雪嵐

 男は目の前のテーブルに差し出されたグラスを見つめた。それは何の変哲もないショットグラスだった。歯に当たれば割れそうなほどに薄い透明な硝子が、丸みを帯びたフォルムで透明な液体を包み込んでいる。
 カーテンの開かれた窓から、冬の漂白されたような光が注いでいた。光沢のある糸で刺繍の施された漆黒のテーブルクロスの上に、グラスを透過した光がうすい陽炎に似た陰影を描く。それでようやく、グラスを半ばまで満たしているものがただの水ではないのだと知れる。
 禍々しかった。
 その一杯がつまり自国の破滅を約束する毒杯だと、男は知っていた。だがともすれば、これから始まる赤と黒の時代のなか早い段階で毒そのものに同化してしまうのは、あるいは幸いなことなのかもしれなかった。
 彼の祖国は小さい。小さいながらそれなりに長い歴史を持っていた。時折は他国に食らわれそうになりながらも、なんとか国としてのアイデンティティは保ってきた。先のいくつかの大戦を何とかくぐり抜け、3rd Divisionにいたっては損害の少ない国のひとつとして乗り越えた。多くを望まず、かつ抑止力としての兵器を保持していたからだ。彼の国にとって兵器は商品であり、同時に身を守る盾でもあった。軍需企業をいくつも抱えこみ手厚く保護した。それによって、他国が簡単に手を出せない状況が出来上がった。彼の国は武器の銀行だ。暗黙の了解の元、不可侵の領域となっていた。
 その状況が成立したのは彼が国のトップに立つ前の事だが、それらの政策は彼が議員であった頃から何十年もかけて後押しし推進したもので、結果的に自分たちが国を守ったという自負がある。
 それがどうだろう。
 なぜ自分はこんな所に座っているのだろうかと、彼は呆然とグラスを睨んだ。
 男が腰を下ろす精巧な刺繍の施された布張りの椅子はホテルのものだ。高層階に用意された部屋の窓からは、林立するビル群が見晴るかせる。大戦で壊滅的な打撃を受け2年前までは廃墟であった場所だとは、言われなければ思い出せない。
 ここ、アジアの小さな島国、ニホンは、かつて国土面積こそ小さいものの人口の面で彼の国を大幅に上回っていた。大国に引きずられるようにして不況に陥っていたがなお、先進国としての面目は保っていた。しかし大戦に実質上惨敗、その過程で首都が壊滅するような打撃を受けて以降国土の政治基盤が分裂し、そこから這い出す策も見いだせないまま内戦状態に突入した。数年前の話だ。
 内戦が終結し統一ニホンと名を変えてから2年と経っていない。その短期間の中で、首都の一部と行政機関、まともな外交と経済の枠組みを復興させ、国としての体裁を整えた。他国から強い批判を受けながらとはいえ、その手際の良さは見事といってよかった。
 男はグラスから正面へと視線を上げた。
 統一ニホンを統べる男がそこに座している。まるで悪魔のように美しい顔に微笑を浮かべ、男が結論を出すまでの長い沈黙を、焦る様子もなく待っていた。
 二人の間に置かれたままのグラスに満たされているのがこの男の血液の抽出物、ラインと呼ばれるものだとは、知らされるまでもなく理解できた。
 いつの間にか彼の祖国の軍部を支配していた集団が、そのキャリアーだと知れたのはつい最近のことだ。そうと気付いた頃には議員の大半もこの麻薬に毒されていた。
 残されたまともなものたちだけで何とか窮状を脱しようと手を尽くした。外交官どうしの話し合いで解決するような状況ではすでになかった。そもそもこれは目に見えない侵略であって、彼らはとうに敵に囲い込まれていたのだった。恥を忍んで連絡をとった友好国の上層部もニホンの傀儡と化していた。そういえばここ数ヶ月随分と役員の入れ替わりが激しかったと、その頃になって思い出しても遅かった。
 情勢不安のニホンの反乱分子の後押しをし、いわゆる殺し屋を雇って送り込みさえした。だが全ては手遅れだった。
 今男の目の前にあるライン、その通常のものより高められた依存性については、先ほど説明を受けた。つまりこうだ。国を統べる彼自身が、その麻薬を定期的に摂取しなければならないキャリアーとなれと。そして実質的にニホンの属国となった彼の国を率いよと。
 拒めば命はないのだとは解っていた。その場合他の者が代理にたてられるのだろう。だがニホンとしては可能な限り他国に気取られない、あるいは介入を許さない方法で、まるで彼の国が自然とその総意として日本の協力国となったと──そんなことはありえないのだが、せめて外見上は──見せかけたいという意図があるのだろう。だから男はここまで生かされ、そして表敬訪問という形でニホンを訪れさせられた。
 男は更に視線を動かした。統一ニホン国元首の背後に影のように控える青年将校の姿が目に入る。青い瞳を伏せたまま黒いテーブルに毒杯を運んだ彼もまた、主に倣って口をつぐんでいる。
 彼らは、男の結論を初めから見越しているかのようだった。沈黙に守られた逡巡の時間は、彼らなりの情けなのかもしれなかった。
 男は手元のグラスに視線を戻す。
 この杯を乾かせば。
 少なくとも国土が戦火に焼かれ、臣民が飢えた難民と化して、国名がただ場所を示すだけの記号に成り果てるということは無いのかもしれない。男の選択が、国家として生き延びるための唯一の有効な手段なのかもしれなかった。実際のところ選択肢などは残されておらず、この場すらただのイニシエーションにすぎないかもしれないのではあったが。
 この東洋の島国に育てられた悪魔は、いつか必ず世界を飲み込むだろう。
 その確信めいた予感に突き動かされるようにして、男は毒杯に手を伸ばした。

*

「随分と時間を取られました」
ホテルの正面、車寄せに滑りこんできた黒塗りのセダンの扉がドアマンによって開かれるのを眺めながら、アキラは表情を変えぬまま声にだけ僅かな辟易をにじませた。
 刀を片手に先に乗り込んだシキの後を、腕に主のコートを掛けたまま追う。時間は既に夕刻近く、灰色の雲に覆われた空は暗くなり始めていた。
「あんなものだろう」
特に気にしたふうでもなく、シキはさらりとそれを流す。
「しかし結論など、ここに来た時点で決まっていたはずだ」
「……よく言う」
 端の吊り上げられた形の良い唇がもらした呟きに、アキラは口を引き結ぶ。それが、かつての自分を揶揄する言葉と気付いたからだった。
 ドアが閉まる音に、車が動き出す静かなエンジンのうなりが続いた。
 素知らぬふりで泳がせた視線を膝の上の二人分のコートに落とす。ほんの僅かに表面に浮かんだ皺を意味もなく伸ばしながら、居ずまいを正して正面に目を向けた。主のからかうような笑みの気配は横顔で無視をする。うっかりつついてしまった藪から這い出した蛇が、おとなしくねぐらに帰ってくれることを願った。だが頬に落ちかかった灰色の髪をよけるように触れてくる、グローブ越しの指先の感触は、それを許さなかった。
 眉尻を僅かに下げ、けれど眉間には確かな皺を刻んだまま、アキラは観念して傍らのシキに視線を向ける。
「……ご面倒をおかけしました」
謝罪の気持ちだけならば、いつも素直にあふれるのだ。だがその声を濁らせるのは、目の前の細められた赤い瞳にある意地の悪いからかいの色だった。
「そうでもない」
含みのある声は居心地の悪さを助長して、眉間の皺を尚更深くさせた。それは、僅かな反抗心を燻して端にほんの小さな火をつける。わかっていてやっているのだから、たちが悪い。
「お前には随分と楽しませてもらった」
「──今も?」
シキは答えない。ただその唇で描いた弧を、深くしただけだった。
 アキラは頬に軽く触れたままの指先を包み込んで静かに引き離す。忠誠の在処を示すようにそこにくちづけ、──軽く歯を立ててから放した。
「随分とよく躾けられているな」
「飼い主がいいのでしょう」
しれっと言ってのければ、愉しげに喉の奥で笑う声が返る。結局は、そうしてなにか負けたような気にさせられるのだと、知ってはいた。
 白金の光を纏うホテルの玄関から続いた、常緑樹に挟まれた道を抜けると、車窓にはモノクロの街並みが流れだす。しかしそれはかつてのトシマの、煤けて薄汚れ、常に雨に濡れたような色合いとは明らかに異なっていた。綿密な計算の上で作り上げられ適切に管理される、整えられた絵画の色調だ。やがて遠くに見えていた城壁に似た石壁が、フロントガラスから見える空を隠しはじめる。広い道路に出れば視界が開け、石壁の切れ間、黒い城と呼ばれるこの国の中枢機関の表門が目に入った。
 玄関ホールまで百メートル以上を残した場所で、車は静かに停車する。数秒前まで直立不動の姿勢で敬礼していた衛兵が、セダンのドアを開いた。5車線ほどはあるだろう広い道路だ。玄関に続く階段下の車止めまで、自動車のまま進むことももちろん出来た。だが、シキは両端に設えられた石畳の歩道を好んだ。その背に預っていたコートを着せかけた後、自らも外套に腕を通しながら歩きはじめた主の後に続く。
 雲は陽の光を遮り、風はまだ冬の匂いをはらんでいる。アキラはそれとなく地面に目を配った。石畳には何の変哲もない。だが、実際のところ、ここは幾度も補修を繰り返された場所だ。原因は遠距離からの狙撃だった。
「……これで、"嫌がらせ"も多少は少なくなるでしょうか」
ふと思いついたままに問いかければ、その言葉を鼻で笑って、振り返りもせずにシキは答える。
「言い得て妙だな」
本人にはかすりもしない銃弾は、幾度も美しく整えられた地面を抉った。一時期はシキの訪れた先に、足跡の代わりに銃痕が残るのではないかと思われたほどだ。
 だかそれらは結局のところ、ただの嫌がらせ以上になりえるものではなかった。凶弾がシキを捉えることはついぞなかった。実害として現れてくるのは砕けた石畳やタイル、壁や硝子を頻繁に変える手間で、その労力は、これまでは射手の命で、そして今回とうとうひとつの国という形で贖われた。 やがてたどり着いた数段の階段を登れば、それまで玄関ホールを満たしていたざわめきが潮が引くように音量を下げる。シキの存在感はその姿を見ずとも、特にニコルを摂取した者にとっては強く感じられるものらしかった。
 細流しの絨毯のように敷かれた沈黙と畏怖の道を、当然のものとして進むシキの背を追って行けば、最上階の執務室に辿り着く。再び引取ったコートをしまって、クロゼットの隠し扉を閉じた。鼓膜を震わせる、細かな空気の振動に気付いたのは、その時だった。
 それは遠くから響く弦の震える音だ。振り返れば、長机の席についたシキは窓の外に目を向けていた。
「これならお前にも聞こえるか」
「辛うじて」
隣室に続く扉を冷えた視線で見据えながら、アキラは答える。この部屋の窓は全て閉まっている。厚い防弾硝子はほとんどの外部の音を遮断する。とすれば、隣の書斎の窓が開いているとしか思えなかった。2つの部屋の間にある扉は、廊下と執務室を隔てる扉に比べれば薄いのだ。
 だがアキラには、そちらの窓も全て閉じた記憶があった。とすれば、自分たち以外の何者かが、侵入したということになる。ただし今、隣室に人の気配はない。
 シキは問には応えず、ただ皮肉げな笑みを返した。
「T社の入っているビル。あの足元だ」
言葉に導かれて、窓の外に視線をやる。示されたのは1kmほど離れた場所に建つ、軍部とは無関係の商業ビルだった。手前の背の高いビルに半ば隠れるような姿が確認できる。
 路上で楽器を奏で、日銭を稼ぐ人々のことをなんと呼ぶのだったか──アキラは僅かな間の後口を開いた。
「辻楽師、というのでしたか」
「数週間前から近辺をうろついていたが、ここ数日は動かんな。風向きがいいとよく聞こえる」
たしかに今日は、やや強い風が吹いていたと、重いはずの軍服のコートの裾を揺らした冷えた風を思い出した。
「どうやらあぶれたらしいが、腕は悪くない」
糸が途切れるように、音はアキラの可聴域から消えていった。風向きが変わったのだろう。と、隣室から異音が響いた。冬の氷に罅が入るような、鈍いのに端々に鋭い棘を持った音だった。
 咄嗟に腰に吊ったサーベルに片手を添えた。足は反射的に書斎へと向かう。扉を開いた。待ち構えていたかのように再びあの弦の震える音が、僅かな冷えた外気に乗って頬を撫でる。
「──」
「ここのところそう忙しくもないだろう。見に行ってくればいい。ああいった手合いは、いて邪魔になるということはない」
その始末を済ませたらな、と、まるでアキラの眼前に広がる光景を自身も目にしているようにシキは笑みを含んだ声を投げてよこした。
「お前の情操教育になればいいが」
窓は開いてはいなかった。だが曇っていた。近付けば、それが罅のせいだとわかる。重なりあう2つの蜘蛛の巣のような楕円は、中央に近付くにつれ白さを増す。円には弾頭の潰れた銃弾が、まるで黒い果実の種のように埋まっていた。
 肩越しに振り返る。既に机の上にいくつかの書類を広げ、端末を開いたシキの後ろ姿が目に入った。その口元が楽しげに歪んでいることを確信しながら、再びひび割れた窓に視線をやる。今も聞こえる弦の震える音は、そこから忍びこんでいた。
 小さなため息は、主の耳に届いただろうか。

*

 コートの裾をはためかすビル風が不意に止んだと思えば、次は川を遡上する風に帽子を取られそうになった。アキラは浮きかけた軍帽を咄嗟に片手で押さえた後、結局そのまま脱いでしまった。
 たいして大きな川ではない。精々四メートルほどの橋が、ゆるい下弦の弧を描いて両岸をわたしている。春になれば川面に桜も映えようが、今は張り出す裸の枝が見えるばかりだ。ほんの僅かな霧が立ちのぼっているのは、日が落ちて急に下がった気温のせいだろう。
 靄は引き上げられるように揺れては、絞られて霧散する。酷く風向きの定まらない場所と知れた。ビルによって方向を変えられた風と、川に沿うように駆け上り降りするそれの両方が、時折の凪を挟んで急せわしく入れ替わっている。
 その橋の上で、手入れはされているもののややくたびれた感の否めないスーツにキャスケット帽を合わせた男が、バイオリンを構えていた。顎と肩の間に挟まれた楽器の表面のゆるやかな凹凸は、街灯の光を反射して蜜を垂らしたような深い輝きを放った。弓に震える弦は、それが擦過音にすぎないということを忘れさせるような、艶のある声を周囲に響かせている。
 演奏にせよ武術にせよ、ある種の洗練された動きというのはそれだけで目を楽しませた。音楽をはじめ芸術というものに対しておよそ素養のないアキラには、そちらの方に興味を引かれた。男のほぼ正面、逆側の欄干に軽く背を預けて、数歩先の男の動きを目で追う。
 年齢は自分のそれの二倍をゆうに超えているだろうと思われた。これといった特徴のない顔立ちはどこか異国の気配を滲ませ、その原因は色の薄い、明るいところであれば灰色と知れる瞳のせいだった。手指は荒れているが、特に変形は認められない。体つきも、楽器を扱うのに必要な部分はさすがに筋肉質ではあったものの、戦いや肉体労働に身を置く者のそれではなかった。
 川の片側には狭いながら緑地があり、桜の木と葉を落とした低木が並んでいる。植えられてからそう時間が経っていないのだろう。その細い幹は未だたよりない。反対側の岸には倉庫らしい建物の窓が並び、その先は商業ビルの背中が続いているらしかった。建物と建物の間には隙間があり、ここと同じように向きの定まらない風が吹きこんでいるのだろうと思われた。
 いい場所だ、と、アキラは思う。片側は見通しがよく、身を潜める場所がない。逆は突風が銃弾の狙いを乱すだろう。
 車通りも、少なくともアキラがここに着いてからはまったく無かった。車一台分の狭い通りを結ぶ橋で、大通りからも離れている。昼間であれば、少ないながら存在する小売店の荷運び等に多少は人や車の行き来もあるのだろうが、店じまいの時間も近いとなればそれも途絶えていた。男の足元に開かれたバイオリンケースにも大した金額は入っていない。
 月も星もない暗い空の下、場違いに明るい曲が、弾かれるようにして鳴らされた弦の響きを残して終わった。前髪を揺らした緩い風とともにそれは過ぎ去り、代わりに続いたのは顎当てから顔を離した楽師の、思いの外若い声だった。とはいえ40は超えているだろうとアキラは当たりをつける。 「霧が出てまいりましたね」
「……よくここで?」
「いいえ。今日は客人があるので、特別です。この湿気は、これにはあまりよろしくない」
 一度は下ろしたバイオリンを示し、ネックを持ち上げるようにして何かご希望は、と続けた。アキラは首を横に振る。男は人好きのする笑みを深くした。
「街で何度かお見かけしたことがあります。その時も、こちらには別段ご興味が無いようでした。とすれば何の御用でしょうかね」
「目の前を通り過ぎただけの人間の顔を覚えているのか」
問いに問いで返されて、男は表情を変えないままに僅かに顎を引いた。キャスケット帽のつばの下、影の中で薄い色の瞳が光を反射する。
「二度見れば、まず忘れませんね。特に貴方のような方は、目立ちますから」
「俺にはアンタを見た覚えがない」
「車に乗っていらっしゃいました」
だからでしょうと、唇を引き結んだアキラに、男は微笑みかける。
「今日は昼過ぎに、A交差点から曲がって来られた。いつものお車で、総帥とご一緒でしたね。U商社の入ったビルのある角で左折なさったので、城にお帰りになるところだったんでしょう。昨日、一昨日は拝見しておりませんが、その前は部下の方と一緒に通りを行かれた。車はいつもと違うものでした、C社のセダンで、ナンバーはxx-xx、特徴からたぶん軽装甲車両で、銃弾の数発くらいならゆうに遮断できる車でしょう。その前は、──」
歌でも歌うように、男はよどみなくアキラの動向を諳んじてみせた。言及は時に部下の顔の特徴にまで及んだ。それが数週間前のものに及ぶころ、アキラは驚きを通り越し呆れの滲んだ声を漏らした。
「わかった。もういい」
それ以上前の予定は、行き先だけならまだしも車種やナンバーにまで至れば、流石に覚えている自信がなかった。ならば聞くだけ無駄だ。男は表情ひとつ変えず、ひたりと黙り込む。
「俺以外のことも?」
「貴方とよく行動を一緒になさっているような方々数人分は、恐らく。聞かれますか?」
試しに顔の特徴で数人分を聞きだした。覚えている限りの彼らの予定と合致するものだった。こちらは二週間分ほどで聞くのをやめた。
 男の瞳にひたりと視線を合わせ、アキラは問いを重ねる。
「ニホン人か」
「ええ。ですが音楽のために長く海外におりました。戦前はそこそこの楽団に所属しておりましたので。お陰で5ヶ国語くらいは日常会話できますよ」
「──夕方は、向こうにいたな」
「最近はよくあのビルの下に」
「理由は」
「お分かりだからこちらにいらしたと思ったんですが」
アキラは弾痕の残った窓から眺めた景色を思い出す。書斎と、男のいた場所、それを結ぶ直線の上に聳えていた高いビルを。風が運ぶ弦の震えと、彼の主の、愉しげな笑みを。
「書斎を撃ったのは」
「ええ、我々です。私が音を出す。相方がそれで風を読んで、狙撃する」
アキラはそれとなく周囲を見渡す。この風の強い橋の上は、互いに銃器が使いにくいという意味で危険の少ない、密談に適した場所なのだった。ただしアキラには腰に吊ったサーベルがあり、そういった優位性をあえて残すあたりが、彼らなりの誠意と譲歩なのかもしれなかった。
「これまではどこに」
「つい最近まで元CFC側に。因みに今は資金源を失ってガタガタ、内部分裂寸前です」
「沈む船からを逃げ出そうと?」
「……そう取られても仕方ありませんが」
男は苦笑する。アキラは視線だけで理由を促した。
「実力主義と、うかがいました」
そう呟いた後、男は少しだけ視線をあげた。それはアキラの背後に向かい、ほんの少しだけ戸惑うように揺れた後に戻ってきた。そうして、呟く。貴方がここに現れ、こうして会話させていただいているということは、少なくとも猶予をいただけたということなのでしょう、と。
「私だけなら何とか、向こうを抜けてもやっていけるんですがね。相方が人の殺し方しか知らないような奴で。若くて実力もある、けれど、人間として生きていくには足りないものが多いのです」
「──、」
「たとえあなた方がこの先戦争や何かに敗北したとして、この国が人道主義的な思想のもと再構築されたとしても、我々にはどのみち居場所がない。……再構築などということが可能かどうかは疑問ですが」
アキラは浅く頷く。例えばいまこの国が戦に負けたとしたら、その時こそ自治権などというものは飾りを残して他国に奪われるだろう。CFCと日興連に依る統治が一度失敗した例があり、そののちに築かれたのがシキによる軍事政権だった。疲弊から立直りつつある大国に、支援という名目の下で都合のいいようにかき回される可能性のほうがよほど高い。
「なにより、うちの相方が」
ふ、と、男がやや硬くなった雰囲気を崩した。弓を持ったままの手で前に下がった帽子の位置を直そうとして、結局脱いでバイオリンケースの中にふわりと投げた。白いものの混じった髪を緩い風が撫でる。
「恐れ多くも総帥閣下に、惚れ込んでいるようで」
そう言って、これまでと違う、どこかはにかむような柔らかな苦笑を顔に乗せた。

*

「どう思う」
あらかたの報告を聴き終わった後、優雅に足を組んだシキは、執務机の向こうに立つアキラを微笑んで見据えた。
 既に深夜も近く、窓の外は暗闇に沈んでいる。
「……メリットよりはリスクのほうが大きいと」
感情を伴わない声で答えると、赤い瞳が視線だけで根拠の提示を促した。
「理由があって寝返るということは、つまり理由があれば、今後もそれを繰り返すということです。かつて我々が日興連で味方を増やしてきたのとはわけが違う。──ただ、」
アキラはそこで言葉をやめた。彼の主が立ち上がったせいだった。靴裏を柔らかく迎える絨毯を踏んで、シキは窓辺に足を進める。
「聴こえるか」
「いいえ。俺には、何も」
隣室の書斎の窓は既に修繕済みだった。隙間なく閉じられた窓は、外音を完全に遮断する。だがニコルの適合者であるシキには、アキラには聞こえない音が聞こえるのかもしれなかった。その、深夜にもかかわらず響きわたる、弦の震える音が。
「明りを消せ」
すぐに部屋は暗闇に閉ざされた。シキが佇む大きく取られた窓の先に広がるのは、かつてに比べれば灯火を増やした街の夜景だ。アキラは思い出す。廃墟だったトシマの、あの鍵のない部屋に閉じ込められた日々を。窓から望む景色はほとんど暗闇だった。あの頃見えたのは、時折隙間を開く雲間の月くらいのものだった。街灯すらなかった。上空から見たとしても、地上のあかりはヴィスキオの城か中立地帯程度のものだっただろう。
 そのトシマの街が今や、数えきれない灯火を湛えている。それらはすべてシキの手によって呼び寄せられ作り上げられたものだ。そしてその光の海は、今も日々少しずつ広がっている。厚い防弾硝子によって、わずかに歪んだ光を頬に受けながら、アキラはシキの横顔を伺った。
「──来るぞ」
王の口元が笑みに引き上げられる。ほんの数秒の後だった。びしりという鈍い音とともに視界が白く濁った。罅に依るものだ。弾頭の潰れた銃弾は、アキラの眼前の硝子に受け止められていた。音は続く。二発目は最初の銃弾のすぐ傍、5cmほどの場所だ。
 反射的に身を引く。この硝子は狙撃銃の弾ならば、数発は余裕で受け止める。ただしそれは、至近距離に何発も被弾しないことを前提としていた。同じ硝子、しかも5センチ程度の僅差の範囲に何発も受けることは想定していない。
 距離が離れれば離れるほど、射撃の精度は落ちる。この部屋を狙える場所は少なくとも1kmは離れたビルで、しかも今は夜間で部屋の明かりは消えていた。
「閣下」
三発目はシキの目の前だった。殆ど眉間の位置。致死のT字の上だ。
「見ていろ」
すぐに次の弾がその隣に並んだ。咄嗟に動きかけたアキラを制し、シキは形の良い唇で弧を描きながら足を動かす。窓に沿うように歩けばそれを銃弾が追った。罅が次々に窓を白く染めていく。
 部屋の端まで歩んでからシキが足を止めた。息を呑むアキラの目前で、場違いに美しい音を立てて硝子が粉々に砕けた。二人のちょうど中間の窓硝子に、続けて数発の銃弾が打ち込まれたせいだった。光を反射する小さな破片が落ちていく向こう、振り返った赤い瞳が獰猛に輝きながら、悪戯をする子供の色をわずかに滲ませる。
 それきり銃撃は止んだ。しんと静まり返った室内に、外部の音が流れ込む。車が行き来するエンジン音、ビルの間を抜ける風の音。遠くから、昨年開通したばかりの線路を貨物列車が走る音が聞こえた。
