になにか理由があるのか、自分でもわからなかった。
 シキは気付かぬふうにベッドに腰掛け、グラスに自身のための赤い酒を満たす。そうして、手元の皿から先ほどと同じようにテリーヌのかけらを差し出した。先ほど下がった距離よりなお遠く、身を乗り出さなければ届かない距離だった。
 アキラは戸惑う。命令であればいくらでも従おう。敵陣に単身潜り込めと言われれば躊躇わずそうするだろうし、衆目の中靴先に口付けろと言われても迷うことはない。だが、これは。
 一度自分の姿を顧みたあとでは、同じことを繰り返すのは難しかった。それに、なにか──妙な気分になる。
 ほんの小さな恐怖が、胸の中に青白く灯る。
 鎖に繋がれ、衣服を剥ぎ取られ、自分の手を使って食事を摂ることも許されない。自分の全てがシキの一存、支配者の手の内に委ねられている。
 だがそんなことは、少しの間我慢すれば終わることだった。アキラが恐れたのは、そんなことではなかった。
 犬に餌をやるように手ずから食事を与えられて、その指を清めるように舐めている間にふつふつと沸き起こって脳を包み込んで思考を奪うもの。その正体不明の、どこに由来するのかわからない、──快楽。
 それが確かに快楽の一種であると、認識した瞬間体がわなないた。怯えたように思考を振り払う。低い声が浴びせられたのはその時だ。
「上手くやれたら」
シキはアキラの思考を読み取ったかのようにこう言った。
「その鍵を外してやろう」
言うことを聞かない限りは、ずっとこのままだと宣告されたも同様だった。
 暫くの間、アキラは見開いた目でシキを見つめていた。
 だがやがて、唇を引き結んでそろりと身を乗り出す。
 このベッドほど大きな寝台を、アキラは他で見たことがなかった。ホテルのスイートの、シングルとは名ばかりの寝台を、2つ繋げたよりも大きいかもしれない。シキの手まで、一メートルはあった。
 はじめは四つん這いになりさえすれば、手のひらに口をつけるのは容易だった。だが、少しずつシキは体を引いて、間もなく鎖の長さが足りなくなり、左手を後方に引っ張られるような体勢を余儀なくされた。
 何も考えずに、ただの作業としてこの行為を終わらせてしまおうと、アキラは一心に努めた。だが少しでも気を抜けば、みっともない自分の姿が強く自覚されて頭の芯が羞恥に灼かれる。体が火照るような気がするのはそのせいだと、思った。上手にやれたらと条件付けられている限り、もし眼鏡に適わなければいつまでたってもこのままなのだろう。だから仕方が無いのだ。時折いたずらに口の中をかき回していく指を舌で追ってしまうのは、一滴でもソースを残さないためであって、それ以上の意味は無い。断じて、ない。
 ようやく最後の一片にこぎつけた。シキの手に乗せられたかけらに口をつけようとしたところで、それは鼻先から消えた。
 それまでよりも高い位置に持ち上げられたのだ。膝立ちにならなければ届かない高さを、数秒の間あっけにとられて見つめてから、アキラは思わずシキを睨みつける。
「どうした。……それとも、ずっとそのままでいたいか」
険しい視線をシキは全く意に介さない。碌なものを身につけず鎖に繋がれたアキラを、意地悪く嘲笑うように見下ろし、そう言い放つ。
 この格好も状況も、一体誰のせいなのか。再び口に登りかけた声を飲み下して、アキラはベッドについていた右手をシキの肩に移動させた。体を支えるためとはいえ、不敬ではあった。頭の何処かに、知ったことではないと吐き捨てる声を聞きながら、背骨を起こすようにして体を伸ばす。シキの指に摘まれた一片に食らいつく。と、その時だった。
