氷点 <上>

 折りたたみ可能なテーブルに、パイプ椅子二脚が置かれただけの簡素な室内は、真昼でありながら蛍光灯の寒々とした光の下にあった。日に焼かれて色を変えたブラインドが、羽根の上に埃を積もらせたままいっぱいに開かれている。だが夕闇の暗さを湛えた窓は、採光の役目を果たしていなかった。窓硝子は室内の光景を映しこみ、硝子を叩く雨音だけが、外の冬の嵐を告げている。
「……失礼。君をトシマに送り込んだ軍人の名前は、『エマ』と『グエン』で良かったかな」
テーブルに開いた端末のキーボードを叩く音が止まり、代わりに耳に入り込んできたのはそんな言葉だった。アキラは窓から視線を戻す。対面に座る男は白髪交じりの頭をきれいに後ろに撫でつけ、文官でありながら鍛えていることが伺えるやや太い首を、糊の利いた真っ白なワイシャツの襟で囲んでいる。好感の持てる外見だった。だが彼の纏う清潔感は、この前線に近い基地の持つ埃っぽい慌ただしさからはどこか浮いてしまっている。
 CFCとの戦争が始まった今、この軍の施設はひどく忙しなかった。その原因の一端に、内戦勃発の情勢を視て保護を求めた者が、少なくなかったことがある。
 旧祖周辺に存在する『難民』、10万人超と見込まれる彼らに、日興連は門戸を開き、受け入れる姿勢をとっていた。ただし、おおっぴらに周知はされていない。後々糾弾された際に言い訳ができる程度の人道的な対応として、自ら進んで保護を求めたものに対してのみ、それは行われているに過ぎなかった。自然、集まってくるのは難民のうちでも、情報を集める能力と、あくまでも人としての社会性と思考能力を併せ持つ、まともな者に限られてくる。
 そのやり方も、難民の群れに追いかけられたことがあるアキラには、仕方がないことと思われた。戦時下に、あの獣のような連中を皆保護し然るべき施設に、というのは、やはり無理がある。
 だがそういった状況でも、日興連に身を寄せようとする者は後を絶たなかった。明らかに軍属ではない風貌の者が廊下を歩いているのを、アキラも頻繁に見かけていた。 駐屯地で簡単な身元調査を行われた後、大きな問題がなければこの施設に送られて、詳細な調査や面談を受ける仕組みになっているらしい。
 この部屋も普段は使われていないのを、数が足りないからと急遽用意立てされたものに違いなかった。中央から応援として送られてきたという目の前の男は、部屋に足を踏み入れたときに鼻孔をかすめた埃の匂いに顎を上げ、テーブルの上にうっすらと積もっていた埃に眉をひそめていた。
「ああ。合ってる」
肯うと、男は端末の画面に視線を戻し、打ち込みの作業に戻る。
 保護された駐屯地からこの施設に移送されたのは一昨日のことだ。その日のうちに、駐屯地よりも本格的な身元についての審問の場が設けられた。
 CFCにおける殺人の容疑はすぐに明るみに出たが、アキラは特に拘束されることなく過ごしている。それどころか、かつて暮らしていたアパートと大差ない一室があてがわれていた。格子どころか鍵もついていない部屋は、殺人容疑のある人間への対応としては破格というよりも異常だ。それがどうやら、シキが日興連におけるなにがしかの権益に関わっているためだということに、アキラも薄々気付き始めていた。
 この調書らしきものの取り方にしても妙だった。弾劾の気配は全く伺えない。どちらかと言えば無罪放免を前提に、それを証明するための資料を作成しているような色さえある。
「こうしてみると、何だろうね。ずいぶんタイミング悪くトシマに送り込まれたものだ」
男は画面から視線だけを上げて、こちらに笑いかけてきた。その笑顔の奥に抜け目ない眼光を見た気がして、アキラは言葉少なに頷く。Nicoleウイルスやそれにまつわる因縁については、黙っていた。CFCと日興連という違いがあるとはいえ、エマやグエンと同じ軍属の人間に、この話をしようという気には到底なれそうにない。なによりこの話題は、アキラにとってぱっくりと口をあけた剥き出しの傷と変わらなかった。未だにどう扱うべきものなのか、自身でも判じきれていないのだ。
 男に他意はなかったらしい。それ以上この話題を追求することはなく、手元のパソコンに供述を打ち込む作業に戻っていった。
 雨音と手早くキーを打つ音が再び部屋を満たす。男が打ち込むのを待つ間、手持ち無沙汰になるたびに、他にすることもなく耳を澄ました。だが聞こえるのは、遠くで扉が軋みながら開閉する音や、何かを落としたような音、廊下を歩く誰かの、内容の聞き取れないくぐもった話し声くらいのものだ。隣の部屋でも同様に身元調査の聞き取りが行われているはずだったが、声や物音はじめ、そんな気配は全く感じられなかった。
 アキラはそっと息をつく。そろそろこの部屋に入ってから一時間半が経つ。気詰まりとまでは言わないが、少しばかり空気に倦み始めていた。
 その気配を読みとって、男は笑みの乗った声をよこす。
「疲れたかい」
「少し」
「そうだね、私もだ。お茶でも──」