「──先ほどの続きを聞こうか」
腕を組んだシキが瞳を細める。
 アキラは白く曇ったガラス窓に視線をやった。残る銃弾の足跡は、正確にほぼ横一線の直線だった。
 唇を引き結びわずかに顎をあげる。青い瞳は意志を宿して彼の主を見つめ、そして一言だけ口にした。
「彼らには力がある」

*

「総帥を殺したら貴方が手に入る?」
まるで少年のような、細い枝に似た手足を持つ目ばかり大きい子供は、丸い目をさらに丸くしてアキラを見上げた。そうしてしばらく黙ったあと、明らかに少女とわかる声でそう訊ねた。
「無理だろうな」
冬の乾いた風は、春のぬくもりをわずかに宿した陽を受けて、演習場のグラウンドの砂をまきあげ盛土の間で踊り、その先の丘の冬枯れた草木を揺らした。ひと月前に多少降った雪も既に溶け、地面は乾いている。
「貴方を殺したら総帥が手に入る?」
「入らない」
「じゃあ総帥に勝ったら?」
「……」
この少女はいくつと言われたか。たしか14と聞いた気がする。だがこの会話はまるで、10に満たない子どもとのそれだ。
「勝てるのか」
アキラは無表情を崩さぬままに答える。
「まだ、無理」
「だろうな」
「いつか」
電子的な鐘の音が響いた。演習場の横に併設された軍の幼年学校のスピーカーから流れる予鈴を、彼女はまるで意に介さない。その丸い目は猛禽に似ていた。獲物を射止める真っ直ぐなそれだ。
 それまで傍で黙って成り行きを見守っていた辻楽師の男が、刈り込んだように短い髪に覆われた小さな頭の上に手のひらを載せる。
「授業だろ。行きなさい」
少女は素早く男に、それから再びアキラに視線を戻すと、身を翻した。
「また」
残された幼い声とその軽い足音を、どこか呆然としながらアキラはしばらくのあいだ聞いていた。
 こぢんまりとした演習場ではあるが、地下には小銃射撃場を備え、地上には戦闘射場がある。戦車や迫撃砲クラスとなれば流石に無理だが、ライフルや小銃程度であれば狙撃訓練を含んだ実弾訓練が可能だ。そのそばに、新兵訓練用の施設が設けられたのはニホン統一から日が浅い内だった。昨年には新たに幼年学校も併設され、今日はその視察もかねて、先日引きぬいたばかりの例の狙撃手の様子を見に来たのだった。
 やがて彼女の姿が建物の中に消えると、男は静かに口を開いた。
「政府の、家族政策があったでしょう。あれで、六年前でしたね、うちに来た時には、口もきけませんでした」
「……六年前?」
不審げに問い返す。アキラ自身あの乱暴な政策で家庭に組み込まれたが、それが9年前のことだ。6年前といえば、既にその家を出たころだった。
「そうです。ずいぶん遅かった。とはいえうちは家内が病身で、子供をあてがう家庭としては不適当だったので、そのせいだろうと。あれの様子も、まあ、戦争のすぐ後でしょう。仕方がないことなのだと思っていました」
少女を家に迎えてから一年少し経った頃、妻が死んだ。戦前は楽団に属していた男は新たに身を寄せる場所を見つけられないまま、かさむ治療費と食い扶持のために既に後ろ暗い仕事に手を染めていた。やがて内戦が始まった。そのままずるずるとCFC側の裏稼業に足を突っ込み、スパイとして日興連側の軍事施設に潜り込んだ。日興連へはなんとか少女も連れて行くことが出来た。その程度の我儘が許される程度には、男の能力は評価されているのだと、思っていた。
 幾度か、子供を安全な場所へと移そうとした。だが、少女は男の傍を離れたがらなかった。その頃には幾分口を利くようにもなっていた。
 その銃の腕に気付いたのは、スパイとしての身の上が日興連側に露見した時だった。数人の兵士に追いつめられた彼を、小銃ひとつで救ったのは彼女だった。その時にはじめて、少女の過去を問い詰めた。戦時中、彼女はシェルターの中にはいなかった。地上で、他の数人の才能のある子供達と一緒に、まるでゲリラの真似事をさせられていた。家族政策で家庭に組み込まれるのが遅れたのは、戦後もしばらくのあいだ、施設で身柄を保留されていたせいらしかった。
 CFC側へと逃げ延びる最中にも、少女は顔色一つ変えずに何人もの追手の命を奪った。同じような子どもたちが、意図的に、言ってみれば脛に傷持つような身の上の親たちのもとに送り込まれたらしいというのは、命からがらCFC側に逃げ帰ってから調べたことだ。
「どうしようもない、と思いました。負け続けのCFC側の、とくに私達が留めおかれた組織のあたりは酷い有様でした。とりあえず生き延びなければと思いました。私たちは互いを生かすために、出来る限りのことをしました。そうして気がつけば、内戦が終わった後も足を洗うことができずに、反乱軍の一員に成り下がっていたわけです」