 太腿の間を、何かが伝い落ちていく感触に襲われた。一瞬、頭が真っ白になる。足の間を滴ったのが何であるか、遅れて思い至る。シキの、だ。
 ひくりとその場所が収縮して、ついさっきまでそこを穿っていたものの感触を思い出す。否、思い出す必要はなかった。未だにその場所は、熱が抜け落ちたあとの空虚を訴えていた。そのかたちと、温度とを覚えていた。
 口内にあるものを、ほとんど噛まないままに呑み込む。
「……う、ぐッ」
と、シキの肩に乗せていた手が払われた。体勢を崩して、再びベッドに足と右手だけで這う。
「舐め取れ」
低い艶を持った声が笑う。混乱をかき混ぜるように、口の中にソースの絡んだ指先が入り込んできた。
 舌を弄ぶように動いたあと、前後に出し入れされる。歯の形を確かめるようになぞられ、舌の上を遊んで上顎をくすぐられて、くぐもった声が漏れる。
 体が崩れそうになるのをなんとか片手で支えながら、アキラは口内を蹂躙する、とうに何の味もしない指を、必死で吸い上げていた。

 しばらくの間口の中をかき回していた指が離れていく。濡れた指は空になった皿をワゴンに戻し、かわりに赤ワインの満ちたグラスを、笑みを描いた形の良い唇に運んだ。アキラは痺れた頭でぼんやりとそれを視線で追って、わずかに残った冷静な部分で思考する。なんにせよこれで、趣味の悪い遊びも終わりだ。まさかスープやメインまで使って、こんな馬鹿げたことを続けはしないだろう。
 それと同時に、頭の隅から小さく呟く声が聞こえる。
──喉が、渇いた。
 シキの細い顎が上向けられて、その下で顕になった白い喉の尖りが、ワインを嚥下するために上下する。一瞬、唇を寄せたい衝動に襲われる。だがその先が、グラスなのかそれとも喉元なのか、判別がつかない。
 シキはアキラの視線に気付いて笑みを浮かべると、まるで思考を読み取ったかのように、赤い酒の残ったグラスを差し出した。口元にあてがわれた薄い硝子が、微かに歯にあたってごく小さな音を立てる。
「……、」
「零すなよ」
ゆっくりと、傾けられる。無理な角度ではないことに内心安堵しながら、舌の上に流れてきた深い甘さと酸味、それを追う渋みを飲み下そうとした、その時だった。
「……犬のように手ずから餌を与えられて感じるのか、お前の体は」
血の匂いにも似た濃厚な香りが、気管に入り込んだ。いけないと口内にある分を飲み込むが、えづきはそれでは治まらなかった。
「……ッかはっ、げほ……ッ」
むせる。顎をつたい、首を伝い、赤い液体がこぼれ落ちていく。
 咳き込んだせいで濡れて歪んだ視界の中に、アキラは意地悪く、同時にたいそう楽しそうな笑みを見つける。シキの顔が急に近付いて視界から消え、代わりに鎖骨に熱い舌を感じた。
「零すなといっただろう」
流れ落ちた赤い雫を舐めあげられ、喉元に歯の硬さを感じた後そこを強く吸われて、一瞬思考が熱ににじむ。
「……ッやめ、……ッ!」
返す言葉を見つけられず言いよどんだ間に、意に反して半ば芯を持った、体の中心に触れられた。反応しているのは先程膝立ちになったときに、後孔から零れ落ちた物と、シキに穿たれた感触が蘇ったせいだ。犬のように扱われたからではないと、否定したいけれどその隙が見つけられない。
「ッく、ん……!」
体温の低い手のひらが絡みつく感触に息を呑む。形を確かめるように一度だけ扱き上げられたあと、するりと撫で下ろした手に双球を転がされる。唇を噛んで声を殺しても、息が乱れて体が震えるのは止められなかった。指先は更に先に進んで、先ほど零れ落ちた物のせいでぬるつく足の間を撫でられ、奥まった場所に触れられる。
「……っあ!」