男はディスプレイから顔を上げ、周囲を見渡した。そうしてからすぐに苦笑する。ここがどこであるかを失念していたらしかった。この部屋に、飲み物を頼めるような相手はいない。
「……悪いね。もう少しだけ付き合ってくれるかな」
そう言って首のあたりをさすりながら、姿勢を崩して椅子に寄りかかった。ギイ、といやな音をたててパイプ椅子が軋むのに、苦々しく眉根を寄せる。
 身につけている物といい、振る舞いといい、もしかしたら男の階級は低くないのかもしれなかった。少なくとも普段は、身の回りのことを申し付けられるような部下がすぐ傍に控えているのだろう。それがこんなところで事情聴取に駆り出されているのが不思議だった。とはいえ内戦は始まったばかりで、しかも予想されていたとはいえCFCの先制による。日興連は想像以上に浮き足立っているのかもしれない。
「アンタ、いつもこんな仕事してるのか」
「まあ、そうだね。軍と外をつなぐような感じかな。守秘義務があるから詳しくは言えないが」
男は視線だけでさらりと画面を走査する。やがていくつかのキーを押した後、パソコンを閉じながら上目にアキラを見た。
 何かを言おうとして息を吸い込む気配の後、言葉を慎重に選ぶように一旦視線を手元に下げる。しばらくそうしてから口を引き結び直し、うん、と一人で頷くと、再び顔を上げた。
「話を聞く限りまだ会ってから一月も経っていないようだが、──シキとは、どういう?」
不意に発されたその名前に、全身の神経の上をさざ波が駆けた。赤い瞳、黒鉄の刃、その上を走り抜ける鋭い白光。それらが瞬時に思い描かれて、僅かに心臓が動きを早める。
 どういう関係なのか。
 それはむしろアキラ自身が訊きたかった。
 男は、これは個人的な質問だがと軽く笑って、端末を少しばかりテーブルの端に寄せる。
「彼とは大戦の頃に仕事の関わりがあったんだが、あまり人を寄せ付けないというか、そういうところがあってね。誰かを連れて現れたのは、正直、意外だった」
言いながら、テーブルに片肘をついてその上に顎を乗せた。その人の良さそうな笑みが、シキという言葉が出た途端にアキラが帯びた緊張を僅かばかり和らげる。
 アキラは傲岸な笑みを浮かべながら所有を宣言した男の顔を思い描いた。この二日間ほど会っていない。隣室に当たるシキの部屋に、人の出入りする気配はあったが、本人と顔を合わせたのは一昨日ここに移送されてきた日が最後だ。
「彼は何故君を連れてきた?」
「……わからない」
「全く?」
「ああ。アンタの言ったとおり、初めて会ってからせいぜい3週間ってところだ。会話も──、あんまりしない」
駐屯地に保護されている間も、トシマを抜ける地下道を歩く間でさえ、言葉をかわすことなどほとんどなかった。
 自分が何故ここに連れてこられたのか、アキラは知らない。同時に、何故自分が言われるがままにシキに従っているのかも、解らなかった。考えてみれば、これからどうするつもりなのかも全く見当がつかない。
 真偽を見極めるようにアキラを見つめていた男は、ため息混じりの笑いを漏らすと視線をはずした。椅子にもたれ掛かりながら軽く首を回す。
「まあ、あの男のことだ。気まぐれに生かすこともたまにはあるんだろうさ」
シキの性格をある程度知っているらしい口振り。こちらの言ったことをおおむね信じた様子に、少しだけ警戒を解いた。こういう場所も、一方的に浴びせられる質問も、得意ではなかった。CFCでの取り調べも思い出す。
「無事解放されたら、……まあこのままなら数日以内に解放されると思うが、そのあとはどうするつもりだね」
「どうって」
「こちらでの暮らしのことだよ。あては……あるわけがないか」
尋ねておきながら、答えを聞く前にひとりで結論にたどり着いて、男はふむ、と虚空を睨んだ。
 声もキーボードを打つ音もなくなると、部屋はたちまちに雨音で満ちる。時折は、小さな霰が硝子にぶつかる硬い音も聞こえた。冬が始まろうとしている。アキラは、男の問いかけをぼんやりと反芻しながら再び窓に目をやった。何もない狭い部屋を反射していた。
 男の言うとおり、日興連に知人は皆無だ。
 どうして自分はここにいるんだろうと、思う。
 トシマを抜けてからずっと、熱に浮かされているような感覚があった。シキの、あの鮮やかに強い存在に引き寄せられるように後を追って、訳もわからないままこんな場所に座っている。こんなところに。一人で。
 鈍く思考を塞ぐような頭痛がした。頭の中は様々な感情が混ざり合って、飽和しきって静かに煮えたぎる炉に似ている。時折、温度のない言葉が浮かび上がった。ケイスケ。置いてきてしまった。あの街に。廃墟に。壊れたビルの間に。あの路地は、今頃戦場となっているんだろうか。
「……ブラスターは、こっちにもあるだろ」
気を抜くとずぶずぶと沈み込んでいきそうになる思考を、振り払うように口を開く。
 男は頭を傾けたまま軽く目を見開くと、渋面を作った。
「あれで名を上げたところで、来るのは非合法企業やいわゆるヤクザ者からのスカウトだろう。犯罪者まがいのものになるのが解っていて、未成年をここから放逐するわけにはいかん。──だが、うん」
ひとつ頷いて、男が椅子にもたれていた体を起こした。パイプ椅子がきしむ。たしかに不快な音だ。テーブルの上で再び手を組んで、彼は言葉を探すように少しの間口をつぐんだ後、切り出した。
「彼に、──シキについて行くのでないのなら、安心した。てっきりそのつもりなのかと思っていた」
再び現れたシキの名前に、アキラは視線を男の顔に戻す。彼は意志を確かめるように、まっすぐにこちらを覗きこんでいた。
「いいかい」
アキラが何も言い返してこないのを見て、一呼吸分の間をおいてから、噛んで含めるように言葉を紡ぐ。
「あの男は、危険だ。彼が今まで裏で何をしてきたか、君は知らんだろう。何人殺したかわからんぞ。戦時下であればやむをえん場合もあるだろうが、そんなものに収まる話ではない。卑しい身分ではないにも関わらず、戦前からずっと手を汚し続けている。まるで殺しそのものを楽しむようにな」
トシマでのシキの凶行を、アキラは伝えていなかった。いくらトシマが日興連の統治下でないとはいえ、辻斬りをしていたと知られるのがまずいのは明白だ。だがそのせいで、この男はアキラがシキの人となりを知らずに共にいるのだと勘違いしたらしい。
「何か弱みを握られているわけでは?」
「……別に」
首を振ると、諭すように男は続ける。
「なら、できるだけ早く離れた方がいい。いいね。しかし、そうか、あてがないか。軍に入るのもいいだろうが……ふむ」
独り言のように言葉を尻切れさせると、脇に避けていたノートパソコンを開いた。しばらくの間、何事か打ち込み、画面を眺めることを繰り返す。自分のために何か都合してくれようとしているのだと、少し遅れて気が付いた。咄嗟にそれには及ばないと言いかけて、とどまる。ならば自分は、これからどうしようというのか。
「ちょうど知り合いが、腕のたつのを捜している。軍人らしくない方がいいらしい」
アキラは僅かに目を見開いて、どうかねと視線で問う男の顔を見返した。
 新しい生活。仕事。それらが急に具体的な陰影を持って目の前にたちあがる。実感は勿論ない。だが、これからも自分は普通に生きていくし、暮らしを営まねばならないのだという、そういう当たり前のことを、突きつけられた気分だった。
──あいつは、もういないのに。
 頭の片隅でそう呟く誰かがいる。それはそうだ。だって死んでしまったのだから。
 未来を、無理矢理にでも想像してみようとする。だが今度は、あの赤い瞳が痛みに似て鋭く脳裏に蘇った。
 唇が勝手に、無理だ、と答えそうになった。それを無理矢理に閉じて引き結ぶ。何が無理なのか。確かにあの低い声に命じられるがまま、ここまで来た。だがそうしなければならない理由など、どこにもないはずだった。
 このままシキの言いなりになるのか。
 にわかに混乱しはじめた頭の中から、忘れていた怒りがじわりと這い上がる。それは単に、飽和しきって今にも溢れそうな感情が、都合のいい捌け口を見つけただけなのかも知れなかった。だが、その怒りを追うように形を取り戻し始めたプライドが、その一瞬の冷静な思考を踏みにじる。服従などごめんだ。知らず、奥歯を噛みしめる。
 返答のないのを、男は何か勘違いしたらしかった。
「ああ、いや、そうだね、君はつい最近、CFCの軍人に騙されて酷い目にあったばかりだった。だが、ここは日興連だ。信用してもらっていいと思うよ。多少荒っぽいかもしれないが、そんなにおかしな仕事は回されないはずだ」
アキラは黙ったまま、曖昧に頷く。多分、願ってもない話だ。日興連に属するまともな人間に紹介された仕事で、自分の唯一と言っていい特技も活かせる。少なくともCFCにいたころに、ブラスターのエリアチャンプ宛に来ていたスカウトとは訳が違う。
 男の態度は何者ともしれないアキラに対しても、常に一定の礼儀をわきまえていた。必要なときだけにこちらをまっすぐに見つめる眼差しは不躾でなく、信頼できるもののような気がした。言われたように、CFCの軍人に騙され利用され、使い捨てられようとしたのは記憶に新しいが、高圧的にアキラを従えようとした彼らとは、目の前の男は明らかに違う。
 だが、アキラには何故か首を縦に振ることができなかった。
 急なことに戸惑っているのだろうか。それとも疑っているのか。自問するが、答えはない。
 男は肩の力を抜くようにして、軽く息を吐きながら相好を崩すと、ゆっくり考えるといい、と名前と電話番号を書いたメモを差し出した。
「僕はトマツという。気持ちが決まったり訊きたいことがあれば、連絡してくれればいい」

 面談から帰っても、シキが戻る気配はなかった。
 あてがわれた部屋はかつてアキラが暮らしていた部屋と似ている。静寂が沈殿した室内に扉の閉まる音が響いた。裏側が日に灼けて変色した分厚いカーテンは開かれていたが、窓の外は相変わらず、午後も早い時間だというのが信じられないくらい暗い。
 トシマからの地下道を抜けて久方ぶりに見た空には、雲間にうっすらとした青色があった。だがそれはあっという間に覆い隠され、最初に保護された駐屯地であてがわれた毛布にくるまった頃には、再び初冬の氷雨が降り出していた。それからずっと、厚い雨雲が空を塞いでいる。
 あまり大きくない机とセットで用意された椅子に、すれ違いざまにブルゾンを掛けて、窓際のベッドに体を放り出す。パイプベッドが悲鳴のような軋みを上げるのを、頬を埋めたシーツ越しに聞いた。僅かに埃の匂いがする。
 シキは、ここに着いてすぐ出て行ったきりだ。とはいえ全く戻っていないのではないらしい。隣室にあたるシキの部屋からは、時折物音や人の声が聞こえた。ただし殆どはしんと静まり返っている。
 アキラはいつの間にか見つめていたドアノブから視線をそっとはずしながら、浮かび上がりかけた疑問を頭から追い出す。あの男が自分に会いに来る必要が、どこにあるのだろう。
 眉間に無意識に皺を寄せて、先ほどの日興連の男、トマツの申し出を反芻した。
 素直にこちらの身を案じているように見えた。連絡したなら、おそらくすぐにでもシキとは別の場所に保護してくれるだろう。好意を素直に受け入れて、勧められた仕事をしながら新たな生活を始めるのは、それほど困難ではないのかもしれない。
 きっと、その方がいい。
 だが。
 体を持ち上げる。目の前の、泥のはねた窓硝子を伝い落ちていく雨粒の手前に、うっすらと自分が映っていた。一ヶ月前安アパートの鏡に映っていた顔とは、明らかに何かが異なっている。だがいくら目を凝らしても、それが具体的に何なのかは結局のところ解らないのだった。
 肌寒さを感じて毛布を引き寄せる。包帯の下で左の手のひらが痛んだ。傷がいつまでも塞がらないのは、時折痛みを確かめるために手を開閉してしまうからだ。
 窓に背を向けて寄りかかり、ベッドの上に足を投げ出す。雨音に耳を塞がれるままに、目を閉じた。
 頭が、目が、鉛の固まりのようだった。ずっとまともに眠れていなかった。浅い眠りに見る、現実と地続きの夢は、神経をかえって摩耗させた。目の奥の鈍い痛みはそのまま頭痛になって、思考までも重く包む。
 どうして自分は、こんなところにいるのだろう。
 再び自問する。答はない。
 たった三週間かそこらで、アキラを取り巻くものは何もかもが変わってしまった。
 元々持ち物は多くない方だった。執着もしなかった。物に対しても、人に対しても。だがこうして、こんなふうに身一つで、見知らぬ土地に来ると急に強く感じられる。
 自分が心の幾分か、少なくはない領域を、明け渡す存在があったこと。まともな家族を持ったことは無いようなものだったが、それに近かったのかもしれない。隣にいるのが当たり前で、根拠もなく、これからもずっとそうだと思っていた。
──死んでしまった。
 幼なじみが最後に見せた苦痛の叫び、憎悪に哄笑する表情が、何度もフラッシュバックした。駐屯地に着いた頃には、よく知った何気ない面影も合間に入り込んでくるようになった。
 自分を憎み蔑み嘲笑う顔ならば、まだ良かった。耐えられないのは、他愛ない会話の途中の笑顔や、ささいな仕草だった。幼い頃のつまらない喧嘩や、悪戯、どうでもいいような遊び。そういうものを思い出したとき、アキラはただ悲鳴をこらえるように体を固くして蹲り、強く瞑目して握りしめた手を噛んだ。
 トシマの暗い部屋に捕らえられていた間は、シキの仕打ちへの憤り、怒り、屈辱、それらに頭を染め上げられて、落ち着いてものを考えることなどできなかった。最早どうしようもない喪失から一時でも目を背けるには、非常に都合のいい逃げ場だった。
 だがトシマを抜けてから、シキはアキラに触れなかった。その視線は遥か先を見据えて、後ろを歩く存在を省みることなど殆どしなかった。そして日興連は、不足のない保護をアキラに与えた。それなりに清潔な衣類と、寒さや飢えを感じることのない環境が身のまわりに戻るにつれて、目の前に立ち上がるのはトシマを出ること叶わなかった幼なじみの面影と、そしてその原因が自分の他にないということだった。
 不意に部屋の扉が音をたてて、暗い場所に沈み込んでいこうとした意識を引き上げる。びくりとして、アキラは顔を上げた。だが予想を裏切って扉は開かれず、窓を叩く強い風の音だけが耳を打った。
──違った。
 数十秒かけてそう悟る。ため息をつきかけて、アキラは動きを止めた。自分がたった今たしかに、落胆したことに気付いたせいだった。
 自分を虐げた男への怒りや反発、それら負の感情が酷く小さくなっていることは感じていた。それは多分、トシマの狭い部屋に監禁されていた頃から、少しずつ始まっていた気がする。だが、これでは。
 じわりと湧き上がったのは焦燥だった。
 どうして自分は、こんなところにいる。
 どうして、大人しくあの男に従って、見知らぬ部屋でその帰りを待っている?
 呼吸が、僅かに早く浅くなる。
 帰ったなら、シキはまるで物のように自分を扱うのだろう。あの男にとって抵抗は児戯に等しい。逆らったところで結局好きにされるのは目に見えている。
 それなのに、それが解っていてなぜ、ここに留まり続けるのか。
 部屋のドアノブが目に入った。
 トマツの申し出を吟味しながら、決断は無意識に先送りにした。この狭い部屋で、ぼんやりとした疑問だけを抱きながら、当たり前のようにシキの帰りを待とうとしていた。それが何より、恐ろしかった。
 とっさに、スニーカーに足をつっこむ。大股に踏み出しながら踵を靴の中に押し込んだ。ジャケットをひっ掴み、それとは逆の手で、金属のドアノブを握りこむ。
 瞬間、その冷たさに呼応するように、ずきん、と腹部に穿たれたピアスが疼いた。
「……ッ」
ノブを握りしめた手が、動かない。
 自分の心臓の音が聞こえる。ピアスが熱い。否、熱いのは、金属を埋め込まれたまま閉じていない傷口かもしれない。ずきんずきんと、まるでもう一つの心臓が鼓動を打つようだった。
 早く。
 シキが帰ってくる前に、ここを出なくては。
 先程まで何の抵抗もなく開くことのできた扉が、今はまるで鍵のかかった厚い鉄扉のように感じられた。
 早く。
 あの男が戻れば、また。
 離れられなくなってしまう。
 トシマで監禁されていた間にも、二日間ほどシキが不在にしたことがあった。連れ込まれた廃アパートの部屋から、今なら逃げ出せるのではないか──そう思って、ドアを開いた。けれどそこから足を踏み出すことができなかった。
 あの時と同じだった。むしろ扉を開けることすらできなくなっている今のほうが、いっそう酷い。
 ピアスが熱い。喉元が締め付けられるような錯覚に、息を吐くとほんの、ほんの僅かにそこには熱が滲んでいるようで、唇を噛み締めて扉に強く額を擦り付ける。
 トシマを出てからの数日間が蘇る。まるで熱に浮かされるようにその背を追ったことを。逆らうことなど考えもしなかった。肌が触れるほどの距離で覗き込む狂気を沈めた赤い瞳と、低く囁かれた逃がさんぞという言葉が、頭蓋にいつまでも反響していた。
 あの目を見れば、声を聞いたなら、またあんなふうに、おかしくなる。それが解った。思い出しただけでも胸が痛みを伴ってざわめく。
 ドアノブを握る震える手に力を込め──どのくらいの間、そうしていただろう。
 やがてアキラは、体温と同じに暖まった金属から、震える五指を引きはがした。
 とたん、膝が折れる。ドアに頭をつけるようにしてその場にうずくまった。
 床に視線を落とす。どうしてという言葉が、恐慌を来した鳥のように頭の中を飛び回った。
 どうして、──逃げられない。
 耳が、周囲の雑音から浮き上がるような、残響をひく特徴的な足音を捉えたのはそのときだった。
 遅かった。間に合わなかった。そんな絶望と同時に、言いしれぬ感情が胸の奥から滲みだす。それは絶たれていた水を、目の前に見せつけられた時に味わった感覚に限りなく近かった。
 外側から扉が開かれた。アキラは赤い瞳を求めて引き寄せられるように顔を上げる。
 その姿は酷く鮮やかに目に映った。闇を塗り込めたような黒、陶器の白。アキラを見つけた血の如く赤い瞳の奥で、何かがゆらりと揺らめいた。追って形のいい唇が微笑する。
「ようやく留守番を覚えたか」
「……ッ、」
黒いグローブに包まれた指先に、喉を撫で上げられた後顎を掴まれる。赤い瞳に覗き込まれると、内側がどろりと溶けそうになった。思考が麻痺して、すべて差し出してしまいたくなる。そう認識した瞬間、アキラの思考を何かが白く灼いた。自衛本能に似たものだった。ぱん、と、乾いた音がやけに大きく部屋に響く。自らの顎を捕らえた手を、払いのけていた。
 シキは、嗤った。これまでも薄く笑んではいた。だがたった今浮かべたのは、それを塗り替えるような、酷く色鮮やかな愉悦の表情だった。
 襟元を掴まれ引き上げられる。短い浮遊感がそれに続いて、背中から全身に走った衝撃に息を詰まらせた。部屋の奥に投げ出され、ベッドの角に背中を打ったせいだった。
「跳ねっ返りは直らんな。まったく、楽しませてくれる」
床に座り込みながら咳込むアキラを尻目に、シキは椅子を引き出し腰を下ろすと足を組んだ。椅子の軋みに、日本刀の鞘尻を床につける硬質な音が続く。
