瑕疵

 聞きなれない音に、ニイオはディスプレイから視線を外した。見やった窓はわずかに隙間を開けて、空調の効いた室内に新鮮な夜の風を呼び込んでいた。
  室内は蛍光灯の無機質な光に照らされている。トシマの黒い城、精鋭部隊である第零部隊の、書類業務のための一室だった。
  彼はしばらく考えてからその音が、幼い頃に聞いた夏祭の笛の音だと思いだした。遥か彼方の記憶である。先の大戦後、そういった行事は軍属の彼の周囲からは姿を消していた。
  地方がいくらか復興した後、遠征の際にそれらしき行事をやっているのを見ることはあった。しかしここはトシマだ。ああいったものは歴史のある場所で、宗教的な施設などを中心として行われるものではないのか。復興したとはいえ、長い間廃墟として放置されていたトシマに神社などあろうはずもなかったし、文化の担い手となる土地の人間もいない。
  斜め向かいの席で眉間に皺を寄せてディスプレイを眺める同僚に水を向けた。
「おいイチヤ。この音、なんだ」
「笛だろう。祭の」
「そういう意味ではない。どうしてそんなものが聞こえる」
男はディスプレイから視線を外さずに応える。
「先日T財閥傘下の商社が、デパートを建てただろう。あそこが主導で、なにかやるらしい」
「確か本社がシコクだったかサンヨウだったな。何か祀っているのか」
「さあ。商社というくらいだ、稲荷じゃないか。昔は企業で祀るところも多かった」
「お狐さまか。狼や犬とは相性が悪そうだな」
さして興味を惹かれたふうでもなく答えると、同僚はわずかに口元を緩ませた。初めてディスプレイから視線を外して彼を見る。
「たしかに、筆頭は地味に渋っていた」
「……まあ、面倒は増えるな、いろいろ」
そういった大規模なイベントは、黒い城の外ではこれまで行われて来なかった。ここ一年でようやく復興したトシマが、軍事組織としてでなく都市として機能し始めたのはつい最近だ。
  トシマの復興は、まず中心地に軍関連の施設を建設するところから始まった。それに伴いインフラが整備され、統一ニホン設立後もうすぐ一年がたとうとする今、シンジュクなど周辺地域には商業施設も揃い始めている。
  そもそも現在のニホンで最も懐が暖かいのは軍人たちで、彼らが集う場所の周辺にそういった金の落とし所が集うのは当然のなりゆきだった。政府と関係を密にしていたT財閥が、先日その中に大型の商業施設を建設したのを皮切りに、他の企業も参入しつつある。ただしトシマ周辺での施設の建設には、政府の審査と許可が必要だった。
  件の祭のT財閥は、トップが年に幾度か政府と会談を持つような関係だった。祭についても、三月ほど前、総帥直々に参加した会談の際に話を上げてきたものらしい。
  トシマとシンジュクの境には現在小さな森がある。元々は公園であった場所がたまたま戦火を免れ、長らく放置された結果だった。3rdDivisionで多大な打撃を受け、半ば廃墟と化したトウキョウにあっては、緑が残った例は珍しい。そこを利用して、メインのターゲットである軍人と、一部の一般市民相手に、かつてのニホンを偲ぶようなイベントを、というのが財団の弁だった。一部の一般市民とは、政府によって有用と認められ保護された者たちのことだ。軍人による一般市民に対する暴力は枚挙に暇がなかったが、その中にも例外はあった。
  城という限られた場所ではなく、地域でのイベントとなると、人の出入りが完全には把握できないこともあり、警備の面で急に面倒が増えることは容易に予想できた。
  キーボードを打っていたイチヤは、たん、と小気味いい音と共にエンターキーを弾いて立ち上がる。何枚かの書類を手に立ち上がったのに、ニイオは自分の報告書の作成に戻りながら教えてやった。
「アキラ様ならもう帰られたぞ」
同僚はわずかに目を見開く。
「珍しいな。仕方ない、明日にするか」
室内の雰囲気が変わったのはその時だった。扉に目をやると、件のアキラが立っていた。入口近くの兵士に話しかけている。
「帰られたと、言わなかったか」
「そのはずだが。一時間ほど前だ」
二人は視線を交わした。何か、妙な雰囲気だった。勘のようなものが微妙な違和感を伝えている。二人揃ってそれを感じているのならば、かなり高い確率で違和感には原因があるはずだった。
  一度帰ったアキラが再び現れることは珍しいことではない。もともと、公私の別のない上官だった。軍で総帥のために働くことが、息をするようにあたりまえのことであるかのように。
  アキラに話しかけられた兵が頷き、背後に伴って自らのPCへと向かう。少し距離があるため細部までは聞き取れなかったが、確認したいことがあるが自分のPCを立ち上げるのは面倒なため、すでに電源の入っているPCで情報を参照したいということらしい。だがその視線が、ディスプレイではなくパスワードを打ち込むキーボードの手許だと気付いて、二人は再び鋭い視線を交わした。パスワード情報はデータ化も書面化もしていない。各自、自分の他に三人分の情報を記憶し、それによって喪失のリスクを軽減している。全員のものを把握しているのはアキラだけだ。
  先に動いたのはニイオだった。アキラとの距離を詰める。近づけば近づくほど、違和感は増し、不気味さに変わった。原因は恐らく、細部の小さな差異のせいだろう。
「筆頭」
「ニイオか」
アキラは顔を上げた。
「どうなさってんですが、筆頭。お帰りだったのでは」
ニイオは『筆頭』の呼び名を繰り返した。しかしそれは、彼が普段アキラを呼ぶ呼び方ではなかった。古くからアキラの元に仕える兵は、アキラを階級や役職名ではなく名に敬称をつけて呼ぶ。日興連の軍にいた時代、短期間で昇進を繰り返したがために、アキラ自身がそうするよう指示した名残だった。
  聞きなれぬはずのその呼び方に、目の前の上官は眉一つ動かさずに返答する。
「気になることがあってな」
「何をです?」
「……ああ、」
アキラがわずかに、後ろに足を引いた。ニイオはそれを見逃さなかった。
「……避けろ!」