背をしならせるようにして、アキラはびくりと体を痙攣させた。
「……ああ」
思い至った、といった口調でシキが指を引く。
「処理がまだだったな」
「……ッ! あぅ……ッ!」
低い呟きのあと、窄まりに2本の指を容赦なくねじ込まれた。
 体内に潜り込んだ異物を排斥しようとする生理的な動きを無視して、その場所が開かれる。粘膜で冷たい外気を感じて、ひゅ、と音をたてて喉が空気を吸いこんだ。体内で温められていたものが滴り落ちていく。痛みはない。代わりに、悪寒を誘うなんとも言えない感覚に襲われる。
「あッ……く、や、め……ッ」
制止の声をあげようと開いた口から、同時に溢れた色付いた声に羞恥が湧き上がる。振り払うように頭を振って唇を噛み、シーツを握りしめた。
 腿の内側を液体が筋を作って流れ落ちていくのがわかる。それがシキの目に写っているのだと思うと、頭が一瞬真っ白になった。やめてくれとシキの腕に手をかけるが、入り口のすぐ近く、腺の裏側を執拗に捏ねられて、止めるどころか縋りつくような格好になってしまう。
「も……っあ、……! 」
内側にあったものがほとんど流れ出ても、シキは指を抜かなかった。事務的な動きで内壁をこすられる。
「ん、……っくぅ、い…ッ!」
体は陸に打ち上げられた魚さながらに跳ねる。頭がちかちかとした。
 指の関節に何度も出入りされ、収縮しようとする後孔が繰り返し拡げられる。そのたびに水音が聞こえた。
「こんなものか」
「……ッう、……ッ」
やがてあっけなく指が引き抜かれる。体がぶるりと震えた。シキが体を引く。アキラはその場に崩れおちて、芳しい香りを放つ赤いワインが転々と染みを作ったシーツに頬を埋めた。左手だけが張り詰めた鎖に縛られて、捩れるように背後に引っ張られていた。
「……っ、……ん、……ッ」
体の奥がひくつく。煽られた熱が行き場をなくして、腰の奥に重くわだかまった。それは今や完全に芯を持って勃ち上がったアキラの中心から、だらだらと雫になって落ち、あるいは吐息に色をもたせて空気に散る。視界は潤んで歪み、強く瞼を閉じると目頭から涙が鼻筋を斜めに流れ落ちた。
「欲しいか」
ひく、と、その声だけで体が震える。
 のろのろと視線を上げた。支配者はワイングラスに手を伸ばしながら、傲岸な笑みを浮かべてアキラを見おろしていた。答えるまでもなかった。アキラは濡れた目で、かろうじて彼の主を睨み上げた。今できる抵抗などその程度だった。反抗的な目付きにシキが腹を立て、このまま放置されたなら辛いのは自分自身だということも理解していた。それでも、そうせずにはいられなかった。
 シキはこれ以上なく優美な、流れるような仕草でグラスに口をつけて、アキラを観察していた。強固な檻の外から弱った獣を見るような、そういう視線だ。絶対的な強者が、意思ひとつでどうにでもできるその所有物を眺める目。
 アキラはシーツを噛む。悔しくて、腹立たしく、そして、待ちどおしかった。
 鼻先に再びシキの手が差し出された。メインの肉料理の切れ端が乗っていた。この期に及んで、まだ焦らされるのか。だが従う他になかった。犬のように、シーツの上に乗せられた手の上の肉に喰らい付く。飲み下し、指を舐めて、口内に導いて再び舌を絡める。シキの指は、先ほどとは打って変わっておとなしかった。必死でそれにしゃぶりつく。シキ自身に奉仕するように、丹念に、形をたどるように舌を這わせ、唇で甘咬みし、喉の奥に誘い込んだ。足りない、と思った。もっと、口の中をいっぱいにするような、気道を塞ぐような、それが欲しい。
「……高嶺の花が、なんという様だ。犬ですら無いな──自分が今どんな格好で、どんな顔をしているか分かるか、アキラ。淫蕩そのものだ」