「誰か来たか」
鼻先に揺れる黒いブーツの先を睨みつけるようにして、アキラは口元を拭った。顔は、上げられなかった。目を合わせるのは──怖かった。
 認めるほかなかった。トシマにいた頃は睨めつけることができたその赤い瞳が、今は酷く恐ろしい。だがそれは、もたらされる痛みやその先の死を想像するからではなかった。
 魅入られるのだ。
 Nicoleウイルスをその身に取り込みながら、しかし他のラインの中毒者たちのように、シキの瞳は濁ることをしなかった。酷く鮮やかなまま、けれどその奥には、以前無かった物が確かにある。適合者として覚醒した直後に見せたあの剥き出しの狂気、それが、底に凝集して熾火のように昏い光を滲ませている。
 蠱惑的とさえ言えるその深い赤色に瞳を合わせることは、神経に直接触れられるような、ほとんど痛みに近い感覚があった。
 鼻で笑う気配と共に、嘲りを帯びた声が降る。
「その気にさせられたいか。構わんぞ。すぐに思い通りになってはつまらんからな。だが、一つだけ訊いておこう」
ぐ、と、尖った靴先を喉元に当てられた。気道を潰される苦しさから、けれど逃れられない。
「お前は何に抗っている──アキラ」
 びくりと、肩が揺れた。
 自分の名を紡ぐ、低い声。ありとあらゆる神経が一斉にざわめきたって、目の前の男に向かった。脳髄がしびれたようになる。目眩すら感じた。
 気付けば靴先に顔を上向けられるままに視線を上げて、赤い瞳を受け入れている。
「……ッ」
血が、一斉に流れを速くした。そうして眼窩から入り込んだ何かを、体中に運んでいく。紛れも無い歓喜とともに。アキラの精神を置き去りにしたまま、肉体はすでにシキの存在を受け入れている。
「まるで野生の獣だ。死すら厭わんと啖呵を切ったお前が、飼い慣らされるのがそんなに怖いか」
その低い声は酷く甘く、苦かった。内側から周囲の細胞を溶かす毒だ。ピアスだけがやたらと輪郭をはっきりさせて、熱を持っている。怖くないはずがなかった。こんなものは──こんなのは、知らない。
 言葉をなくすアキラをシキは鼻先で笑うと、すいと視線をはずした。靴先を引いて立ち上がる。途端、シキの発する重力のようなものから開放された。無意識に止めていた呼吸を再開する。
「話は車で聞く。ここを出るぞ」
アキラはしばらくの間、つい数秒前までシキの靴があった場所を凝視していた。シキの背が扉の向こうに消え、足音が遠ざかっても、微動だにしなかった。だがやがてゆらりと立ち上がる。数秒、そこに佇んだ後、ほとんど音も立てずに部屋を出た。

 玄関にはすでに黒塗りの車が扉を開けて待っていた。
 当然の顔で乗り込んだシキを、眉間に皺を寄せて追ったアキラに、運転手が何かを差し出した。駐屯地で一旦預けたナイフだった。慣れた重みが手に戻り、いくばくかの安堵を感じたアキラの横で、ドアは静かに閉じられた。
 車は行き先を告げられることなく動き出した。アキラが小さくどこへ、と訊くと、隣から短くオオサカという言葉が返る。日興連の本部のある場所だ。シキはそれきり窓の外に視線を流した。その横顔はまるで傍らの存在など忘れたかのように遠くを見据え、アキラに口をつぐませた。
 二日間をすごした街は地方の中堅都市で、それなり栄えているようだ。二日前ここに移送されてきた早朝には、人影はほとんどなかった。それが今は、背の高いビルの合間に、買い物や仕事に出歩く人の姿がある。だが、雨に降り込められていると何故か、どの街もトシマとそう変わらないように思えた。
 やがて車は高速道に乗る。道は荒れた田畑や山中を通っており、窓から見えるのは冬枯れの木々と雲に覆われた空、それに硝子を伝う雨粒ばかりだった。時折は、人の気配の感じられる町並みも流れ去った。どれもこれも灰色だった。
 かつての首都トウキョウから離れるほどに、3rd Divisionの残した爪痕はなりを潜める。地方都市の方が圧倒的に被害が少なかったのだ。中枢が潰れたのにも関わらず、地方の主要都市がある程度機能を保持していたことは、戦後日本が二分した原因にもなった。残された都市のうち最も大きいものがオオサカであり、現在の日興連の首都でもある。
 やがて無言の男の傍に座る気詰まりさにも慣れ、景色を眺めるのにも飽きがきた。ミラー越しに見える運転手の四角い顔は何の表情も浮かべず、他人からの接触を拒むような鉄面皮を張り付かせている。目を引いたのは、彼が纏う日興連の軍服だった。