叫んだのと、アキラがサーベルを抜いたのは同時だった。とっさのことに振り返るしかできなかった目の前の兵を切り捨て、踵を返し部屋を飛び出した。
  ニイオがそれを追った。騒然とする室内で、兵の数人にイチヤは叫ぶ。
「ムツ、ナナオ! 追え、ニイオを援護しろ!」
そうして別の者に怪我人の処置を命じながら、自分は電話に手を伸ばした。総帥官邸へはすぐに繋がり、取り次がれ、程なく受話器からは聞き慣れた声が聞こえた。
  イチヤは奥歯を噛んだ。それは間違いなく、たった今までここにいたはずのアキラの声だった。
「──筆頭」
『どうした』
「筆頭の、アキラ様の偽物が、現れました」

*

 整えられ清められた路上は、深夜近くともなれば人の声が絶えた。
  石の風合いを残した煉瓦の建造物からなる街並みが、宵闇の中でガス灯の明かりにぼんやりと浮かび上がっている。夏の湿気を含んだ空気が、灯りに戯れる蛾の、筆で描いたような文様を持つ羽を重くしていた。
  軍属の建物が並ぶ一角で、シキは棺に似た漆黒の車から降り立った。
「歩く。先に行け」
運転手は一瞬だけ、物言いたげに彼を見た。しかし赤い瞳に一瞬とはいえ鋭く射抜かれ、反論の余地もなく車を出す。それを背にシキは歩き出した。
  復興したトシマの街に、以前の廃墟じみた面影はない。特に中心地でもあるこの一帯は、石畳が敷かれた路上に、揺れる炎を宿した街灯が並ぶ。懐古的とも言える風景は、しかし遠くない場所に浮かぶ、黒い城のシルエットをはめ込む額縁としては優れていた。
  護衛を必要としないこの国の王が、軍靴の音を響かせながら道をゆく。昼間の熱気と湿気をいくらか残したままの夜気は、しかしその周囲に届く様子はなかった。温度を感じさせない作り物めいた横顔を白く浮かばせて、今自動車で通ったばかりの道を引き返すと、ひとつの路地に辿り着く。街灯の光の届かない薄闇の中に、人影は3つ。壁の間に反響する特有の足音に彼らは振り返り、息を呑んだ。はじかれるように敬礼をした二人は精鋭部隊ではないものの、目にした記憶があるということは低くない階級の将校だろう。やや遅れて額の位置で手を翳した一番奥の一人は、シキのよく知る顔だった。
「──何をしている」
手前の二人を一瞥することなく、まっすぐに歩みを進める。刀を持つ手を上げれば、場にわずかな緊張が走った。柄の部分で顎を上げさせ、灰色の髪に青みがかった瞳をもつ、自らの犬の顔を覗きこむ。
「調査の途中です」
「ほう?」
貫くような視線に、青い瞳が揺れた。シキはそれ以上言葉を発しなかったが、視線を開放することもなかった。やがてアキラの額から一筋の汗が流れおち、視線が──逸らされた、まさにその時だった。
「──閣下! 離れてください!」
にわかに背後から足音と鋭い声が響いた。
  シキは唇を歪ませると、瞼を半ばまで下ろしてその瞳を隠した。刃の視線から開放されたのを機に、目の前のアキラが口を開き、左右の部下に命じる。
「いたぞ! 捕らえろ!」
シキは刀を下ろし、壁側に一歩引いた。そうして目の前を眺めれば、なかなかに興をそそられる状況が広がっている。暗い通路の中に、二人のアキラが対峙していた。
  後から来た方のアキラにむかって、兵たちがサーベルを抜いた。その背後で、先にいたアキラが踵を返し逆方向へと走りだす──逃げ出した。シキが傍観者の体でその後ろ姿を見送っている間に、二人の将校は地に沈んでいた。
「殺さんのか」
「──お許しいただけるのであれば」
逃げた偽物を追うように路地の向こうに視線を向けたアキラの肩を引き寄せる。髪を掴んで上向かせれば、軍帽が石畳の上に転がった。小指が首筋に触れたのに、アキラはかすかに息を揺らす。
「何故わざわざお前が追っている」
鼻先を突き合わせるようにして問いかけた。灰色を帯びた青い瞳がまっすぐに飛び込んでくる。形状しがたい僅かな愉悦が、シキの内側で熾火の光を放った。それは全くの別人とはいえ、酷似した姿をした者の、腑抜けた仕草に抱いた多少の不快感を灼いた。
「……ご覧のとおり、この暗さでは、俺以外には判別できないからです」
シキはその言葉を鼻で笑い、嬲る色を浮かべた瞳で従僕を見下ろす。
「ならばお前が本物という証拠はどこだ」
「……っ、」
「なかなか戻らんと思えば、これか。俺もお前の顔を忘れそうだ」
薄い傷を爪の先でなぞるように言葉を重ねて、不興の理由を教えてやる。冗談とわかっていながら、唇を噛んだのが愉快だった。
  数日前の夜、屋敷への電話で飛び出してから3日が経っていた。アキラは必要最低限の業務以外では滅多に戻らず、夜も黒い城に寝泊まりしている。そのことについて連絡は受けていたが、何のためにというまともな報告はまだない。
 睫毛を揺らし、従僕は眉根を寄せた。元々の表情の乏しさを知らなければ、まるで怒りや不快を顕にしたかに見えただろう。だがそれは、実際のところ懇願と罪悪感からくる表情だった。
「お戯れを。……追わせてください」
「証拠をと、言った」
「……戦って勝ったほうが、俺です」
耳を伏せ尾を垂れていた犬が、ふいに獲物を追う猟犬の眼の色を宿したのを見て、シキは思わず唇の端を上げた。
「……違いない」
掴んでいた髪を離してやる。ついでその視線を、足元に倒れたままの兵たちに向けた。鞘尻を片方の喉元に当てながら問う。
「主の顔を忘れるような無能は、要らんと思わんか」
「……もし貴方の顔を間違えたというのならば、即刻切り捨てましょう」
「そうか」
シキは形の良い唇をしならせると、刀の柄に手をかける。鋭く澄んだ音をたてながら、刃紋が流れるように鞘の中から姿を現した。切っ先を、ひたりと足元の兵の首筋にあてる。アキラは表情を変えなかった。どこまでもまっすぐに彼の王を見つめたままだった。
  たとえ足元で自らの部下の血が流されたとしても、頬から色を失いながらも、一心に見つめまなざしを向け続けただろう。
 その様子を眺めてシキは笑みを濃くする。
「役に立たん部下を俺に斬り殺されまいとでもしたかと、思ったが」
 手首を回すようにして切っ先の方向を変えた。遠い街灯の青白い明かりを反射して、それはまるで自ら発光しているかのような軌跡を描き、アキラの喉元に辿り着く。
「──違うな。何を隠している」
アキラの表情がわずかに強張った。それは命を刃の上に載せられた、その危機感からではない。
  何かを必死に後ろ手に隠しているのには、とうに気付いていた。シキは静かに従僕を見据えた。射るようなその視線から、しかしアキラはわずかに唇を引き結んだきり、逃げることを選ばなかった。そうしながらイエスともノーとも、答えることもしないのだった。
「──」
「……アキラ」
命じる響きをったその声音にも、けれどやはり口を開かない。ただ懇願に似た色を眼差しに乗せて、シキを見つめ返した。
 王は溜息をつくと笑みを消し去り、視線を外した。彼の従僕の強情さは筋金入りで、しかしそれを、忌々しく感じる反面、面白がる自分がいることも確かだった。
「閣下」
アキラは許しを請う響きで、主を呼んだ。だが彼の王はもはや背を向けており、振り返ることはなかった。夏の夜の蒸し暑さをひどく遠く感じながら、せめてその声を一言も聞き逃すまいとして耳をそばだてる。
「自らを本物と証立てるまで、顔を見せるな」
命令は、その足音を縫って暗い路地に響いた。
  アキラはかすかに顎を引く。路上から軍帽を拾うと主の背中に向けて敬礼の姿勢をとった。そうしてから、逆の方向に向かって駈け出した。
 

*

 結局その夜、アキラは偽物を捕らえることが出来ぬままに黒い城に戻った。
  精鋭部隊の業務室には、万が一のため偽物を見破ることの出来る優秀な兵が一人は常駐するように手配し、アキラ自身もさり気なく目印となるようなものを身につけた。それとて真似されてしまえばそれまでであり、最終的には少しでも違和感があれば斬りかかるよう指示を出した。 先日偽物に騙され、アキラに襲いかかった兵たちにも、その方針のためにあからさまな罰は与えなかった。甘いと笑う主の顔が浮かんだが、今回ばかりは仕様が無いとアキラはため息をつく。暗がりで即座に偽物を判別することが出来るのは、アキラ直轄の精鋭部隊のうちでも、古参の兵を中心として半数といったところだ。それ程に偽物は酷似していた。現在任務のために外に出ている兵を除けば、その数は更に減少する。だがこのためだけに呼び戻すわけにも行かなかった。
  偽物は、これまでも幾度か城の中に姿を現していた事が発覚した。とはいえさすがに精鋭部隊のフロアまで侵入したのは今回が初めてで、他部署での反応を見て自信をつけた結果だろうと思われた。
  被害はクーデターや抵抗組織に関する情報が中心だった。制圧や対応策に関してこちらの手の内を多少なりとも明かしてしまったに等しく、しばらくは厳重な注意が必要になるだろう。実際、地方での作戦に幾つか影響が出はじめている。対応を変えるよう作戦部に指示をまわした。
  偽物の身元は割合すぐに明らかになった。国内でも有名な反抗組織の分派だ。その仕事の手際には多少素人らしい粗雑さが見て取れた。ほぼ完璧なアキラの偽物を作り、黒い城に侵入する技術力を持ちながら、実際収集できた情報があれだけというのもお粗末な話だった。
  本来ならば気に留める必要もないような集団だったが、どうやら後ろ盾がいるらしい。偽物一人作るにしても相当の費用がかかっているはずだ。組織にしてみれば捻出できない金額ではないだろうが、コストに対する利益がかなう方法とはどう考えても言いがたい。もし精鋭部隊の面々が一人も偽物に気づかず、セキュリティレベルの高い情報まで持ちだされていたのならば、多少話は違っただろうが。
「どう思う」
傍らで資料を覗きこむニイオに、アキラは問う。
「2つ以上の組織がからんでいて、それぞれ違う目的のもとに動いている感触があります」
アキラは頷いた。
「ひとつは、抵抗運動のための情報収集、それから恐らくは、総帥の暗殺だろうな。もう一つは」
「タイミング的にも、狙いは6日後に来日するS老人ではないかと」
「とすれば、黒幕はあの国のトップか。ニホンの抵抗軍を利用してS老人を殺害し、罪をなすりつける」
「彼らも、このタイミングを逃せば自国を守り切れないとわかっているのでしょう」
同じ結論に達したことを確認し、二人は書類のZ国の文字に視線を落とした。それは、統一ニホンの海外進出の足がかりとして、一番初めに侵攻した国だった。目的は彼の国の国土ではなく、保持する地対空ミサイルなどの遠距離兵器だ。ニホンは内戦のための近接武器であればまだしも、対他国を意識した兵器に乏しかった。
  シキが指示したのは、意外にも武力による侵略ではなかった。政治組織に少しずつニホンの息のかかったものを増やし、その軍隊にニコルウイルスのキャリアーを送り込んだ。そのために数ヶ月の間、ナンバー2であるアキラ自身が、彼の国に司令塔として身を置きすらした。シキがこれからはじめる世界を相手取ったゲームのための足固めだった。
  もうすぐニホンによる支配は完璧なものになる。もともとZ国の人間でありながらニホンを手引きしていたS老人が、国賓として堂々と来日するのもその結果だ。
  この騒ぎは、彼の国の最後のあがきと思われた。
  対反抗組織の作戦は、当初の予定通りとはいかなかった。だが一週間が経った今日、ようやく組織の隠れ家を制圧する段にこぎつけた。
  彼らの巣穴は、トシマから車で1時間ほど離れた場所にある郊外の廃屋だった。100人近くいた構成員の大半は、他の作戦ですでに始末し終わり、今日ここにいるのは残りの30人程度だと推定されていた。しかし、昨夜からつけていた見張りの報告によれば、どうやら人数が足りないようである。
  アキラとニイオは廃屋の裏手にある森の中に潜んでいた。
  真夏とはいえ、標高がいくらか高く森の緑に覆われたこの一帯は、トシマよりも随分と涼しい。ただしそれは現在のように木陰に潜んでいる間だけであって、日差しのもとに出れば黙っていても汗が流れた。蝉しぐれが下界よりも激しく耳を刺す。
「……別働隊がいるか」
「どうします?」
「ここは予定通り落とす。残りはその後だ」
「はい」
廃屋の裏手にある森の中に潜みながら、ニイオは無線に向かって命令を呟いた。回線を切ってから腕時計に目を落とす。時刻は夕刻を示していた。その表面はやすりで艶が消され、光を反射することのないよう気遣われている。突入時刻まで数分あった。
  自分はともかく、上官がこんな場所に潜むのを見るのは久しぶりだと、口を開く。
「アキラ様」
廃屋から視線を戻した上官に問いかける。
「何か気になることでも?」
そもそも国のナンバー2が、こんなふうに実戦に主要メンバーとして参加するなど、本来ならばありえないことだったろう。いくら有能とはいえ、明らかな危険が及ぶ場所にいていい身分ではない。しかしアキラは実地から退くことをせず、総帥もそれを愉快そうに眺めた。それは結果的に、この国の姿勢を表しもしたし、軍の士気をあげることにもつながっている。おそらく時が来れば、総帥その人も戦地に赴くのだろう。むしろ今は、そのための準備段階にすぎないような感触を得ていた。
  とはいえ、こんな瑣末な作戦にまでアキラが顔を出すのは珍しい。トシマ近郊の作戦で、せめて中隊単位を率いてということであれば、いくつか優れた結果を残した前例があったが。
「何か、……焦っていらっしゃるように、お見受けします」
「──」
ニイオの言葉に、アキラは元々表情の薄い顔を固くして黙り込んだ。
「出すぎました。失礼いたしました」
「いや、……。時間だ」
一度引いたニイオの言葉を、わずかに追う素振りを見せながらも、結局は自らの腕時計に目を落とした。二人は視線をかわすこともせずにタイミングを合わせ藪を出る。
  建物の反対側から、ガラスの割れる音と爆発音が響き、陽動部隊が予定通り動き出した事を知らせた。
  窓の下に張り付き、室内の人間が音のした方向に向かっていくのを待つ。アキラが時計を確認して三本指を立ててみせた。本数は一秒進むたびに減り、0になると共に、硝子を割って室内に侵入する。その音は、再び別の場所から響いた爆発音にかき消された。
  アキラは室内に一人だけ残っていた男の口を背後からふさぎ、首と鎖骨の間に垂直にナイフを突き入れる。崩れた体が床にぶつかる直前でその腕を掴み一瞬支えてから、音を立てないように横たえた。そうしてから素早くナイフを引きぬく。血だまりが生き物のように広がった。いつものサーベルも下げてはいたが、こういった狭い室内での作戦となれば、はじめのうちはナイフのほうが使い勝手がいい。
  部屋の入口付近で外の様子をうかがっていたニイオが、サインを送ってよこした。二人は足音もなく廊下に駆け出した。
  別動隊が派手に銃撃戦の音を立てるのを聴きながら、二人は廊下を抜け階段を上がっていく。リーダーの部屋は三階建てのこの建物の二階奥だった。陽動隊がおびき出した分人数が減っているとはいえ、他よりも厳重な警備が敷かれている。扉の前に二人、廊下に一人。それまでは音を立てぬように敵を始末してきたが、さすがにここでは無理だった。ニイオが先ほど敵から奪ったライフルを発砲した。二人倒れる。残った一人がこちらに銃口を向ける前に、アキラが飛び込んだ。ここに来てようやく抜いたサーベルを、男の首の付根に潜り込ませて引き倒す。死体が床で血をまき散らすのを横目に、扉の蝶番側の壁に背をつけた。
  室内で慌ただしい足音。三人分だ。扉が開いた。すぐに銃を構える気配がし、向こうの壁の角に隠れたニイオに向けられた発砲音を聞く。いなや、アキラは扉の裏側からナイフを持った手を伸ばし、敵の首を掻き切った。アキラに気付いて室内から現れ、銃口を構えたもう一人の男のこめかみを、ニイオのブローニングの自動拳銃が正確に撃ちぬく。
  扉が閉じるのを防ぐように2つの死体が重なったところで、物音はやんだ。角に身を隠していたニイオが、足音を消して近づいてくる。その途中でおもむろに、足元の死体の胸元から万年筆を拾い上げた。室内に投げ込む。それが床に落ちる僅かな物音に怯えるように、銃声が響いた。余韻が消えぬうちに室内に飛び込む。弾の方向からすでに敵の位置は把握していた。バリケードがわりに倒された机の裏側から上半身を出した男の眉間をニイオが仕留めた。
  ふと息をつきかけた瞬間、アキラは背後に気配を感じた。咄嗟に身を翻す。首の横を鋭風とナイフの鈍い光が抜けていくのを見た。
  薄皮を持っていかれた。舌打ちしたい気分で相対した相手は、元は軍人であったろうことが伺える太い首と腕を持った男だった。手練ではあったろうが、しかし、遅かった。勝敗は一瞬で決した。ひどく重い音を立てて、サーベルに切り裂かれた男の体が床に崩れた。
  今度こそ、アキラは息を吐いた。嫌な予感に、自らの首に触れる。指に薄皮が引っかかったが、血は滲んでいない。
「お怪我を?」
「いや」
答えながら、刃の視線に皮膚を灼かれる感覚を思い出した。主は所有物が、己以外の手によって傷を負うのを好まない。もし一筋でも皮膚を裂かれるようなことがあれば、後々閉じた傷口も開かれ刻み付け直される。小さく息を付いた。
  その背後で、ニイオはわずかに眉を寄せた。最後の一人だけは玄人ではあったものの、こんな素人集団相手の作戦で、上官が掠り傷一つでも負うことは、かなり珍しい。やはり今日のアキラは少しおかしかった。
「……どうなさったのです」
鉄面皮の下から、気遣う色を滲ませながら問う部下に、アキラは渋面を作った。それが困惑のためのものだと伝わる程度には、彼と彼の部下とは長い付き合いになりつつある。
「……俺の偽物。あれと、総帥を会わせたくない」
「──」
言葉を探るようにしながら、アキラは足元に散らばった、元々は机の上にあったのだろう書類の調査をはじめた。ニイオは室内の机の引き出しや箪笥を当たる。たいしたものは無さそうだった。
「あれは、俺が始末しなければ、──うまく、説明できないが。忘れてくれ」
言いづらそうに、言葉を探し倦ねるアキラが、散らばった新聞の下に膨らみをみつけ、持ち上げたところで手を止めた。下から現れたのは狐面と、それから数枚の写真だった。気配に気づいてニイオが振り返る。
「それは……」
階下の物音も止んでいる。軍靴の足音とともに、陽動作戦にあたっていた部下が現れた。額に汗を浮かべているのは、単純に暑さのせいだ。彼らにとっては特に難のない作戦だった。耳を覆っていた銃撃戦の、激しい音が残した低い耳鳴りの上に、蝉の声が戻ってきている。
「こちらには偽物はいないようです」
「──先に戻る」
アキラは珍しくその目にまざまざとした不快感を宿していた。ニイオに写真を渡し、踵を返しながら命じる。
「トシマに待機させている兵には俺が車から連絡を入れる。ここの事後処理を頼む。なにか新しいことがわかれば連絡を。ないとは思うが、万が一こちらに偽物が現れた場合は始末して構わない」
「了解しました。……お気をつけて」
思わずそう続けたニイオの手中の写真には、総帥その人を模したと思われる出来損ないの偽物の姿が写っていた。
 

*

 市街地で行われる祭のために、道路は混み合っていた。
 夜に似て黒いセダンの後部座席で、シキは頬杖をついて夕暮れのトウキョウの街並みに視線を落とす。
  常であれば、広い座席にはシキとその刀だけが並ぶか、あるいは彼の側近が座るものだったが、珍しいことに今日は違った。国賓として来日したS老人が、興味深げに窓の外を眺めている。
「これがニホンの祭かね。エキゾチックだ」
「形骸化もいいところだがな。最早祭の顔をした大規模な客引きにすぎん。この土地の神は、先の大戦で崩れ落ちた」
「代わりに君が君臨するわけか。軍神、魔王、悪魔、化物。君を形容する言葉はたくさん耳にしたが、どれも不吉でなかなかいい。あの恐ろしい顔をしたマスクはなんだね」
シキは老人の軽口を鼻で笑う。他者から与えられる評価や名など、たいして興味をひく事柄でもなかった。
「狐だ。主催企業本社の祭神らしい」
「狐がか。どんな神だ」
「……この場合は、金か」
老人は、にっこりと笑ってわかりやすくていい、と呟いた。
  助手席の兵が着信ランプの明滅する携帯電話を取り出した。幾度か言葉をかわした後振り返る。鉄に似て感情のない声で告げた。
「アキラ様からご連絡が」
「本物だろうな」
冷笑を浮かべる。兵は生真面目に答えた。
「は。ご本人の番号からですので。祭の中に偽物と、抵抗組織の数名が潜んでいる可能性があるとのことです。万が一にも近づかぬように、と」
シキは祭の雑踏を眺めていた目を、わずかに細めた。その指先が、刀の柄を撫でる。
「聞けんな。──車を止めろ」
急な命令の、しかしその有無を言わせぬ響きに、運転手はブレーキを踏んだ。
「総帥……! 何をなさるおつもりで」
助手席の兵士が慌てた様子で問いかける。
「あれには、いい加減待ちきれんと伝えろ」
膝に立て掛けていた刀を掴むと、腰を浮かせた。車を下りながら、肩越しに老人に告げる。
「祭見物は明日に繰越だ。おとなしく帰れ」
「ご機嫌ななめだね。彼らが可哀想だ」
老人はたいして気にしたふうでもなく、杖の取っ手で前の座席で慌てる兵たちを指してみせる。
「駄犬が戻らんものでな」
後ろ手に車のドアを閉め歩き出す。その視線の先には、雑踏の中を駆けていく飼い犬の後ろ姿があった。
  進むうち、人の数は少しずつ増えた。時刻はちょうど一般企業の定時を過ぎる頃合いだ。狐面を手にした者が多いのは、どうやらどこかで配っているためらしい。数はそれほど多くないが、浴衣で着飾った女や子供の姿もある。富裕層の家族だろうと思われた。やがて道の左右に赤い俵の提灯が並び、更にゆけば、商品名を暴力的な色で描いた看板を掲げる屋台が現れる。笛の音や太鼓の音も少しずつ大きくなった。
  人混みはシキの存在に気づくと、言葉を忘れたようにしてその姿に見入り、すぐに視線を地面に落として道を開いた。総帥その人は人なきが如しの体で、それまで通りの速度で歩を進める。
  ビルの影に陽が落ちて、急づくりの屋台の軒先で電球がひときわ眩しく揺れた。ぼんやりとした提灯の灯りも揺らぐことはなく、光源が火ではないことを告げている。その安っぽさと、屋台の飲食物と人いきれの混ざり合った匂い、興奮気味の子供特有の高い声が、胸の奥で不意に何かを閃かせた。
 まるで戦前のようだった。背の高い雑踏に埋もれぬよう、人をかき分けるように歩かねばならなかった頃。
 足元を駆け抜けていった子供の髪が、目を射る眩しさの電球の光を受けて金に輝いた。ほんの数秒それを目で追う。わずかな不快感が、すぐに閉じた瞼の上を撫でた。それ以上の感情をシキは己に許さなかった。
  本会場である森を迂回するように進んでゆくと、やがて人ごみはまばらになり始めた。合わせて景観も変化を見せる。ぽつぽつと、窓ガラスが外れかけ、割れたコンクリートの断面を晒したままのビルの姿が混じりだした。ニホン統一後、一年と数ヶ月。シキは自らの居をトシマに据え、あの街を復興させたが、少し離れれば未だ、かつての大戦の名残が残る。
 やがて耳が金属のぶつかり合う鋭い音を捉えて、シキはわずかに唇を歪ませた。出処は元高層ビルの廃墟だった。
  以前はガラスが嵌め込まれていたのだろう、道路に面した前面は、内側の暗闇を覗かせる四角い穴の連なりと化していた。割れたタイルからなる階段を登れば、穴の内側がそれなりの広さを持ったロビーだったとわかる。大理石でも嵌めこまれていたのであろう床は、今や無骨なコンクリートの基材が顕になっていた。
  そこに2つの人影が対峙している。どちらも軍服を着こんでいた。薄暗い室内では入口から入り込む残照だけが頼りだ。こちらに背を向けた片方は軍帽の下から灰色の髪をのぞかせ、日本刀の輝きを宿すサーベルを構えている。アキラの姿だった。そしてもう片方は、と確認して、シキは眉をひそめた。次いで湧き上がるおかしさと、僅かな不快感に口の端から笑みになりきらぬ息を漏らす。その気配に顔を上げた男が、瞠目して数歩下がり距離をとった。その様子にアキラが振り返った瞬間、男は身を翻す。逃げ出した。
「……閣下!」
アキラが叫んだ時には、シキは床を蹴っていた。黒い風と化して長身の男の背後に迫ると、あっという間にその首を断じた。それでも数歩を走った体の上から、重い音を立てて床に転がったその頭は黒髪で、見開かれた瞳は鈍い赤だった。とはいえ、それは生命を失うまえから、シキの瞳の鮮やかさとは比べようもない淀んだ色を宿してはいたが。明らかに総帥の偽物となろうとし、失敗した、そんな体だった。アキラの偽物を作るくらいだ、当然努力はしたのだろう。
「──お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
息を呑む気配の後、歩み寄る足音を聞いてシキは笑う。
「お遊びが過ぎるな」
「ご機嫌を損ねましたか」
「いや」
短い返答に、刃が空気を切る鋭い音が重なった。シキは音源に背を向けたまま、日本刀で自らの肩に振り降ろされた刃を受け、流す。まるで背中に目があるかのような、流れるような動きだった。そうしてからゆっくりと振り返れば、そこには驚愕に目を見開いた後、悔しげに顔を歪ませたアキラの、──偽物の顔があった。
「良い余興だった。だが、わざわざ釣られてやった対価としては少々足りんな」
「……気付いていたのか」
「当然だ。自分の犬の模様くらいは覚えている」
偽物の言葉を鼻で笑う。目の前の従僕の顔が、本物ならばけして浮かべないような、嘲りに満ちた笑みで顔を歪ませた。
「犬? 愛人の間違いだろう」
「それならば牙も爪も短く整えさせるな」
偽物は数歩下がってサーベルを構えた。割れた硝子が足元で神経に触る音をたてる。対してシキは、口の端を上げ、半ば目を伏せるようにして、久しぶりに血を吸わせた自らの刀の刃を眺めていた。まるで相手にされていないのを悟って、男は歯噛みする。
「随分な信用を寄せているようだがな。裏切るかもしれないぞ。アンタがかつて日興連を裏切ったように」
「飼い犬の反抗を裏切りという馬鹿がどこにいる」
「飼い犬! 人が人に対して、完璧な支配など有り得るとでも? 誰もが貴様の思い通りになると思ったら大間違いだ」
シキの口元の描く弧が深くなった。代わりに、瞳の温度がすっと下がる。
「……知っている。だがその顔で言われるのは不愉快だな」
刃先の方向を変えながら、シキは応じる。つぶやきに近いものでありながら、その低い声はよく響いた。
「不愉快だと? ……は! それで済めばいいが」
わずかに、シキの気配が変わったのに、気付いて偽物は喜悦と勢いを得た。わずかに歪んだ声音でもって更に畳み掛ける。
「犬に教えてやった。貴様がかつてトシマで、自分の弟すら手にかけたことを。顔には出さなかったが動揺していたぞ」
零下の赤い瞳の奥の暗闇から、じわりと粘度の高い炎が湧きだしたことに、まくし立てる偽物は気付かなかった。
「俺の兄は貴様に殺された。血縁すら切り捨てる外道には、この痛みはわからんだろうがな……!」
「……成程な」
シキは半ば目を伏せたまま呟いた。その、ひどく小さいにもかかわらずやたらな重量を持った声に、男はわずかに、ひるんだ。勢いに乗って言葉を吐き出し続けていた口を、思わずつぐむ。大きな過ちを犯してしまったような、土と思って踏み出した場所が底のない泥沼だったような、違和感と不安に襲われた。知らず数センチを後ずさる。しかしそれ以上、動くことができなくなった。
  シキの瞼が上がり、彼を見据えたからだった。その瞳には溶岩に似た狂気が滾っていた。廃ビルの奥まった場所に、光など殆ど届いてはいないのに、赤い眼球はぎらぎらと何かを反射する。そこらじゅうでわだかまる闇が、塊となってシキの背に従い煮え立っているような錯覚を覚えた。背筋を氷の塊に似た何かが駆ける。喉から悲鳴にすらならない引きつった声が漏れ、まるでスローモーションのように、目の前の悪魔の動きを捉えた。すなわち、構えすらない場所から繰り出された神速の白刃の閃きを。しかしそれは、彼の体を切り裂くことはなかった。
 視界が急にぶれて腰に衝撃がくる。突き飛ばされたのだと、遅れて気がついた。目前に、しなやかな筋肉を予想させる痩躯があった。それは彼が、この計画のために焼きつくほど目にしてきた姿だった。動きを、仕草を、癖を盗むために写真や画面、時に望遠鏡越しに観察し、今となっては毎朝鏡の中に見る男が、そこにいた。
「──っ」
アキラは小さくうめいた。片手で握ったサーベルでは、シキの力を殺しきれなかったらしい。軍服の二の腕に日本刀をわずかながら食い込ませていた。
「……これがお前の隠していたものか、アキラ」
シキは先程までの怒りに駆られた様相からは想像できない、ひどく冷たい声で問いかけた。纏う空気は氷のようで、まるで夏の空気すら凍てつかせるかに思わせる。
「──この男は俺の、獲物です」
「その面はなんのつもりだ」
アキラがサーベルとは逆の手で、顔を覆うようにして持つ狐面をシキは睨む。
「自らを本物と証立てるまで、顔を見せるなとおっしゃいました」
「──」
無言の苛立ちと殺気を、会話からは締め出された男ですら感じた。自らに向けられたものでないと知りながら、思わず脂汗の流れるようなそれを、しかしアキラは正面から受けとめている。全てを明け渡しているからこその無防備だった。
  ──王の狂刃は静かに下ろされ、鞘に戻された。
  狐面が振り返る。未だ地に尻をつけたままの偽物を冷たく見下ろした。
「──立て」
男はその時初めて、自分が地面に座り込んだままであることに気が付いた。
  奥歯を噛んで立ち上がる。オリジナルを真似て鍛えたサーベルを構えた。
  斬り合いは合図もなく始まった。
  力量の差は圧倒的だった。それを知っていたからこそ彼は、アキラと刃を交えるような場面は可能な限り避けてきた。しかし今、敵の片手は面で埋まっている。視線の動きが読めないのは辛いが、それを上回る有利さがあった。