頭上から声が降り注ぐ。その言葉は心を鎧うものをぐずぐずに砕き、プライドを引き裂く。だが、嘲りを含んだ声は、同時に酷く甘く感じられるのだ。羞恥や矜持を傷つけられる痛みすらも、今は酩酊を誘う快楽にすり替わってしまう。
 シキの指が後退する。追って、アキラは背骨を、首を伸ばした。繋がれた左手の先で鎖が張り詰めて音をたてた。煩わしかった。唇の間から指が抜け出ていく、それが耐えられなかった。
 だから、シキの形の良い指に歯をたてる。
「……、」
主が眉をひそめる、その些細な気配が感じられた。痕も残らない、血なぞ勿論出ない、だが僅かには痛むであろうその行為を、シキは咎め、罰が与えられるだろう。低く喉を鳴らすような笑い声が、耳に届く。
 次の瞬間、脳を揺さぶられるような衝撃に見舞われた。口からは指が引き離され、代わりに前髪を掴んで持ち上げられる。頭皮が引き攣れる痛みの中、愉悦を沈めて笑う赤い瞳を間近に見た。
「よく躾けられたものだな」
語尾の掠れた低い声が、脳を犯す。何かがどろりと溶けていくのを感じる。多分、形を失っていくのはわずかにでも残っていたまともな思考や理性といったものだ。
 再びぐいと前髪を引かれて、導かれたのはシキの腰だった。
「手を使うな」
背骨から歓喜の濁流が流れ出して脳を甘く包んだ。アキラは衝動のままに必死で舌を伸ばす。唇で挟み、歯で金属を噛んで、シキのパンツの前を寛げると、そこに眠っていたものを頬張った。口内でシキの雄が目覚め、育っていくのに陶然とする。すぐに、アキラの口では根本まで咥えきれなくなる。
「……ん、ん……ッ」
「いつもの様にしてみろ」
前髪を掴んでいたシキの指が髪の間を潜って、後頭部に回った。頭を押さえつけられるのに合わせて、アキラは夢中で喉の奥を開く。
「……ッ……! ……ッ、……」
狭い場所を拓かれて、抉られる。気道が圧迫され塞がれるせいで、息はできない。時折わずかに漏れるうめき声は、呼吸の意味を成さない。
「……ッぐ、……ッん、……ン! ……ッ」
酸素が失われて、視界が狭窄する。白い粒に意識が覆われていく。長い時間を掛けてシキに仕込まれてきたやり方は、慣れたからといって苦痛が和らぐものではない。だが喉の奥を突かれながら、アキラは頭を押さえつける手に逆らうことをしなかった。この行為の終わり、意識の果てに見る暗闇はシキのまとうのに似て光のない、澄み切った黒で、それが脳髄を灼いていくのだ。苦痛の先にある甘美を、アキラは知ってしまっていた。
「……ッぐ、げほッ、が……ッは、ぁッ、はァッ、は……!」
解放はいつも突然だった。肺に酸素が送られて、急に世界がよみがえる。ベッドの上に仰向けに投げ出され、シキを見上げている自分を発見する。無理に開かれて痛む喉で必死に空気を貪る。シキが低く笑って、アキラ自身に指を絡みつけた。
「酷くされるのが、そんなに悦いか」
「……ッ」
シキは指にすくい取ったものを眼前に掲げる。糸をひき粘つく、その液体の色は濃い白色をして、自分でも気付かぬうちに達していたことをアキラに知らせた。
「それとも、蹂躙され征服されるのが好みか」
「……ッちが……、ッ!」
否定を口にしかけたところで膝を抱え上げられ、肩につきそうなほどに折り曲げられる。シキの勃ち上がり育ちきったそれが、窄まりに充てがわれるのが見えた。自らの入り口がひくつくのも。シキはほんの僅かに首を傾げるようにして笑う。
「違わんだろう」
「……ッちが、いま……っあ、ぁあ……!」