 駐屯地から移送された後、シキに対する待遇が自分とは異なっていることには気付いていた。勿論アキラに対しても日興連の対応は手厚く、初めのうちはCFCとの違いに驚くばかりだった。だがシキに対するそれは、あてがわれた部屋の外への必要以上の出入りを事実上禁じられていた、アキラやその他の日興連に身を寄せた者たちとは一線を画している。軍の基地内は機密も多かった。職員は所持したIDカードで施設の区画ごとに認証を得て動いており、それを持たない者は部屋を出たところで、定められた区画の外に出ることはかなわない。だがシキは、たった今そうしたように、施設そのものを自由に出入りしていたようだ。
 その上、日興連の軍人が運転手を務めるこの車だった。シキが軍に対して持つ権限がどれほどのものなのか、はっきりとは判らないものの、並のものではないのだと気付かされる。
 黙ったまま車に乗り込んだシキからは、他人に奉仕されることに慣れた人間だけが持つ気配がした。傲岸不遜な男だとは思っていたが、それとはまた別種のものだ。品格とも呼ぶべき、周囲を傅かせるに足る何か。それはこれまでのアキラの暮らしには、およそ関わりのない異質なものだった。権力や権威といったものには、どちらかといえば嫌悪感を煽られる。気圧されるというよりも、何度も押さえつけられた経験から、反射的に警戒心と苛立ちを抱かされた。だが今のシキから感じるのは、この男と自分の間にある高い壁だ。力の差。住む世界の差。それから、おそらくは、過ごしてきた時間の、密度の差。
 白い横顔をちらりと伺って、すぐに視線をはずした。シキという人間のことを、アキラは殆ど何も知らない。にも関わらず、まるで目に見えない鎖に引かれるように後を追ってしまう。溜息を噛み殺した。どこに連れて行かれるのかわからない不安にというよりも、結局シキに従ってしまった自分の行動に、全く納得できていないせいだった。
 鈍く痛む眉間を掌底で軽く揉んで、足の間に落とした自らの手を見下ろす。包帯に巻かれた手を開閉すると、びり、と傷が開く痛みが走った。ケイスケの振るった刃に切り裂かれた傷。はっきりとは意識せずとも、その痛みはものを考える気力を奪った。罪悪感のなかに横たわっているのは昏い諦念の沼で、底なしに思考を飲み込もうとする。
 小さく息を吐こうとして、だが、隣から感じた視線にアキラはぎくりと動きを止める。
 シキが、いつの間にかこちらを見つめていた。
 赤い瞳に感情はない。いつもの威圧感さえなかった。だがほんの僅かに寄せられた眉根に、咎められているような気になって、包帯の下の傷を隠すように手を握る。
「……貴様は何故トシマにいた」
 冷えた声を横顔に受けた。トシマの路上で刀を突きつけられ、紫の目の男について問われたときと同じ声音。居丈高な、答えるのが当然だとでもいうような。それでいてこちらに対する興味などは全く伺えない。
「CFCの軍人に銃を向けられていたな。騙され利用された──そんなところか」
氷のような平坦な声には、いつもの嘲笑の気配すらない。それが逆に、あの日簡単に罠に嵌った自らの愚かさを自覚させられるようだった。憤りや後悔といった感情の迸りが一瞬にして蘇る。吐き気のようにこみ上げた、自分に対する怒りに喉が詰まる。無理矢理、飲み下した。ことさらゆっくりと息を吐く。
「……殺人の容疑で逮捕された。釈放されたければヴィスキオの王を倒せと言われた」
できるだけ冷静に、あの日の状況を口に出してみる。
 窮地を切り抜ける方法が、他にあったのなら教えて欲しかった。けれど同時に、そんなものは見つからなければいいともどこかで思った。どうしようもなかったと、納得したいのかもしれなかった。
「殺人か。CFCでは終身刑だったな」
「冤罪だ」
「だろうな」
不意に、低い美声が嘲笑に色づく。常よりも濃い侮蔑の気配に、思わずシキを睨みつけた。数分前、あれだけ視線を合わせるのが恐ろしいと感じたのに、怒りに飲まれていればそんな考えは一瞬にして吹き飛ぶ。だがシキは険のある視線にただ赤い瞳を細めただけだった。更にはアキラの激情をかわすように窓の外に目を流す。
「命を賭したことがあるようには見えん。ルールに守られた児戯に興じるのがせいぜいだろう」