戦後、とくにCFCでは、何が行われていても不思議ではなかった。母体がもともと政党という公的機関であった日興連に比べ、CFCの母体はゼネコンだ。企業倫理というものがあるにせよ、その思想が実益主義に近く、ときに道徳に反するような行いが許されていたのは、アキラも身を持って知る事実だった。
 元CFCのレジスタンスは、と、風の向かっていった幼年学校を眺めながら、男は再び口を開く。
「末端に教育など施しません。道具に思考は必要ないからです。だからあれは、家族ごっこをしていた二年間しか、まともな学校というものに通っていません。知っているのは人の殺し方だけです」
突風が砂埃を巻き上げた。ふたりは目を細め、しばらくのあいだ黙りこんだ。
「こちらに与するとした時点で、戦場かそれに類する場所に身をおく以外の生き方は選べなくなるが」
それでいいのか、と言葉を切りながら、アキラは過ぎていった風が、丘の手前に配置された人型の標的を揺らすのを見ていた。黒い人型には顔がない。
「あなたがそれを訊きますか。妙な軍人だ」
アキラの視線を追って、男は苦笑した。
「あれには、選択肢がない。頭もなければたとえばこころと呼ぶべきもの、そういうまっとうなものが育つ土壌を、未だに持っていないのです。当然、善悪もなければ思想もない。あるのは、少しの欲のようなものだけです」
「──」
「驚きましたか」
「……いや。分かる気がする」
ふと思い出したのは、かつてシキの宿敵だった男だった。ENEDの実験体、ニコルウイルスの唯一の適合者。あの、トシマをさまよっていた幽霊のような男も、何かが決定的に欠落していた。そしておそらくは、かつてのアキラ自身も。
「軍の学校に入れてもらえたのは、幸いでした」
「思想教育はやっていないが」
「いえ、むしろ、人の中に混じることが、多分必要なことなんです。勉強はまあ、私も手伝って何とかします。──情操教育、というんですか」
その、つい最近どこかで聞いた響きに、アキラは眉根を寄せる。記憶はすぐに聞き慣れた美声とともに蘇って、思わずふ、と息をついた。
「……なにか?」
お気に触りましたかと、傍らの男が顔色をうかがうのに頭を振って、小さくいや、と答えた。

*

 階段を降りながら近付く静かな気配に、アキラは窓の外を舞いはじめた雪と、その先の暗闇に沈めていた意識を引き寄せた。
 屋敷の一階だった。玄関をくぐり、続くリビングのソファに身を沈めてから、どのくらい経ったのだろう。もともと長居するつもりはなく、明りは付けていなかった。不意に肌寒さに気付いて身動ぎする。
「いつまでも上がって来んと思えば、こんな所で考え事か」
 首だけで振り返れば、階段を降りきったシキが近付くところだった。腰を浮かしかけてから、ここが黒い城ではないのだと思い返す。そういった多少は存在する公私での態度の使い分けが、アキラはあまり得意ではなかった。笑みの気配に、僅かな気まずさを感じながらソファに体重を預け直す。
「先日手に入れたS国の件、早速勘付いた国があるようです」
「上々だ。武器庫を1つ占拠されて、気付かん間抜け揃いでは張り合いがない」
取り繕うように口を開いたものの、話題は結局シキが城を出た後に入った情報の報告だった。そもそもアキラには、公私の私事の部分が殆どない。とはいえ屋敷に帰れば気は緩んだ。そう長い時間ではないとはいえ、暗い部屋でぼんやりと意識を遊ばせるくらいには。
「他国からの批判も激しくなりそうです」
「面と向かって件を叩くことはないだろうがな。そのうち色々と理由をつけて介入してくるだろう」
ソファの背後に立ったシキの手のひらが頬に触れた。
「何を考えていた」
 普段冷たく感じられるその指先が珍しく温かいのは、火の気のない部屋に身を置いていた自分の身体が冷えているからだと、アキラは遅れて気がついた。傍らの壁に面で取られた窓硝子からの冷気が、足元へと流れ込んでいる。片頬を包んだぬくもりにまぶたを閉じた。雨から変わったばかりの、水を含んだ雪が窓に当たる音が聞こえていた。
「……日興連の頃を、思い出していました。少しずつ、貴方に惹かれた兵が集うのは、──誇らしかった」
 アキラがシキを主と認め、その元にくだった頃には、シキはすでに少なくない協力者や信奉者を得ていた。だが本格的に力ある者達が集まりだしたのは、クーデターを起こす一年から一年半前のことだ。現在の精鋭部隊の基となる中隊が二人の前に現れたのも、その時期だった。
 あれも、冬だ。アキラは記憶をたどる。士官学校を卒業し、ようやく足を引っ張るばかりではなくなり始めたような、気がしていた頃。求められるところに応えようと、ひどく焦っていた頃。育てられていた。庇護のもとにあった。歯痒さをあまり感じずに済むようになったのはつい最近だ。
「貴方が」
呟いたあとの一呼吸程度の沈黙は、同じ大きさのためらいの現れだった。アキラは目を開く。頬に乗った手のひらを掴んだ。再び開いた口から出た声は、僅かな緊張に硬い芯を持つ。