言葉は、最後まで紡ぐことが出来なかった。体は埋められたシキの先端を、その先を求めて誘いこむように蠕動して、言おうとしたのとは真逆の答を出していた。
「……っく、ん……ッぅぁあ……!」
少しずつ、シキの灼熱が入りこんでくる。
「……ッ、さっき慣らしたばかりだろう」
その場所は元々何かを飲み込むようにはできていない。たとえ欲しがって腰が揺れていても、やはりきついままの肉壁が、今は尚更狭くなっていた。抑えきれない期待に力が入ってしまうせいだ。
「ああ、だが、……無理矢理拓かれるのが好きだからな、お前は」
緩めろとも、力を抜けとも、命じられない。体重をかけられた熱の杭で、体が強引に押し開かれていく。ゆっくりと、だが容赦なく。
「……く、……ッああぁ……!」
狭い肉がたてるみちみちという音が体の奥から聞こえてくる気がする。犯されるということがどういうことなのか、身を持って知らされる。
「っは……う、ぁあ……!」
シキのそれが根本まで埋められ、一番深い場所を突かれる。瞬間、それまでとは質量の違う快楽の波が背中を駆け上って、唇からほとばしった。
 侵された。犯された。
 その事実が、甘い坩堝となって腰骨を溶かし、背骨を砕く。思考が燃え落ちてぐずぐずになっていく。
「よくこのタイミングで気をやるな、お前は」
ずぐ、と最奥を詰るように突かれる。そのたび、色付いた声や息とともに、体を折り曲げられているせいで、自らの腹にこすりつけられているアキラ自身から、押し出されるようにぬるつく液体が溢れた。
 後ろを突かれるだけで、鈍い電流のように快感が走って腰が震える。
 自らの体が、シキに作り変えられたものなのだと思い知らされる。
 征服され、支配され、シキのために用意された、体だ。
 触れられてもいない臍のピアスが熱を持ち、腹の底で何かが小さく弾けた。
 シキに指摘されたとおりだった。抗うすべもなく好きにされるのは、どうしようもなく快楽だった。だがその事実の受け入れ方が、未だにわからないまま、アキラは半ば混乱しながらただ、翻弄される。
「あ、あ、──ッ」
「アキラ」
「……、ふ、あッ、……ッん、ぁ……!」
自分の体の内側が、液体になったような感覚が広がった。奥から溢れるものが、爪の先にまで満ちて指先が痺れる。体が溶けてどこまでも落ちてゆきそうで、たまらず、自由になる右手でシキの首にしがみついた。
 笑みの気配と共に、頭上でシーツを掴んでいた左手がほぐされる。代わりにあてがわれた一回り大きい5指を夢中で握り締めた。
 体がほころびきっている。体だけだろうか。こころも、だろうか。
 少しの動きにも、まるで応えを返すようにびくりと震えるからだは、直後ほんの僅かに弛緩してシキを従順に受け入れ、まとわりつく。
「満ち足りたか」
低く、語尾のかすれた美声が耳に、その内側に滴り落ちる。けれど意味を拾い上げることが、いまのアキラにはすでにあやうかった。
 すべての鍵が解かれ、ひらかれた場所にシキの、匂いや汗や声が、快楽が、気配が満ちている。
 
 シキは一時動きを止めて、腕の中の馴れた獣を見下ろした。問いかけに返るのは言葉でなく、堪えるような甘い息と、とろりと溶けきった青い瞳だ。
「……っ、まったく、欲深いことだな」
こんなふうに、言葉も届かぬほどに溺れきり、貪っておいて。
 シキが腰を揺らすと、アキラは顎を上げ、白い喉を空気に晒してすすり泣いた。その目元は薄赤く色付いて、短い睫毛には官能の呼び起こした涙が溜まっていた。髪の生え際に向かって流れ落ちていくそれを目の端に、濡れた青い瞳に舌を這わせながらシキは低く笑う。
──空になった気分だとは、どの口が言ったのか。
 

end.

Vote: