陥落

 雨に一面ぬかるみと化した地面の上、落とされた布団は泥水を吸って色を変えている。その横に途方に暮れたように立ち尽くすのは、少年の面影を残した若い兵士だ。訓練所を出たばかりの彼の体つきは、兵隊にしてはひょろりと細い。
 薄いとはいえたっぷりと水を吸ってしまった布団は軽いとは思えず、また、四階の窓から降るゲラゲラという笑い声と好奇の視線は、それを素直に回収して自室まで戻ろうという気力を削いでいた。
「……あ、」
そうして雨の中立ち尽くしていた彼の前に現れ、布団を雨の当たらない場所まであっという間に運んだのは、灰色の髪をした同じ階級の兵士だった。
「アキラ、」
「朝飯、間に合わなくなる」
兵舎の玄関の軒下、アキラは荷物を床に下ろした。慌てて追ってきたものの、気まずさに床を睨んでまた動かなくなる彼に、小さくため息をつく。これ以上手伝ってやる気はないと、手ぶらで歩き出した。
「……行くぞ」
蛸部屋で寝る下級兵士用の敷き布団など、潰れた綿がお情け程度に入った薄っぺらいものだ。成人近い男なら苦労せずに持ち上げられるはずだった。それを困難にしているのは、感情の問題だ。
 彼は奥歯を噛んでコーヒー色に染まった布団を持ち上げた。背中を見せていたアキラが、ちらりと視線を寄越した。
 兵舎の廊下は両脇にドアが並び薄暗い。蛍光灯のカバーは黄色っぽく変色し、その端には虫の死骸が詰まっている。床や壁は毎日これでもかというほど磨かされるが、頭上には誰も目が行かないのだった。
 半年ほど前に始まった内戦は、日興連の軍の中に活気と、湿った暗い影を同時にもたらした。
 疲弊しきった状態が長く続いた国体の中で、明るい未来を描ける者は少ない。だがこの前線に最も近い部隊の兵舎は、一見軽薄な明るさに満ちていた。兵士たちは下品なジョークを飛ばし、小突き合って笑う。そのくだらなさこそが尊いということを、誰もが知っていた。しかし、こんな暗い雨の日には、塹壕にたまった水に何十時間も下半身を浸した感覚、あるいは泥沼に沈んでいく戦友の死に顔を忘れるために、犠牲を必要とした。ターゲットになるのは大概新兵で、そのうちでも役に立たなさそうな、気弱な顔をした者だった。その結果が、先ほどの窓から投げ落とされた布団だ。
「……アキラはいいよな。なんでも出来て」
「……」
彼の言葉に、返事はなかった。二人は黙ったまま階段を登ったが、やがて二階から三階に続く踊り場で、アキラは立ち止まる。
「お前だって、できる」
その声は、まるで雨水を吸ったかのように重く沈んでいた。そのことに気付かずに、彼は続ける。
「今出来ないから、こうやって嫌がらせされてる」
「それはあいつらがおかしいだろ。出来るようになって見返してやればいい」
「アキラにはわからないよ」
「──なんで、」
そうやって、あっという間に人の声の届かないところに逃げ込んで、自分に見切りをつけようとする。アキラは続けようとした。けれど一瞬の迷いが、その言葉を途切れさせる。それは目の前の彼にというよりは、今はどこにもいない幼馴染に向けた言葉だった。
 沈黙を破るように彼らの頭上から新たな声が降った。
「そんなところでお喋りかァ! いい身分だな!」
階段を降りる足音が続く。姿を表したのは、窓から布団を投げ落とした張本人、彼らの先輩に当たる伍長だった。
「おいミチちゃん、ずいぶん遅いじゃねえかアキラに手伝ってもらわねえとせんべい布団一枚運べねえってか」
ニヤニヤと口元にいやらしい笑みを浮かべて二人の前に立つと、両手のふさがったミチの額に人差し指を突きつける。
「あ? 早くしろよ、お前のせいで飯食い損ねんだろうが」
ミチは眉を八の字にして視線を泳がせた。指に押された頭がぐらぐらと揺れている。いかにも気弱な表情が、一部の気の荒い兵隊たちの苛立ちや嗜虐心を煽るということに、彼自身も気付いてはいた。だが他にどんな反応をすればいいかなど、思いつきもしないのだった。
「……ミチ、行くぞ」
言外に構うなと言って、アキラは足を動かそうとする。だがその肩を強く掴まれた。
「待てよ。……ミチは行け、急げ急げ早く早く早く!」
語尾に向けて大きくなる声に、ミチは体を震わせた。ちらりとアキラに視線をよこしてから、つんのめるように歩き出す。小走りの足音は階段を登って行き、やがて廊下にたどり着いて聞こえなくなった。
「あんなあアキラ。アイツにあんまり構わねえほうがいいぞ。うちの軍曹にも嫌われてんだ。わかんだろう、あのノロマのせいで俺らは命の危険に晒される。ああいう奴のせいで、たくさん死ぬんだ」
「……だからって、今アイツに嫌がらせしてなんか意味あるのか」
「あるさァ! 俺らの気が晴れる」
口の端から息を漏らすようにして笑う声は、そういえばトシマの処刑人のそれと少し似ていた。あれよりも幾分、軽薄で迫力に乏しくはあったが。
 掴まれていた肩を後ろからとんと叩かれる。行け、という意味だった。
 階段を登り切ると、廊下の先でまたしてもミチが足止めを食らっている。汚れた布団を脇においたまま立ち尽くす彼の前には、分隊を指揮する軍曹が立っていた。アキラは内心うんざりして、ため息を噛み殺す。その気配に、軍曹は意識をアキラに移した。
「騒がしいと思ってきてみれば。……何だその顔は」
軍に入ってから、何度かそんな風に因縁をつけられていた。振り返ってみれば、訓練校にいた頃にも数回あった気がする。喧嘩を売るための常套句だと思っていたのだが、もしかしたらそれだけではないのかもしれない。生憎生まれた時からこの顔だと内心呟く。こんな時なんと答えるべきか知らなかったので、黙っていた。
「……」
カツカツと足音を立てて、軍曹はアキラの前に立つ。拳が振り上げられたのを見て奥歯を噛み締めた。弾かれたような音が頭蓋に響いて、目の前でフラッシュが焚かれたようになる。だが一瞬だ。鼻から火薬のような匂いが抜けた。斜め下に向いた顔を、正面に戻した。
「……ふむ」
軍曹は、何か納得したような声を漏らした。殴られ方は、及第点だったらしい。この程度、とどこかで赤い瞳を思い出して、自嘲じみた感情が沸くのを感じた。
「布団から泥。玄関から階段まで、通った場所は雑巾をかけ直せ」
「はい」
「ミチ! お前だ」
「はいッ」
それきり、軍曹は踵を返した。
 姿勢をゆるめ周りを見回した時には、すでに伍長の姿はなかった。ミチが卑屈に陰った表情で、こちらの機嫌を伺っている。彼の顔はけして似てはいないのに、ケイスケを思い出させた。いろいろと言いたいことはあってもその一点が、彼を諌めようという気力を奪った。
 別個の人間とは理解していた。ケイスケは確かに卑屈な一面を持っていたし、こちらの顔色を窺おうとすることはあったが、機嫌を取ろうとして口の端にあんな笑みを浮かべることはなかった。それが卑しさとも言うべきもので、相手を慮ると言うよりは自らの保身のための笑みであるとは、アキラは知らなかった。ただ不快感は感じて、また口を開きかけるのだが、結局はその言葉がミチに向けたものなのかそれともケイスケに対する弁明なのか、自分でもわからなくなり口をつぐむのだった。
 アキラはため息を一つつくと、掃除用具入れに向かって歩き出した。

*

「何だその顔は」
夕刻。日興連本部から車で三〇分ほどの、郊外にあるアパートの一室だった。
 今日二度目のその台詞に、アキラは顔をしかめた。顎を捕まれ左頬を正面に向けさせられる。赤く腫れた頬は、明日には青黒く色を変えるだろう。
「……」
「言葉遣いがなっていない上に、その目だ。それは、可愛がられるだろうな」
返答などそもそも期待してはいなかったのだろう。すぐに事情を言い当てて、シキは手を離した。アキラをそこに残したまま、数歩離れたベッドに腰掛ける。寝台が軋む音に、床に刀の鞘尻があたる音が続いた。すでに窓の外は暗くなり始め、部屋には止まない雨の匂いが篭っている。
 トシマを抜けた二人が日興連に保護されたのは、半年ほど前のことだ。殺人容疑で勾留されたおよそ一ヶ月ほどの間、シキが頻繁にどこかと連絡をとっているのには気付いていた。やがて冤罪が確定し開放された時にはすでに、軍に入る手はずが整っていた。自分もかと問えば、当然だと冷笑を返された。
 士官学校を出ておらず、後ろ盾もないアキラは、一般市民が軍に入隊希望する際と同様の扱いで、一等兵として放り込まれた。最初の二ヶ月を訓練であっという間に過ごすと、三ヶ月目には早くも前線部隊に配属された。それから数ヶ月、すでに何度か戦闘も経験している。
 一方シキはといえば、3rd Division前からの軍とのつながりを利用して、まずは少尉という階級で軍務についた。Nicoleウイルスを売り込み、その有用性が認められるまでにはふた月もかからなかった。はじめのうちこそ権益を守るために軍内部の協力者の力を借りたが、そろそろその必要もなくなり始めている。現在の階級は中尉。戦死の結果恩賞を得たというのではなく生きたまま、しかもたった半年で尉官が階級を上がる事例は多くはなかった。
 安全性よりも即効性を求める日興連の態度からは、この内戦が切迫していることが知れた。CFCにしろ日興連にしろ、体力に余裕があるとは言いがたく、可能な限り短期間で内戦を終結させる必要に迫られているのは確かだ。そうでなければ泥仕合の末に、これまで以上に荒廃した国土が、大戦で疲弊した諸外国に食い散らかされるのが目に見えていた。
 月に一度、少なくともふた月に一度は、シキはアキラの休暇を利用して外に連れ出した。アキラが気づかぬうちに提出される外出届が合図だった。本来ならばそれは、本人の手によらなければ受付を通らないはずのものではあったが、気がつくと部屋に受理済みの書類が届いていた。
 今日もそのようにして夕刻近くに兵舎を出た。車で三十分ほどで辿り着く殺風景な部屋は、雨に降り込められてトシマのあの部屋を思い出させた。
 他の部屋に人がいるところを見たことはない。もともと、それほど人の多い地域ではなかった。大戦前から壊れずに残った建物が幽霊のように並ぶ街だ。ただし、トシマのように道に死体が転がるようなことはなく、少ないなりにも人がいる証拠に、二キロほど離れた場所に小さな商店街が存在している。
 背中で扉が閉まる音に、わずかに神経が震える。軍隊の共同生活の中で、一人になる暇もなく慌ただしく暮らすアキラにとって、この部屋の静けさはいっそ恐ろしいほどだった。
「アキラ」
「……っ、」
 呼ばれれば、体のすべての感覚がシキに向かった。それは最早どうしようもないことだった。
 かすかな目眩のようなものを感じて、背にしたドアに後ろ手をつく。シキはもはや、アキラに何かを強いることをしなかった。部屋の鍵をかけることはなく、逃げぬように繋ぐこともなかった。ただその視線で命じた。
 逃げようと思えば、逃げられる。今でも。逆らえず、離れることなどなおできずに、軍隊にまで入っておきながら、アキラは今でもそう思っていた。そう思うこと自体が、逃げだった。だがシキの声が耳に届けば、従う以外の選択肢どころか、そんな思考すら掻き消えた。モノクロームの世界で、その赤だけが鮮烈に光をまとっている。
 ドアに爪を立てたのが、抵抗といえば抵抗だった。
 アキラが目の前に歩んでくるのを、それから立ちすくむのを、シキはベッドに腰掛け腕を組んで見つめた。
「主を見下ろしたままでいる気か」
見上げられているのに、見下されているような錯覚を覚えながら、ふらふらとアキラは床に片膝をつく。シキはまるで犬にそうするように、アキラの首から顎にかけてのラインを撫で、顎を持ち上げた。
「……ひと月の間、どうしていた」
「……ヒタチの戦闘に」
「あそこか。そういえば抑えたと言っていたな。太平洋側ならば多少マシだったろう」
「……、ッ」
喉を撫でる指先の感覚に、肩が震えそうになるのを必死でこらえる。息を噛み殺した。
「次は恐らく日本海側だ。イトイガワ。難所だが、……すぐに済む」
低い含みのある声でシキが笑った。
「前線はどうだ。そろそろ慣れたか」
何度か経験した戦闘を思い出す。それは体にた溜まろうとしていた熱を少しだけ散らした。
 戦場はアキラが想像していたよりもあっけなく、乾いたものだった。数秒前まで隣で銃を構えていた兵が、いつの間にか動かなくなっている。藁のように、虫のように、宙に浮いてばらばらになる影絵の体。それらを横目に走る心臓には、何ものも追いつけはしない。戦闘そのものはあっという間に終わるのだ。しかしだからこそ、後から遅れてやってくる感情は重かった。いつだったか、死んだ兵士の顔を見て眠っているようだと思った、あの日の自分を笑う気すら起きない。
 とはいえ、どちらかと言えば、アキラの属する部隊が当たるのは待機時間の多い作戦ばかりだった。仕事の殆どは数十キロの荷物を担いで草木に侵食された廃道を歩くことや、アスファルトの上にバリケードを築くこと、土の露呈した場所では塹壕を掘ることなどに費やされた。実際に命の危険に晒された回数は多くない。だがあの場所には、シキに刀を向けられた時とはまた違った、鈍い疲労に似た危機感のようなものがあった。自分の命が見えない何かに掴み上げられ、いつ落とされるかわからないような、恐怖。
「どれだけ兵器が開発されても、戦場には人がいなければならない。機械ではなく魂がなければ意味が無い。それが戦いの本質だ。それを見せるために、お前をあそこに送り込んだ」
シキは低く呟いた。
「……どうして、」
「俺の上る高みには、お前も連れていく」
赤い瞳が光を宿した。まるで自ら発光しているかのようだった。力のある眼差しはまるでアキラの思考を塗りつぶそうとするかのようで、けれどこの瞳に貫かれることは、快楽だった。その受け入れがたい事実を、いつもどおり体のほうが先に受容する。呼吸がわずかに浅く、早くなった。
「どうした」
気付いたシキが揶揄して笑う。反射的に睨みつけた。だが細められた赤い瞳に覗きこまれれば、アキラの頭の中はあっという間に熱に混濁する。
 親指で、口の端をなぞられた。
「飢えた目だ。……降参か」
「っ、誰が、」
「──ふ、」
次の瞬間、視界が白くはじけた。頬を張られたのだと、遅れて気づいた。じんとした熱が頬に急速に滲んで、後から痛みがきた。心臓が存在を主張して一拍啼いた。他の誰に殴られようが、戦闘で負傷しようが、こんな熱も痛みも感じなかった。シキだけがもたらすそれらの反応が、一体何に由来しているのかアキラは知らない。ただ変わっていく自分が恐ろしく、拒否したくて仕方がなかった。
「ここまでのこのこと付いて来ておいて、これだ。いいだろう、その強情に付き合ってやる。時間はいくらでもある」
赤い瞳は余裕に笑んでいた。本当はアキラの何もかもが、シキを主と認めたがっていた。けれど何か最後の一片がそれを拒む。
「手荒くされたいのならばそうしてやる。──兵舎のシャワーは共同だったな。教えてやればいい、お前が痛みを強請って主の手を煩わせた結果を」
「──!」
再度、顎を掴まれる。先ほど張られ、昼間にも殴られた頬が痛んだ。アキラの見開いた目に、愉しげに歪んだ口元が、次いで赤い瞳が映り込む。わなないた唇に、指が差し込まれた。
「……や、」
「嫌では、ないだろう」
舌を弄ばれ、上顎をこすられる。苦しい呼吸が早くなった。
「……ッ、」
「口でしか逆らえないのならば、黙れ」
嘲笑を、否定する術は奪われていた。
 すこしずつ暗くなる部屋は夜に向かって、あかりの灯されることなく闇に飲まれていった。

 夢を見た。
 先日の戦闘の夢だった。ひどい雨が降って、塹壕の足元はすぐに水でいっぱいになった。いつ攻めてくるかわからない敵の様子を伺いながらも、晴れていれば軽口くらい交わすものだったが、あまりの悪天候に誰もが口を閉じる。衣服は雨にぬれて体にまとわりつき、濡れた足元はだんだんと感覚すら無くなって、まるで膝から上が浮いているような錯覚に襲われた。
 天候の悪さは敵にとっても同じ事で、戦線は膠着している。時折威嚇目的の砲撃の音が響いた。
 そう遠くない場所から爆発音がしたのは夕方だった。同じ連なりの塹壕の一部が吹き飛び、火薬の匂いがアキラの元まで届いた。とはいえそれは戦場であれば常に付きまとう匂いでもあり、すぐに鼻は麻痺した。それから、一時間に一度程度の頻度で、割合近距離で爆発が起こった。空からではなく、地上の砲台からの攻撃だった。
 春先とはいえ、夜は冷えた。部隊は万が一の場合に怯えながら、塹壕に溜まった雨水に足を腿まで浸したまま、一晩を過ごすことを余儀なくされた。
 すすり泣く声が聞こえ始めたのは真夜中近くだ。ミチだった。死にたくない、と彼は言った。アキラからすれば、よくもこんな状況で泣き出すことができるなと、むしろ感心するほどだった。泣きたい気分なのは確かだったが、そちら側に落ちてしまえば這い上がるのはひどく困難に思えた。もしもの時に生き延びる方法を考えることに腐心こそすれ、死にたくないと口にする余裕はまだない。
「さっき、見えた。人が飛んでいった」
「さっきって、爆発のときか」
「たった100メートルくらいしか離れてなかった」
口笛が聞こえたのはその時だ。逆隣で塹壕の斜めの土壁にもたれた伍長だった。
「いいじゃねえかひと足先に気持よく天国まで飛んでったんだよ煩えんだよテメエは。ただでさえこの雨でうんざりしてんだ耳障りな声出すんじゃねえ」
語尾にはさらに下品な罵声が追加された。びくりと肩を震わせたミチは、一時泣き止んだものの、数分後また耐え切れないというように嗚咽を漏らし始めた。
 伍長が動いた。持ち場を離れることを誰も咎めなかった。冷えたふらつく足で彼はミチに歩み寄ると、その短い髪を掴んで足元に溜まった水の中に引き倒した。ただの雨水ではない。夏にもなれば腐臭が漂い、伝染病の源になるような泥水だ。
「何しに来たんだテメエは、ああ? 泣くなら戻ってからにしろ、それか今すぐ死ね。自分から志願してなったんだろうが、せめて人の足引っ張んじゃねえ」
「……やめろっ」
アキラが止めに入ったときには、伍長がミチの頭を水に沈めていた。気まずい沈黙の中、ミチのむせぶ声だけが響いた。多くの兵士たちはミチを厭わしそうに眺めるか、あるいは面倒くさそうに視線をずらしていた。
 伍長は舌打ちすると持ち場に戻った。ミチはそのうち泣き止んだ。やがて再び砲撃の音がした。爆発音はすこしずつ近づいてきているようだった。ミチは音がする方向をぼんやりとした顔で眺め、時折おかしな声を出した。悲鳴は段々と笑い声に近付いていく。撤退命令は出なかった。
 朝も近い頃、立ったままうとうととしていたアキラは、凄まじい音に目を覚ました。すぐ隣の土壁がなくなり、ミチの声が止まっている。足元を見ると、細い背中が薄闇にも赤黒く染まった泥水に沈んで行こうとしていた。とっさにその肩を掴む。引きずりあげ、起きろと頬を叩いてから気付いた。
 ケイスケだった。虚ろな目を開いて言った。
「どうして、アキラ」

 気付けば深夜の闇が目の前にあった。
 夢と現実の境を認識するまでに、数秒の時間を要した。浅い荒い息を繰り返して、眼球だけで周囲を見渡す。意識を失う前と変わらぬ、郊外のシキの私室だった。
 部屋には自分だけで、無様なところを見られずに済んだことを少しだけ安堵した。上半身だけ起き上がる。手のひらで顔を覆うと、少しだけ落ち着いた。
 あの日実際には、砲撃の音にびくつきながらも無事朝を迎えた。
 翌日にはなんとか雨がやみ、彼らは進撃した。それほど厄介な敵に遭遇することもなく、特別な損害を出す前に撤退の指示も出た。
 作戦が終われば、ミチは除隊希望を出すだろうと誰もが予想したし、期待していた。しかし彼はそうしなかった。錯乱してあからさまに作戦に支障をきたす行動を起こしたのなら強制的に除隊させることもできたが、ただ泣いただけではそれも不可能だった。ただでさえの人手不足だ。ミチは少なくとも荷物持ちにはなった。尋常ではない量の安定剤が処方された彼に、嫌がらせが始まったのはそれからだ。
 指の間から再び部屋を見渡した。カーテンのない窓から、遠い街灯の放つかすかな光が入り込んでいる。雨音は続いていた。
 長い息をつくと、そっと手を下ろした。窓枠にこめかみを当てればひやりとして心地よかった。硝子に張り付いた雨粒が光っている。体は多少痛むものの、シーツも掛布も清潔で、何より乾いてさらさらと素肌の上を滑る。それが特別心地のいいことだと感じられるようになったのは、トシマでの日々を過ごしてからだった。前線に出てからますますその気持は強まった。雨だって、こうして屋内にいれば、静かな優しいものだった。──そのはずだった。
 部屋の扉がかすかな音を立てて開いた。シキだった。シャワーを浴びた後らしく、上半身は裸で髪も濡れたままだ。薄闇に浮かぶ引き締まった体には、いくつも傷跡が走っていることを、アキラはよく知っている。けれどそれは元の形を損なわせるものではなかった。むしろ、それによって完成しているような、そんな気をおこさせた。
 シキはアキラを一瞥すると、何も言わずにベッドに腰掛けた。背中にも無数の切り傷や縫合の痕、銃創が残っている。
 この男も、戦場を走りぬいて、今ここにいる。そんな実感が、アキラの中でふつりと、小さな泡のように湧きあがった。気付けばそのひとつに指を這わせていた。
「……十代の頃の傷だ。今のお前と同じくらいだろう」
「軍にいたのか」
「初めはな」
「どうして、やめたんだ」
「人が寄り集まれば、くだらないことが増える。性に合わん。俺が求めたのは戦いそのもの、その先にある強さだ。かまってられん」
確かに、シキには集団行動も、命令を待つ姿も似合わなかった。闇に薄く発光するようなこの男には、孤独がひどく似合っていた。一人で幾つもの痛みと汚泥を超えたのだろう。研ぎ上げられた刃のような、この姿に達するまでに。
 しかし、と思う。
 誰もがこんな姿になれるわけではない。むしろ、アキラの周囲は疲弊してボロボロになっていく者ばかりだった。麻薬に手を出す者もいるし、どこかからミチのようなターゲットを見つけ出し、戯れの対象にする者もいる。昇進のためにわざと他人の足を引っ張る歪んだ笑みや、それら全てに目をつぶって我関せずとする能面のような顔を、幾度も目にした。悪意は顔を変えながら疲弊した人の影に巣を作る。
 それがすべて、彼らの本性だとは思わない。内戦などなければ、みなどこにでもいる普通の人間だったろう。ただ極限の場所においては、どうしてもエゴや攻撃性、嗜虐性が顕になった。
 攻撃性と嗜虐性。考えてから、それはシキにこそ当てはまる言葉だと気付いた。定期的にこの部屋に連れてこられ、相も変わらず傷めつけられているのはアキラ自身だ。だが、無駄なもの何一つないどころか、必要な物すら足りないシキの部屋は、静かだった。ざわざわとした人の感情が届かないこの場所は、トシマの部屋に感じた空虚さの代わりに、はりつめて澄んだ空気の中に佇んでいる。
「強さ、……」
口の中で言葉を転がす。シキは誰より強く、他人など必要としないように見えた。そこになぜ自分が囲い込まれているのか、アキラはときおり不思議になる。非Nicoleだからということならば、もっとうまい方法があっただろうに。
 離れることは許さないと、そう命じられた時の、あの瞳にずっと縛られている。息苦しさを感じて、アキラは無言のままシキの背から指を引いた。と、それまで好きにさせていたシキが、急に動きを見せた。
「……!」
気付けば手首と喉を掴まれて、ベッドに押し倒されていた。
 息を呑んでシキを見上げる。見下ろしてくる赤い瞳の奥の奥に、何かがとぐろを巻いていた。様々な感情が寄り集まった狂気の果てに一筋、傷口に似て濡れた凍えた光が見えた、気がした。
「……そのために、邪魔なものは全て切り捨ててきた」
その言葉が先ほどの自分の呟きを拾ったものだと、アキラは遅れて気が付いた。なにかこの男には似合わない、異質なものが感じられて口をつぐむ。こんなものを、いつかも見たことがある。あれはトシマの、雨雲を縫うようにして現れた月の夜だ。形のあるものをシキが持ち帰ったのはあの時くらいだった。一双の小さな剣。猫を殺したと、言っていた──
 首を掴んだ指の力はわずかに気道を圧迫して、息苦しさと痛みをもたらしていた。だが反抗心は、なぜか起こらなかった。
 例えばこの男も、嫌な夢を見たりするだろうか。自分の影から這い出した亡霊のような後悔に、襲われることはあるのだろうか。知らず、手を伸ばしていた。温度の感じられない白い頬は、雨の夜の光に青く染まっている。
「貴様は、──」
言葉の先は、続けられることないまま雨音の隙間に失われていく。アキラの伸ばした指も、辿り着く前に道に迷った。シーツに落ちようとしたのを、首から離れた指がきしむほど強く掴んだ。頬に水滴が落ちた。黒髪から滴った温い水だった。シキはなんの感情も浮かべぬまま、小さく呟く。
「逃がさんぞ」
アキラはよくわからない痛みのようなものに、僅かに顔を歪めた。
 ずっと、雨が降っている。

*

 がたがたと揺れる車体の中からは昼前の海が見えていた。ひどく曲がりくねった道路が、水面に張り出すようにして続いている。スノーシェードの影の中、彼らは黙々と進軍した。悪路にも対応できるように履いたトラックのタイヤはお世辞にも乗り心地がいいとはいえず、一応クッションらしきものがある座席に座っていても迂闊に口を開けば舌を噛みそうだ。
 アキラの属する小隊は他の部隊と共に大隊に組み込まれ、イトイガワに向かっていた。ニイガタ・トヤマ・ナガノと繋がっていながら、どの道も非常に細いために陸の孤島とも言うべき場所であり、CFC陣地としては最南の要である。ここを獲り、ニイガタ・ナガノ攻めの拠点とすることが今回の日興連側の作戦らしいというのは、噂に聞いた話だった。末端の兵まで、作戦の目的が知らされることは少ない。
 イトイガワは海に寄り添う小さな町だ。現在はCFCが地下要塞とも言うべき軍事施設を築いている。もともと傘下の企業の工場が林立していた場所だというが、今では一般人はほとんどいない。
 ツルガからフクイ、イシカワと、ひたすらに海沿いを進撃した。海上に時折日興連の所有する戦艦が何隻か浮かんでいるのが見えたが、戦地に近づくとアキラたちを追い越していった。頭上を味方の輸送機と、数は少ないながらも爆撃機が過ぎ去る。今後インフラを再利用することを考えれば、爆撃は威嚇程度のものだろう。
 トヤマを過ぎたころ、イトイガワに至るために通らねばならないトンネルがすでに破壊され、道が塞がれているとの連絡が入り、最後は一日かけて徒歩で進軍することになった。高速道路と狭い国道をゆく部隊に分かれ、アキラの部隊は国道組だった。梅雨の雨はしとしとと降り続け、山肌からつながる道路を濡らしている。水の流れる先には日本海が青黒くうねって、白波を立てていた。
 破壊されたスノーシェードやトンネルを迂回するたびに、何かが焦げる匂いが濃くなった。やがて開けた場所にたどり着いた頃には、あたりはすでに火が赤い舌を見せていた。道路からは離れた場所で、元は工場であったろう建物が灰色の空に向かって燃え上がり、崩れようとしている。巨大な生き物のようだった。アスファルトの焼ける匂いの中、隣でミチが熱い熱いと呟き、他の兵士にこづかれた。
 彼らはぞろぞろと進んだ。雨の中の進撃は誰にとっても気が重い。
 最初の戦闘らしい戦闘は川沿いで行われた。ナガノに抜ける細い道がある場所で、敵にとっても要所だった。誰かがまた水かと愚痴るのを、他の誰かが笑い飛ばし、ついでにのろのろと動くミチに足をかけた。アキラが止めようにも、そのような行動には誰となく及び、出来ることといえばいつまでも地面に伏したままでいる彼を、ため息をつきながら引き起こすことくらいだった。
 土手を利用した戦闘は、半日に及んだ。敵は日が沈むのに合わせて撤退した。橋はすでに落とされており、雨で増水したコーヒー色の川を夜に渡るのは危険が大きかったために、一晩をそこで過ごした。夏が近いとはいえ、雨に濡れた衣服は体力を奪ったが、前回の塹壕戦に比べればいくらかマシと言えた。
 翌日、続く雨の中を市街地に侵入した。元々は小さいながらショッピングモールであったのだろう、錆びたシャッターの降りた商店街の間を進んでいる途中、前方から銃撃戦が始まった音が聞こえ始め、あたりはにわかに緊張につつまれた。人が潜む場所が多い市街地での戦闘は神経を削る。
 見計らっていたように、ぱぱぱぱぱぱぱぱ、と近距離で破裂音が響いた。数メートル先で数人が倒れる。小隊長が振り返り散開と叫んだ。正確には音は聞こえなかったが、口の形を瞬時に読んで、みな建物の影に走る。アキラは咄嗟にミチの首を掴んだ。案の定足がすくんでいたようで、もつれるように引っ張られてきた。路地というには狭い、建物と建物の間に入り込む。ほかにも、例の伍長ともう一人が同じ場所に飛び込んできた。視線を交わす。
「右が飯屋で左が服屋だ。衣食住にはしばらく困らねえぞ」
「……とっくに腐ってるだろ」
「じゃあ虫屋か」
「想像すっからやめろまじキモ!」
軽口を叩き合う。彼らは戦いに慣れ始めていた。戦場では、兵舎での生活とは一線を引いた関係が築かれる。それは連帯感ともいうべきものだった。だが彼らの背後で、先にいたミチがうずくまり、半泣きで死にたくないとうめいた。
 彼が嫌われるのは、まさにこのせいだった。ミチが吐露する本音は、先に進むために誰もが必死で押し殺そうとしている恐怖そのものだった。
「……いい加減にしろってずっと言ってんだろうが」
吐き捨てたのは伍長だ。ミチはそれでも立ち上がらず、襟元を掴まれるように引っ張り起こされてもだらりと体から力を抜いたままだった。
 アキラはため息を付いてライフルを構え、路地の入り口に背を付けてあたりの様子を伺った。ヘルメットの縁から落ちる雨だれの向こうは、錆びついた元商店街をつなぐ二車線の道路だ。遠くない場所でマシンガンの発砲音が続いているが、少しずつその頻度が減っていた。
 アキラの隣につきながら一人が言う。
「もう構うなそいつ。安定剤飲んでもそれだ。どうしようもねえ、クズ」
「もういい、勝手に座ってろ」
やがて諦めた伍長は、濡れたアスファルトの上にミチを放り投げた。
「どうだ」
「そこらじゅうに潜んでるが、数はそんなに多くない。……投降してる奴もいる」
銃口の先をかすかに振ってやる。斜め向かいの元商店の中で、後ろから銃をつきつけられ両手を頭の後ろで組んだCFCの制服が見えた。雨とはいえ視界は悪くない。銃を握る指が多少滑るのが難点だったが、そんなことは今までにもいくらもあった。
「なんだよ。待ち伏せじゃないのか」
「違うらしいな」
戦闘は一時的なもので、この調子ならすぐに済むだろうと思われた。三人はそっと息をつく。背後から物音がしたのはその時だった。振り返ると、ミチが路地の途中で、洋服店の勝手口と思われる扉を開けていた。
「……おいっ」
まずい。とても嫌な予感がした。それは勘のようなものだった。ミチは、瞳孔の開いた目で扉の先を見つめ、やがて横顔にもはっきりとわかる笑みを浮かべた。
「いる」
「……敵兵か」
腰を浮かしかけたアキラを制し、背後にいた伍長が動き出す。何かおかしかった。
「僕だってやれる」
「……あ?」
敵がいるならばなぜミチは撃たれないのか。降伏しようとしているのかもしれない。だがそれにしては、ミチの態度は妙だ。
 アキラはミチが戦場で銃を構えるところを初めて見た。彼はそのまま扉の中に入っていった。あまりにも軽率な動きだった。追っていた伍長が、室内を見て叫びかけた。
「おい、待て、降伏……!」
凄まじい音がその言葉を飲み込んだ。扉に半歩踏み込んでいた男の体が、吹き飛ばされて背後の壁に張り付いたのを見た、と思った時には、アキラの視界を崩れた壁が奪った。
 軽い脳震盪から目を覚ました時、体の上にはコンクリートの瓦礫とガラス片が落ちていた。ガラスよりも先に壁の下敷きになったのは幸いだったかもしれない。大きなコンクリートの塊は、反対側の商店の壁に半ばもたれかかるようになっており、完全にアキラを潰しはしなかった。そろりと足を動かす。別の瓦礫の下敷きになっていたが動きはした。特に痛みはない。だが雨水とは違う、ぬるりと暖かく濡れた感触があった。引き寄せて確かめる。膝から下が赤黒く染まっていたが、やはり傷はない。ならばこれはと、足元に目をやって声なくうめいた。
「……っ」
少し先に、さっきまで動いていた仲間の体があった。扉を覗き込んだ時に、もろに爆発に巻き込まれたらしかった。こんなものを、以前にも見たことがある。トシマの、地下のバーだ。血だまりと、元は人であった物体と。
 早くなった呼吸と鼓動を、なんとか落ち着かせようと試みた。ここで止まるわけには行かない。周囲の状況はどうなっている。
「っちくしょ……」
近くから声がした。少し離れた場所に、やはり壁の下敷きになっている兵士の腕が見える。
「……くそっ……!」
瓦礫の下から這い出た。口の中に入った砂を吐き出す。急に目が傷んで視界の左が赤く染まった。額から流れた血が目に入ったらしい。
「クソ、クソ、クソ、だからあんな奴、連れてこなきゃよかった、」
アキラが近寄ると彼は悪態をつきながらもがいていた。下半身が埋まっている。
「持ち上げるぞ」
「やってられっか畜生」
アキラが手を貸し、男はなんとか這い出した。しかしその片足はあらぬ方向に折れ曲がり、そのままでは走ることは不可能に思えた。革の鞘に入れたままのナイフを当て木がわりに縛り付け固定してやる。その間中、アキラの耳元で彼は喚いていた。
「見たか、あいつ、降伏しようとしてた奴らに」
「落ち着け」
「普段いっこも役に立たなかったくせしてこんな時ばっかり、畜生、死んじまった、あいつのせいで」
「落ち着けよ」
アキラにはそう繰り返してやることしかできなかった。取り乱されたことで逆に冷静になっていく。雨足が強くなった。瓦礫から出た粉塵は、すぐに水にとけて二人を泥まみれにした。
 一メートルほど先でやはり瓦礫の下敷きになっていた銃をひきずり出し、目視で異常がないことを確認して、路地の入り口に背中を付ける。
 先ほど、降伏したCFCの兵士が見えた道路向かいの建物も、正面にあったガラス戸が全て内側から吹き飛んでいた。気付かなかったのは、こちらと同時期に爆発が起こったためか。遠くない場所から、また爆発音が響いた。