「今回のように、あえて不安分子を身内に引きこみ、あまつさえ育てようとするのは、世界を手に入れた後の退屈を予想しているからだ」
「不満か?」
「まさか。貴方が貴方のやり方を貫く限り」
「ならば何だ」
低い声は面白がるような響きを含んで先を促す。強い風が窓を叩いていた。吹きつけられた雪が硝子の上で形をなくして、小さな氷を含んだ水滴になって滴り落ちていく。
「彼らがいつか貴方に挑むのならば、そのとき俺は彼らを見逃さないでしょう。彼らの指が貴方に届く前に、排除する」
「有能な番犬だな」
茶化す声を避難するように、アキラはシキの手をつかむ指に力を込めた。ためらいを振り払うように、ゆっくりと頭上を振り仰ぐ。笑みに細められた赤い瞳をまっすぐに見つめた。
「主の獲物を奪う犬を、お望みですか。──それとも、」
気付かぬうちに乾いた喉に、唇は一度動きを止める。けれどそこで言葉をやめるわけにはいかなかった。
「俺も彼らと、同じですか」
自分自身、いつか挑み手に入れるべきものをなくしたシキの、新たな獲物となるためにここで『育てられて』いるのかと。
 暗い部屋に、その問いは酷く響いた気がした。
 シキは笑みを絶やさぬまま、半ばまで瞳を閉じた。返答を待つアキラの手の中から、するりと指先が抜け出していく。
「珍しくよく喋る」
「閣下」
皮肉げに歪められた唇が、紡ぐのはどこか嘲るような響きを持った低い声だ。
「同じ訳がなかろう。お前のそういった勘違いは何時まで経っても抜けんな」
一度は逃げた指先が、アキラの上向いて顕になった喉のとがりに触れる。それは撫で上げるように顎へと至った。
「あれらは、単なる餌に過ぎん」
「──それは、どういう」
返した呟きはかすれている。何の餌だ。あるいは何をおびき寄せるための。
 嵐の音がしている。堅牢なはずの屋敷のどこかが、軋む音を聞いた気がした。
 乾いてかさついた唇の形を確かめるようになぞられる。ふ、と赤い瞳が近づいた。
「俺の犬はお前だけだ」
身をかがめるようにして耳元に寄せられた唇が、追い打ちを掛けるように語尾の掠れた、それでいて艶のある呟きを滴り落とす。
「鎖を噛みちぎってみせろ」
アキラ、と。
 低い声はそれだけで思考を乱した。見えない指が、優しく脳を掻き回す。頬を撫でるようにしてから、長い指が離れ、気配が離れた。
 一拍遅れて問い詰める声をあげたときには、シキはすでに背中を向けている。
「お待ちください、まだ、」
「お喋りは終いだ」
「──逃さないと、言ったのは貴方だ」
立ち上がり追いすがる足音と声には必死さが滲んだ。足元が不意におぼつかなくなるような感覚がそうさせた。去っていこうとする背に手を伸ばし腕を掴む。シキはひたりと歩みを止めた。ゆっくりと振り返ったその瞳は、暗闇で自ら発光する鳩の血の色だ。笑っている。囚われた一瞬の間に、後ろ髪を掴まれ上向かされていた。だがその引きつるような痛みも、眼球を貫く視線の前には形を崩す。
「──ッ」
髪を引かれ、相対した身体に押されるようにして数歩を後ずさった。その間も視線を離すことは出来なかった。背中が硝子窓にあたった。
「逃げようともせん犬は繋ぐ価値がない」
唇が触れ合う距離で囁かれた言葉は、そのままくちづけの中に呑まれた。背けようとした顔は、髪を引かれて再び引き戻される。
 ぎり、とピアスの穿たれた場所を広げるように爪を立てられれば、それだけで背がしなって体から力が抜けた。混乱が、痛みと快楽の中に安易な出口を見出そうとするのを、アキラは感じた。それを厭いながら、いつの間にか追い詰められた窓の冷えた硬さや、言葉を封じる唇の熱、その息苦しさにすら、安堵しているのも事実だった。
 シキの腕を掴んだ指に力を込める。普段武器を扱うために短く切りそろえた爪が痛みをもたらすことはないのだろう。抵抗にもならない抵抗をそれでも罰するように、引き出された舌を噛まれた。甘い痛みに思わず声を漏らす。抗う気力が奪れていく。
 それを見透かすような嘲笑を感じた。けれどそこには確かに、満足気な気配も混じっているのだった。
 真意は、と、ぼやけ始めた意識の隅で思う。
 がんじがらめに縛る鎖を時に見せつけるようにして、その口元には満足気な笑みを浮かべているというのに。鮮やかな赤い瞳には明らかな挑発の色がある。
 いつからだ。──いつだって、そうだったか。
 気がつけば自分の荒い呼吸のむこうに、シキの足音を聞いていた。それはやがて扉の閉まる音の先に消えて、冬の嵐の音が入れ替わリ現れる。外の僅かな明りが、部屋の床に強風に舞う雪や、庭木の揺れる枝の影を映しだした。不意に向きを変え、強固な芯を持たないものを翻弄する風は、アキラの頭の中にも入り込む。
 雪は、明日の朝には足元を青みを帯びた灰色のぬかるみに変えるのかもしれなかった。

end.

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