春夜

 マッチの擦過音、ランプの中央に据えられた火芯に火が燃え移る小さな音。遅れて鼻に届く、僅かなオイルの香り。
 それらは明かりが必要な時分になったことをアキラに告げた。だが、ベッドの枕元に灯された温かな光は、その瞳に届くことはない。
 絹の肌触りの闇の中で、かすかな梅の香りが頬を撫でた。
 わずかに開いた窓から入り込む微風はまだ冷たく、火照った頬をほんのひととき慰める。けれどその慰撫は、すぐに腰から波を起こした熱にかき消された。
 身動ぎする。衣擦れの音の上に、ちゃりという金属のこすれ合う音が響く。吐いた息は身体からわずかに熱を逃して、しかしそれは霧散することなく寝台の上にわだかまる。蓄積する。まるで水槽の中にいるようだ。
 違う、と、人肌に似て吸い付くような、馬鹿げて肌触りのいいシーツに頬を沈めながらアキラは思う。
 水槽ではなく、檻だ。
 現にいま、自分の両腕は冷えた手錠に戒められて、ベッドヘッドに繋ぎ止められている。
 両目は布に覆われて、瞼を開いても閉じても眼球は同じ暗闇に溺れた。
 足は自由だ。けれどその間に打ち込まれた楔が、──既に体温と同じ温度に変わり、電気的な一定の振動を繰り返すそれが、アキラから今や思考や言葉を奪い、かわりに体の底を流れ続ける低い音と、四肢を痺れさせる熱をもたらしていた。
 体を穿っているものを、アキラは自身の目では確認していない。軍服の下を下着ごと下げられて、顕にされた後ろにそれがあてがわれたのは、両手を戒められ目隠しをされたのよりもあとだった。もともとは何らかの潤滑剤をまとっていたせいもあってか、ひやりと冷たかった。表面を弾力のある樹脂で覆われた棒状のそれが、何と呼ばれるものかは知識としては知っていた。けして快い外見でないことも、むしろ眉を顰めたくなるような、あからさまな形状をしていることも。体内に埋め込まれたときの異物感は時間が経つにつれて薄らいだ。だが嫌悪感は未だに拭えず、それだのに意思に反して反応する身体はいつものことながら厭わしい。
「……ッ」
さざなみのような熱が、ひときわ大きな波を連れて来る気配に、身体を強ばらせる。気付けば呆けたように開いたままになっていた唇を噛む。
「……、……ふ、……ッ」
戒められた手首はまるで溺れる人のように縋る場所を探す。けれど何のよすがも見つけられないままに空気を握り締めた。擦り合わせた膝には、中途に下げられたままの軍服の硬い感触。皺になるのを気遣う余裕はもはやなかった。
 熱を何とかやり過ごす。波の半分ほどが通り過ぎる。残りの半分は留まり続けて、噛み締めた口の端から耐え切れずこもった息を吐かせた。
 僅かな笑みの気配と、乾いた紙の擦れる音がした。すぐそば、せめてもの反抗と背を向けた先にある気配は、この檻の看守のものだ。自由を奪い、責め苦を与え、罪を罰する支配者。今は読書の最中の。
 髪に触れる細い指の感触に、アキラはびくりと肩を震わせた。手のひらはまるで傍に眠る犬の頭を撫でるような造作のなさだ。二三度髪をすいたあと離れて行こうとするのを、呼び止めようと口にした名前は震えてかすれた。
「辛いか」
応じた声は懇願の気配を嘲笑う。一度離れた冷たい指が髪の中に潜り込んだ。アキラはゆるく首を振る。そんな風に、されたいのではなかった。中途に触れられるのは苦しかった。
「……抜いて、くださ……ッ」
絞り出した震える声は黙殺されて、代わりに返ったのは本のページを繰る音だった。その間にも、まるで優しげな指は髪を撫で続けている。
「閣下……!」
「もっと素直にねだればいい。悦いのだろう、──これが」
「あッ、──!!」
不意に、体内に埋め込まれた楔が角度を変えた。弱い場所を狙って押し付けられる振動は、暗闇に塗り込められた視界を真っ白に染めるかと思われた。
「や、め、……! いやだ……ッあ、あ!」
急に与えられた強い刺激に、悲鳴と嗚咽の混じりあった声をあげる。だがそのことに羞恥を感じる余裕など、既に残されていなかった。急き立てられて、あと一歩で達する直前、振動は不意に止まる。スイッチを切られたのだった。
「……っく、ぁ……っ」
すすり泣きのような声を漏らしながら、意思を裏切って腰が、強請るように揺れる。
「意地を張るな」
「……ッもう、おやめください! 俺が何をしたと、──!」
言葉途中に再び始まった微振動に、アキラは喉を反らせた。
「そうだな。お前は何も悪くない」
たとえただの物からこうやって快楽を得たとしても、と、喉の奥で笑うような声を耳元に落とされる。そこから溶けてゆきそうな、思わず肯ってしまいそうな甘さがあった。ふわりと耳にかかった吐息に、アキラは肩を揺らす。
「……ッあ、」
「ほら」
暗闇に滴る声はどこまでも甘い。それは逆に、恐怖を呼んだ。この声は、惑わす声だ。
「あ、いや、だ──お許しください、こんな、──」
そうと知ってはいた、だが。
「アキラ」
その声で名を呼ばわれれば、体内で蠢いて弱い場所を擦っていく機械的な振動が、そんなものに犯されて自分が快楽を得ているという事実が溶けてゆく。意味をなくしていく。じわりと体中が汗を帯びる。
「……ッや、シキ、おねが……ッあ、」
ねじ込まれた楔が、引き出されて息を呑む。すぐに再び埋め込まれる。びくりと背が反る。欲しいものはこんな物ではないはずだった。こんな、機械の。無機質の。
 それなのに、肉はうねった。まるで欲しがるように。引き出されれば惜しむように引き絞り、押し込まれれば喜ぶように締め付けた。
 シキのために変えられた身体は、シキだからこそ、反応を返すのだと。
 それがアキラの、本来の性に逆らう行為への一つの言い訳だった。
 そうであるなら、シキ以外のものに貫かれて、こんなふうに快楽を得ていいはずがなかった。
 だが。
「あ……ッ! ふ、ぁ、……っ、ッく」
追い詰められてゆく。追いたてられ、淵へとじりじりと近付いてゆく。
 視界を塞がれた闇の中で、感覚を満たすのは耳元に滴り落とされる甘い声だった。深みから誘うように名を呼ぶ響きは、意思の堰に罅を入れて、ぐずぐずに崩していく。
「……ッ、あ、いや、だ、……、う……!」
頭上でがしゃがしゃとうるさく鳴っているのは両手を戒めた鎖だ。それもやがて遠ざかる。
 逃げられない。
 そんなものがなくとも。
「アキラ」
その、声と、眼差しだけで。
「……!」
ひゅ、と音をたてて、空気を吸いかけた喉が反った。何かから逃げるように丸めた背が強張ったあと、何度か背骨を捻るようにして痙攣する。ちかちかと視界が白黒に明滅した。空気を求める魚に似た動きで、はくりと開いた震える唇の端から、嗚咽に似た吐息とともに、飲み込みきれなかった唾液が一筋こぼれ落ちた。
「……ッ、……、……!」
声なく達して震える身体を、宥めるように撫でていくのは残酷な指だ。軍服のジャケットと、汗に湿りを帯びたワイシャツの間に入り込んだ手のひらが、腰から脇腹へと滑ったあと、臍のピアスに触れる。呼応するように芯をなくした中心から、最後の雫が糸を引いて落ちるのを感じた。
 額に張り付いていた髪をさらりと払った指が、そのまま両手首の戒めの鍵を解き、目隠しの布をとり外す。アキラは急に視界に戻った光に目をしかめた。
「……あ、」
目の前に、濡れて光を反射する酷くグロテスクなものがある。先程まで自らの体内に埋め込まれていたものだとは、すぐに気づいた。
 瞬間、虚脱を意識が飛ぶほとの怒りが埋める。視界が赤く染まった。気がつけば振り向きざまに拳を振り上げていた。
 しかしそれは、愉しげな笑みを浮かべる顔に届く直前で止まる。最初からそれを見越していたのだろう、シキは眉ひとつ動かさずに、揺らぐ洋灯の灯りの中で美しく微笑んでいた。
 アキラは主の顔に触れそうな位置に静止した、白グローブに包まれたままの自分の拳を見つめる。衣服すら、未ださして乱れてはいない事を思い出した。私室に入るなり、ほとんどすぐに寝台に繋がれたのだ。
 とはいえ、背中に閉じた扉の前で、色の滲んだ声で主の名を呼ばわったのはアキラの方だった。
 日中、煽られて体内にくすぶり続けた火が、ふたりきりになった途端理性を半ば焼ききった。
 シキの浮かべた一見優しげな笑みを、普段であればけしてそのままの意味で解したりはしないはずだのに、今日に限っては何の疑問も抱かずにただ、触れることへの許可として受け取った。
 体温が感じられるほど近く距離を詰めると、主もそれを受け入れるようにアキラの背に腕を回し、髪を梳いた。ワイシャツの襟元に鼻を埋め、馴染んだシキの体臭に熱い息を吐いて、震える指でタイを外しながら、もつれるように寝台へとむかった。シーツは乱れた動作で倒れこんできた二人の体をしなやかに受け止めた。これでやっと、と、漏らした安堵の溜息は、両手に手錠の掛けられる、聞き覚えのある音に半ばで阻まれた。
 それから、どれほどの時間が過ぎたのか。わかるのは、部屋に戻ったのは日が高い時分だったこと、今窓の外は宵闇の群青に染まっているということだけだった。
 光を透過する鳩の血色の瞳を、アキラは睨めつけた。