  ここに辿り着くまでに、屋台の店番を装った男の仲間がアキラを襲ったはずだ。そうして筆頭以下精鋭部隊を足止めしている間に、己と、シキを模した仲間が総帥をおびき寄せる計画だった。数日前の夜中、総帥はアキラの偽物を目の前にしても切り捨てることはしなかった。それを彼らは、騙しおおせた結果だと信じ込んでいた。仔細の見えない暗がりで、総帥の偽物と戦っているところを見せることでさらに油断させ、隙を狙って仕留めるつもりだった。しかしいまここにアキラがいるという事実は、作戦が完全に失敗したことを示している。男の仲間は、先程シキの手によって首を落とされた一人はもちろん、他の者も殆どが、恐らくは、絶命したということだ。
  それに気付いた時、男は自らの神経が焼ききれるのを感じた。手にしたサーベルに力がこもる。それは無駄な力ではあったが、たしかに、刃の速さを上げ、一撃を重くした。
  渾身の思いを込めて刃を振り下ろす。
  不意に近づいた面の冷たい瞳がその激情を受けた。彼の全てが、その三日月の形をした細い亀裂の中に吸い込まれた。首元に僅かな冷たさを感じた気がした。同時に何か勢い良く吹き出す水音のようなものを聞く。体から力が抜けた。景色が傾ぎ、気付けば石ころとガラス片の散らばる床を踏む、磨き上げられた軍靴が鼻先だった。その横に舞い落ち転がった狐の白い面を見たのを最後に、彼の視界は闇に塗りつぶされた。

  アキラはサーベルの血糊を払い、刃を清めると鞘に戻した。背中に、主の静かな怒りを感じていた。尖った氷のような、殺気に近いそれにむかって振り返る。彼の王は、笑っていた。あの悪魔のような表情で。
「とんだ茶番だ」
シキの唇を割ったその言葉に、アキラは唇を引き結んだ。
その沈黙を蹂躙するように、シキは続ける。
「望んで刃を交えた戦いを、他者にどうこう言われる筋合いはない」
そのとおりだと、瞳を伏せた。自ら定めた戦いに臨んだ者が命を落とすこと、それ自体を悲しいなどとは思わなかった。それは正しいことだ。美しいことだ。たとえ流れた血がいつか腐臭を放ったとしても。──肉親で、あっても。
 シキが選んだ戦いに泥を塗るような、そんなことがしたかったわけではなかった。けれどこれまでの自分の行いの理由を問われれば、答えは言葉になる前に胸の中で絡まってしまう。アキラは言葉を諦めた。
「……申し訳、」
その瞬間凄まじい殺気がアキラを襲った。びくりとして顔を上げたのと、謝罪を呟きかけた口をふさぐように、顔の下半分を白グローブの手に掴まれたのは同時だった。
「……ッ」
赤い瞳が業火を宿していた。口を塞いでいた手はすぐに離れ、かわりに先ほど日本刀を受けたせいで血を流す腕を、強い力で掴まれた。数歩の距離を引きずられ、ホール中央に立つ太い柱に背中から打ち付けられる。肺がひしゃげ息が詰まった。痛みは遅れて追ってくる。
「がッ、……は……ッ!」
体が崩れ落ちかけたのを、両腕を掴んだ力に阻まれる。咳き込むと背がひきつれるように痛み、息がつまった。けれど酸素は足りず、みしみしと肋骨が音を立てるのを聞きながら、また息を吸い込んではむせることを繰り返す。まるで溺れているようだった。
  それを無言で見下ろすシキの指が、両腕に食い込んで怒りを告げる。傷にグローブ越しの爪が入り込む痛みに、小さく悲鳴を上げかけた。やがて咳き込みながら、時に痛みに耐えるために唇を噛みながらも、アキラは顔を上げた。生理的な涙に潤んだ瞳は、鋭い視線に出会うとわずかに苦しみの色を増して歪み、しかし逃げることはなく自らの主を見つめ返した。
  シキの瞳にはまれに見る抑えきれない怒りが燃えており、本当の所それは、アキラの身をすくませた。けれどそこで瞳をそらすことを、自らに許すことなど到底できようもなかった。視線を合わせた場所から流れ込んだ炎で内蔵が灼かれたとしても、けして。
  王は口を開いた。まるでうなるような、地獄の底から響くような声があふれた。
「……俺に、お前を殺させる気か」
アキラは目を見開いた。目の前の赤い瞳の炎の向こうに、冷たく凍えた光が見えた。その言葉が先ほど、偽物に向かってシキが振るった刃の前に、自分が飛び出したことを指しているのだと思い至る。数秒遅れて、自らの過失と、恐れていたものの正体に、ようやく気がついた。
  皮膚を突き破りそうな強さで両腕を掴んだ白グローブの指、それが楔のように感じられた。体の奥から沸き上がるなにか言い知れない感情に、息をつまらせる。
  自分と同じ顔をした男に、シキの弟殺しを知らされた時のことがまた思い出された。あの時いくつかの記憶が、違和感ゆえに浮いていた情景が、告げられた事実を細い糸として鮮やかに連なり浮かび上がった。
 廃墟だったトシマを出たばかりの頃、日興連の軍人だった頃、ときおり赤い瞳の奥に鈍くひらめいた、濡れて凍えた光を見たことを。それはさらに、古い記憶をよびさました。
 遠い月の夜、出会ってからたった数日で、シキの手で作り変えられ始めた最初の日々。部屋に持ち帰られた一双の細い剣。肩口に埋められた顔。軋むように抱かれた腕の感触。
 今も時折シキの瞳の奥に見える亀裂、その正体にアキラは気づいた。それはたしかに傷口だった。
「シキ」
声は掠れた。喉は乾いていた。
  強さのためにすべてを切り捨てたと、色のない声を聞いたのはいつだったか。肉親すらもこの手で斬った、そんな、現実か定かでない響きすら蘇る。
  それらはアキラの胸中を再びかきまわし、搾り出せる言葉はこれだけだ。
「俺だけはけして、貴方の手で殺されたりしない」
ひどく拙い響きだった。だがそれを恥じる余裕はなかった。
 シキは暫くの間アキラの顔を覗き込んでいた。やがてふ、と短い息をもらした。
 腕を掴んでいた指が離れた。それはアキラの血に濡れている。赤い瞳に滾っていたものが、水位を下げるように鎮まっていった。残ったのは表面の凍りついた冷たい色で、むしろそれにこそアキラは震えた。
「──なぜそんな顔をする」
独り言のようにつぶやくと、王は体を離した。
「貴方は、……」
シキが足元から狐面を拾い上げる。細かな意匠を眺め、その表面を撫でた。
「貴方は、強い。だが、だからこそ、本当ならば出来るはずのないことを、やってのける。……」