「まさか、」
降伏するふりをして、敵をおびき寄せて自爆しているのか。そこまでCFC側が追い詰められているという話は聞いていなかった。それともトラップの一種だろうか。ルールも何もあったものではない。振り返って崩れた壁の内側を覗いた。だがそこには、人の形をしたものは残っていなかった。かろうじて戦闘服だったとわかる焦げた布切れが、赤黒く染まって落ちているだけだ。恐らくミチのものだろう。奥歯を噛んで視線を通路に戻す。
 向かい側の路地にも、自分と同じような体制で周囲を伺う兵士の姿があり、こちらに合図を送っていた。足音に気づき咄嗟に銃を構えた瞬間、壁の角から人影が現れた。CFCの制服だ。ライフルの銃口が見えた。撃たれる前に撃った。照準を合わせる必要もないほど至近距離だった。敵は吹き飛ぶように倒れた。
 荒い息を吐きながら、再び銃を構えようとした。動かし辛い気がして右腕を見れば、相手も撃っていたらしく銃弾がかすった痕があり、確認すると血も流れていた。痛みは感じなかった。この距離で撃たれてこれだけで済んだなら幸運だ。
 銃を左に持ち替えながら、ふと静けさに気付き振り返る。先ほどまで悪態をついていた兵士が腹に穴を開けて絶命していた。
「……ッ」
心臓の音がまたうるさくなった。振り切るように再び道路に視線を向ける。先ほど合図を送ってきた兵士の姿はすでになかった。移動しているらしい。どこへ。
 すでに状況などわかったものではなかった。
 走る心臓と同じ速さで足を動かし移動を始めた。感情を靴底に蹴散らす。それは、もう少しでアキラを恐慌に陥らせそうなほどの重みを持っていた。
 水の流れる路地を縫うようにして、海とは逆の方向へ進んでいく。そこら中に死体が転がっていた。血痕がひび割れたアスファルトを黒く染める。一帯を覆う火薬と物が燃える匂いを呼吸しながら、角や暗がりに注意して細い路地を抜けた。
 中心地に近づくほどに、何故か静けさが増していく。不意に、アキラの視界を黒い群影が走った。見たことのない戦闘服に咄嗟に銃を構えそうになる。だがそれはよくよく見れば日興連の意匠だ。その色はアキラたちが身につけたそれよりももっと濃い、限りなく黒に近い灰だった。凄まじい速さで彼らは駆けていく。装備の重さを感じさせない身のこなしだった。やがて特に指示の声があったわけでもないのに、示し合わせたかのように散開し、街の中に散っていく。一人の横顔が見えた。その目は──濁っていた。
 さらに足を早める。自分の呼吸がうるさく、肺が痛んだ。やがて視界が開け、CFCの要塞の入り口が現れる。妙に簡単にたどり着くことができたのに不審を覚え、身を潜めたまま様子をうかがった。灰色の空の下、壁の向こうで黒煙が上がっていた。
 CFCの制服を着た兵隊たちが、何故か要塞の外側から内側、開かれた鉄扉の向こうに向かって銃を構えている。と、不気味な静寂を引き裂くように怒号が上がった。彼らは背後に意識を向けることなど忘れたように、ただただ前に向かって一斉に銃を乱射する。それはまるで、怯えて恐慌を起こしているようにも見えた。
──ざわ、と空気が変わった、気がした。何か、とても不吉な気配がした。狼がその大きな口をいっぱいに開いて、自分の頭を飲み込もうとしていたのに気付いたような悪寒。アキラが鳥肌を立てたのと、兵隊たちの体を切り裂く一閃が走ったのは同時だった。白銀の、空気の原子までを裂く、閃光を見たと思った。
 体を分断されて崩れゆく人影の向こうから闇が訪れる。現れた爛々と輝く瞳が、血のごとく赤い光を滴らせた。
「……ッ」
臍に穿たれたピアスが、内腑を灼く熱をもつ。
 動くもののなくなった景色の中に、一本の妖刀のように、禍々しさを伴ってシキが立っていた。静けさの理由にアキラは今更気が付いた。それはあの男が連れているものだ。何者の侵入も許さない、何物にも染まらない、シキ固有の空気だ。それはすでにこの戦場を包み込んでいる。
 更に黒があふれた。シキの背後に並んだのは先ほど見た黒い戦闘服の集団だった。ならばやはり、あれはニコルによって強化された軍団だったのだ。その色は、昼間隠れ紛れるのには適さない。恐怖を刻み付け目に焼き付ける、強さを誇示するための、黒。
 群狼が移動を開始する。すでに要塞が落ちていることは、おびただしい煙によって知らされた。彼らは黒い風のようだった。先頭を行く狼の王に、アキラの気配が伝わるはずもない。だが、シキはこちらに背を向ける直前のほんの一瞬、アキラを見留めて確かに、微笑んだ。
 悪魔のように美しいその笑みが内側を薙ぎ払う。迷いや恐怖、痛み、混乱、それらがいま、一瞬にして燃えあがって尽きた。灰すら残らなかった。
 白刃の輝きと凍てついた炎でもって、戦場を灼く黒い影。汚泥と傷にまみれ時に雨を沿わせても、そのものはけして穢れない漆黒の刀。
 それはとうに、心臓の一番深い場所に突き立てられていた。

*

 独房は湿気に満ち、据えた匂いが漂っていた。すでに消灯時間を過ぎ、灯りは汚れた煉瓦に挟まれた廊下の向こうで、たよりなく明滅するのみだった。
 石の硬さのベッドの上で、アキラは更に深い瞼の裏の闇に沈み込んでいた。雨音を背景に、遠くで電灯に虫が戯れて落ちる、ぱちんという音がした。
 イトイガワの戦場から戻ったのは今日の夕刻前。トラックの荷台から降りた人数は、乗り込んだ時の六割程度に減少していた。日はすぐに落ちて、切れかけの黄ばんだ蛍光灯の明かりが、口数少ない兵士たちの土気色の顔を照らした。連絡が間に合わず死者の分まで用意された夕食は、食堂の端で静かに冷えていった。