淀みない、滑らかな声に神経を逆撫でられる。とうに飽和している感情が高波をたてた。先程飲み下した自分自身に対する怒りが、矛先を変えようとするのを、強く手のひらを握りしめて押さえつける。だがいったん波立った感情は、捌け口を求めずにいられなかった。
 遙か上からこちらを見下すような言葉や態度に、せめて一矢を報いたい。何もかも知っているかのような顔をする男に、その思い違いを突きつけてやりたかった。
「……人を殺したことなら、……」
気が付けば、そう呟きかけていた。
 だが最後まで口にする前に、アキラは動きを止めた。それ以上、言葉にすることが出来なかった。
 ああ、自分がケイスケを殺したのだなと、遅れて思った。理解しているつもりだった。だが、言葉にしてはじめて、その事実が目の前にはっきりと浮き上がり、迫ってくる。喉が渇いた。思考は急停止して、頭が急にぼんやりとする。あの日の雨の路地の情景が、目の前によみがえった。
「ほう?」
だがとうのシキは、急に表情をなくしたアキラの様子など気にも留めなかった。
「事故や偶然、そんなものの結果で命のやりとりをした気にでもなっているのなら、滑稽と言う他ないな」
さらりと、淀みなく流れ出た声。アキラはゆっくりと顔を上げ、唇を閉めるのも忘れて人形のような横顔を見つめた。低い美声が紡ぎだした言葉の意味が、すぐには理解できない。
 アキラにもう少し余裕があったなら、シキの言葉もまた違う受け取り方が出来たかもしれなかった。だが決壊寸前の自分の感情に翻弄される今、嘲りに色づいたシキの声はただ、胸の内を傲慢に土足で踏み荒らすものでしかなかった。
「……アンタに何が解る」
青ざめたまま瞳をぎらつかせるアキラを、シキは鼻で笑うと、一言の元に切り捨てた。
「図星か。くだらんな」
そして低い声で続ける。
「雑魚ばかりとはいえ、あのトシマでよく無事で済んだものだ。もっとも、仲間は案の定、保たなかったようだがな」
一時、思考が真っ白に染まった。ついで黒々としたものに塗りつぶされる。それは溶岩に似て粘度の高い怒りだった。
 気付けばシキの胸ぐらを掴もうと腕を伸ばしていた。これ以上この男の言葉を聞きたくなかった。
 シキはされるがまま、黙って襟元を掴ませている。取るに足らないことだとでも言いたげだった。それが尚更怒りを煽る。何事か浴びせかけてやりたい気がした。だが高ぶりの余りに逆に言葉にならず、低い唸りとして歯の間から漏れ出すだけだった。襟元を掴む手に力を込め──数秒の、間。
 呆れたようなため息が聞こえた。
 ゆっくりと、窓の外からこちらに視線が戻される。
 そこにあったのは、厚い氷のような無表情と、凍土のごとく冷え切った赤い瞳だった。常のような威圧感すらない。
 シキはまるで虫けらを見るのと同じ目で、こちらを一瞥した。
「……っ」
 頭に上っていた血が凍り付いて剥がれ落ちていく。ぞろりと、何かが背中を這い上がった。遅れて、それが恐怖だと気付く。死や苦痛にまつわるものではない。慟哭や絶望の裏に潜むような。
──見限られる。
 そんな言葉が脳裏をよぎった。襟元を掴んだ指から僅かに力が抜ける。
 形のいい唇が、笑みに歪んだのはそれとほぼ同時だった。見計らったかのように、逆に襟元を掴まれる。強い力で引き寄せられた。気付けば間近に、シキの赤い瞳が笑んでいる。
 そう認識したとたん、凍り付いていた血、時間、呼吸が、熱をもって流れを再開した。息を深く吸い込んだ喉が、ひゅ、と音をたてる。
「くだらん感情に足を取られるな。いいか」
でなければ棄ててゆくぞ、と。
 言外の脅しを確かに聴いて、背中が粟立つ。
 突き放されて、硬直したままの体が座席に落下した。
 呆然とシキの顔を見つめる。
──なんだ、今の。
 ついさっきまで怒りに我を忘れていたはずだった。それを押しのけて胸の底から現れた得体のしれない生き物に、殻を内側から叩かれた感触が、生々しく残っている。シキを畏れ、見棄てられることに恐慌を起こし、そうされなかったことに安堵して再び眠りにつく、何か。
 今まで気配だけを漂わせていたそれが、急に実体を持って立ち現れてきたような感覚。
 ロードノイズが、まるで耳鳴りのように響いていた。

氷点 <下>へ

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