「何故、ですか」
何か自分に咎があったかと、熱に浮かされた頭で何度も省みた。幾度かは口に出しもした。だが怒りを押し殺し絞りだすような声に、答えは一度も返らなかった。今もまた、シキは三日月の弧を描いた唇を開こうとはしなかったし、涼しげな目元は面白がるような色をたたえるだけだった。
 奥歯を噛み締める音とともに、アキラは身を引いた。乱雑な動作で枕元に転がっていた軍帽を掴む。だが、そのまま寝台を降りようとしたのを、強い力で引き戻された。あっという間に組み敷かれて、シキを見上げる形になる。
「いい加減に……ッ!」
噛み付くように苛立ちのまま声を荒らげたのを、留めさせたのは頬の上、目の端に親指を添えるようにひたりと触れた手のひらの感触だった。
「──久しぶりに、お前のその眼が見たくなった」




「まだ機嫌がなおらんか」
「……っ」
背後から覆いかぶさるシキに肩口に甘く歯をたてられ、身体をびくりと震わせながら、アキラはシーツを噛んだ。
 この数時間のどこに、機嫌を治す要素があったのか。肩越しに睨みつけてやりたいのを、喜ばせるだけだと自分に言い聞かせて諦める。
 抵抗は、すべてねじ伏せられた。獲物を狩る獣の愉しげな赤い瞳に、暴かれ喰らいつくされかきまぜられた。
 身体はもうろくに動かない。落ちそうな意識をそれでも支えているのは、ただ単純な憤りと怒りに他ならなかった。
「……ッく、……」
体内からシキ自身が抜け出ていく感触と、それに続く足の間を流れ落ちていくものの感触に肌を粟立てる。
「……満足、なさいましたか」
掠れた声で唸った所で迫力などありはしないと、知っていても押し殺した低い声で問いかける。
「そうだな」
耳を噛みながら発された声に、脳が溶けかけるような錯覚。こぼしそうになった息を噛み殺しながら、アキラは振り払うように頭を振る。
 何かの罰でも躾でもなく、こんなふうにただ弄ばれるなど、到底受け入れられなかった。たとえ魂まで捧げたとしても、アキラには牙が残されていた。残したのは、他ならぬシキだった。
「……っ俺は貴方の、玩具では、ない」
「ああ」
事も無げな、笑みを含んだ応えが耳に触れる。同時に灰色の髪を掴まれ、肩越しに振り向かされた。
頬を舐められ、唇に噛み付かれる。ぷつりと、皮膚が裂ける音がした。
「所有物だろう」
「……っ」
シキは切れた唇をひと舐めすると、顔を離した。代わりに背中に覆いかぶさったまま、体重をかけてくる。
「……、閣下……っ!」
「アキラ」
押しつぶされるようにして、立てていた膝が折れて身体がベッドに沈みこむ。あげた抗議の声は半ばで遮られた。
「少し眠る」
「……!!」
だから口を閉じろと言外に命じられ。
 あんまりなやりように、図らずも絶句して拳を握りしめた。
 身勝手にすぎる。苛立ちのあまりに言葉も無く、せめてその体の下から抜けだして部屋を出て行こうともがく。けれど抱き込まれた腕の力は強く、しかも体重をかけられているのだ。かないそうにもなかったが、暫くの間諦め悪く抵抗を続けた。だがそれも、肩口に顔を埋めたシキから、静かな寝息が聞こえてくるまでだった。
「……シキ、」
なんて、ひとだ。
 呟きに、ほんのすこし開いた窓からの忍ぶ足音に似た雨音が続いた。
 途方に暮れて、アキラは虚脱した。頭だけを巡らせて、とうに真っ暗な窓を見やる。
 ──昔からそうだった。
 はじめからそうだった。
 しばらく呆然としたあと、そんな思いが胸をかすめたのは、いつかの遠い夜を思い出したからだ。雨音に閉じ込められたような灰色の部屋で、こんなふうに自由を奪われて、憤りに肺腑を灼いた夜の。
 ランプの火がいちど、ゆるりと揺れた。雨の匂いと混ざり合って鼻孔に届く、僅かに窓の下にほころんだ花のかおり。
 青錆びたような骨ばった枝と、その先に開いた、夜陰に浮かび上がるように咲く白。
 かつてこの街には花などなかった。緑もなかった。ただ雨が砂埃を泥に変え、白茶けたアスファルトを濃灰に染めた。
 それでも鮮やかだったのは、禍々しいほどに赤い夕陽が連れる夜と、それから、わだかまる闇に切れ目を入れるような白い刀の軌跡と、──。
 寝息、雨音。
 体温、鼓動。
 見えない花の香り。
「なんて、ひとだ」
声に柔らかな温度を持った諦念が滲んだのを、かすかな溜息で送って、そうしてアキラは、静かに瞼を閉じた。

end.

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