 深夜近い時刻、アキラはリンチにあいかけた。大勢の犠牲を出した戦闘で、皆気が立っていた。それまでならば、その矛先はミチに向かうものの、誰かの手が出る前にアキラやその他少数が止めに入り、なんとなく場が収まるものだった。しかし、ミチがよりによって例の伍長を道連れに死んだと聞いて、彼らの怒りはミチをかばっていたアキラに向いた。誰でも良かったのだ。苛立ちをぶつける対象が必要だった。たまたま今回は、都合のいい理由をアキラが持っていたという、それだけのことだった。
 目立つ行動は控えろとシキに言い含められていた。上官に殴られたときは当然としても、部隊内で慣れ慣れなく肩に触れられようが小突かれようが、これまではされるがままにしていた。
 だがその日、誰かが臍のピアスに言及した。シャワー室で目にしていたのだろう。すでに押さえつけられ、数発殴られた後だった。大して顔色も変えず、痛みも浮かべないアキラに、場がしらけ始めた頃だった。
 軍の規定でアクセサリーの類は禁止だ。とはいえ指や腕につけるものは論外としても、ペンダント程度ならば黙認されていた。しかし彼らにはアキラをあげつらうための手頃な理由だった。どんな小さな事でも、なんでも良かった。
 わずかながらアキラが反応したのに、不完全燃焼しようとしていた彼らの嗜虐心に火がついた。上衣に手をかけ、衣服を剥きにかかる。
 殴られるくらいならば我慢ができた。殴られ方を知っていたし、そもそもこの程度の痛みが何だというのだ。トシマの廃アパートから始まったシキの躾は、未だアキラの記憶に新しかった。あの、プライドや、自分を自分たらしめていると思っていたものが、粉々に砕かれて行く痛みに比べれば、単純な暴力など最早痛みのうちに入らなかった。
 ただシキ以外の人間がピアスに触れるかもしれないと、そう思った瞬間、アキラの思考は真っ白い怒りに染まった。気付けばその場にいた五人全員を床に沈めていた。
 その結果が、現在放り込まれている独房だ。
 細く長い、息を吐く。肺からすべての空気を吐き出すように。いらないものすべてを、体の外に出すように。ベッドがきしんだ。
 そうして、さらに沈む。どこかで、溜まった水が流れ落ちる音がした。意識は郊外のシキの部屋から、トシマの部屋を通って、幼馴染を失った路地へと至り、昨日のイトイガワの戦場へ辿り着いた。たくさんの死に際の顔がひらめいては消えた。生と死の境界線上で、見えたものをたぐり寄せる。ミチを小突いた伍長の歪んだ口元、自分よりも弱い者に銃を向けたミチの濁った笑顔、ただ不安をかき消すために一人を大勢で虐げる、虚ろな興奮に染まる眼差し、そこに人格があったことなど読み取れなくなった肉片、自分の命がこぼれ落ちていくのを見て絶望に染まる瞳。驚くほどあっけなく消える鼓動。──そして。
 傷にまみれた白い背中。意識と思考をさらう、血が滴るような赤い瞳。すべての弱さをねじ伏せるように戦場を駆ける、鋭利な黒い刃。
──雨音を散らす足音が、聞こえた。
 石畳を近づくその規則的な、音楽にも似た音を、アキラは知っている。
 目を開いた。格子の前に、待ち受けるように立った。背筋が自然と伸びるのを感じた。
「……血の気の多いことだな」
笑みを含んだ声が、アキラの頬を撫でた。嘲りに色づいた瞳は、奥に熾火をたたえて自ら光を放つようだった。最早逃げられるとも、逃げようとも、思わなかった。
 ただ、貫くような視線を受け止めて、強く見つめ返す。
 シキは目を細め鼻を鳴らすと、──笑みを消した。
「何があった」
「……ピアスを、」
アキラは口を開く。必要なことを伝えるのに、そう多くの言葉は要らないことを知っていた。
「証を、守ろうとした」
赤い瞳がわずかに見開かれ、アキラを見つめた。しばらくそうしてから、シキは口の端から笑みと嘆息の混じりあった声を漏らす。
「……ようやくか」
手の甲が、アキラの頬を撫でた。と思えば、急に鉄格子に引き寄せられる。手首にかけられた手錠の鎖を、格子の隙間から入り込んだ刀の鞘が引いたのだった。唇が触れ合いそうな距離で、シキは囁く。
「誓ってみせろ、アキラ。お前が誰のものかを、お前自身の口で」
「──」
アキラは、唇を引き結んだあと、わずかに顎を上げた。心臓から湧き上がり喉元にせり上がった言葉がひどく甘いことを、否定などできようもなかった。
 吐く息はわずかに震え、掠れる。しかし声にすれば、その中心には鋼に似て強い響きがあった。
「──俺の主は、アンタだ」
シキは間近にアキラの瞳を覗きこんだ。やがて唇で、すぐにその奥に隠した牙で、アキラの口の端に噛み付いた。
「……ッ」
薄い皮が破れるぷつりという音がして、口内に鉄の味がひろがる。味わうように舐め上げられた。甘い痛みを残してシキが離れる。目眩がした。
 彼の主は血と愉悦を唇に刷いて、満足気に呟いた。
「……待ちかねたぞ」
ぞくり、と、足元から這い上がった熱が背筋をかけてゆく。そうして受け入れてしまえば、もうとっくに逃げることなど出来るはずもなかったのだと、アキラは気付いた。
 世界が色を変える。ただ一人の男を中心に。鮮やかに黒く、赤く、それは死を象徴する色でありながら、生そのものだった。
「……アンタは、綺麗だ」
切れ切れの息で呟く。シキは鼻で笑って、親指でアキラの口元を拭った。
「……近々口のきき方を教えてやる」
大して気にするふうでもなくそう言って、独房の鍵を投げて寄越す。
「昇進だ、アキラ。傍に来い。これまでとは違う戦場を見せてやろう」
銀色の飾り気のないそれは、手のひらの中で鈍く光を反射した。自分自身で檻の扉をひらけば、そこには新しい世界が広がっていた。

end.
>>数年後の小話

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