それは口調を変えれば、そのまま賞賛の言葉になるだろう。
  本当ならば、そうであるべき言葉だと、アキラにもわかっていた。
「──俺は、……その強さが、いつか貴方自身を壊すのではないかと、恐ろしい」
シキは面に視線を落としたまま言葉を投げる。
「俺の強さが信じられんか」
「いいえ。むしろ、逆、です」
プライドゆえに、シキはその強さをもって理想を実現するだろう。だがそれは時に、シキ自身ですら気付かない、皮膚の下で癒えることなく、腐っていくだけの傷を残すのではないか。
  だから、アキラは自らの王に殺されてはならなかった。それがたとえ偽物であったとしても例外ではない。自分の姿をしているものを、シキの手にかけさせたくなかった。そのために奔走していたのだと、気がついたのはつい先程だったが。
  シキはわずかに表情を固くした。それから、白い陶器の頬に何の感情も乗せないまま、枯葉の揺れる音に似た、短い笑い声をたてた。
「……馬鹿な」
「──閣下」
「この話は仕舞いだ。戻るぞ、アキラ」
「……っ」
まともな言葉など言えもしないのに、アキラは何故か追い縋るようにその手を掴んだ。恭しさを忘れた動作だった。滅多にないことだった。
  シキは目を見開き、細めた。アキラは自らの行為に気付くとおののいて手を離す。だがそれを追うようにして、白グローブの形の良い指が、身を引こうとしたアキラの首を静かに掴んだ。
「……、」
指先がひたりと頸動脈の上に沿う。こんな時ですら、小さいながらも確かな熱が背筋を駆けるのを、煩わしく思いながら主の表情を伺う。ひどく静かな白皙に、いっそ穏やかとすら言える凪いだ赤い瞳があった。シキの指に少しだけ力が入ったのに、アキラは顎を上げる。
「前提が間違っているのだ、お前は。逃がさんと、何度言わせれば気が済む。俺の手では殺されんだと?  当然だ。お前が馬鹿な犬のように飛び出してこなければな」
「……閣下、……ッ」
指が、するりと這って項に回り、訝しむ声の語尾をはねさせる。主が計算ずくでやっているのを知りながらも、羞恥心を抑えきれずに色づく息を噛み殺してアキラは俯いた。だが追い打ちをかけるように、耳元に口が寄せられる。唇が皮膚をかすった。
「目的のために肉親すらも手に掛けられることが強さだというならば、アキラ」
──お前こそが、俺の瑕疵だ。
  低い美声が滴り落ちる。からかうようでありながら、しかしその声は、ひとつも笑っていなかった。
  はっとして視線を上げるアキラの目前、シキは踵を返した。手にしていた狐面を放り投げる。一瞬後、それは軌跡すら見えない瞬速の刃によって2つに割られた。
「俺がお前を殺めることができるとすれば、──そう、冥府に下るときは、連れて行こう」
暗闇の中舞い落ちる白い面の向こう、自らの主の横顔に浮かんだ表情は、自嘲か、苦笑か、その類。およそシキに似つかわしくないその表情に、アキラは息を呑んだ。呆然とその背中を眺めていたのは、どれほどの間だったろう。シキの背を擁した景色がわずかに揺れて、アキラは己が呆けていた事に気がついた。目眩のようなものに、半ばすがりつくように、冷たい柱に背を押し付け後ろ手をつく。震えていた。両手を見下ろし、そのまま顔を覆う。浅い息をグローブ越しの手のひらに感じた。
「……瑕疵……?」
”殺めることが、出来るとすれば”?
  言葉を反芻する。
  それはつまり、殺せないと、そう言われたのではないのか。
  完璧な強さを目指すシキその人に、お前こそが不可能性だと、認められたに等しかった。
 頭が鋭く二度、三度、痛んだ。
──ならば、
息を詰める。
──ならばどうすればいい。
  脳の端が呟いた。返答はすぐに返った。
──どこまでも強さを求めるあの方の、その姿を美しいというならば俺は今ここで、この命を閉じるべきだ。
  だが、それはアキラには許されていなかった。そしてまた、シキを、彼の王をこの世界に一人残すことなど、考えようもないことだった。
  眼の奥が軋んだ。けれど同時に、手のひらで、自分の唇が笑みの形に歪んでゆくのを感じた。そうしてアキラは、体の芯から沸き起こるものを自覚した。
  皮膚の下が溶けて沸騰するような感覚。その中心で鼓動が疾走していた。限度を超えたその速度に、何もかもが破綻寸前だった。心臓が止まり、呼吸が止まり、脳の回転が止まる。止まるに違いない。
「──は、ははッ」
掠れる呼吸で、あげた笑い声は乾いていた。
  まだ堕ちる場所が、残されていたのかと。
  ピアスが熱を持って痛いほどに疼いている。所有の証は執着の証だった。指の間から見た床の上、割れて転がった白い狐が、その細い亀裂で笑っている。それは先程までアキラが自ら顔を覆っていたもので、一瞬にしてシキが断じたものだった。
  目を閉じ、顔を歪めながら、震える熱い息を吐いた。何もかも吐き出して、肺を空にする。奥歯を噛んだ。
  背筋を伸ばす。
  一歩。
  足を踏み出したときには、すでに軍人の顔に戻っていた。
  一歩。
  だが軍服という第二の皮膚の下の、更にその下肺の中で、矛盾が刃をもった嵐となってアキラを内側から傷つけていた。
  しかし足を止めることはけしてない。視線の先には彼の王がいた。
  どこかいつかの地下道を思い出させる、薄暗い廃墟のビルを抜ければ、そこにはひどく眩しい夜が待っている。
  祭の音はまるで、かつてを惜しむかのように夏の星空に溶けていた。
  その色に染まりきらぬ漆黒を宿して歩む主の、その斜め後ろに自らの位置を定める。
 高みに上り詰めようとするその背を追いながら、自分はどこまでも堕ちてゆくのだろう。アキラは思う。
 狂気とは、積み重ねられた矛盾によって生まれるのかもしれない。
 うっそりと、微笑んだ。
  それはどこか、泣き顔にも似ていた。

 この世はすでに美しい地獄であるのに、ともに下る黄泉路の先には、どれほどの景色が待ち受けていることだろう。
  

end.

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